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ピオ十二世教皇の回勅“AD SINARUM GENTEM ”(支那の国民に対し)を推薦します

2007年06月22日 | 共産主義
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ピオ十二世教皇の1954年10月7日発布の回勅“AD SINARUM GENTEM ”(支那の国民に対し)を推薦します。

 これを読むために、次のような歴史的経過を頭に置いて下さい。

◆ 中共のカトリック教会迫害

 1949年に「中華人民共和国」が成立。共産主義の中国では、毛沢東がキリスト者を「帝国主義のスパイ」と見なして教皇大使代理(internuncio)と外国人宣教師たちを全て国外追放に処した(その当時、合計約3000名)。

 1951年、「三自」運動を開始し、中国大陸に残る100の司教区にいる2500名の中国人司祭と400万名の信徒たちで三自教会を設立しようとした。

 「三自運動」とは、プロテスタント起源(中国基督教協進会の主席呉耀宗を中心とする)の中共政府との協力運動であり、≪三自運動≫の教会につく者のみが、真に祖国を愛する者であるとの誤った主張。≪国民的≫教会を設立する事を目論んでいる。「三自」というのは自治(中国人が自分で教会を管理運営する。司牧権の独立)、自養(教会運営資金は自分で稼ぎ、外国宣教団からもらわないで、金銭面でも自分の力で教会を維持する。経済的独立)、自伝(中国人のみが自分たちの布教活動を行い宣教する。教導権の独立)ということであり、「三自運動」組織は人民団体として、中共政府の指導のもとに革命と建設に協力する。こうして中国ではキリスト教会は「三自愛国運動」という政府管理下の組織だけが活動を公認された。
 中国の天主教会(カトリック教会)では、支那の教会の司牧、経済、宣教に関する独立を目ざして、一人の司祭と約四十人の信徒の集団を端に、「三自」革命運動が始まった。約5年間の運動の後、三千人の支那人司祭の中、約三十人が「三自運動」に荷担したが、大部分の支那人司教、司祭及び信者達は監獄にあって迫害に耐えた。

 ピオ12世教皇様は、1951年4月9日、教皇様の任命(或いは追認)なき全ての司教たちを、その国籍と典礼様式を問わず、全て自動破門( ipso facto excommunication )とする法令を発布した。それ以前の制裁は、聖職停止だけ。(1917年の教会法「聖座を許しを与えるまで法自体によって聖職停止になる」(Ipso jure suspensi sunt, donec sedes Apostolica eos dispensaverit. Canon 2370, CIC 1917、1983年の教会法もこれを踏襲して、聖座に許しが限定された自動破門 excommicatio latae sententiae (Canon 1382, CIC 1983))

 また、同時にこの教皇の許しなき司教聖別に関わる全ての司教たちをも同じ罰で処罰することにした。1952年1月18日の使徒書簡( Cupimus in primis )で、ピオ12世は中国人たちが共産主義者の迫害に抵抗するように励ました。そして怖ろしい迫害が始まった。

 1954年10月7日、ピオ十二世は、回勅「アド・シナールム・ジェンテム“Ad Sinarum Gentem”(支那の国民に対し)」を発表。

回勅「アド・シナールム・ジェンテム“Ad Sinarum Gentem”(支那の国民に対し)」【英語版】


 1957年、中共は「三自運動」の延長線上に、中国天主教愛国協会を設立。1958年6月29日、ピオ12世は新しい回勅「アド・アポストロールム・プリンチピス(Ad apostolorum principis)を発表し、「愛国協会」は離教状態にあること、そしてカトリック信徒はそれに加わってはいけないことを命じた。何故なら、彼らはキリストの真の教会とは別の「教会」を捏造したからだ。

 1958年12月の枢機卿会議で、ヨハネ二十三世はこの排斥を繰り返した。


◆ この回勅の中で、ピオ十二世教皇様は次の3点を指摘しています。

 ≪司牧権の独立≫

(1)外国人宣教師らは、世俗的理由に動かされているのではなく、キリスト教の教理の光に依て照らし、キリスト教的道徳を以って教育し、超自然的愛を以って助ける事以外何も要求せず、またそれ以上に何か良い事があるとも考えていない。

(2)支那自国民の聖職者が増加し外国人宣教師の共同活動を必要としなくなった暁に於ても、キリストの地上の代理者たる教皇に、彼が信仰及び道徳に関する事柄には密接に繋がっているが故に、全く従わねばならない。

(3)天主の御旨に依て一般人或は地上の権力が教階制度の諸権利と構成を侵す事が禁じられている(トリエント公会議 Sess. XXIII, De ordine cann. 2-7; 及びヴァチカン公会議 Sess. IV; C. I. C. Cann. 108と109参照)。


