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宗教的寛容についての結論

2007年06月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
■ 宗教的寛容のつづきです。

宗教的寛容についての結論:


1- 誤った信教の黙認が国家の義務となるのは、ことがら自体の本性においても、一般的な意味においてでもなく、あくまでも偶然的に、また特殊な状況においてです。

 レオ十三世が『リベルタス』(PIN 221)と『エ・ジウント』(PIN 234)およびシャルル・ペラン紙への書簡で用い、ピオ十二世が『チ・リエーシェ』(PIN 3040)の中で「特殊な状況」ないしは「一定の状況」という言葉づかいで引き継いでいる、この「特定の状況」という表現を念頭に置いておかなければなりません。

 レオ十三世(『ロンジンクァ・オチェアニ』)とピオ十二世(1955年9月7日の第二回歴史科学国際大会への訓話)とは共に、いわゆるこの「特定の状況」というものが、カトリック教国の棄教のために一般的状況になる傾向にあることを良く見て取っていました。それにもかかわらず両教皇はこの「特殊な状況」という表現をそのまま保ちました。何故なら、原則において、また教会の教理のレベルでは、黙認の義務はことがら自体の本性上、あくまで偶然的かつ例外的なものに留まるからであり、これは筆者が先に諸々の形而上学的理由、従って恒久的理由を挙げて示した通りです。

2- 誤った宗教を黙認することは、当の宗教の信奉者に権利を与えることでは断じてないというこの教理を、 レオ十三世(『ロンジンクァ・オチェアニ』)とピオ十二世(1955年9月7日の第二回歴史科学国際大会への訓話)とはっきり教え、恒久的原理によってその根拠を示しています。

「正義の永遠の法に反する権利など一切有り得ないのです。」
(レオ十三世 シャルル・ペラン氏宛の書簡 1875年2月1日付き PIN 3010-3011)

「真理および道徳的法に相応しない事柄は、客観的な見地から言えば、存在し、喧伝および活動を行なういかなる権利も持っていません。」
(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)

3- このように見てくると、"誤った信教に対する寛容が、一方では原則的に国家の義務であり、他方ではこれらの宗教の信奉者が有する権利だ"とする論説、あるいは"国家が原則的に、これこれの区別なく宗教に行動の自由を認めるべきだ"とする、より一般的な論説―――この論説は先の論説を包含するものです―――に、どのような判断を下すべきかは、自ずから明らかとなります。これらの論説は、寛容に関する教導権の教え―――この教えは神学上、カトリック教理と見なされるべきものです―――に真っ向から反するものです。


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■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容

宗教的寛容 :ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』より

2007年06月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

■ 宗教的寛容

 私たちは前章において、寛容一般に関する哲学的原理を説明し、この章で宗教的寛容に関する神学的原理を述べることもできました。ここでは私たちは寛容一般に関すること(哲学的原理)および個別に宗教的寛容に関すること(神学的原理)を全てひとまとめにすることを選びました。さらに「寛容」に関する神学的教理が十全な形で、すなわち教会が「正常」な状態と見なすところ―――カトリック社会ならびにカトリック国家―――に基づいて解説されます。かかる教理が宗教的多元主義もしくは非カトリックの国々においては実際適応し得ないとしても、これがカトリックの教理であることには変わりありません。
 ここで問題とするのは、悪(道徳的悪ないしは宗教的悪)に対する寛容です。
 これに関して、三つの具体的なケースが考えられます。

―――往々にして、寛容は物事の自然なあり方が求めるところのことです。
―――時として、悪に寛容を示してはなりません。
―――時として、逆に悪に寛容を示さなければならない場合があります。

