自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

絶対は実存、が、現実生活の中の皆無感

2019年08月18日 | 健康と直結する”一元論”について

 

 昨日の記事に一言*理屈っぽくなり恐縮ですが・・・   

2019  8/18

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昨日公開したブログ記事の中に,このような言葉がある。

 

この不二一元が本当に真理なのか?

といえば、厳密にいえば、にとっての真理であると

言い換えた方がよさそうだ。


というのも、絶対 という言葉は,この地球世界では

無いのかもしれないと最近感じ始めたからだ。


地球世界の意識の中には、絶対は無い=(イコール)

地球意識外の次元を超えた超越次元意識の中では

また異なるだろう。

 

絶対~という言葉の使い方と考え方だ。


もう一度、ここで推敲させていただきたい。


”不二一元”という言葉は真理なのだが、しかも、

すべてのよき宗教の教えには,この考え方が基本に

なっている。

(神学者ではないので、このあたりは曖昧にしておく。


が、例えば、キリスト教では、神と悪魔 という

対立的存在があり、"すべては善なる存在に帰する”

という、不二一元的ではないのだが、悪魔’るしふぁ-’

は、もともとは神に属する天使だった。


つまり悪魔は、堕落した天使いうことになり、

こでは、キリスト教も不二一元(神=完全で善なる

愛と無限の豊かさ=のみ、この宇宙には実存しない)

という支柱が見え隠れしているのだ。 

 

が、その”不二一元説”を信じても、現実生活に”無限の

豊かさや安寧”という,”神の資質”を実現化しているかと

問われれば、現実の苦しみや悲しみ、理不尽な展開に

慟哭している人たちが、ほとんどなのだ。

 

つまり、”不二一元”が、絶対的真理”であるにも

かかわらず、それが 実現していない以上、

その人にとっては、そういうことは”観念”にしかすぎず、

”絵にかいた餅” 同様、腹の足しにもならないのだ。


つまり、”真理” は、聴いても元気になれる代物では

ないのだ。

 

だからといって、餅(真理)という食べ物がないので

はなく、食べたいと思えば、自家製のモチ作ること

ができる。


いわば、真理 というのもそれと似ていて、

自分から食べようと思わなければ、

その真理が、自分に直接に影響を与えるほどの力は

ない。

腹の足しにしたければ、レシピ―とその完成写真を
見ているだけではなく、
自分が、食べれる“真理”を 造ればよいだけだ。 


どんな”餅”(真理)でも、食べようとしない限り、

”絵に描いた餅”で、腹の足しにならないと思って

いれば、どんなに、絶対的真理でも、その人にとって

現実的意味はない。

 

般若心経を、毎日、挙げている方たちも大勢いらっしゃる。

毎朝 瞑想をして、神の光の中に自己が解けていく有様を、

心の眼で見据える行をする方たちもいる。


祝詞をあげて、禊の祓いをして、罪けがれを毎朝毎晩、

言霊で昇華させる人もいる。 

 

が、現実には、何か体に不調が起きたとき、

その祈りや瞑想の中で、信仰や信念で病を癒そうと

試みる人は、ほんの一握りもいないだろう


病気の予兆は、心にさざ波が生まれ、それがだんだん

大きくなり、ついに、嵐のように心が不安で揺さぶられる

とき、発病にいたる。

そのとき、”真理”を応用することなく、ほとんどの人は

医者の門をたたくだろう。


副作用を否めない、西洋の薬 でその症状を抑え、

一時的にでも気分は落ち着くので、薬は手放せない。


こうして、一生 薬に頼り続け、体の方はいつしか

本来の”自然治癒力”が 発動しなくなる。

”自然治癒力”は”生命力”である。
”生命力”は、自然が与えた、“真理”である。
”本来、完全”で、”調和”と、”成長する力”と
“創造力”の別名である。

 

ところで、”般若心経の本質”は如何や? 

物質は無い~空中無色無受想行識~とボーと言葉に

出しているだけなのか?


色の本質は空~色即是空~は如何や? 

色はこれ空なり、空の中とは何ぞや? 

空の中には物質も、想念も識別も無いとは? 


かみ砕いてかみ砕いて、さらにかみ砕いて、般若心経

の智慧を、自分の血肉の中に、この真言の言霊を

同化させ得たら、病は無くなるのだ。

あっても、消えるのだ。


ただし、お釈迦様もクシナ川のほとりで、おナカを

ひどく壊されて、ついに、病状態になり、横たわって、

亡くなられた。 


肉体がある以上、運命(さだめ)もある。

肉体の衣を脱ぐために、病に伏すのは自然なのだろう。


私の持論だが、亡くなる前の人の病は浄化でもある。

浄化されて、体の中がきれいになって、人は身軽に

あの世に移行するための浄化なのだ。


身軽~にする意味は、心身の振動数をあの世(高波数)

に合わせて、精妙にして、旅立つという意味だ。


だから、病気のような症状が現れて、熱なり、下痢なり、

食欲がなくなるなり、様々な形で人は自分の体を浄化する。

それが、ひいては 心が浄化されていくのだろう。

心身一体なのだから。

 

病は無い~というのは、まだ生かされている間、何か、

使命(たった一人の人のためであるかもしれないが)

がある間は、人は病などとは無縁である~という

ことだ。

 

とか不幸、それはつまり、明るくないもの

(真理の状態でない)をさすが、

般若心経では、それを、

無無明 亦 無無明尽 
乃至 無老死 亦 無老死尽 

といって、無明(病や不幸などの原因)は無いから

無明の状態をなくそうとすることも本来、意味がない。

明るさが尽きるということはあり得ないのだから~

いうのだから、(病や不幸を克服する)という努力も、

本来は、必要ないのだろう。 


あるべき姿では、明るい状態そのままなのだから。


=の境地をとことん突き止めようとして

いくうちに、きっと、人は、”絶対”の意味の存在を

そこはかとなく、知っていくのだろう

 

光の中に、自分が溶接していく姿を瞑想し続けるのなら、

人は。自分と神の一体感を味わいえるだろう。


そこまで徹底したら、病知らずの身となり、自分の中に

”絶対心”(真理の境地)が確立されて、ぶれることもなく、

周囲の変化に影響を受けることもなくなるだろう

残念ながら、そこまで徹底することは難しいし、徹底

していないからといって

そうした日々の、修行の努力が無駄だとも思わない。


”絶対”は存在するのだが、やはり、人の数だけ、

その人生の時点での真理があり、そのように、絶対~が

多様化すればするほど、本来の”絶対”~の”一点(空)”から 

皮肉だが、離れていくような感がする。

 

つまり、絶対~は、そう考えると、存在しないよう

に見える~というのが、昨日の、私の本当に言いたい

ことだったのかもしれない。

 

こんな面倒くさい文章にお付き合いいただき、

ありがとうございました。

 

 

コメント (2)
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