自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

なぜ、病院に行かないの? 施術に不安はつきもの・・・

2024年09月13日 | 介護と自然治癒力
生命力への信奉なぜ、病院に行かないの?  2024年9月13日
*****************************


前書き)

今年の8月も、ジュピは、死線を感じる症状を出しました。
もう、11歳。

今回は、熱中症ではなく、呼吸器系の狭窄症のような感じ。

新しい餌に変えたところ、アレルギー発作のように、
せき込み(人間でいえば)、ひゅーひゅ^と、
喉を詰まらせた呼吸が だんだん大きくなりました。

そのたびに、腹を異様に大きく膨らませないと息が続かない
ような状態になりました。

立って歩くのも、こうした息遣いでは、困難な様子でした。

その異変で、私は、真剣勝負を決意しました。

夜10時から明け方まで、夢中でセラピーをしました。
セラピー中、時折、不安と死が頭をよぎりました。

そのとき、これからご紹介する、10年程前の、施術体験
を思い出して、自分を鼓舞しながら ジュピターの生命力
を信じて、必死に、集中セラピーをしました。

なぜ、病院に行かないの?と聞く方もいるでしょう。

検査時の身体へ負担、薬の副作用、高齢の彼の入院生活、
どれも、決して、彼の生命エネルギーが膨らませる処置
ではなく、むしろ、激減させて、しぼませるだけ・・・と 
以前のチャチャの体験(カテゴリー”ペットロスの癒し”参照)
から私は学びましたから。

そして、自然治癒力で治った身体は、副作用を受けず、むしろ
以前より、耐久性を持った身体機能回復が、期待できるのです。

それは、人間も同じことです。
どうぞ、では、本文を・・・

***********

2014年に我が家に来た、ジュピが、2歳の夏、
熱中症になった。 

8月20日、土曜日

台風が近づいてい不安定な天候、実母と昼食をともにした
際に、午後1時過ぎ、猛暑だったにもかかわらず、ジュピ
を、トイレのため近くまで歩かせた。 

ハアハア息をしていたがいつも通り、元気に、電信柱に
おしっこをして、車に戻った。

その夜は暴風雨になり、散歩は不可能。
朝からトイレをしていない。

真夜中に点検したが、その時も、トイレシートが汚れて
おらず、初めて 彼の体調に疑問を感じた。

翌日21日、朝8時過ぎ

幸い、普通に、トイレをしてくれたが、その後、一滴の水も
飲まず、夜ごはんも食べなかった。

同日夕方6時

陽がおちてから散歩に行ったが、トイレの仕草はしても 
一滴も尿がおちていない。 

ますます、不安になった。

この夜から、アートマセラピーを始めた。 
同時に、チャチャ(過去のブログカテゴリー
”ペットロスの癒し”参照)のことが思い出された。 

もし、明日、月曜日朝、散歩にいって尿がでていなければ、 
セラピーのみでは、自信が持てなかった。

チャチャの時に体験していた、尿毒症になったら、とても
危険だと判断した。

チャチャは、尿をぬくタイミングが遅かったため、腎臓に
負担がかかりすぎ、急性腎不全になり、亡くなったのだ。


22日(月)の朝

トイレシートにかなり、オレンジ色に近い濃厚な尿が
100ccほどでていたので 思わず、万歳!と叫んで
喜んで、文字通り小躍りした。
 
喜びもつかの間、その日、ほとんど水を飲まず、いつもなら、
吠えたり、遊んだり、走り回ったりする、当たり前の光景が
一転して、ただ、うずくまるジュピを見て不安が増した。