- 物事の自然のあり方としての寛容
 個人の、また社会および教会の善に相反することから、悪は決して寛容の対象と名手はならないようにも思われます。
 しかしながら、悪を常に、あるいは少なくともそれが可能であるごとに阻止するのを望むことは天主による統治の計画に対立することとなり、また自らの生活を到底耐えがたいものとしてしまいます。
 このため、非常にしばしば、寛容は物事の自然本性が求めるところのものなのです。
 しかし、悪に対して寛容の態度を取ることは、決してこれを承認すると言うことを意味しないということを補足しておかなければなりません。
「御摂理において、天主ご自身も、限りなく慈悲かつ全能でありながら、世界中である種の悪が存在することをお許しになります。これは、或いはより大いなる善を妨げないため、或いはまたより大いなる悪が生じるのを妨げるためです。全ての個別的な悪を妨げることのおよそできない人間的権威は、天主の御摂理が正統に(悪を罰することによって)報復をなすべく及ぶところの数多くの事柄を許容し、罰さずにお金がならないのです。」
(聖アウグスティノ『自由決定能力論』第一巻第六章)

「しかしもし、このような状況において共通善のために(そしてこれのみが唯一の正当な理由付けとなりますが)人間の法が悪を容認することができ、またそうするべきであるとしても、それは[当の]悪をそれ自体として認め、あるいは望むことはできず、またそうすべきではありません。なぜなら悪はそれ自体として、善の欠如であり、あらゆる立法者が望み、力の及ぶかぎり保護すべき共通善に対立するものだからです。[ですから]、この点において人間の法は天主を模倣しなければなりません。聖トマス・アクィナスの教えるところに従えば、悪が世界に存在することをお許しになる際に、天主は『悪が為されることを望まれず、さりとてその悪が為されないことも望まれず、ただそれが為されることを許すことをお望みになるのであり、そしてこのことは善いことである。』この天使的博士の表現は、悪の容認についての教理の全体を簡潔なかたちで含んでいます。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 220)

 同様に、ピオ十二世も「悪を積極的なかたちで抑圧することは、常に義務となるわけではない」か否かの問題に対して次のような回答を与えています。

「先に私はまず、天主の権威を引き合いに出しました。天主にとって誤謬ならびに道徳的逸脱を抑圧することは可能かつ容易であるのですが、その天主は或る場合においてかかる悪を自らの限りない完全さと矛盾しない形で『阻止しない』ことをお選びになることができるでしょうか。一定の状況において、天主が、人々にいかなる戒律をお与えず、いかなる義務を課さず、偽りのこと、誤ったことを阻止・抑制するためのいかなる権利も与えない、ということがあり得るでしょうか。現実に目を注いでいるならば、肯定的な回答を出して差し支えないということが分かります。現実は、世界において誤謬と罪とが甚だ多く見受けられることを示しているからです。天主はこれらを排斥します。しかしそれらが存在することをお許しになります。ここから次のように結論することができます。『宗教的および道徳的誤謬は、それが可能な時、常に抑圧されねばならない。これに対して寛容を示すことは、それ自体で不道徳な事柄だからである』という命題は、絶対かつ無条件な意味では妥当しえません。他方、人間的な権威に対しても、天主はこのような絶対的・普遍的な戒律を信仰の領域においても、道徳の領域においても、お与えになりませんでした。そのようなことは、人々の共通の理解においても、キリスト教的良心においても、啓示の源泉にあいても、また公教会の実践においても見いだすことができません。ここでは、当の議論を裏打ちする聖書中の他のくだりは省略して、キリスト御自身が聖福音の中で述べておられることを思い出すに止めましょう。主は毒麦のたとえ話で、次の訓戒をお与えになったのでした。『いや、毒麦をぬき集めようとして、よい麦もいっしょに抜くおそれがある。双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。この世という畑においては、良い麦のために、毒麦も良い麦と共に育つに任せておけ。』従って、道徳的および宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 この最後の一文を通して教皇は、悪を抑圧する義務は、善一般ならびに社会の共通善の増進・保存という、より上位の原理に従属するものであるということをいわんとしているのです。後に示すように、この原理こそが寛容の正当性の根拠たり得るのです。

