■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
2-ある人が誤った宗教を受け容れ、これを表明すること、もしくはその誤謬を広めるのを妨げることは許されている
これこそ今日等閑に付され、しかるに前項とまったく同様にカトリック教理に属する真理です。この真理は理性によって、また教父らと教会の教導権および慣例によって、さらには教会の承認を受けてきたキリスト教諸侯の慣行[慣習]によって、そして最後に「普遍的教会博士」である聖トマスの教えるところによって立証されます。
a) 理性による証明
誤謬ならびにその喧伝(けんでん)には権利がありません。
したがって、ある人が宗教的誤謬に固執する、ないしはこれを表明するのを妨げるのは正当なことです。ピオ12世教皇の言葉を借りて言えば、このように振る舞うことによって「当の人を、彼が権利を有するところのいかなる所有物においても、またこれらの所有物に対して彼が有する権利においても、侵害することにはなりません。」
(眼下の外科手術の専門家への訓話 [1956年5月14日] Documents 1956 p.264)
同教皇は、別の問題についてこのように述べたのですが、これは私たちが今取り扱っている問題に等しく該当します。
-彼が権利を有するところのいかなる所有物においても: つまり宗教、すなわち真の宗教を天主の意志に従って表明することにおいて
-これらの所有物に対して彼が有する権利において: すなわち当人が抽象的な意味での天主の礼拝行為に対する(主観的)権利のおいて
b)教父たちの教えによる証明
良い麦と毒麦のたとえ話で、働き手は主人に「毒麦を抜くのを許してください。」と願いますが、これに対して主人は「いや、抜いてはならない。毒麦を抜くついでに良い麦をも抜いてしまってはいけないから。」(マタイ13章29節)と言って諭します。
聖ヨハネ・クリゾストモは、主人のこの返答を異端者に当てはめて説明しています。
「[主は]彼らの口を封じ、臨むままに語る自由を制限し、かつ彼らの奉ずる諸々の誤謬を広める一切の自由を奪うことによって異端者らを抑圧することを禁じておられるのではなく、ただ彼らを殺すことを禁じておられるのです。」(聖マタイ福音書についての説教46)
注意:「主は彼ら[異端者]を殺すことを禁じておられるのです」という聖ヨハネ・クリゾストモの、今引いた言葉を正しく理解しなければなりません。同聖人がこのすぐ前の箇所で述べているように、このように為すことが禁じられるのは、これによって「良い麦をも同時に抜いてしまう」、すなわち正しい者らにつまずきを与える恐れがある場合です。
c)聖トマスの教え(神学大全第2部第2巻第11問題3項)
「異端者は寛容の対象となるべきか否か」(聖なる教会博士はカトリック国にて新しく台頭した異端者らを問題にしています)
「私は答えてこう言わなければならない。異端者については2つの点を考慮に入れなければならない。第1に彼ら異端者の側に関する点を、第2に教会の側に関する点をである。異端者の側について言うならば、彼らには、それによって彼らがただ教会から破門の罰をもって切り離されるだけでなく、さらには世間から死をもって除外されるのにも値する者となるところの罪が認められる。なぜなら、霊魂の生命がそこから来るところの信仰を腐敗させることは、地上的生活の用に具する貨幣を偽造するよりもはるかに重大だからである。・・・(中略)・・・教会の側から見るならば、[教会には]道を誤る者らの改心[を育む]ための憐れみがある。それゆえ教会は直ちに断罪することを避け、使徒聖パウロが教えているように(ティトへの手紙3章15節)、一度か二度戒めた後に[それでも悔い改めない場合]、はじめて断罪するのである。しかるに、もし当の者が頑強に心を変えることを拒むならば、教会は彼が改心する可能性に見切りをつけ、他の者たちの救霊を確保するべく、彼を破門の宣告をもって教会から切り離すのである。しかる後、この世から死によって切り離されるために、世俗的権威による裁判に彼を委ねるのである。」
注意:世俗的権力の力を借りることに関するカトリックの教えは、この後で説明します。頑強な異端者に対して課される死刑について言うならば、これは異端を生み出した張本人に限られるべきであると思われます。また、近年の著者の中には、死刑の罰は一旦捨てた異端に再度転向する者に限定されるべきだと主張が見られます。しかるに聖トマスの教説は、かかる緩和策を受け容れていないように思われます。
d)その子らである信徒の信仰を不信仰の伝染から守るための教導権及び教会の実践