パソコンで検索して、界隈の名医と評判ある獣医を探し住所と
電話番号をいくつか控えたほどだった。

彼の症状から 熱中症、あるいは泌尿器系、いずれにしても、
こういう症状は命取りになると、ネット情報には、書いて
あった。

が、不安は募るのに、もう一人の私の心には、(不思議なことに)
電話をかける気が湧き起こらない。

事態を冷静に見つめながら、ひたすら、セラピーを施術
している私がいた。

施術手当をしながら、気の調整と自然治癒を信じていた。
ジュピも、それを感知しているのがわかった。 

私が仕事をしておらず、一段落して座っていると、必ず
そばにきてお腹をだし、さあ、手当を初めて~と言わん
ばかりに、すぐそばに、横たわり、時には腹を見せた。

その時に、彼から、”前の晩に何時間もセラピーしたように 
また手当をして”いうテレパシーが伝わってくるの
だった。

手足を天空にのばして、私の横で、天日干しのひらきの魚の
ように四肢を解放して、セラピーを受ける体制になるの
である。
 
そうこうしているうちに、夕食を少しだけ、口にした

それから セラピー続行。
今日が施術最後、状況変わらなければ、明日は病院に
行くとつぶやきながら、手当を続けた。 

そして、とうとう、セラピーの成果の手ごたえを 
初めて感じた瞬間が来た。

そのきっかけはジュピのオナラだった。

腸が動き、いくつもの小さなガスが排出されている~
と感じた。 

毒素は 気体だが、それが溜まって凝り固まると、
有毒なガスが原因となり、腫瘍などの固体症状として
現れてくることがある。

その毒素を体外に出せば、身体への悪影響は最小限
に抑えられる。 

だから、私にとって、臭いにおいの オナラ は嬉しい
ものだった。 

悪い毒素、気の”滞り”が排泄され、身体が浄化されて
いっている証拠だったからだ。
 
同様、施術している私の体にも相手の状況が映るように
なってきた

グル音(内臓が動く音)アクビ(脳への酸素補給、
免役力を高めるために、体に酸素をとりいれる)が連発して
でてきてますます手ごたえを感じるようになった。
 

8月23日火曜日・・・

やはり、朝 尿をわずかにしたのみだった。 
散歩に連れて出たが、歩きたがらず、抱っこして普段の路を
歩いた。

この夜のセラピーは数時間に及んだが、時間はあっという間
の感で、明け方になった。

この時、私の頭に、アイデアが浮かんだ。 

夜が明けたら、すぐ、ジュピが一番好きな散歩道へ行こう、
それは 座間神社界隈の 大山を仰ぐ、広場と神社境内に
続く散歩道だった。

8月24日朝5時半

車に彼をのせて、15分ぐらいで渋滞もなく座間神社へ。。 

すでにその、清らかな空気の気配を車の中から ジュピは
察知して
出してくれ”とドアに顏をつけていた。 

すでに、気分は上々。元気になっている。

案の定 外に出ると、彼のほうから綱を引っ張るように、
勢いよく、散歩を始めた。 

そして、近場の木の幹に、”おしっこ”をした。
大丈夫、これで、大丈夫、 ・・・ !!!

