心の洗濯 を、お風呂に入るように、毎晩してますか? 2024年2月⓫日
***********************
前書き)私たちは、皆、きれい好きです。清潔さが心地よいからです。
それが私たちの本質だからです。
だとしたら・・お風呂に入るように、心を、洗濯したいと思いませんか?
心を浄化して、本来の純粋な魂に帰りたいと思うのは、私たちの本来の願い
であるはずです・・
************
自分の想い、言葉、行いのどれかが、マイナスエネルギーを含んでいるとき、
それが、カルマの種になるといいます。
マイナスエネルギーとは、悲しみ、嫉妬、恐怖、非難、不安、被害者意識
などの日常、私たちが、小さな行為の中で授受している、これらの感情が出す、
エネルギーをさしています。
タイトルにあるように、心を洗って、カルマの法則を超越する生き方も
可能です。
今日はその方法を、考えてみたいと思います
******************
最近、横断歩道でない所で道を渡ろうとしました。
右方向から来た車が目の前で止まってくれました。
左車線の対向車は幸い、途切れていましたので 会釈して渡らせてもらい
ました。
横断歩道でない所の通行・・
“危ない歩行者だ”と内心、迷惑に思いながら、運転するのが常の私に対し、
車を止めてくれた運転者さんの心の余裕と、親切を感じました。
この小さな出来事から、今日のタイトルのお話が生まれました。
私たち の心の浄化(洗濯)の際に、応用されるメンタリティと重なった
のです。
その理由の前に、こんなお話をさせてください
*********
その日は、電車がある事情で大幅に遅れました。
やっと来た電車には、待ち続けていた多くの人達が、入口に殺到したので、
押されて、転んでしまいました。
あざのできた右足をひきずって、電車に乗り込みましたが、痛みに気をとられ
スリにあって、財布をぬきとられました。
その財布にはクレジットカードや多額の現金、諸々が入っており、遅れた
電車や転ばした相手に不満、財布を盗んだスリには、怒りを覚えます。
会社に着いてから、カード会社に連絡したり、駅にも、落とし物がないか
どうかの確認事項があり・・と、クライアントさんとのアポに遅れて、
集中できるだけの強い精神も無く、取り乱した一日でした。
結局、財布は見つからず、しばらくは、運の悪さや喪失感に感情にとらわれ
仕事も中途半端に終わり、クライアントに迷惑をかけて、用意周到のかけた
自分を責めました。
その夜は、この日の苦々しい出来事を、心の引き出しに納めました。
これで、時間の経過とともに、その事件の後味の悪さを、忘れていくことに
なるはずでした。
その時の、苦々しい事件を、思い出すことで、また、自分の不甲斐さを反芻
したくない思いもありました。
自分の不甲斐さとは、自分の自己批判です。
転ぶことは体力がなかったせいでしょう。日頃から体力をつけておかない私
に腹が立ちました。
スリにあったのは、隙を見せていた自分のうかつさで、クライアントからは、
遅れたために、批判的な言葉を受けたのも、仕事に打ち込めない自分がいたから
です。
こうして、その日の一連の出来事は、自分への自己批判につながり、自分への
不安定さが増幅して、さらに自信を失うことにつながっていきました。
こうした日常の出来事、自分には非が無いにもかかわらず、好ましくない状況
に巻き込まれ、憤りやイライラ感をかかえたまま、浅い眠りにつく日は、決して
皆さまの体験の中にも、少なくないはずです。
そんな時、覚者は教えます。
そのような、何気ない日常生活に味わっている、マイナスの感情の積み重ね
からカルマの芽がだんだんと伸びて、大きな木(業)になっていくのだ・・と。
私たちは、生まれたときから(厳密には、いくつもの前世の前の前から)
こうした、マイナスの思い出を、引き出しの奥にしまいこんでいます。
マイナス感情のカルマの種は、それが発芽する前に、もし、放下できていたら
引き出しの中は、空に近い状態です。
その日、味わったマイナスの感情は、その日のうちに取り除いて置けたら?
つまり、そうした感情を、言葉を、体験を、した日に眠りにつく前に、浄化
させていたら、それ以降は、引き出しの中にしまい込んでいるものはありません。
そこから、’心の洗濯’という言葉が出てきました。
私たちは、どこの国にいても、どんな場所でも、必ず、一日の身体の
汚れを 就寝前に、シャワーやお風呂で落とします。
清潔な身体には、汚れた下着や衣服は着用しません。
そうした習慣があるのに、何故、心に着いたマイナスのシミを、就寝前に
落とさないのでしょう?