◆ 宗教的誤謬およびその伝播は教会ならびに人々の霊魂とってきわめて著しい害悪です。実際、長年かけて築き上げたものを短期間のうちに分断し崩壊させるのは容易なことです。「この世の子らは、光の子らよりも巧妙」です。(ルカ16章8節)したがって、教会は常に、その子ら[である信徒が]誤謬に追従するのを阻むことを、その主要な義務の一つに数えてきました。また、国家の権力に対して、誤った宗教の外的表明を抑圧、制限するよう要請することを、そのまさに最低限の権利と見なしてきました。ベルナール神父が述べているように(前掲書 p.420)、この場合教会は「自らに属する者たちの信仰を保護するために、自らに属さない者たちに介入する権利を自らに帰するのです。これは、きわめて微妙な役回りであり、それはこのように振る舞うことによって既存の秩序(自然法)を覆しても、互いに異なった権力(霊的な権力と世俗的な権力)を混同してもならない、という点からして特にそうです。しかし、同時にこれは著しく有益な役回りです。なぜならこれを通して[教会が]追求するのは、真の自由と信仰の潔白さに他ならないからです。」
よりつまびらかに言うと、教会がかかる役回りをとおして意図するのは不信仰のつまずきに対して(ここで言う「つまずき」は神学的な意味、すなわち罪の誘因となる事物)、もしくは異教徒の行なう自然法に反した慣習に伴うつまずきに対して信徒を保護することです。
◆ 教会が自らの子らに対して直接的に(しかるに不信仰者に対しては間接的に)信仰の保護のために正当な権利として主張するこの種の介入は、実際の、しかるに[それを受ける者にとって]有益な強制を必然的に伴います。ここで再度ベルナール神父の説明を引くことにします。
「教会は熱誠を伴う配慮をもって私たち[信徒]を真の信仰を持たぬ者らとの接触ならびに不信仰の感染の危険から守ります。教会はこの任務を、主[キリスト]がその権限の下に置いた一切の手段をとおして完遂します。」
「このために教会は、信徒を種々の義務と制裁の網でいわば取り巻くのです。不信仰者は、これを見て驚くかも知れません。しかるに、信仰者はこれについて喜ぶべきです。なぜなら、これは実際のところ安全のための網であり、有益な保護だからです。信仰は強制されず、また剛腕によって保たれるものでもないため、教会が常に説得を他の何よりもまず第一に手段として用いるのは、無論のことです。教会が自らの取り得るその他の手段を用いるのは、必ず説得を基盤とし、また説得を見越してのことです。しかしながら、多くの状況において説得が全く無力で効果を有さないため、教会は一定の強制をその対象となる人々、時、および場所に合わせて、つけ加えるすることを慣例としています。教会が今日、その子らを中世にしたのと同じ仕方で遇しない、というのは明らかなことです。[しかるに]当代においても、教会は信仰の保護に関する一切のことにおいて、特定の国で他の国よりも一層厳しい規律を定めています。」(前掲書 p.419)
以下に教会が信徒の信仰を守るために用いる実際的手段および教会法による制裁を上げます。
―― 信仰宣言、忠誠の宣誓、および反近代主義の宣誓が聖職、学位および神学の教授職と教会位階を得ようとする者に義務として課されています。
(1917年の教会法[令集] 第1406-1407項;聖ピオ十世教皇回勅『パッシェンディ』)
―― 出版認可(「Imprimatur」)および禁書目録 (第1384-1405項)
―― 棄教者、異端者ならびに異端を助長する者に課される破門および教会の礼式にしたがった埋葬を施される権利の剥奪
―― カトリック以外の礼拝行為に参加することの禁止(第1060および1070項)
なぜなら混宗結婚は、それ自体の本質のために、また実際のところほとんど常に、
カトリック教徒である配偶者および子供の信仰の危険となるからです。
この規定に反する者に対する罰則(第2319項)
非カトリックないしはカトリックに対して中立の学校に通うことの禁止(免除許可[dispense]が与えられている場合を除く)
結論: 教会がその子らである信徒に対して、また間接的にその他の人々に対して、信徒の信仰の保護のために正当に行使することのできる有益な強制の恩恵について、あらためて強調する必要はないでしょう。
e)教会による承認を受けた慣行、例えばローマの諸皇帝が異教の礼拝に対してとった行動。
「コンスタンチウス・アウグストゥス皇帝のプレトリウム知事、タウルスへの勅令。全ての場所および全ての町において[異教の]寺院が即座に閉鎖され、かかる場所へ近づく機会を奪うことによって、邪な者らのことごとくに罪を犯す自由が拒絶されるよう命ずる。なんとなれば余は皆が[異教の]犠牲に与さぬことを望むからである。もし万が一誰かがかかる事を為そうとするならば、正義の剣によって殺されなければならない。」