氏神様に感謝詣でをすませ、30分ほど歩くと、今度は、
突然、吐き出した。  

黄色の液体。 
以前も、すきっ腹の時、液体をはくことがあったが、今回は
少し様子が異なる。 

量が多い。 
暫くすると、また立ち止まり、ねばねば感が尋常でない、
納豆のような液体を吐いた。

ここで 多くの方達は心配するところだろうが、私は
むしろ、胸を文字通りなでおろし、ほっとした。

施術後の反応 症状で ”はく”、”熱”、”下痢”、が 浄化作用
の一環として、反応と称して、一番多く見られるケースだ。

そして、その後は必ず、症状はみるみるうちに改善される
ことを私は、経験から、知っていた。

苦しいだろうが、全部、吐いてしまいなさい・・・
30分ほどかけて、吐き続け、少し 収まったところで
帰宅した。

其の後 自宅に着いて、再び、施術をしていたところに、

朝8時30分

配管工事のためやってきた 顔なじみの工務店社長が、
ジュピと私がいる部屋をのぞいた。

そして、なんだか、異様に今日は部屋がくさいな。
犬のおしっこの匂いまでする” と、顔をしかめた。

この人は8歳のとき、すねを犬にかまれて、犬嫌いで、
わずかな匂いも臭覚に反映されるということで、
するどい指摘でもあった。
 
それは、セラピーを 何日も、し続けていた部屋の中に、
ジュピの身体から蒸気で出ていく毒素の匂いで、空気が
どみ 悪臭がただよっていたことを示していた。

同様のことは、これまでも体験していた。

義母に、数時間、セラピーをしたときだった。
(気功の大家の姑は、私には、自分の身体を手当させた)

ドアをあけて入ってきた夫は異様にこの部屋臭い
指摘した

それと同じことが、この時の、ジュピのセラピーにも
起きていた。
 
こうして、8月24日 

朝6時半をもって、私は セラピー施術師として、再度、
ジュピの生命力の力と、自然治癒力の認識を
新たにすることができた。

つまり、彼は、また一歩、健全な状態に近づいたのだ。

動物も、気の流れを整えることで、自然治癒力が発揮される
下地を 整えることが可能である~ということ。

しかし、その夜は歩きたがらないので、抱っこ散歩、途中、
草の茂みに降ろすとそこで、少々の尿を放出した。

8月25日

朝、ほぼ、通常通りの散歩をして帰ってきた。
食欲も通常に戻り、水もよく飲んだ。

ジュピの神様ありがとう~私は、彼の症状が良くなる
たびにこうつぶやいた。


そして、元気に戻りました。


以上

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どのReactionを選ぶか?8月31日の投稿の補正をして

2024年09月12日 | 今朝の”インスピレーション”

生まれ変わる人、そうでない人 2024/8/31
****************** 
・・ **************2024/9/12

地球での生活、は、二つに分けられます:

この生で、もう、生まれ変わりが無い人と、
また、次に、生まれ変わってくるべき人です。


生まれ変わらなくてもよい人にも、二つの選択があります。
言い換えれば、生まれ変わらなくてもよいのに、あえて
生まれてくる場合です。

それは、
誰かのため(主に不特定多数の他者)に 平和や幸せを導く
目的意識を強くもち、敢えて、この地球に、生まれ変わって
来るのです。

本来、生まれ変わらなくてもよい人というのは、すでに、
カルマをすべて清算してますから、肉体を脱いだままで、
意識態(幽体)として、存在し続けることができるわけです。


一方、この娑婆世界に、生まれ変わらなければ
ならない人は、これまで地球で着用していた服(肉体の心)
にしみこんだ 頑固な汚れやシミ(カルマ)を取ろうと、
これも、魂的には、意識して今の環境を選んで生まれてきて
いるのです。

カルマは肉体を脱いだら、無くなるというのは、違います。

生まれ変わるか否かは、このカルマ(シミや汚れ)の度合い
によるからです。

そもそも、カルマは、Reaction = 物理的法則です。
球を壁にぶつけたら、はねかえってくる、あの法則です。

Re と Action, の二つの文字の意味は、Actionに対して
反応=Re することから、カルマが生まれることを意味
してます。

私たちの魂は、幾度とない過去の生き様で、Reactionを
繰り返し、生まれ変わるたびにその、清算をしてきている
わけです。

Reactionを作るという行為は、キャッチボールにも似ています。

球を投げられて、良い球を反せば、お互いに、気持ちよく
プレーが続きますが、もし、どちらかが、きつい球や
届かない球を投げれば、相手がそれを拾いにいったり
相手も、それは、決して、楽しいものでは無いでしょう。

とくに、投げた側の、イライラ感や怒りなどが、その球に
込められていたら、素直に、良い球を投げ返せるでしょうか?
この投げ返すという行為が、ここでいう、Reactionになります。