 ≪経済的独立≫

(1)教皇は、支那の信者自身に依てなされる援助が支那のカトリック教会の必要を満たすに足るようになり得る事を切に希望している。

(2)諸外国に於いて集められた寄附は、キリスト教的愛から起こったもの。この愛に於いて、或は兄弟の契を以て互に結合もし、或は聖なる愛に動かされて、各人の力の限り我等の贖主の御国の拡張の為、あくまで挺身しなければならない。


 ≪教導権の独立≫

(1)キリスト教の教理に於ても≪独立≫ということはおかしい。イエズス・キリストによる天与の福音を、各国に違ったように解釈し得ないからだ。

(2)牧者は発明家でも創始者でもなく、只単に、権威の番人であり、天主より定められた伝達者であるに過ぎない。人間精神の所産たる教理の教師ではなく、主キリスト御自身が教え給い、しかして己が使徒とその後継者達に教えるよう厳粛に托し給うた御教を、職務上の良心にかけて受け取り、且つそれに忠実に従うべき。


 教会の≪カトリック性≫乃至≪超国家性≫

 ≪三自運動≫とか、その他それに類するものにと連なる危険な諸原理を保持する人々のように、以上説明した事と違って宣言し且つ教える人は、誰しもカトリック者とは考えられない。彼等は自分等の頭の中で捏造した教会、即ち≪三自運動≫の教会につく者のみが、真に祖国を愛する者であるとの誤った主張をしている。力にかけても≪国民的≫教会を設立する事を目論んでいる。しかし、それは、イエズス・キリストに依って築かれた真の教会、且つ国民を包括する普遍性乃至は≪カトリック性≫を否定しますが故に、それは最早カトリック教会ではない。


◆ この回勅をお読みになった後に、「カトリック教徒たちは中国における2008年オリンピックから閉め出されるべきなのか?」をもお読みになって、中共の迫害に苦しむカトリックの信徒の方々のためにお祈りをお願い致します。


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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 自由な国家における自由な教会?

1-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会の自由は、教会と公権および全ての社会秩序との関係の根本原理である。」

【疑問点 18】 「教会の自由」という言葉をとおして、第二バチカン公会議は、「信教の自由を保護する政治体制」においてカトリック教会のみならず、他の諸宗教にも保証される自由を意味しているのか。もしそうであるとすれば、第二バチカン公会議は、かかる「教会の自由」が、教会と国家との関係を律する「根本原理」であることを、しかも単に教会を抑圧する国家という特殊な状況にかぎらず、あらゆる状況に適用する原則としての根本原理であることを教えているのか。もしそうなら、この教説は聖書ならびに諸教父、諸教皇の教えと合致するのか。なぜなら、この[伝統的]教えによれば、教会と国家の関係を律すべき根本原理は、「充全な自由」、すなわちキリストが正当に国家社会の王であるのと同様、教会が女王として君臨するところの自由———かかる自由を教会はたえず要求するのだが——したがって、国家(civile)の法制をキリスト教的、カトリック的原理によって「形相付け」し、浸透する自由に他ならないからである。

 実際、第二バチカン公会議の説くこの教えが、ピオ9世、レオ十三世両教皇による「自由な国家における自由な教会」をモットーにしたカトリック・リベラル派の排斥と矛盾するのではないかと正当に問うことができる。次に挙げる引用文は、まさに両者が矛盾背反することを示している。

「彼(キリスト)は統治しなければならない。」(コリント前書15章25節)

「私は、忠実な友としてあなたに願います。(中略)天主の法の下に生き、あなたの意志をことごとく天主の御旨に従わせなさい。あなたが天主の御旨にそって統治するとき、はじめてあなたはあなた自身にとって有益なかたちで統治するのです。多くの悪い王のように、教会が、奴隷が主人に対するが如く、あなたの手に委ねられたと思いこんではなりません。教会は、その弁護者、かつ守護者に対するが如くあなたに託されたのです。この世の中で、教会の自由ほど天主の御目に尊いものはありません。天主は、その花嫁[である教会]が奴隷ではなく、自由であることをお望みになります。子が母親に対する敬意をもって教会を処遇する者たちこそ、自らが教会の子、天主の子であることを証明するのです。」
(聖アンセルモ、エルサレム王ボドアンへの手紙 PL CLIX, 206)