(テオドシウス皇帝の勅令集 『異教徒、犠牲ならびに寺院について』第14巻10, 4)
3-最後に、宗教的誤謬を正当に抑圧または制限するために行使され、しかもこれを被る者に熟慮を促し、彼らが軽んずるところの真理を学ぶよう駆り立てる、という有益な効果を持つ強制[拘束]ないしは単なる差別は、公正かつ合法的です。ということを指摘しておかなければなりません。
a) J.Tixeront著 " Histoire des dogmes " (Gabalda, 1931年発行 vol.II p.994) 中で解説される同問題についての聖アウグスチヌスの見解が提示されています。
「実際のところ、聖アウグスチヌスは当初、異端者および離教者に真の信仰をたとえ外的なかたちとしてであれ表明することを強制するべきだとは考えていませんでした。これらの人々を偽善者にすることをよしとしなかったからです。書簡第93、17節において、彼はそのことをはっきりと書いています。更に真実なのは、聖アウグスチヌスは離反者達に反対する処罰として、死刑やより怖ろしい刑罰をやり過ぎとして常に脇に除いていたことです。・・・(中略)・・・しかし、他方で彼はドナチストやキルクムケリオーネスの暴動を懲罰するために厳しい対応を正当だと認めたのみならず、異端者や離教者としてその他の反逆者たちに対して穏やかな刑罰(罰金、投獄、国外追放)を与えることも認めていた。・・・(中略)・・・パルメニアーヌス書簡への反駁は西暦400年のもので、この点に対して特に詳しく書かれています。その中で著者聖アウグスチヌスは皇帝たちが、偶像崇拝者たちを処罰し、毒を盛る人々を処罰するのと同じ理由で、偽りの教義を説く者たちを処罰する権利を持って当然であることを主張しています。これらの対応は、その悪に染まった者たちをして再考させ、悪人たちの抑圧的な暴力に対して弱い者を守るという目的と効果を持たせるためです。」
b) フランス王ルイ14世が1661年から1671年までフランス内のプロテスタントたちに対してとった態度は次の通りです。
「わが子よ、私の王国からユグノーたちを少しずつ少なくさせるための最善の策は、第1に、彼らに反対して新しい厳しさで圧迫するなどということを全くしないこと、ユグノーたちが私の前任のフランス王たちから受けたものをそのまま維持させること、ただし彼らにはそれ以上のことを与えず、正義と福祉とが許すぎりぎりの範囲にそれを止めておくことであったと思う。しかし私だけに依存する特別の恵みについては、私は彼らに何も与えないと決意し、以来それを守ってきた。しかしそれは善良さからであって苦々しさからではなかった。何故ならそれによって時々彼ら自身が自らすすんで、そして暴力によるのではなく、彼らが私のその他の全ての国民たちと共通であることにより受けるより大いなる利益をすすんで欠くに充分な本当に良い理由なのかどうかを考えさせるためであった。」(『王太子養成のためのルイ14世の追憶』(Memoires de Louis XIV pour l'instruction du Dauphin, Ed. Dreyas, II, p. 456, cite par Jean Guiraud, Histoire partiale, Histoire vraie, Beauchesne, III, pp. 77-78.) ルイ14世はこの賢明な穏健さに留まらず、1685年に極めて不賢明な失策を犯した。しかしだからといって彼の初期の決意の正当さを否定することにはなりません。
結論:
1.宗教に関する事柄について霊的な、そしてこの世的でさえありうる正しい強制が存在する余地があります。その目的は、信徒たちの信仰を誤謬或いは不道徳から守ることです。
2.宗教に関する事柄について、「強制されない権利」の名において「妨害されない権利」を主張することは、ふさわしくない欺瞞です。
3.宗教に関する事柄について「妨害されない権利」を主張することは、20世紀の間教会が教えていた神学と実践していたやり方を消し去ろうと望むことです。
4.最後に、「強制されない権利」の説明においてさえ、これをあまりにも絶対視しないことがふさわしいのです。それがたとえ信徒たちが不信仰と不道徳を目前にした時に感ずる自然の嫌悪感から来る社会的な差別であったとしても、何らかの間接的な強制は、道を迷う人々にとってとても有益なものであるからです。