人から受けた球は、行為の喩です。
それを、投げ返す反応(Reaction)には、三つの
タイプがあります。

①投げられた球と同じ球を反す人
②投げられてきた球を 受け止めて投げ返さない人
③投げられた球に、愛をこめて投げ返す人

①は、普通の人です。
それ以上に、強く痛いボールを投げ返す人もいます

②は、憎しみや、不合理な言葉や行動を相手から受けても、
それを心に吸収したまま、”良い人”にして、波風たたせず、
自分の反応を敢えて示さない人です。

③は、そうした相手に対して、むしろ、反対に、愛をもって、
祝福とともに返す人です。


カルマを造らない方法は、③です。
今までのカルマを消去する方法も、③です。
一見すると、②の方法が良いように、思えますが、結局
はその人の心の奥にまだ、感情のしこりは残っている
ままなので、これもまた、カルマの種です。

解消しない限り、この世の地球服(肉体)を脱いだ後も
きちんと、カルマバランスシートには、つけられている
でしょう。


愛をもって返すとは、どういう仕草でしょうか?

それは、その球を自分の’アートマ’という、魂の本髄で
(グローブ)で受け止めることです。

そして、相手の’アートマ’にめがけて、投げ返すこと
です。

そのときは、憎しみや、悲しみとは違う次元の
変化球が、きちんと、相手に返っていくのです。

アートマとは、魂の本性(純粋性、愛)をさします。
誰にも、共通の、魂の本髄です。

どちらかしかありません。
アートマで受け止め、相手のアートマに返すか?

あるいは、肉体の心の次元で、受け止め、自分の肉体の心
の次元でそれを反すか?

どちらか一つの方法を、人は、どんな言動においても、選択して
いるわけです。

*****************

今日は、私の他者へ投げかける言葉や行為が、どんな気持ちの
球なのか、考えて投げてみることにします。

自分のアートマを、この地球の肉体次元レベルに、折り重ねる
ことは、結構な修行です。

でも、一度、その行為を知ると、次からは、容易に、変化球
を投げることができていきます。

なぜなら、その時、自分が一番、幸せな何かを、感情として、
味わっているからです。












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理性と感情の、バランスをとるために・・・PACのまとめ

2024年09月09日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

ストレスフリーに近づくために:心の活用 2024/09/10
*****************

今日は、これまで数回に分けて、見てきた心療内科の、
池見博士の、心身相関性に関しての、最終回となります。
***********

病の主要原因は、大きな意味で、ストレスだろう。

ストレスは、心身に何らかの形で、過剰な負荷が
かかっている状態・・・

そして、心身一如(しんしんいちにょ)、つまり、身体は
心に、心は、身体に、直接影響を与え合い、同体的である
ことから、精神的な面から、ストレスを避けられれば、
身体への影響は、おさえられるはずだ。

それでは、どんな状況が、心にストレスを与えているの
だろうか?

それは、外部要因や、人間関係などで、平静でなくなり、
気持ちが昂り、感情的になっているときだろう。

感情的になれば、理性や抑制なしに、言葉や行動から
興奮気味な過剰なエネルギーが放出されている。

それを受け取った相手が、そのために、攻撃的になれば、
双方ともに、精神的な負の影響がでてくるだろう。

それを避けるためには、 感情的になりそうなときに、
言葉を発する前に、数秒の間合いをとることが効果的だ
といわれる。

間合いをとることで、少し、熱量が覚まされるはずだ。

そして、これから言おうとする言葉が、相手にどう、受け
止められるか? 誤解を生じさせないだろうか?
~といったような分別が よぎる余裕ができる。

このようにして、感情と理性のバランスを取ることは、
池見博士の提唱する(これまで見てきた)PACという
三つの心の要素を、無意識に、コントロールしている
ことになるだろう。