- 不寛容(ないしは抑圧)の義務

(a)  寛容と抑圧、この二つのどちらが優勢を占めるべきでしょうか。先に述べたことから、悪を抑圧する義務は一般的な仕方でかされることではなく、かえってただ一定の状況においてのみ適応するということが帰結します。
 他方、後ほど詳述するように、寛容の義務もまた、一定の状況においてのみ適応します。すると、抑圧の原理と寛容の原理とは、原理の序列において同等の地位を占めるということになるのでしょうか?
 形而上学から導き出される次の詳細な補足説明が示す通り、実際には全くそうではありません。
 道徳的な悪(もしくは誤謬)に直面した場合、(この悪というものの持つ特性に鑑みて)、本来(=ここでは「それ自体においては」という意味で、対応処置から生じてくる影響・結果などを取捨し、ただ純然に「悪」ということ)取られるべき態度は抑圧―――たとえこれが一般的義務でもなく、至高の原理でもないとしても―――であり、他方で寛容は、これが義務として求められるのは、偶然的な仕方(per accidens)においてのみです。この理由は簡単です。悪はそれ自体として常に悪、つまり或る特定の善の欠如であり、従って、欲求の対象ではなく、かえって逃避の対象或いはもし可能であれば抑圧の対象となります。また悪が「より小さな悪」となり、この意味において一つの善となるのは、ただ偶然的にでしかありません。従ってこの場合、当の悪は寛容によってこれを許容することによって回避しようとする、より甚だしい悪に比す限りにおいて善であるに過ぎないからです。従って、かかる悪が欲求の対象ではないにしても、少なくとも寛容の対象となるのは偶然的なことでしかありません。

(b) 抑圧の義務を課する状況
 どのような場合に、またいかなる権威をもって悪は抑圧されねばならないのでしょうか。
―――家庭においては、子供たちに真理を知らしめ、諸々の徳を獲得させることが関係してくるたびごとに、悪の抑圧が両親にとって、子供の教育上の義務となります。しかしながら、思春期の子供の場合、教育が良い結果を生むためには、これが自由の修練となる(=選択肢として提起されること)必要があり、しかるにこれはその性質上、抑圧よりも自己習得への呼びかけを促します。
―――教会においては、信徒の信仰ないしは聖寵の命が危険にさらされるたびごとに、不寛容の態度を取ることが義務になります。
―――最後に、世俗的社会においては、道徳的悪の抑圧が国家の義務となるのは、それによって国家がより良く共通善を保証できる場合です。また国家は、保証すべき共通善のため、あるいは教会に対する奉仕的役割のために、それぞれ国家の善、ないしは教会および人々の霊魂の善益を促進するために、宗教に関する誤謬を抑圧することが義務となります。

-寛容の義務、特に宗教的寛容

(a)原則:
 国家は寛容がより大きな善の促進に役立ちうる場合、常に悪または誤謬を許容することができ、またそうしなければなりません。
「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

(b)寛容を適用する権威:
 世俗的法律によって寛容政策を適応するのは国家ですが、「しかし宗教的および道徳的領域に関することがらについては、国家は教会の判断をも求めます」。該当国民における真の信仰の保護、さらには公教会の善益もが関わってくるため、教会はこの種の施策に第一に関係するからです。(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3042参照)

(c)寛容を正当化する状況:
 寛容が正当化されるのは、これによって教会ないしは世俗的社会における、より大きな善を促進することができるか、あるいはまた、より大きな悪を避けることができるという場合です。
「教会は、種々に異なった信教を真の宗教と同等の法的地位に置くことは許されないと判断するとしても、このために、より大きな善を実現するため、あるいはより大きな悪を阻止するために、実践上これら種々の信教が国家社会において一定の位置を占めることを許す国家元首を弾劾することはありません。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』 PIN 154)