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●教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
2-ある人が誤った宗教を受け容れ、これを表明すること、もしくはその誤謬を広めるのを妨げることは許されている
これこそ今日等閑に付され、しかるに前項とまったく同様にカトリック教理に属する真理です。この真理は理性によって、また教父らと教会の教導権および慣例によって、さらには教会の承認を受けてきたキリスト教諸侯の慣行[慣習]によって、そして最後に「普遍的教会博士」である聖トマスの教えるところによって立証されます。
a) 理性による証明
誤謬ならびにその喧伝(けんでん)には権利がありません。
したがって、ある人が宗教的誤謬に固執する、ないしはこれを表明するのを妨げるのは正当なことです。ピオ12世教皇の言葉を借りて言えば、このように振る舞うことによって「当の人を、彼が権利を有するところのいかなる所有物においても、またこれらの所有物に対して彼が有する権利においても、侵害することにはなりません。」
(眼下の外科手術の専門家への訓話 [1956年5月14日] Documents 1956 p.264)
同教皇は、別の問題についてこのように述べたのですが、これは私たちが今取り扱っている問題に等しく該当します。
-彼が権利を有するところのいかなる所有物においても: つまり宗教、すなわち真の宗教を天主の意志に従って表明することにおいて
-これらの所有物に対して彼が有する権利において: すなわち当人が抽象的な意味での天主の礼拝行為に対する(主観的)権利のおいて
b)教父たちの教えによる証明
良い麦と毒麦のたとえ話で、働き手は主人に「毒麦を抜くのを許してください。」と願いますが、これに対して主人は「いや、抜いてはならない。毒麦を抜くついでに良い麦をも抜いてしまってはいけないから。」(マタイ13章29節)と言って諭します。
聖ヨハネ・クリゾストモは、主人のこの返答を異端者に当てはめて説明しています。
「[主は]彼らの口を封じ、臨むままに語る自由を制限し、かつ彼らの奉ずる諸々の誤謬を広める一切の自由を奪うことによって異端者らを抑圧することを禁じておられるのではなく、ただ彼らを殺すことを禁じておられるのです。」(聖マタイ福音書についての説教46)
注意:「主は彼ら[異端者]を殺すことを禁じておられるのです」という聖ヨハネ・クリゾストモの、今引いた言葉を正しく理解しなければなりません。同聖人がこのすぐ前の箇所で述べているように、このように為すことが禁じられるのは、これによって「良い麦をも同時に抜いてしまう」、すなわち正しい者らにつまずきを与える恐れがある場合です。
c)聖トマスの教え(神学大全第2部第2巻第11問題3項)
「異端者は寛容の対象となるべきか否か」(聖なる教会博士はカトリック国にて新しく台頭した異端者らを問題にしています)
「私は答えてこう言わなければならない。異端者については2つの点を考慮に入れなければならない。第1に彼ら異端者の側に関する点を、第2に教会の側に関する点をである。異端者の側について言うならば、彼らには、それによって彼らがただ教会から破門の罰をもって切り離されるだけでなく、さらには世間から死をもって除外されるのにも値する者となるところの罪が認められる。なぜなら、霊魂の生命がそこから来るところの信仰を腐敗させることは、地上的生活の用に具する貨幣を偽造するよりもはるかに重大だからである。・・・(中略)・・・教会の側から見るならば、[教会には]道を誤る者らの改心[を育む]ための憐れみがある。それゆえ教会は直ちに断罪することを避け、使徒聖パウロが教えているように(ティトへの手紙3章15節)、一度か二度戒めた後に[それでも悔い改めない場合]、はじめて断罪するのである。しかるに、もし当の者が頑強に心を変えることを拒むならば、教会は彼が改心する可能性に見切りをつけ、他の者たちの救霊を確保するべく、彼を破門の宣告をもって教会から切り離すのである。しかる後、この世から死によって切り離されるために、世俗的権威による裁判に彼を委ねるのである。」
注意:世俗的権力の力を借りることに関するカトリックの教えは、この後で説明します。頑強な異端者に対して課される死刑について言うならば、これは異端を生み出した張本人に限られるべきであると思われます。また、近年の著者の中には、死刑の罰は一旦捨てた異端に再度転向する者に限定されるべきだと主張が見られます。しかるに聖トマスの教説は、かかる緩和策を受け容れていないように思われます。
d)その子らである信徒の信仰を不信仰の伝染から守るための教導権及び教会の実践
