究極の癒しと自然治癒力(2)
*******************************2017.2.19
さて、癒しということになると、究極の癒しは病が消えること。
それは、無執着になったとき・・・というのは
皆さま信じられるだろうか?
このことは、突拍子もないように感じられるだろうか?
自然に備わった私たちの本来持つ治癒力は、それほど
偉大なものなのか?
どうしたら、自然治癒力を発揮させることができるのか?
その答えが、執着がなければ、病は癒える~自然治癒力の
発動が最大になるから・・というのが今日のお話。
次の谷口師の言葉をご紹介しよう。
”神は、決して病気を創造(つく)り給(たま)わないから
病気はないのだ。
病気は妄想の表われだ 莫妄想(まくもうぞう)!!==病気は、
神が作らないから、どんなにアルかの如(ごと)く見えても
妄念の映像であって実はナイのである。
それは夢の中で、病気になっているようなもので、
その病気には実体がないのである。
「妄心(もうしん)」を捨てよ。敵意や反感を棄(す)てよ。
病気を表現している「心」を放ち去れ。病気は消える。”
(谷口雅春著『新版生活の智慧365章』より)
皆様は般若心経を唱えていらっしゃる。
そこにある真理の言葉、そのお経の大切な言葉を取り出して
つなげてみると、闇(妄想)を打ち破る輝く光になって現れる。
私たちが当たり前としている認識が、ほとんど、妄想と幻の
世界の所産物だということも気が付く。
その言葉の一つは、たとえば、
色はこれ空なり、空はこれ色なり、つまり、
五感は無い、ないから、真理の法は、
生まれることもなく滅することもなく、
浄とか不浄とかはあてはまらず、増えたり減ったり
することもないと心経は説く。
この色(しき)は 空(くう)である、つまり、
物質は究極のところは、”空の姿”で、
”空” は その一方、物質として表れていることを
知れば、本当に 理解できれば、すべての苦(
病、不調和、戦争、絶望、不足など)は消える。
なぜって、一元の世界には元々の世界には、そうした苦は
存在していないからだ。
その苦に捉えられるのが 人生の常で、それは、執着の
なす業だという。
それが妄想となり、病や不幸が現実に現れているように見えてくる。
だから、谷口師は次のように語る:
”神は、決して病気を創造(つく)り給(たま)わないから
病気はないのだ。
「妄心(もうしん)」を捨てよ。敵意や反感を棄(す)てよ。
病気を表現している「心」を放ち去れ。病気は消える。”
(谷口雅春著『新版生活の智慧365章』より)
妄心を捨てよ~つまり、顛倒妄想、真に存在するものを観ず、
在らざる物を あるとして、それを認識しても、そして、
それに執着し、もがくほど、ますます蜘蛛の巣に自ら
かかって自由がきかなくなる。
執着が甚だしく強くなると、自分を傷つけるだけだ。
それが、妄念の世界。
妄念とは、迷妄の心がさらに強まった状態、そうなると、
念じることが表れるという想念のエネルギーの法則で、
ますます、混沌とした状況を引き寄せてしまう。
敵意や反感を捨てよと、ここにある。
敵意がなぜ湧くか?
反感をなぜ持つか?
それは、その相手の行為と相手に対し、自分の考えが
正当性あるという思い込み(執念)と相手への自分が期待した
とおりの結果が得られなかったことへの怒りが、相手への敵意
につながるからだろう。
それも執着の一つだろう。
それを捨てたとき、人は何を思うのだろう?
それを本当に捨てたとき、人はただ、赦しとともに、
暖かい繋がりの感情が、湧いてきて、愛をもって、
その人を想うだろう。
愛と憎しみが表裏一体であることは、うなずける。
憎んでいても、ある瞬間、理屈ではなく、頭で考えるのではなく、
自然と涙が出てきたり、優しい言葉が相手に出たりする。
赦し というのは 本来は相手に与えるものではなく、
執着に絡んだ 自分の心 に対してというのが厳密な意味で
妥当だと思う。
谷口師は 赦しについて次のように語る:
”人を宥(ゆる)した悦(よろこ)び その瞬間から
幸福感が湧(わ)く==相手を悪いと認めている限り、自分の心の
中から鬼の心を呼び出しているのであります。
ところが自分自身の仏心が目覚めて、相手を宥(ゆる)し、
相手の仏心(ほとけごころ)を拝むようになったとき、
即座に自分の心が輝き出して、幸福感が満(み)つるのを
知るのであります。”
(新選 谷口雅春選集6『あなたは自分で治せる』より)
幸福感が満つると同時に、いつの間にか、憎しみや怒り
のカタルシスのために不調になっていた身体も、
正常に健全に戻るだろう。
これが自然治癒力であり、そうさせている私たちの実相を、
ヴェーダ哲学の中ではサンスクリット語でアートマと
呼んでいる。
人を赦すとは、自分の中の仏が相手の仏を拝む時だ。
相手を攻めているときは、自分の中の非を相手の中の
非に重ねあわせているからだ。
自分の中に その非がない人は相手がどんなに悪人でも、
それを責めることはないしその人は決して傷つかないだろう。
執着をとるということは、きっと、妄想や妄念を消すだけ
ではなく、自分の心が輝きだして、そのままで何か嬉しく
陽気な気分で幸福を味わうという体感の世界なのかもしれない。