エゴ意識と病 2024/09/16
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久しぶりに最近読み直した本は、チベット密教の名著、
”チベット死者の書” です。
私事で恐縮ですが、9月19日は 夫の三回忌にあたります。
彼が無事に”天の本宮”にたどり着き、活き活きとしている
ことを確信しながら・・仏教での亡き人の弔いの言葉を
読み直しました。
’死者のための書’と思いきや、現象界に現在、生きている
人間が この世にいながらにして、極楽浄土へ行ける法
を知れるような気がしました。
それは、どの念(想い)によって、曼荼羅の中心層
を織りなす、極楽浄土に 意識が移行できるかを
説いている章です。
瞑想 しながら、次のように 念じるとあります。
”私は、今まで 時のない時、永劫の間、
夢幻の沼地を 彷徨ってきたとは
なんと、嘆かわしいことだろう。
今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。
今こそ、そこから 逃げ出る準備が整った。
私は、ブッダ・アミターバ(阿弥陀如来)の
足元のハスの花の間から 奇蹟的に、幸福な
西方浄土に生まれるように、努めんと欲する。”
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こうして、その浄土への想いを一心不乱に、
集中することで、その願いは必ず、成就されると
書かれています。
それとともに、日頃の大切な心持は、次のように、
’生まれる寸前の意識’の大切さとして、次のように、
書かれています。
”子宮の入り口を選択するとき、誤りがあるかも
しれない。
カルマの力のために良い子宮が悪く見え
悪い子宮が 良く見えたりするかもしれない。
そのような誤りはありうる。
子宮が良く見えても、眩惑されるな。
それが悪く見えても、反発を抱くな。
反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 や
入りたい願望から自由であること。
完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。”
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”子宮の入り口に入る”というのは、私たちが霊魂で
肉体を持つ前に、どの女性を母にするか、と決めるとき
の話です。
そのとき、
”反発は眩惑だ、
あるいは、避けたい願望 や
入りたい願望から自由であること。”
”完全に公平な心境にあることが 最も深淵な
心の統括技術である。”
とあるように、反発や、魅惑に引き付けられる
ことは、偏った価値観があるからなので、
完全に 公平な心境をもって、しかるべき
”子宮”を選になさい、と、注意しています。
ここでいう ”子宮” というのは、文字通りですが、
読み方によっては、この世に生まれてきた後
なんの対象でも、自分が選ぼうとする時の、”新しい世界”
をさすこともできるように思います。
どこの学校に入ろうか?
どのジャンルを選ぼうか?
職業でも、人間関係でも、選んで、自分がかかわる時は
ちょうど、霊魂が肉体を選ぶ(子宮に入る)ようのと同様
のような気がするのです。
その選択が正しいかどうか?
それは、その時の心持が、”完全に公平な心境”であるか
否か?ということなのかもしれません。
思い込みや、習癖による好き嫌いや、偏見、恐れなどを
取り除いた、透明な心で、あるかどうか?という
内省も必要でしょう。
さて、最初の引用箇所にもどります:
”今までに、大我 の意識を悟って、ブッダフッド
(光明の境地)に解放されていないとは、
なんと痛々しいことだろうか!
この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた。”
大我(たいが)とは、小我(しょうが)の反対語です。
小我は、エゴ意識です。
エゴ意識は、”自分が、自分は、自分の、自分を”という
”自分”意識ですが、これは、限定された”自分”です。
肉体意識でもあります。
肉体が消えれば、このエゴ意識も消えます。
その代わり、”大我意識”が、残ります。(個性を持ちながら)
一方 ”大我”は、他者と自分がつながっている一体感を
知った、’限定のない自分意識’です。
この意識は、悟りにつながります。
ここでは、”光明の境地” という言葉を使っています。
この意識に到達すると、解放感を得ると、ここでは
言っています。
”自由意識”のことです。
本当の自由とは、好きなことが思うようにできることで
なくて、小さな我の限定された意識から、羽ばたいて
文字通り、エゴ意識に特有の、執着や偏見、負の感情
から解放されることだからです。
”この夢幻の妄想が 私に吐き気を催させ、
怖がらせ、病気にさせてきた”
自分が限られた存在で、肉体の死滅とともに消滅する
小我(エゴ)だと信じていること(妄想)が、
執着や偏見、負の感情などを助長させていきます。
エゴ意識は、恐怖を生み出して、その恐怖心が病気を
作る・・・という、一つの心と身体のメカニズムが
ここにあります。
この言葉は、まさに、病の本質をついている言葉だと
思うのです。
チベット密教によって書かれている本ですが、真実の
本質は、何教であっても、変るものではありません。
日本語にもありますね。”病は気から”と。
その世界を、仏教的に述べているわけです。
引用箇所)
”チベットの使者の書”(バルド ソドル)
S56
訳編者 おおえ まさのり
講談社