◆ 宗教的誤謬およびその伝播は教会ならびに人々の霊魂とってきわめて著しい害悪です。実際、長年かけて築き上げたものを短期間のうちに分断し崩壊させるのは容易なことです。「この世の子らは、光の子らよりも巧妙」です。(ルカ16章8節)したがって、教会は常に、その子ら[である信徒が]誤謬に追従するのを阻むことを、その主要な義務の一つに数えてきました。また、国家の権力に対して、誤った宗教の外的表明を抑圧、制限するよう要請することを、そのまさに最低限の権利と見なしてきました。ベルナール神父が述べているように(前掲書 p.420)、この場合教会は「自らに属する者たちの信仰を保護するために、自らに属さない者たちに介入する権利を自らに帰するのです。これは、きわめて微妙な役回りであり、それはこのように振る舞うことによって既存の秩序(自然法)を覆しても、互いに異なった権力(霊的な権力と世俗的な権力)を混同してもならない、という点からして特にそうです。しかし、同時にこれは著しく有益な役回りです。なぜならこれを通して[教会が]追求するのは、真の自由と信仰の潔白さに他ならないからです。」
よりつまびらかに言うと、教会がかかる役回りをとおして意図するのは不信仰のつまずきに対して(ここで言う「つまずき」は神学的な意味、すなわち罪の誘因となる事物)、もしくは異教徒の行なう自然法に反した慣習に伴うつまずきに対して信徒を保護することです。
◆ 教会が自らの子らに対して直接的に(しかるに不信仰者に対しては間接的に)信仰の保護のために正当な権利として主張するこの種の介入は、実際の、しかるに[それを受ける者にとって]有益な強制を必然的に伴います。ここで再度ベルナール神父の説明を引くことにします。
「教会は熱誠を伴う配慮をもって私たち[信徒]を真の信仰を持たぬ者らとの接触ならびに不信仰の感染の危険から守ります。教会はこの任務を、主[キリスト]がその権限の下に置いた一切の手段をとおして完遂します。」
「このために教会は、信徒を種々の義務と制裁の網でいわば取り巻くのです。不信仰者は、これを見て驚くかも知れません。しかるに、信仰者はこれについて喜ぶべきです。なぜなら、これは実際のところ安全のための網であり、有益な保護だからです。信仰は強制されず、また剛腕によって保たれるものでもないため、教会が常に説得を他の何よりもまず第一に手段として用いるのは、無論のことです。教会が自らの取り得るその他の手段を用いるのは、必ず説得を基盤とし、また説得を見越してのことです。しかしながら、多くの状況において説得が全く無力で効果を有さないため、教会は一定の強制をその対象となる人々、時、および場所に合わせて、つけ加えるすることを慣例としています。教会が今日、その子らを中世にしたのと同じ仕方で遇しない、というのは明らかなことです。[しかるに]当代においても、教会は信仰の保護に関する一切のことにおいて、特定の国で他の国よりも一層厳しい規律を定めています。」(前掲書 p.419)
以下に教会が信徒の信仰を守るために用いる実際的手段および教会法による制裁を上げます。
―― 信仰宣言、忠誠の宣誓、および反近代主義の宣誓が聖職、学位および神学の教授職と教会位階を得ようとする者に義務として課されています。
(1917年の教会法[令集] 第1406-1407項;聖ピオ十世教皇回勅『パッシェンディ』)
―― 出版認可(「Imprimatur」)および禁書目録 (第1384-1405項)
―― 棄教者、異端者ならびに異端を助長する者に課される破門および教会の礼式にしたがった埋葬を施される権利の剥奪
―― カトリック以外の礼拝行為に参加することの禁止(第1060および1070項)
なぜなら混宗結婚は、それ自体の本質のために、また実際のところほとんど常に、
カトリック教徒である配偶者および子供の信仰の危険となるからです。
この規定に反する者に対する罰則(第2319項)
非カトリックないしはカトリックに対して中立の学校に通うことの禁止(免除許可[dispense]が与えられている場合を除く)
結論: 教会がその子らである信徒に対して、また間接的にその他の人々に対して、信徒の信仰の保護のために正当に行使することのできる有益な強制の恩恵について、あらためて強調する必要はないでしょう。
e)教会による承認を受けた慣行、例えばローマの諸皇帝が異教の礼拝に対してとった行動。
「コンスタンチウス・アウグストゥス皇帝のプレトリウム知事、タウルスへの勅令。全ての場所および全ての町において[異教の]寺院が即座に閉鎖され、かかる場所へ近づく機会を奪うことによって、邪な者らのことごとくに罪を犯す自由が拒絶されるよう命ずる。なんとなれば余は皆が[異教の]犠牲に与さぬことを望むからである。もし万が一誰かがかかる事を為そうとするならば、正義の剣によって殺されなければならない。」