「しかるに、教会は真に母親のような分別をもって、人間の弱さに由来する大きな重荷を推し量り、そして人々の心と行動とが今日において流されている方向をよく把握しています。このため、教会は真実で誠実なことがらの他はいかなるものにも一切の権利を認めないとは言え、公的な権威が真理と正義にもとることがらを、あるいはより大きな害悪を避けるため、あるいは[当の悪よりも]より大きな善を獲得し、保全するために容認することを禁じません。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 219)

「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 具体的には、避けるべき「より大きな悪」もしくは促進すべき「より大きな善」の例として次のようなことを挙げることができます。

◆ より大きな悪:
 正道に沿おうとしない者たちに加えられる迫害を目の当たりにして、義人が躓きを受けること。内線。誤った道にある者らが真の信仰に立ち返る妨げになること。(注意:これらの不都合は、いつも全て或いは同時に生じるわけではありません。)

◆ より大きな善:
 異なった宗教に属する市民の世俗的なことがらに関する協力、ならびに平和的な共存。(無論、これらが現実可能であるならば、という条件の下でのことです。またこの二つはあくまで相対的な善、すなわち国家における宗教上での完全な統一と市民社会における不和という両極の中間に位置する状態といえます。)教会が自らの超自然的使命を成就するに当たっての、より大きな自由(これは国家の介入がなければ、より効果的な働きができると教会が判断する、特殊な状況でのことです。「特殊な状況」と付言する理由は、本来、教会は国家の支持を受ける権利を有し、またこの支持は教会にとって有益であるからです。それゆえ国家の介入が教会の使命の完遂に障害となるのは、あくまでも偶然的なことです。)

(d)寛容の義務の限度:
 寛容は善よりも多くの悪を生み出す場合、その存在理由を失います。
「しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということ、そしてまた、政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、それを正当化する公共の福祉という目的が要請する程度までに厳しく制限されねばならないということです。したがって、もしこのような[悪の]容認が公共の福祉にとって有害となり、また国家にとってのより大きな悪を伴う場合、それは合法的なものではありません。そのような場合、[より大きな] 善のためという動機付けが欠けているからです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 寛容はまた、一時的に良いものであった後に悪いものになることがあります。
「また、昨今の尋常ならざる状況において教会がある種の現代的な自由をふつう認めているとは言っても、それはそういった自由をそれ自体として良しとしているからではなく、[ただ] 便宜上それらを容認することが適当だと判断するからであり、もっと良い時勢には自ら自身の自由を行使してきたのです。ですから、そのような時には説得ならびに勧告、そよび嘆願とにより、人類の永遠の救いを供給するという天主から託された、義務としての使命を果たすべく努めるのです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 もし私的な寛容で事足りるならば、公的な寛容、ましてや道徳的悪ないしは宗教的誤謬を助長する宣伝活動(プロパガンダ)の自由を与える余地はなくなります。たとえば個人的行動領域(for externe privé)として限定された寛容の例としては、スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条が挙げられます。(これらの条項は第二バチカン公会議の教義憲章『信教の自由に関する宣言』の適用によって廃止されるまで有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

(e)寛容に対する権利なるものは存在しない:
 寛容が義務となる場合、それはあくまでも共通善実現を見こした政治的賢慮の義務、および宗教上の正道からはずれた者たちに対する愛徳の義務としてであり、道を誤った者らに対する正義の義務では決してありません。
「政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、・・・厳しく制限されねばならないということです。」
(レオ十三世、回勅「リベルタス」)
「真の信仰の保全においては、キリスト教的愛徳ならびに賢慮の徳との求めるところにしたがってことを進めねばなりません。すなわち、一方では逆らう者たちが恐れのために教会から遠ざかることなく、かえってこれに惹きつけられるように、また他方で、国家社会と教会のどちらも一切損害を被らないように配慮する必要があるということです。従って、教会の共通善と国家の共通善とを常に念頭に置かなければなりません。」
(第二バチカン公会議草案)

