アヴェ・マリア!
▼ これはダブルスタンダードではないか?
カトリック教会は、御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体だと信じている。御聖体はたんなるパンではない。御聖体は天地の創造主だ、私たちの天主だ、私たちの贖い主イエズス・キリストだ。だから、カトリック信徒たちに御聖体を礼拝させてきた。これはカトリック信仰が私たちをして跪かせた。その核心は信仰だ。聖伝の信仰だ。
私に洗礼を授けて下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、私たちに必ず跪いて御聖体を拝領するように、必ず口で御聖体拝領するようにと教えていくださった。何故なら、御聖体は天主の御体だからだ。神父様は、教会の聖伝の信仰を大切にしておられた。
しかしおよそ今から25年前、地元の教会に新しい神父様が赴任されてから全ては変わった。新しい神父様は新しいことを信徒たちに押しつけた。私たちは立って聖体拝領をしなければならなくなった。立たなければ「一致を乱す」と非難された。私は小教区の教会では御聖体拝領が出来なかった。私たちの主イエズス・キリストを礼拝したいと望んだ、という理由のためにだ。
それは日本のほとんど全てのカトリック教会で同じことが言えるだろう。
私はつい最近、韓国の学生のキム・ニコラ君(仮名)からメールをもらった。彼はソウルからかなり離れた地方に住んでいる中学生だ。それによると、地元の小教区で新しい司祭が赴任になり、キム・ニコラ君が跪いて口で聖体拝領をするので御聖体拝領を禁止したとのことだ。
一体何故? 何故ここまでするのか? しかも全世界で?
第二バチカン公会議では「信教の自由」を高らかに歌っているのではないか? 新しいミサではいろいろなことをするオプションが数多くあるではないか。何故跪くことなどの聖伝の信仰に適ったことはここまで強く禁止されなければならないのか?? 平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会、手作りの教会、草の根の教会を目ざしているはずではないのか??
これはダブルスタンダードではないか? 自己矛盾ではないのか?
何故なら、一方で自由を歌いながら、聖伝のままを実践する自由を与えていないからだ。
▼今までダブルスタンダードだと思っていた
私は最初これらを素直にダブルスタンダードだったと思っていた。しかし良く考えると、一貫した論理があるように思えてきた。
何故なら、跪くというのは礼拝の印であり、カトリック信仰の生き生きとした表明であるからだ。御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体であるという信仰ゆえにこそ、私たちは跪いて礼拝しつつ御聖体拝領をするからだ。聖伝のミサでは、私たちが全て天主を中心に生きるように、天主に向かって全てが秩序づけられていた。
しかし、
カトリック教会の聖職者が、もはや聖伝を信じておらず、新しい教えを新しい信仰を信じているなら、・・・
ミサ聖祭が、ミサの聖なるいけにえではなく、聖餐だと信じているなら、・・・
司祭が単なる座長で、ミサが信徒を中心とする集会であるなら、・・・
ミサで「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」からこそ、キリストが現存していると信じているなら、・・・
御聖体は、兄弟姉妹たちと分かち合う食事になり、食事は食べ物と飲み物があり、手で取って立って食べるのが当然だから。だから、立つことが原則なのでそれに従うことを強制させられるのだ。
新しいミサの定義はこうだ。
「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)
だから、新しいミサでは、聖書の朗読台と感謝の食卓という二つの「食卓」と二つの「霊的糧」が「食され」、その中心は人間になる。
だから、新しいミサでは新しい実験・革新・試みはどんなことをしても良いのだけれども、聖伝の信仰の表明だけは許されないのだ。
つまり、新しいミサでは全く新しい「信仰」が表明されており、そこでは聖伝の信仰は相容れないのだ。
だから、新しいミサの新しい「信仰」を信じる人は、聖伝の信仰を憎しみ排除しようとするのではないか。聖伝の信仰の表れを粉々につぶそうとするのではないか。
だから、新しいミサで跪いて御聖体拝領をする人は、受け入れられないのだ。なぜなら、信仰が違うからだ。
何故なら、第二バチカン公会議の新しいミサと新しい信仰は全てを人間に秩序づけようとするからだ。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からだ。 第二バチカン公会議はこれに反対するものに対して戦いを挑み、これに反対するものを完全に破壊し尽くすまで闘おうとしているからだ。
それに対して、聖伝は全てを天主のために秩序づけようとし、それに反対するものに対して抵抗し闘っている。私たちは聖伝が勝利することを知っている。だからといって何もしないでよいわけではない。傍観していて良いわけではない。使徒継承のカトリック教会の聖伝にますます忠実でなければならない。
だから、ここに生きるか死ぬかの戦いがあるのだ。カトリック聖伝が生き残るか、第二バチカン公会議が生き残るか、悪魔の最後の戦いが繰り広げられているのだろう。
そして、これはラテン語と日本語の問題ではなく、グレゴリオ聖歌か日本語聖歌かの問題でもなく、カトリック信仰の核心の問題なのだ。
このごろこう思えてならない。
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