PACとは?
もう一度、簡単にまとめてみると、以下のようになる。

**********************
イ)P(parent) = 親の心~理想や良心を司る心、
周囲への思いやり、

ロ)A(adult)大人の心~主体的自我で、創造的な営み。 
現実的適応と、個性に即した自己表現を行う。

ハ)C(child)=子供のように、純粋で、悪い意味では
まだ体験を踏んでいない幼稚な心情も含む


上記のうち、上の二つは、脳の成長とともに人格を
形成していく。

池見博士は言う:

P(親の心)の道徳性についても、人間としての業(ごう)
への気づきが深まるにつれて、他人に対する思いやりの
かげには A(大人の心)の持つ、打算や 他からの愛情
を得たいというC(子供の心)的な 欲求がうごめいて
くることを自覚せざるを得ないであろう。”


複雑な人の心模様を、この言葉は言い表している。

一筋縄ではいかない心の複雑さが、ある。
他人への思いやりと同時に、計算があったり、要求が
出てきたりするという、P の感情の裏にある、複雑な
思いを示している。

”人間としての業(ごう)への気づき”

大人になって、いつか誰でも、自分の業の深さを
感じる時が来るだろう。

同時に、どんなに業が深くても、’鬼の目に涙’といわれる
ように、”他人に対する思いやり”という、P)の心は
誰にでもある。

が、その裏で、”A(大人の心)の持つ、打算”つまり、
’人にどう思われたいか?’ そのために、’どう行動
したら良いか?’というような、現実に即した
主体的自我(A)が、いろいろな主張を始める。

それに加えて、本来の、”他からの愛情を得たいと
いうC”(子供の心)~本能的な要求も、同時に、
存在しているのだから、私たちの精神の断面図は
複雑な模様を、実は呈している。


こうした、三つの自我の心まとまりつかなくなると、
ストレスとなる。

ストレスをかかえていては、(C)の持つ、本来の
自然治癒力が十分発揮できない。

が、一つ一つの心の特性を理解して、それを
バランスよくコントロールすることができれば、
状況は変わる。

それが可能になれば、自己統制をしながら、心身
ともに、健全で快適な生活を送れるだろう。


ところで、”Aの心”というわれる、”大人の心”を
もう少し、具体的にみてみたい。

池見博士によると、Aの心は、前頭葉で営まれる、
主体的で進歩的、 創造的な自己を生む心である。 

さまざまな欲求、たとえば、所有欲、自己顕示欲
競争意識が属している。

感情もそれに伴い、劣等感や妬み、嫉妬、恨みなど
の負の感情を生む。

こうした感情は、C(純粋な子供の心)にはない。

たとえば、“悔しい”という言葉は、6~7歳になると、
理解されはじめ、子供たちが、使い始めることから、
池見博士は、Aの心が、この頃から、発達していきて
いると、’言う。

”負けた/勝った”、”認められた/無視された”という
認識の芽生えでもある。

池見博士は こうした認識感情は、Cの心がもつ、
自然な、心と対照的にな 反自然で差別の心’と呼び、
’現代人の悩みの根源’、とも、言い切る。


社交辞令やビジネスの契約を取り付けるための手段
として使われるのは”A”の心意識だ。

現実に適応した対応のために、時には自分の本音を
殺さなけれなならない

池見博士は こうした、本音を隠した対人関係を
裏面的交流”と呼ぶ。

”自分の真の欲求や動機を表現せずに、意識的に
遠回しに伝えようとするコミュニケーション
のことでもある。

時には、”皮肉やあてつけ”などの言葉も、この関係
には、みられる。

営業的取引、政治的コミュニケーションには、無意識
にこうした、Aの心に主導権を渡した、会話が行われ
ているいのだろう。


他にも、巧みな詐欺犯罪(結婚詐欺、ビジネス詐欺、
オレオレ詐欺)など、相手を操り、こちらの思うツボに
誘導していく展開を牛耳るのが Aの心の特徴である。

Aの心が、精神的ストレスを生むきっかけになると
したら、どうしたら良いのだろう?

