自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

聖人・凡人・資質は同じ

2024年02月20日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム


では、どこが違うの?
*************

私は凡人ですが、歴史上、聖人言われる人、覚者たちとの違いは何か?と
いうお話です。
タイトルの”質は同じ"の意味は、人として”魂”の本質を指しています。

魂の本質、これを、日本の一元論を確立した谷口雅春師は”実相”と呼び、
ヴェーダ哲学では、”アートマ”と呼びます。
古神道(”ホツマツタヱ”)では、”人は神なり、神は人なり”と記載されてます。

この資質こそ、”人間は神の子である”といわれるゆえんです。

神を、Paramatoma(パラムアートマ) とサンスクリット語では呼びます。
アートマの生みの親、つまり英語では”God”と訳されています。
残念ながら、英語圏の文化(聖書文化)では、神と人とは一体であるという
思想は無いので、純粋な意味では、”God”ではありません。

むしろ、古神道の”神”の意味に同義だと思います。

その神が私たちの、魂の産みの親なので、その本質とは、神の資質、つまり、
マイナス的要素が全く無い、”愛、喜び、平穏、生命力、智慧”などをさします。
これらを 私たちは、生まれながらに、遺伝子として、生まれた瞬間からこの
肉体とともに、天から受け継いでいます

余談ですが、’智慧’と’知恵’とは、発音は同じでも意味が異なります。
神の資質としての、ちえ は ”智慧”の漢字です。

”知恵は、学習で、毎日新しい智識を増やしていくものですが、
智慧は、毎日、何かを捨てていくこと”で、意味的には、正反対でもあります。

知恵は、学校で学習し、情報でも得られる生活圏のノウハウに近いでしょう。
東大生たちの、優れた知識は、知恵の一環でもあります。

では、智慧とは?
学校や知識で得られるものではなく、むしろ、それらの知識を捨てなければ
得られないものかもしれません。

スピリチュアル的にいえば、何を捨てるのかといえば、

*アハンカーラと呼ばれる、エゴ的(小自我)
*サンスカーラと呼ばれる業を造る元になっている 負の性格(嫉妬深い、疑い深い、
執着、思い込み、批判的、被害妄想的などなど。)


そこで、本題に戻ると、こうした魂の本来の資質は、どんな人にでも平等に
与えられているわけですから、すべての人は、悟りを得て、智慧深い、愛に
あふれた聖者になる可能性はあります。

では、聖人 覚者 と凡人の差はどこでつくのでしょう?

それは ”この資質(神の資質を受けついている)が、私本来の’私自身’である”
という”自覚”(認識)の強さ”
の違いだけだといいます。

99%、具体的には、24時間×0.99=23.76時間は、普通の人たちは、毎日
日常のルーティーンのことで頭がいっぱいのはずです。

その日に起きた問題や悩みの解決方法を考え、対処したり、行動している
うちに、疲れて寝てしまう、と仮定すると、残りの0.24時間、つまり、
半時間弱ほどでも、自分自身の静かな一人だけの時間 日常と離れた魂の
休息時間が持てるかというところでしょう。
持てていれば幸いです。

というより、″持とう”としない限り、持てないでしょう。
何のために持つか? それは、”自分自身”に回帰するため・・です。

聖者たちは、ところが、常に、どんな状況下でも、自分の’魂’を意識して
パラマアートマ(Pramatoma)に焦点を合わせています。
これは、先に述べた、’親アートマ’、別名、神のことです。

たとえ、自分が批判の中にいても、自分の正義を見つめ、悲しみの中
でも、希望の光をみつめ、罵倒されても、祖神(パラムアートマ)の自分への
”無償の愛”をみつめているでしょう。
もし、拷問にあったとしても、魂と身体を、はっきり区別化して、肉体の苦しみ
(五感感覚とアートマ)を客観的に切り離すことも可能でしょう。

喧噪の中に、静寂を感じ、静寂を感じながら、魂の平穏さに、心をゆだねている
はずです。
いつも・・です。
人と話していても、歩いていても、仕事していても、入浴していても、”いつも”
です。
可能です。
アートマと肉体次元の’自分’とは、識別(意識の中で)しているからです。

聖者は、だから森の中で隠遁生活を送って、家族と離れ、瀧行や瞑想三昧して
いるわけではありません。
私たちのすぐ隣に、その人は、普通の様子で、普通のことをしながら生活して
いるかもしれないのです。

すでに故人となった、南インドのサイババ師は、常々、こう言っていました。

”私とあなたたちと違う点? 
それは私は、自分が神だと知っているが君たちは、まだ、君たち自身が
神だということに気が付いていない点だ”と。

自分が神と等しい?
こんなに罪深く、業が深く、欠点だらけの私が?
こんな私が神だと思い込めば、傲慢になるだけだから・・・
なんて、思わないでください。

自分自身の魂の本質が、神と等しいと気が付くことは、相手もあの人も
この人も、みんな、”神”と等しいと”知る”ことなのですから・・・
自分を大切にする分、本当の意味で、他者を尊重し、尊敬し、愛せるはずです。

反対に、自分が、罪だらけの人間と思っている限りは、相手の弱点や
欠点を見つけることが容易になるはず・・・(なぜって、欠点だらけという
自分の欠点を意識しているので、相手の中に同質の欠点を見出しやすい)

そして、そこに比較が生まれ(あの人より、少しは自分はまし・・とか?)
自信の代わりに’傲慢’が、謙虚さの代わりに’卑屈さ’が 生まれるかも
しれません。

一日のほんの半時間足らずに、携帯電話に充電するように、自分のエネルギーを
満たす’こつ’があります。

①まず、意識を’本当の自分’(アートマ)に向け、エネルギーの本源
(パラムアートマ)に焦点を合わせます。
これは、携帯の充電をするとき、プラグ(アートマ)を電気(パラムアートマ)
につなぐのと同様です。

②そのとき、プラグに正しく、用具がさしこまれていないと、結局充電されません。
それは、本当の自分が、どんな自分なのか、はっきりと明確に、ビジョンを持つ
という行為にあたります。
本当の自分のイメージとは、”愛””智慧””生命力””幸福”などのエネルギーです。

携帯電話の充電には、多少の時間が要します。
と同様に、自分自身の生活や心の変化に、その”神との充電”の効果があらわれる
ために、根気強く、自分のイメージを神の資質に焦点を合わせて、重ねる努力
が必要かもしれません。

電気はすでに、無限に供給されています。
それを自分のプラグに繋ぐかどうか?は、それぞれの自由意志です。








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