自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

インドショートステー;予定を組まない意義(2)

2017年02月09日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

タントラ儀式をボビーの父親との因縁(Part.2)   2017・2・9

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 こうして、亡き父親から 目に見えない手で背中を

後押しされるかのように啓発を受けた弟は、すぐ、マトラーという

デリーから車で数時間離れたクリシュナ神ゆかりの地に住む

親戚に電話をした。

羊一頭の値段を聞くためだ。


この儀式には、二頭必要だということ、 デリーで買うより、

田舎で買ったほうが、安いからだ。

値段を交渉しながら、電話を切った後、私に2頭の値段を伝えた。


私は、弟に ”山羊は私が払うから そのほかもろもろの諸経費は何とか、

なるかしら?”と聞くと、

すぐ、日程を決めます”と言い、亡き父親の貯金箱を持ってきた。 


父親がそばに置いて、いつも、小銭をいれてきた素朴な貯金箱は

儀式をするときだけ、この貯金箱を割ってよい~と遺言によって、

今まで割られたことはなかった。

 

3月までに儀式を執り行うこと、私に招待状を送るが、

もし、来れないときは、写真を送ってくれること、などを

彼らは約束してくれた。


もっとも、生贄(いけにえ)は正直、胸がざわつく。 

が、 これも遺言の儀式の大事な役目を持っているとするなら、

反対を唱える術はなかった。

 

これで、ボビーの父親の霊への供養ができると思った。

私は以前、この父親の機転で救われたことがあるから、恩返しができる

と思った。 


その恩義とは、こうだった。

今のアパートに住む前は、会計士の大家さんに大家さん宅の

三階を借りていた。 

そのとき、その大家さん宅に ドビー(洗濯やさん)として働いていた

ボビーの父親は、後に、その三階に住む私の家でも働くようになった。


9年も住んで、そろそろ引っ越しを考えていた時、大家さんが

ひと月分で20万円以上の電気代を私に求めてきた。


普段はどんなに使っても6千円を超えたことはなかった。

その高額な電気代に疑問を持ち、私は、支払いを拒んだ。


すると、数か月後、今のアパートに引っ越してきた際に、

元の大家さんから、私に、20万円相当の電気代支払いの要求と

もし、無視をするのなら、法廷での争いを辞さないという

趣旨の手紙が送られてきた。


望外な電気量使用額と、それが理不尽であるということを

どのように証明したらよいか 私は、それを読んで、頭を悩ませた


そこで、私は、そこで働いている、ボビーの父親に、実際の電気代

請求書を大家さんからもってきてもらえないかと頼んだ。


すると、思いもがけないものが、彼から、手渡しされた。

偽造書類だった。

大家さんが私のサインを明らかに偽造した電気代にからむ書類を

見つけて、それを、ひそかに届けてくれたのだ。


そのおかげで、こちら側から大家さんを提訴することができる

理由ができ、その偽造書類発覚で一転して、大家さんは自分の主張を

引き下げた。


インドのインテリ層は顔つきが違う。

大体が、中流階級だが、最近は、にわか金持ちが増えたようだ。

彼らは 華やかな生活を 当たり前に送る階級でもある。


一方、ボビーの家族のように、つつましやかに月数万円の月給で

多くの扶養家族の経費を賄うのに四苦八苦している階級も存在する。


ボビーの家族の訪問のあとに 近隣にすむ私と縁があった人たちを

訪ねた。 

彼らはある意味、誇りを持っている。 

貧民層の生活区にいることに対して、決して、卑下したり、卑屈な

態度で私を迎えたり 貧しいという、恥ずかしさを見せたりしない。


堂々と、あるがままの自然体で、私を旧知の家族を向かい入れるように

もてなしてくれた。

一間の長屋でも、急ごしらえで椅子を持ってきて、お茶を出してくれた。


部屋の中央には、大概 大きなベッドが占領しているが、そこに

病で伏している老婆が横になっていても 臆することはない。 

老婆は、私のような、外人で、家族の雇い主にあたる、珍客に

明るく笑顔で挨拶をして、さらに自分の横に座るよう、薦めてくれた。


Kさんの家では、病で寝ている母親と、嫁、その姉妹と子供たち

などが歓迎してくれた。

サントシの家も近かった。

職を失ってやけ酒を毎日飲み、時には家族で口論になるという、

サントシの旦那さんが出迎えてくれた。 

先の家族同様の、一間だけの部屋に 私を招き入れ、自ら勝手にたって、

紅茶を入れてくれた。


砂糖やミルク、さらにカルダモンや特別のマサラ(香辛料)を

ふんだんに使い、入ってすぐの右側の畳(たたみ)1畳(じょう)