すべからく、この世は二面性でできている。
欠点は長所に、善きことも、一面では悪にもなる。

だとしたら、Aの心、誰もが成長すると共に、意識
し、助長させていく、この”大人の心”のストレスに
なる側面を、良い側面に変えることが、できるはず
だと思う。

先に書いた、A(大人の心)の持つ、主体的自我
の源として、”創造的な営み。 現実的適応と、
個性に即した自己表現” ができるように、
心の中にある、PやCとのバランスを図るという
ことに徹していけばよいのだろう。

内的ストレスをいかに、軽減させて、健康的
に生きていくかも、Aの心次第といえるだろう。

結局、出来事や他人の言動に振り回される
のではなく、Aの積極的側面を自分自身が意識
して、活用しようという決意と意思で、可能に
なるのと思う。




参考)
”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 日本放送出版協会
”ストレス健康法” S.50 池見酉次郎 ㈱潮文社
”セルフコントロールー交流分析の実際” 池見酉次郎 杉田峰康 2007年創元社
”続心療内科” 池見酉次郎 1973年 中央公論社
”心療内科” 池見酉次郎 1963年 中央公論社

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夢判断(死んだ🐤と、三の意味)

2024年09月06日 | 今朝の”インスピレーション”



今朝のインスピレーション 2014/9/06
********************

数日前、明け方にはっきり夢を見た。
三つの卵が、バスケットの中に・・

亡き夫が、一つを私に取り出して見せて、
”これは何? こんなになっている”と・・

ひびだらけ・・というより、腐っている殻
という感じ・・と、思ったら、

割れ目がさけて、中から小さな🐤が、死んだ状態
で落ちてきた。

まあ、・・”見てないで、早く片付けなくては”などと
言いながら、バスケットの中を見ると、二つ目の
卵の中の🐤は、すでに、死体で、飛び出していた。

そこに、大きな少し羽の色が薄いゴキブリが死体に
はりついていた。

次に、三番目の卵に目を移すと、やせ細っている🐤
まだ息をしている気配。

あ、生きている! 水を! どこから持ってこようか?

と、身体を動かしたとき、目が覚めた。

***********

あまりにも鮮明なので、早速、その朝、夢占いを検索
した。

🐤は、新しい生命、あなたの希望、その夢を見れば、
希望の成就

卵が割れる・・あなたの周囲に、何か予測つかない、期
を裏切ることが起きるから用心。

*****************
なるほど・・
希望の🐤は、二つも死骸だったし、
卵は、割れているし、決して良い夢ではなさそうだ。

が、なぜか、三つ という数字、
夫の差し出した卵、
まだ生きていた 弱弱しい🐤、が、
気になった。
****************

そして、自分自身の直観と対話してみた。

結論。
肉体次元の夫は、過去の人である。
死んだ🐤は、私の、過去の”信念”や”やりかた”を
示しているのだろう・・

つまり、一つ目の卵から出てきた死体が、信念を、
二つ目の死体は、その信念の現在にいたるまでの、
結果を意味しているのだろう・・・
と直観が語った。

では、ひ弱な、今にも、衰弱して死にそうな🐤は?

その過去の自分の偏ったエゴ意識を反省して、生まれた
新しい自分のひな形だと、直観が、言った。

まだ、生まれたばかり・・弱弱しく、もし、ケアーを
怠ると、成長は難しいだろう。

今、私が、気づいて、過去のエゴ意識を反省し、それを
訂正しようと、新たな一歩を踏み出して、常に、
これまでの慣習的心情に、ひっぱられないように、
注意を怠らなければきっと、その🐤は、成長していく
だろう・・・とも気が付いた。

*************
夢判断は、検索すると、回答は、種々だが、ほぼ、
同様の結果を教えてくれる

それが、その人に、あっている時と、そうでないとき
があるだろう。

それは、人は千差万別な価値観と生き様で、異なる
のだから、同じ夢を見たからといって、すべて人に答えが
あてはまるとは限らないからだ。

が、検索して出てきた答えは、何か、関連ヒントを
与えてくれそうな気がする。

その後の、その夢判断の結果は、その人の直観次第
だろう。

*************
この話を、昨晩、親友にした。

彼女は、私の🐤の死の夢には、好意的だった。

”死は再生でしょう。
新しく、何かが生まれ変わるということでしょう”

