アヴェ・マリア!
ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明
● 昭和27(1952)年3月5日発行、昭和33(1958)年7月25日第6版、カトリック中央協議会編集、中央出版社発行の「公教要理」によると、次のようにある。
◎ミサ聖祭
427* ミサ聖祭とは何でありますか。
ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に献げる祭であります。
犠牲とは天主を最高の主として礼拝するために献物(ささげもの)をなすことであります。旧約の犠牲は牛、羊などを屠(ほふ)って之を献げることで、すべて新約の犠牲のかたどりでありました。
新約の犠牲はイエズス・キリストが、十字架上に於て、御自ら御生命を献げ給うたことであります。ミサ聖祭はこの犠牲の継続であります。
ミサ聖祭は司祭によって献げられますが、実はイエズス・キリストの御手を以て、直(じか)に之をお献げになるのであります。
428* ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは同じでありますか。
ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは、献げ方が違いますが、その実体に於ては全く同じであります。
429 ミサ聖祭と十字架上の犠牲とがその実体に於て全く同じであるとは、どういう意味でありますか。
それは、イエズス・キリストが十字架上でなされたように、ミサ聖祭でも自ら御自身をお献げになるからであります。
430 ミサ聖祭と十字架上の犠牲と献げ方が違うとは、どういう意味でありますか。
それは十字架上の犠牲と異り、ミサ聖祭では、イエズス・キリストは目に見えては御血を流さず、御死去にならず、司祭の手をもって御自身をお献げになるからであります。
431 信者は、ミサ聖祭に対してどういう役割をもっておりますか。
信者は、司祭を総代としてミサ聖祭を献げ、又、主を頭とする神秘体の一部分として、キリストと共に己をも献げるのであります。
432* ミサ聖祭を献げる目的は何でありますか。
ミサ聖祭を献げるのは、
一、天主を礼拝し、
二、其の御恩を謝し、
三、罪を贖い、
四、御恵を求めるためにであります。
433* ミサ聖祭にはどのような功力(くりき)がありますか。
ミサ聖祭は、聖父に無限の光栄を帰し、且、十字架上の犠牲の功徳を、此の世の人と煉獄の霊魂とに施すもので、その功力には限がありません。
434* 信者は、どのような心構で、ミサ聖祭に与らねばなりませんか。
ミサ聖祭に与る時には、キリストの御受難、御死去を思い出し、司祭と心を合せて之を献げ、成可(なるべく)聖体を拝領するよう心がけねばなりません。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm
● あるいは、「要理の友」第25課「ミサ聖祭」によれば、
イエズスは「パンを取り、感謝してさき、でしたちに与えて、”これは、あなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行いなさい”とおおせられた」(ルカ22の19 )
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ミサ聖祭とは何ですか。
ミサ聖祭とは、救いの犠牲であるイエズス・キリストの御からだと御血とが、司祭の手をとおして神にささげられる教会の祭りです。
キリストは、ご自分を霊的なかてとして、でしたちに与えるために聖体をお定めになりましたが、もう一つの理由は、それを通じてでしたちがみなご自分の犠牲にあずかることができるようにとのお心からです。
犠牲とは目に見える供え物を神にささげることによって、神への人の心の奉献を表わすことです。イエズスは幼いころからご自身や全生活を救いの犠牲と考えられ、聖木曜日の晩、パンとぶどう酒の外観のもとにそれを御父にささげられ、あくる日十字架の上で御血を流されてそれを完成なさったのであります。その後、聖体が聖変化されるたびごとにキリストは祭壇の上においでになって、パンとぶどう酒の外観のもとにご自身をいけにえとしておささげになります。この聖体のよってささげられる犠牲がミサ聖祭です。
ミサ聖祭の間にイエズスはお苦しみもなくご死去にもなりませんが、十字架上でなさったようにご自身を人類の救いのためにおささげになります。ミサ聖祭と十字架上と犠牲のささげ方は違っても実体において同じです。