 寛容の義務は―――かかる義務が存在する場合―――、正道を誤った者たちに対する正義(配分的正義)の義務ではないという点を再度強調しておかなければなりません。「賢慮の正義」と「愛徳の正義」とを区別する必要があります。従って、寛容の義務は寛容の対象となるところの人々において寛容を享受するいかなる権利の基盤とも成り得ません。権利というものは、他者の側における正義の義務を含意するからです。実際、寛容を被る権利とは、明らかに荒唐無稽なものです。そのような権利は、誤謬に固執するのを妨げられない権利、先に示したようにおよそ不合理な「権利」に等しいからです。既に指摘した通り、誤謬ならびに道徳的悪、またこれらに対する固執は、積極的であろうと消極的であろうとの別を問わず、いかなる権利をも有しません。以下に、この問題に対するレオ十三世教皇の極めて明快な文章を引用します。

「真の原則を解説・説明するに当たっての、あなたの正直さと率直さは称賛に値すると私は判断しました。これらの原則に則して、あなたは世俗的法制において当の原則に離反するものを弾劾し、またこれらの原則に則してあなたは、どのような意味でもし状況がそれを必要とする場合、規則に反することがらを黙認しうるかということを教えています。(あなたが教えているように)それらのことがらが黙認されるのは、それらがより大きな悪を避けるために採択される場合であり、またこの際、それらのことがらは権利の尊厳にまで高められてはなりません。正義の永遠の法に反する権利など一切有り得ないからです。願わくはこれらの真理が、良心の自由、信教の自由、報道の自由およびその他、前世紀末に革命家らによって宣布され、教会のたゆまぬ排斥の対象となってきた種々の自由に頑なに固執しつつあえてカトリックを自称する者らに理解されますように。また、かかる真理が、これらの『自由』に寛容を施される対象となりうる(=寛容の精神に基づいて黙認されうる)ものとしてばかりでなく、これらを権利として見なし、現代の社会状況ならびに進歩の歩みに必要なものとして助長・保護すべきものとして支持する者たちによっても理解されるますように。このような見解を取る彼らは、あたかも真の宗教に悖るもの全て、人間に自律(autonomie)を与えて天主の権威から解き放つところのもの全てが、またあらゆる誤謬ならびに風紀道徳の腐敗へと広く道を開くところのもの全てが諸々の民に繁栄と進歩、栄光を与えることができるかのように振る舞うのです。」
(レオ十三世 シャルル・ペラン氏宛の書簡 1875年2月1日付き PIN 3010-3011)

(f)宗教的寛容の立法上の表現:
 法律上の文書が根本的に道徳的かつ神学的な区別である、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を表現しうるでしょうか。またもし可能だとすれば、どのようにこの区別を表現できるでしょうか。
 この二つの問いは、種々の憲法の文面、またピオ十一世教皇の文書にその回答を見いだすことができます。

● スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条(この条項は第二バチカン公会議当時は有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

● 1848年3月4日に発布されたイタリア国憲法
 同憲法第一条において、カトリック教がイタリア国家の唯一の宗教と見なされ、他の宗教はただ容認されるに留まることが明言されています。

● 1929年6月24日発布のイタリア国法
「正当にも国家の宗教であるカトリック教に特別な法的立場が与えられている以上、いかなる現代国家も否定し得ない良心の自由の原則を尊重して、教理上、或いは祭儀上、公の秩序と風紀良俗に反さない限りでの、あらゆる信教の自由な活動を承諾せねばならない。」
(これはオッタヴィアーニ枢機卿によって書かれた著書 Institutiones juris publici ecclesiastici, Tomus II, P. 71 の中で引用されている文書。しかるにこの文書が法律自体のものであるのか、或いは公認の解説文であるのかは不明。)

