
印度聖女ギリバラ
今朝のインスピレーションです。
唐突ですが、
瞑想 の意味でした。
瞑想は難しい、集中できない、方法がわからない
ということで、興味を持っても、なかなか実行
まではいかないようです。
それに関して 瞑想は、本当は、いつでも
どこでも、何をしていても、数秒でも、
誰かと会話していても、できるんだという
ことが、今日の、インスピレーションの内容
でした。
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まず、仏性・神性(自分の本性)は我が内に
ありと知ることが 瞑想の目的・・・
観ずること・・決められたポーズをとること
ではないこと
観ずることとは、信じること、だから、自分の
心の中でそれを確信するための行為。
教え(善き宗教)の本当の意味を考えれば
教祖も神像も仏像も、本来は不必要なこと。
ここでいう本当の意味とは、
私どもが 神の像(イメージ)に似せて造られ、
それと同一であり、われわれ自身を神のごとく
完全で満ちた存在という事実と融合させること。
そういうことに、心を置かずに、
瞑想したり、祈ったりしても、それは深い
ものに成り得ず、
また、切願のこもったものではなく、
機械的な空音と、機械的なポーズでしかない“。
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解釈は、それぞれ、皆さま 一人ひとり
違う事でしょう。
私は、これが閃いたとき、はっとしました。
それは、瞑想 というのは、あの座って目をつむり
心の焦点を 光や神や、アートマや仏に合わせる
ものだけではない・・ということでした。
瞑想の本質とは?
それがわかっていれば、
どんな時でも、一瞬一瞬、たとえば、
こうしてパソコンを打っていても、可能だということ。
それは、私の、もう一つの心の部屋に座している、
神聖で、そして、真性の自分の部屋 への意識との
交流を絶やさない事。
それが、弱いときもあり、強くなるときも
あるにもかかわらず、絶やさないで、その絆を
信念として、深くして その部屋にいる自分と
重ね合わせていくこと。
その絆は、光や、神や、アートマや、仏性
とつながっている臍の緒(へそのお)ですから
こうして、瞑想が可能になるという事だ・・と
なんだか、ホットしました。
誰にでもできる瞑想方法です。
😔