「君主の中のある者が、異教徒流の独裁政治の専制的な処し方を捨てきれず、[教会に対する]合法的な保護を早々に抑圧へと化し(中略)、かつキリスト教的精神にそぐわない五剛猛さをもって行動したことは否めないとしても、教会においては、聖ヒラリオや聖マルチノ、聖アタナジオ、聖アンブロジオならびにそれに類した多くの信仰の人、温かい心情を持った人が輩出し、これらの暴君にキリスト教的柔和の精神を思い起こさせ、剣による使徒職を放棄させ、宗教上の信条は決して暴力によって課されるべきではないことを宣言し、そして君主らの迫害にも関わらず広まったキリスト教は、同じく君主らの優遇なしに存続、発展することができ、かついかなる専政にも臣従するべきでないことを公言したという事実を忘れてはなりません。私たちは、信仰および母なる教会の自由のために闘ったこれらの気高い英雄の発した一つ々々の声明を知っており、これを熟慮してきました。しかしながら、行き過ぎ、権利の濫用に対して抗議し、また時期外れで不賢明な、[旧体制への]回帰―これは時として聖職者特権の原則ならびに規範を侵害するものでした―を弾劾したこれらのカトリック教会博士たちの誰一人として、キリスト教の真理を公に表明し、これに自らの行動および制度をしたがわせることが諸国民、ならびにその首長の義務であることを疑いませんでした。彼らはまた、諸国家および国家首長の義務となるところには、公然の不敬神としての性格を帯び、かつ世俗的ならびに宗教的社会の只中に混乱と無秩序とを引き起こす不当な侵害を、時代および人々の性向に応じて予防的、あるいは抑圧的な法規によって禁止することをもがふくまれることを、夢にも疑いませんでした。」
(ルイ・エドゥアルド・ピ枢機卿 「現今の社会における主要な誤謬についての司教会議 第三訓話」Œuvres V p.177-178)

「実際、あなたたちの国(=アメリカ合衆国)では、国家の良好な憲法のためにいかなる法の束縛によっても縛られず、慣習法によって侵害行為から守られている教会は・・・何らの障害無しに存続し、行動する自由を確かな形で獲得したのでした。上記のことは全て正確な事実です。しかしながら、ここで一つの誤りに陥らないように注意しなければなりません。すなわち、教会にとっての最良の状態がアメリカにおいてそれが与っているところの状態である、或いはまた教会と国家との利害を分離・分断することが常に許され、かつ有益である、とする誤りです。・・・教会はもしもそれが法律上の優遇と公権の保護とを得るならば、はるかに多くの実りを生み出すでしょう。」
(レオ十三世、回勅『ロンジクァ・アチェアーニ』 Actus IV, p. 163-165)

「毎年くり返されるこの[王たるキリスト]の祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の礼拝と服従を示さねばならないことを、全ての国々に思い出させるでしょう。(中略)キリストの王としての権威は、全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上、それは当然のことです。


2-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、また全ての公権の前で、自由を要求する。」

【問題点 5】 第二バチカン公会議は、キリストが「天と地における」(マテオ 28章18節)その普遍的全能のゆえにご自分の教会にお与えになった神的掟、全ての民、すなわち個人のみならず、諸々の民ならびに国家を、まさに国家としてこれを教え、洗礼を授け、キリストの法に従わせるという掟から帰結すべき諸々の実際的結論を、しかるべく導き出しているのか。(例えば、カトリック教を国家の宗教として法的に認知すること。)


3- 『信教の自由に関する宣言』 13
「教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会[=団体] としても、自由を要求する。」

【疑問点 19】 教会が帯びる「完全な社会」としての性格を括弧に入れ、「市民社会における他の諸団体」と同列に置くこの原則は、第二バチカン公会議によって、それ自体として、また全ての場合において有効な原則として保持されているのか。もしそうだとすれば、この原則はカトリック国家において、教会を国家内における他の全ての団体・組織に共通の権利に引き下ろす法律を排斥する教会の教えに相容れるのか。この点に関する教会の教えは、例えば次に引用する文書に如実に示されている。

「司教であるあなたに、フランスにおけるカトリシズムが、この条項[フランス憲法第二8条]によっていかに致命的な傷を被るかを明らかに理解させるために、長々と述べる必要はないでしょう。全ての宗教に見境なく自由を与えること自体によって、真理と誤謬とを混同し、キリストの聖にして汚れのない花嫁、その外では決して救いが得られない教会を、諸々の異端宗派はおろか、[主を]裏切ったユダヤ教と同列に置くことになります。」
(ピオ7世 回勅『ポスト・ディウトゥルナス』PIN 19)

「国家が、今日大いにもてはやされている当の原理[教会と国家の分離]に依拠しているかぎり、教会がいかに不当な地位に置かれているかは、およそ容易に見てとることができます。事実、かかる教説に沿って物事が取りはこばれている所では、カトリック教は国家において、それとは異質な種々の団体・組織と同列に、はてはそれに劣った地位に置かれているからです。教会法は考慮に入れられず、すべての国々、すべての民を教え導く、という命令と使命をイエズス・キリストから受けた教会は、公教育における一切の介入を禁じられています。(中略)要するに、[諸国の首長は]教会を、あたかもこれが完全な社会としての権利ならびに性格を有せず、国家において存在する他の諸団体と同類の組織であるかのように扱っています。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.35-37 / PIN 144)