ほどのカーテンで仕切った土間をキッチンとして、湯をわかし

紅茶を用意してくれた。


美味しい紅茶だった。

家族の話を聞く。 

不満を聞く。現状を知る。 


親兄弟に、社会的にめぼしいコネがない、多くの彼らは親の職業を

そのまま引き継ぐのが慣例だ。


たぶん、一生、うだつの上がらない職業、例えば、洗濯、道掃除

プレス(アイロンがけ)便所掃除 門番、会社の使い走り役、

などなどの収入が不安定な生活に、甘んじなければならない。 


子供たちの教育が必要だし、衛生面や環境面での改善も必要だろうが、

食べていくのが精いっぱいで 家の改修などの余裕はない。 


現実的に、外国人に知りあいがいれば、自分の暮らしに耳を傾け、

何かの折には、きっと、何らかの協力や援助をしてくれるかも

という期待は否めない。 

 

インドでは、タイのような仏教国と同様、貧しい人たちは、

持てる者が持たないものに喜捨するための一役を買っている

と考える。 


持てるものは 施しをする相手がいることで、徳を積むことが

できる

だから、私がかれらに、何らかの援助を申し出たとしても、

それを、必要以上に恐縮したり、お礼を言ったりという

習慣はあまりない。


さりげなく、自然に、しかも、つつましやかにそれを受け取る。

感謝するとしたら、その機会を作ってくれた神に感謝して、

捧げるだけだ・


もしかしたら、自分が、相手の求める目的のために寄付しても、

それは別の用途で使われて、なくなってしまうかもしれない。


その可能性は大だろう。 

が、それはそれでよい、なんだか、後でどう使われたか、確かめる

気持ちにもならない。

 

ところで、銀行 のほうはまだ、結果が出ていない。(2/6現在)

もしかしたら土壇場で何かが起こり、これまでの努力は水の泡になる

可能性もある。

このブログを書く間の、1っ週間で、すでに、何らかの記入

内容訂正や確認がインドからきて、2回ほどインドと日本の間を

為替送金が行ったり来たりして 結局、振り出しにもどり、

インドの銀行に戻ってしまった。)


が、そのおかげで自分は何かを得たような気がする。

20年前と変わらない、スモッグと埃と、喧噪の町中を

車で走りながら、インドの知人たちの、たくましい生きざまと 

誇りを垣間見たような満足感があった。


それと同時に、彼らのやさしさと寛容さを感じた、濃厚な7日間

だった。

それと、あともう一つ補足。 

何かに導かれるように事が進むという体験でもあった。


自分独りでは、何もできなかっただろうが、日本語を教えていた

頃の、生徒だった彼の助言と、実際の助け、旧知の会計士の素

早い書類の作成、タクシーの運転手さん、合間合間で出会った人たちと

の友情と人情、とりあえず無理な注文を、受け入れてくれた

インド・デリーの銀行。 


なんだか、すべてが夢の中のように、歩く歩道の上に乗って

運ばれ 景色だけが動いて変わっていくような感覚。 


それは、まるで、不思議な目に見えない手にひかれていると

いう実感だった。


日常で日本で生活していると、なんと頭で計画したり、

予定を組んだり、考えていることが多いかと思った。 

計画しても その通り行くとは限らないし、考えても、

始まらないことはたくさんある。


右往左往しながら、次に何が起こるのか皆目見当つかないまま、

周りの人たちが適宜にお膳立てしてくれた。 


それも、見えない糸を操る演出家の手引きが天からあったのだろうか。 

日本に帰ってきてもまだそんな気分が続いていて、それが快く感じる。

  

コメント
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