落とし方が分からないだけなのでしょう。
落とし方は簡単です。
一歩、引いたところに立って、(その汚点を造った原因の)状況を認め、
改めて受け入れ、そのあとに、昇華するだけです。
具体的にいうと、このブログの最初のエピソードの中の、運転手さんの
目線にたった自分を自覚して 状況に感情的に傷ついている自分を見つめると
いうことです。
思い出してください。
横断歩道以外の場所で渡ろうとしていた私のために、車を止め、道を
譲ってくれたドライバーさんは、慌てておらず、気持ちが落ち着いていて、
私の意図と希望(わたりたい)を受け入れて、車を止めてくれる
ゆとりがありました。
賢者はこういいます。
”一歩、感情的な自分からひいて、相手の心を想い計り、受け入れる自分を
意識すること。なぜなら、それがアートマの自分で、メンタルの強さは
そこからのみ、来る”というのです。
メンタルの強さとは、
”どんな状況にあっても、その状況に影響を受けない”だけの自分をさします。
その”アートマの眼”に、ゆだねれば、どんな”カルマの芽もも はぎとられる
というのです。
具体的に見てみましょう:
このスリ事件の場合は、”私を責める”ことで、マイナスの想念ができます。
運転手の私(アートマ)は、マイナス(感情が不安定)の歩行者(スリに合った
私)に対して、どういう態度をとるのでしょう?
車を止めたように、その、状況で起きた負の感情に振り回されている私
を受け止めてくれるでしょう。
そうした負の感情と私を、赦してくれるでしょう。
もし、対象者がいた場合、たとえば、非難する言葉をかけたクライアント
に対して、運転者(強いメンタルの自分)として、何をするでしょう?
まず、感情的に取り乱していた私が、相手に、迷惑をかけたことに対し、
許しを請い謝り(心の中で)、すでに、クライアントから出た、傷つけられた
非難の言葉は ”気に病むことない”と、状況に振り回されている私に言うで
しょう。
そして、これまで以上に、クライアントと良い方向性で理解し合うことが
できるヴィジョンを心に描きなさいと、アドヴァイスをくれるでしょう。
***********
結論)
’自業自得’という法則は、結局のところ、何かおきた外部の状況に、自分が
振り回されたとき、負の感情が湧いて(自分や相手に対して)
それが、”業”~原因となり、その結果を刈り取るという意味です。
逆に言えば、何か起きたとき、マイナスのメンタル心象を引き起こされても、
それに振り回されない”強いメンタルが自分の本質である”、ことを認め、
振り回われた自分を、俯瞰してみることで、上にあげたように、その自分が
昇華されるような言葉がけを行い、実際、負の感情を抱くのは本来の自分
ではないということを理解するでしょう。
一日の終わりの、メンタルな洗濯とは、こうした外界(げかい)の物質的事象に、
左右されない超越した自分(仏性・神性であるアートマ)に5分間、想いを
馳せること・・から始まります。
その時、アートマの自分が、負の想念に振り回されている自分にかける言葉を
まとめます:(以下)
”すべての今日のマイナスの想念や言葉、行動などに傷ついた自分自身は
過去の自分、過去の事として、もう心から放棄されました。
自分を傷つけた行為や言葉を発した相手の背景には、自分の思いもよらない
事情があったのでしょう。
だから、その行為によって、傷つく必要は全くありません。
むしろ、その言葉や行為を発した本人が、私より、疲れ傷つき、病んでいる
のかもしれないのです・・だから、私(アートマ)から癒しの想念を送ることに
しましょう”
こうして、反対に、自分を傷つけた相手に、癒しなどの、良き波動を返すこと。
そうしたら、心の洗濯は、完璧・・だと思います。
汚点(マイナスのメモリー)は消去され、カルマの種は残りようがないはず
です・・こまめに、心の洗濯をしたいと思います。
汚れたら洗う、また、汚れたら洗う・・そのためには、自分自身の本性への
理解と、片時も、そこから意識を放さない、アートマへの集中意識を持つことも、
大切だと思う今日この頃です。
(完)