ミサ聖祭はこのように十字架上の犠牲と同じものですから、司祭と信者はそれをささげることによって、キリストの十字架の犠牲にあずかることができます。信者は成聖の恩恵によってキリストと一致することをよく考え、ミサ聖祭にあずかるときに、自分をキリストとともにいけにえとして神にささげるのです。イエズスがその全生活を十字架の上でおささげになったように、カトリック信者は自分の生活を犠牲と考え、いつも神のために力をつくし、ミサ聖祭にあずかるときに自分の考え、言葉、行ない、苦しみ、喜びなどをすべてささげるのです。
イエズスの十字架上の犠牲が歴史上最もすぐれた行ないでありその中心であるように、ミサ聖祭はカトリック教会と信者ひとりひとりの生活の中心です。また、犠牲によって神を最もふさわしく礼拝いたしますから、それは祈りでもあります。ミサ聖祭は完全な犠牲ですから、最もすぐれた祈りでもあるわけです。ミサ聖祭の間にすべての罪を償われた犠牲が繰り返されるのですから、信者は特にミサ聖祭の間罪を痛悔し、罪のゆるしを受けるべきです。イエズスはいつも代祷者であり、ご自分を御父にささげるたびごとに、私たちのために恵みをお頼みになってくださることを考え、信者はミサ聖祭の間にキリストと声を合わせて祈願するのであります。
心のともしび-カトリック要理の友:第25課 ミサ聖祭
http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori25.html
●公教会祈祷文でもこう祈らせていた。
ミサ聖祭に与る前の祈り
主イエズス・キリスト、我らもし、カルワリオにて主の御苦難を見奉りしならば、我らの腸(はらわた)悲しみのために断たれたるべし。
▲今この祭壇にて行われんとする祭りは、十字架の上にて献げ給いしいけにえと異ならざる者なれば、我らをしてこれに適うべき思いを起し、罪の赦しを蒙り、御旨に従う事を得しめ給え。且つ、主の我らに向いて茲にまた新たに示し給う御苦難、御死去の功徳をこうむらしめ給わんことをひたすら願い奉る。
● これを見ると分かるように、ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に犠牲として献げた十字架の犠牲の継続だ。
● まず、ミサ聖祭とは会食ではない。私たちの主イエズス・キリストは、「私の記念として、これを行え」と言ったのであって、「私の記念を行いなさい」とも「私を思い出すために、このようにして食べなさい」とも言ったのではなかった。
● ミサ聖祭において最も大事なのは、パンとぶどう酒を共に食することでもなければ、会食することによって信者の一人一人がキリストの体につらなり、ひとつの共同体として交わりの中に入れられていることを確認することでもない。
● また、私たちの主イエズス・キリストは、パンと葡萄酒との「外観の下に」在し給うのであり、パンとぶどう酒の「中に」おられるのではない。聖変化により全実体変化(「実態変化」ではない)が起こり、パンとぶどう酒との実体は無くなり、イエズス・キリストの実体に変わるからだ。
● ミサ聖祭では、「感謝」をするだけではない。ミサ聖祭を献げるのは、天主を礼拝し、その御恩を謝し、罪を贖い、御恵を求めるためだ。
今の流行の説明
■ ところが、今はやりの新しいミサの説明はどうだろうか?
インターネットで検索してご自分でご覧になってみていただきたい。特に公の性格を持っていると思われるウェッブ・サイトを見てみて頂きたい。勿論、中には信徒有志が作成しており、教会の公式見解ではないものもあるだろう。カトリック教会について全く知らない方々を対象にしているために、難しいことを省いて優しい言葉遣いになっていることもあろう。
しかし、これを見ることによって、今の流行の説明が分かるだろう。私たちは、これらのウェッブ・サイトを一生懸命作られた方々を非難するつもりは全くない。何故なら、新しいミサの公式の定義が、オッタヴィアーニ枢機卿たちによれば、カトリック信仰を大きく離れているからだ。日本のウェッブ・サイト制作者がその影響をうけて剰りにも当然だからだ。いや、問題は一般のカトリック信徒の方々が、徐々に、ミサ聖祭とは何かを知らなくなり、誤解し、別のものを信じるようになってしまう危険があることだ。
■ 新しい説明によれば、ミサとは、食事であり会食であり、キリストの死と復活の記念である。また最後の晩餐に行われたことの記念とされている。残念であるが、ミサが十字架の犠牲の再現であり現実化であるという説明は一切されていない。犠牲という概念すらない。このようなミサにかんするる概念の変化こそが、新しいミサの実りだ。 ・・・ インターネットだけではなく、信徒の方々のミサに関する概念そのものさえも、影響を受けているのだ・・・。
天主の御母聖マリアよ、我らを憐れみ給え!
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