(テオドシウス皇帝の勅令集 『異教徒、犠牲ならびに寺院について』第14巻10, 4)
3-最後に、宗教的誤謬を正当に抑圧または制限するために行使され、しかもこれを被る者に熟慮を促し、彼らが軽んずるところの真理を学ぶよう駆り立てる、という有益な効果を持つ強制[拘束]ないしは単なる差別は、公正かつ合法的です。ということを指摘しておかなければなりません。
a) J.Tixeront著 " Histoire des dogmes " (Gabalda, 1931年発行 vol.II p.994) 中で解説される同問題についての聖アウグスチヌスの見解が提示されています。
「実際のところ、聖アウグスチヌスは当初、異端者および離教者に真の信仰をたとえ外的なかたちとしてであれ表明することを強制するべきだとは考えていませんでした。これらの人々を偽善者にすることをよしとしなかったからです。書簡第93、17節において、彼はそのことをはっきりと書いています。更に真実なのは、聖アウグスチヌスは離反者達に反対する処罰として、死刑やより怖ろしい刑罰をやり過ぎとして常に脇に除いていたことです。・・・(中略)・・・しかし、他方で彼はドナチストやキルクムケリオーネスの暴動を懲罰するために厳しい対応を正当だと認めたのみならず、異端者や離教者としてその他の反逆者たちに対して穏やかな刑罰(罰金、投獄、国外追放)を与えることも認めていた。・・・(中略)・・・パルメニアーヌス書簡への反駁は西暦400年のもので、この点に対して特に詳しく書かれています。その中で著者聖アウグスチヌスは皇帝たちが、偶像崇拝者たちを処罰し、毒を盛る人々を処罰するのと同じ理由で、偽りの教義を説く者たちを処罰する権利を持って当然であることを主張しています。これらの対応は、その悪に染まった者たちをして再考させ、悪人たちの抑圧的な暴力に対して弱い者を守るという目的と効果を持たせるためです。」
b) フランス王ルイ14世が1661年から1671年までフランス内のプロテスタントたちに対してとった態度は次の通りです。
「わが子よ、私の王国からユグノーたちを少しずつ少なくさせるための最善の策は、第1に、彼らに反対して新しい厳しさで圧迫するなどということを全くしないこと、ユグノーたちが私の前任のフランス王たちから受けたものをそのまま維持させること、ただし彼らにはそれ以上のことを与えず、正義と福祉とが許すぎりぎりの範囲にそれを止めておくことであったと思う。しかし私だけに依存する特別の恵みについては、私は彼らに何も与えないと決意し、以来それを守ってきた。しかしそれは善良さからであって苦々しさからではなかった。何故ならそれによって時々彼ら自身が自らすすんで、そして暴力によるのではなく、彼らが私のその他の全ての国民たちと共通であることにより受けるより大いなる利益をすすんで欠くに充分な本当に良い理由なのかどうかを考えさせるためであった。」(『王太子養成のためのルイ14世の追憶』(Memoires de Louis XIV pour l'instruction du Dauphin, Ed. Dreyas, II, p. 456, cite par Jean Guiraud, Histoire partiale, Histoire vraie, Beauchesne, III, pp. 77-78.) ルイ14世はこの賢明な穏健さに留まらず、1685年に極めて不賢明な失策を犯した。しかしだからといって彼の初期の決意の正当さを否定することにはなりません。
結論:
1.宗教に関する事柄について霊的な、そしてこの世的でさえありうる正しい強制が存在する余地があります。その目的は、信徒たちの信仰を誤謬或いは不道徳から守ることです。
2.宗教に関する事柄について、「強制されない権利」の名において「妨害されない権利」を主張することは、ふさわしくない欺瞞です。
3.宗教に関する事柄について「妨害されない権利」を主張することは、20世紀の間教会が教えていた神学と実践していたやり方を消し去ろうと望むことです。
4.最後に、「強制されない権利」の説明においてさえ、これをあまりにも絶対視しないことがふさわしいのです。それがたとえ信徒たちが不信仰と不道徳を目前にした時に感ずる自然の嫌悪感から来る社会的な差別であったとしても、何らかの間接的な強制は、道を迷う人々にとってとても有益なものであるからです。
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