「現代の病、それは、いわゆる政教分離主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎(うと)んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。」
(ピオ十一世教皇 回勅『クアス・プリマス』Actus II p.83-84 / PIN 552-554)

【疑問点 20】 第二バチカン公会議は共通の権利」を、あらゆる状況を含む絶対的原理として要求しているのか。[第二バチカン公会議は、あらゆる状況を含む絶対的原理として「共通の権利」を要求しているのか。] もしそうだとすれば、かかる論説は、現代最良の神学者の一人、「ローマ的神学者」と呼ばれるレジナルド・ガリグー=ラグランジュ神父が以下に解説するところの教説とどうやって両立することができるのか。

「無論、私たちは信教の自由を起点として、この信教の自由を標榜しつつ、なおかつ真の教会を迫害し、その礼拝行為を禁止する者たちに対して、彼らだけを対象とした方便的な議論を展開することができるでしょう。このような、特定のグループを対象とした議論は正当であり、カトリック教会はこれを蔑ろにせず、かえって自らの権利と自由とを守るためにこれを用います。しかし、この事実から、「信教の自由」が、まさにそれ自体としてカトリック信者により絶対的な仕方で養護され得るということは導き出されません。なぜなら、信教の自由は、それ自体として不条理かつ不敬神なことだからです。実際、真理と誤謬とは、同一の権利を有し得ないのです」。(De Revelatione, Rome-Paris, Ferrari-Gabalda, 1921 t.II p.451)

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?

『信教の自由に関する宣言』 3
「公権の本来の目的は現世的共通善を配慮することにあり、当然市民の宗教生活を認め、奨励しなければならないが、宗教行為を指導または妨害することができると考えるなら、公権の限界を超えていると言わなければならない。」

【疑問点 17 】
 第二バチカン公会議は、具体的にカトリック教国において、教会が他の諸宗教に対しての援助を求めることができない、と教えているのか。たとえそれが、人々の霊魂を誤謬から守るという直接的に、かつ純然たる霊的な目的に即してではなく、同国の公の平和と現世的共通善の枢要的要素としての宗教的統一性を維持するという動機からであったにせよである。もしそうであるとすれば、かかる教説をレオ十三世教皇の次のように明確な言葉づかいで述べている教えと、どうやって相容れることができるのか。
「したがって、国家の首長は(中略)宗教を助長、かつ厚意的待遇をもって保護し、法の保護的権威をもって援助することを自らの主要な義務の一つとしなければなりません。(中略)彼がはかるべき[便宜]の中で第一のものは、それが課す義務をとおして人間が天主へと結ばれるところの宗教の神聖かつ侵すべからざる遵守を尊重させることです。どれが真の宗教であるかを決めることについて言えば、これは困難なことではありません。」

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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 権利、それとも認容?

『信教の自由に関する宣言』 4
「なお宗教団体は自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。」

【疑問点 14】
第二バチカン公会議が諸々の誤った宗教に対して認めている信教、ならびに伝道活動を行う権利は、国家がこれらの宗教ならびにその信者を認容する義務、ピオ十二世が、先に引用した訓話で次のように表現しているところの義務に相当するのか。
「国家の法ならびに強制的条例によって[真理にそぐわない事柄]を妨げないということは、より上位かつ、より広汎な善の利害のために正当化され得る」。

【疑問点 15】
第二バチカン公会議は諸々の誤った宗教とその信奉者が、原則として、またあらゆる状況において、カトリック教国において認容される(当然の)権利を有していると教えているのか。もしそうだとすれば、かかる教理はレオ十三世、およびピオ十二世教皇の教えと相容れるのか。両教皇は、誤謬ならびにそれに追従する者たちに対する認容は、とりわけそれが宗教上の事柄における場合、原則としてではなく、またあらゆる状況下においてでもなく、その存在理由自体によって定められる限度によって制限されるべきものであること、また誤謬、ことに宗教上の誤謬に追従する者たちに施される認容は、決して自由な活動に対する[当然の]権利ではないことを重ねて強調されたからだ。というのも、認容は政治的賢慮と愛徳のみによって付与されるものだからである。

【疑問点 16】
『信教の自由に関する宣言』は、教導的な文書ではなく、「妨げられない権利」という言葉が厳密な意味での権利、すなわち当然認められるべき要求ではなく、単に政治的賢慮と愛徳とが適当なものとして求めるところのものを意味する(舌足らずな表現であることはたしかだが)純粋に法律的な文書なのか。もしそうなら、『信教の自由に関する宣言』は、真に教導的な文書に対して示すべき同意ならびに一切の批判の放棄を、信徒から要求することができるのか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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