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聖伝のミサの解放のニュース: フランス司教団は反対

2006年11月14日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


聖伝のミサの解放のニュース



■伝統的なラテン語ミサの執行を原則的に認める自発教令(モトゥ・プロプリオ)を教皇ベネディクト十六世が準備している、との報道がある。
 しかしこれに対してフランスとドイツの司教団は反対の意思表明をしている。


 何故か? 何故反対をしているのか?


 例えばロン・ル・ソニエでブザンソン教区の大司教アンドレ・ラクランプ大司教(Msgr. Andre La Crampe)のもとに集まったフランスの10名の司教様たちは、10月25日の聖座への声明文で、ボルドー大司教区内における「良き牧者会」の創立と聖伝のミサの一般の使用に関するベネディクト十六世の自発教令についての「不安」を表明した。

典礼は、教会の神学の表現であると考える、司教たちは1962年のローマ・ミサ典書の一般的な使用が第二バチカン公会議の指針を相対化させるのではないかと懸念する。このような決定は、司祭らの一致と信徒たちの一致も危うくするだろう。多年にわたり、典礼の養成の努力が実現されてきた。司教たちは司教区民たちがこの努力をし続けることを喜びそう励ます。」

Msgr. Andre La Crampe, Archbishop of Besancon
Msgr. Claude Schockert, Bishop of Belfort-Montbeliard
Msgr. Jean-Louis Papin, Bishop of Nancy and Toul
Msgr. Jean Le Grez, Bishop of Saint-Die
Msgr. Francois Maupu, Bishop of Verdun
Msgr. Joseph Dore, Apostolic Administrator of Strasbourg
Msgr. Christian Kratz, Auxiliary Bishop of Strasbourg
Msgr. Jean-Pierre Grallet, Auxiliary Bishop of Strasbourg
Msgr. Pierre Raffin, Bishop of Metz
http://www.renewamerica.us/columns/mershon/061102



◆コメント◆
 新しいミサの典礼は、何でもあり。全く自由。全く創造的。他宗教のものでも何でも受容してよろしい。唯一の大罪が聖伝のミサを捧げること。


 因みに、この同じブザンソン大司教区の大司教、アンドレ・ラクランプ大司教(Msgr. Andre La Crampe)は、ブザンソン大司教区について次のような統計を発表している。


1986年、神学生のいる神学校が存在していた。2006年、神学校は高齢者司祭の養老の家になった
1986年、神学生の共同体が存在してた2006年閉鎖している
1986年、「愛徳聖母姉妹会」の修道院が1つあった。2006年、閉鎖している
1986年、カルメル会修道院が1つあった。2006年閉鎖している
1986年、クララ会の修道院が1つあった。2006年、それは閉鎖準備中である
1986年、マリア会の共同体が1つあった。2006年、それは大司教区から出て行った
1986年、ブザンソン大司教区の中心に9つの小教区があった。2006年、1つの小教区しかない

これ以外にも、劇場になったり閉鎖された多くの小教区の教会が多数存在している。


 ベネディクト十六世教皇様のせいで、この教会の改革という偉大な事業が続けられなくなるのを「心配」し、司教たちは、今までのような方向に向かい続けるため「司祭らの一致と信徒たちの一致」を保ち、これまでの通り、「多年にわたり、典礼の養成の努力が実現されてきた。司教たちは司教区民たちがこの努力をし続けることを喜びそう励ます」のだ。

 


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5. 4. 霊的修練と浄化 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年11月14日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)



霊的修練と浄化


 リベルマンは、天主との一致の生活の基礎にすべてのものと自分自身に対する完全で普遍的な放棄をおいたが、これは正しく修練院の霊的な教育課程の目標であった。長くとも45分も経たないうちに別の活動にうつる細かい時間の割り当て、予告無しのいろいろな雑役などは、どんなことにたいしても準備が出来ているようにし、個人の判断を放棄する訓練となっていた。


 毎週のクルパのカピトゥルム(修道者たちが集まって会則違反の過失の告白や指摘がある)では、誰もが何それの点で足りないところがあったと油断しないで見守った同僚の修練者によって指摘された。
「何でもない過失のためでも、償いのためにひざまずいて地面に接吻をしなければならなかった。良識を持って、誰もこれを悲劇と思うことはなかった。」 しかしマルセルは模範を見せなければならない司祭だった。彼はこの屈辱的な行為を真剣に遂行した。


 同様に、マルセル・ルフェーブルは懲罰を受けることを避けようとしなかった。オルリーの修練院では日常的なこの苦行の手段は、修練院最後における彼の多くの決心の一つに挙げられている。しかし彼はその後はそれにこだわらなかった。リベルマン神父は宣教師には、例えば暑さといったものだけでも、その他の多くの苦行があると考えていた。


 ところが私たちの修練者マルセル・ルフェーブルを試したことは寒さだった。


「寒い年だった、まったくもう、それはそれは寒かった! 修練者をこんなに苦しめることが出来るのだろうか? 信じることができない事だった!」


 修練院の中で唯一暖房されていたのは、共同体用の一部屋だけだった。廊下についている水道の蛇口から引いた水は洗面台で凍った。夜には「皆が毛布を四枚、五枚、六枚掛けて寝た。こうするととても重苦しかったがそれでも暖まらなかった。何と悲惨なことか! よく寒さで死ななかったと不思議に思っている。」(ルイ・カロン聖霊修道会神父)「それだけではなく、私たちは外の中庭で二列をなしてロドリゲス神父(Rodriquez)の著書(『キリスト教的完徳』)を読まされた。おそろしく寒かった。本をもっている指の感覚が消えていた。」(ド・ミルヴィル司教)


 ところで、寒さの修行に続いて、極限の忍耐力を要する病の修行があった。 1931年末からマルセル・ルフェーブルは極めて強い頭痛に苦しめられた。しばらく穏やかになった後で 1932年 6月からは強い能の疲れに苦しめられた。


 カルメル会修道女である彼の姉妹はこう言っている。「兄は、ひたすら天主に至ろうと登るためだけに最高の忠実さで修練生活を過ごした。彼からの手紙は全てその香りが漂っており、彼はもっと経験を深めた。しかし彼の健康は、何時間の間、庭園の椅子の上で休まなければならないほどに弱くなった。何という屈辱であったことか!」


 しかし「彼はすべての試練を感謝に変えることを知っていた」ので「それを全く単純に」受け入れたと彼女は付け加えた。



 ドン・ビタル・ルオデ (Dom Vital Lehodey) の『聖なる放棄 (Saint abandon)』を読むことで、彼は天主の嘉する御旨を受け入れるのを助けられた。しかし庭園のベンチは「彼の頭の換気をする」のには充分ではなかった。そこでマルセル・ルフェーブル修練者は故郷の土の空気、そうではなければ少なくとも自分の母親と一緒に暮らした田捨の家の空気を吸うようにと家に帰された。


 彼の母親はこう書いている。


「マルセルは修練院の外で送ることができる制限付きの許可で、2週間のあいだ私たちと一緒に過ごしました。・・・私はこの短い間、彼と一緒に過ごすことができたことを天主に感謝します。楽園を少し味わったわけです。・・・彼の帰宅が天主の摂理のデリケートな優しさによって起きたのではないかと自問するほどだったのです!」

 


(つづく)

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