”その証拠に、三番めの卵は、生命が宿った🐤が
あらわれているのだから・・”

”3という数字は、ミロクの三だから、福の数よね。
いい夢だと思う”

夢占いとは、まったく、別の解釈が、こうしてできた。
ホップ、ステップ、ジャンプ、つまり、1,2,3で
人は、大きく前進する。

3の数字は、種を撒いて、芽が出て、それが形となる
象徴でもある。

***********
このお話を書いたのは、夢判断だけでなく、様々な判断時に
他者の意見より、まず、自分自身の”直観”の大切さを重宝して
いただくためだったかもしれない。


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整体:野口先生の風邪の心的背景の考え

2024年09月04日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方
整体の神業師 野口晴哉氏の徹底した身心一如の観方
************************************ 2024/9/4


心と身体が一体であるということを 
心身一如(しんしんいちにょ)という。

池見博士の心身一如論による、心療内科の治療と
整体の野口晴哉氏の、心身一如論に基づく、整体指導
とは、表現は違っても、底辺は同じだ。

つまり、心身一如であるのなら、

’心の思い’、感情の流れ’、
’積極的か消極的なメンタルか?’、’受身的か能動的か?’、
’恐怖感か満足感のどちらかに傾倒しているか?

という心’の状態、が、病を造ったり、病を癒したり
する~ということでもある。

’想い=想念’が現象(健康面のみならず、自分の周りの
事象を含めて)のひな型になっているとも、
言えるだろう。

以下は、野口氏の本(*1)の中から、あるパラグラフ
を引用させていただきたい。

一端(心が)方向づけられたら、意志で
どんなに努力してもその空想には勝てない、結局、
空想が方向づけられた方向に、体の動きはいって
しまうということです。


寒いから風邪を引くと想って、厚着をさせている
お母さんの子供ほど、寒いと風邪をひく。

栄養が足りないと風邪を引くと思っている
お母さんの子供ほど、栄養が悪いと風邪をひく。

寝相が悪いと風邪をひく、こたつに入っていると
風邪をひく、ぬるい湯にはいると風邪をひくといって、
それを警戒している人たちほど、そういうことで
風邪をひく。

それでいて私どものように、風邪をひいたら、それを
機会に体を治そう、癌になるような鈍い体にならない
ように、上手に風邪を経過させようと思っていると、
今度は風邪のほうが意地悪をして、ついてこない。

意志の努力では風邪はひけませんね。
どこかで、俺はなかなか風邪をひけないのだと思い、
自分でそういう方向付けをしているから、なおさら、
風邪をひけなくなる。

’風邪の効用’などということを考え出したが最後、
風邪をひかないのです。

だから、予防注射をして風邪を防ごうというような
受身な心が風邪を誘発しているかもしれないという
ことをわかっていただきたい。(引用以上)


野口氏が、ここで”想像”と呼んでいるその意味は、
”心の想い”ということだ。 

心の想い強ければが、それは確信につながる。 

確信すると、それは念となり、健康でも人生問題
でも、人間関係でも、仕事でも、自分の身近な環境
に影響を与え、念じたような現象が現れる。 

そうかと思えば、人には ”私は~になる” と
いつも言っている人が、必ずしも、そうなる
とは限らない。

その理由は、口に出してみるものの、実質、
その人自身の確信が足らないからだろう。
念になるには、想いの凝縮が必要なのだ。

野口氏は、自著の中で、
クライアントたちに、アドヴァイスをしようとするが
相手を見て、そうしていると、次のように言う:

以下、(著書引用部分)
~だから、私は’風呂に入っても良いですか?’と
聞かれて、'大丈夫’と答えるときにも、この人は、
私のいう事を本当に理解してきいているのだろうか?
とよく考える。

そうでないと、’入って大丈夫’と思っていても
請け合えない。

その代わり、’用心した方が良い´などというときがある。

それは、私が相手を理解が足らないとか、いくら
話しても、わからない人だからと思っている時だ。
(引用終わり)

これは、野口氏の心理療法でもある。

もし、正直に思っている通り、風呂に入っても
大丈夫と答えようものなら、その相手には逆効果
になるからだ。

’自分の風邪を、評価されていない’、’心配されてない’
寄り添ってもらっていない’ 
と不足に思い、”少し残念に思う”ものだと野口氏はいう。 

その結果、余計、その人の風邪の症状が余計に重くなる
ことさえある。 

なぜなら、野口氏の心配を得たいという本人の想念が、
’大丈夫’と太鼓判を押されれば、おされるほど、
野口氏の関心をひくために、無意識の念で、本人の
風邪の状態を重くさせていくからだ。 

さらに面白い体験的エピソードを野口氏は語っている。
引用する。

(引用部分)不平とか不満とか、反抗とかそういう心の
状況で、風邪になることがあるが、だからといって、
それを除かなければ、風邪が治らないかというと
そうではない。 

周りの人達が、相手の心理状態とか、相手の風邪を
ひくような心に同調して、相手が嫉妬しているから
その嫉妬を除かなければならないとか、甘えたがって
いるから十分甘えさせてやろうというように、
同調する必要はない。

それに同調して 相手の風邪の原因を何とか除去しよう
と努力しても、それは風邪の治療にならない。

もし、その不平を満たしても、又、次の不平が出てくる。

それが叶えば、また、次の不満がでてくるというように
きりがない。

だから、それを除かなくては、風邪が治らないと
考えてはいけない。

むしろ、風邪によって、そういう不平や不満も治って
しまう、自分から気落ちしてしまうような心持ちまで、
治ってしまう、というように、空想の方向付けを
行うことが大切です。
(引用終わり)

”空想の方向付けを行う” とはどういうこと
だろうか? これは、風邪は自然治癒力の発動で、心身
がより、健康になるための調整症状だと、納得させて、
これによって、もっと、元気になるのだという、想いの
方向を持っていくことだと思う。

他に、野口氏は、心の出すエネルギーと脳との関係を
次のようにまとめている。

引用部分)疑似感冒がある。
心理的因子による。
風邪の人と接触したから、伝染したと訴える
人々の風邪がそれである。

人間には、こういう心理的因子が誰にでもあるのだ。
こういう心理的因子が働く背後には、過剰エネルギー
鬱散要求がある。

過剰エネルギーが性エネルギーになるのが、自然で
あるが、他のエネルギーに昇華することもある。

多いのは、感情、又大脳に昇華することで、
他人が転んでも笑い出し、花が散っても涙を出す
ようなのは明らかに感情昇華。

後から空想や妄想が湧きおこったり、頭の方が行動を
無視してはたらいて、前へいってしまうようなのが、
大脳昇華。

この他に過剰エネルギーが行動に昇華すれば、行き
過ぎ、やりすぎ、言い過ぎが生ずる。

こういう過剰エネルギーが、風邪となる心理因子
の製造に回ることもある。
一種の鬱散要求です。
心理的な抑制風邪というのがあって、癇癪でも、
不平でも、行動でも、抑制してしまって風邪になる。

いずれにしてもエネルギー調整の平衡現象と
みるべきで、風邪を病気扱いにする前に体の観察
心観観察が必要だということです。(引用終わり)

特に、心の持つ過剰energyを分類して、それが
結果的に風邪をひく原因と関係していると見た
野口氏の次の意見は、奥深く、興味深い。


**************
 (*1) "風邪の効用” 昭和53年 野口晴哉  
発行所:株式会社 全生


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