● ピオ十一世の文書
「『黙認・許容・容認される』ところの諸宗教:言葉上の問題を提起するのは、この私ではありません。そもそもこの問題は、すでに『法令条文』と『順善に立法上の文書』との区別によって解決済みです。前者は、それ自体で見ると、より理論的かつ教理的であり、『黙認される』という言葉がより適しています。後者は実践を目ざしており、ここでは『許容・容認される』という言葉をそのまま残しておくことができます。ただし、これはその意味をしかるべく了解しての上です。すなわち、カトリック教が、またこれのみが、憲法および諸々の条約に従って国家の宗教である、という事実が、かかる憲法上の権利から導き出される論理的ならびに法律上帰結―――とりわけ布教の問題に関して―――がしかるべく了解され、またカトリック教が単にただ許容・容認されるところの宗教ではなく、かえって政教条約の文字と精神とが示す通りの存在であることが、これに劣らず明白にしかるべく了解された上でのことです。」
(ローマ聖座とイタリア王国との間で取り交わされた政教条約についてのピエトロ・ガスパリ枢機卿宛の書簡 1929年5月30日付け)

 第三番目に引用した文書に見られる「良心の自由の原理を尊重して」という、教会が認めることのできないくだりを除いて、これらの文書は、教会による様々に異なる評価の対象となりうるニュアンスの違いをそれぞれ含みつつも、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を法律上表していると言えます。


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プーチンは核でヨーロッパを脅迫した:ロシアは教会と信仰に背を向けてきたヨーロッパを罰するだろう

2007年06月13日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
是非、三上教授の訳された、ファチマ・パースペクティヴズのこの記事をお読み下さい。

プーチンはそれを確証する! ロシアはヨーロッパを罰するであろう国である。

 今週ドイツで開かれる G8 サミットの前夜にロシア大統領ウラディーミル・プーチンは G8 諸国の各国からの一つずつの新聞社と3時間の夕食を伴うインタビューを行った。プーチンはカナダの国を代表する新聞、Globe and Mail において、核弾頭を装備したミサイルでヨーロッパを攻撃目標にするぞと脅迫したとして引用された。

 これは冷戦スタイルのレトリックだけではない。プーチンの脅迫は合衆国との対決を引き起こそうとする彼の意図の大胆な陳述にしかすぎない。合衆国は言うところのキリスト教徒の揺りかごであるヨーロッパにおいて用をなさないものとさせられるであろう。・・・

 事実はヨーロッパが軍事的に弱いということである。ヨーロッパは1946年以来その真の防衛のために合衆国に依存してきた。そしてヨーロッパは道徳的に弱い。ヨーロッパは教会と信仰に背を向けてきた。その代わりにヨーロッパはセックス、薬物、そして現代世界のあらゆる快楽主義的な諸々の快楽に心を奪われている。

 もう一度プーチン氏は彼の諸々の意図を非常に明瞭にさせた。ロシアはソビエト社会主義連邦共和国のかつての諸国 - 例えばバルト海諸国やウクライナ - を再び侵略し、そして次にポーランド、チェコ共和国、ハンガリー、ルーマニア等々へと戻って来ようとしている。

 これらの国々はそのときフランス、ドイツ及びイギリスに彼らを防衛するよう助けを求めるであろう。なぜなら、それらの国々はヨーロッパ連合の一部だからである。そしてヨーロッパ諸国は彼ら自身の側でロシアに対して立ち上がるにはあまりにも弱すぎるので、合衆国に助けを求めるであろう。そしてそこであなたは、あなたの近くに戦争の現場へと近づく第三次世界大戦を持つことになる!

 しかしこの通りである必要はない。今日の映画製作者たちが「二者のうちどちらか一つを選ぶ終り」と呼ぶものが存在する。ロシアの奉献をお求めになるファチマの聖母の要求がもし聞き入れられるならば、ロシアは懲罰の道具とはならずに、退廃的なヨーロッパを救う神の手段となるであろう。

 聖ヨハネ・ボスコはこのことを預言した。彼はフランスを侵略するロシアの幻視を見た。そうであった通りに、それは黒い旗を持っていた。ロシアがフランスにいた間に旗は白に変わった。そしてロシアはフランスを防衛するために西ヨーロッパにとどまった。

 それはすべてつまるところこうなる。もしカトリック教会が聖母に耳を傾けようとしないならば、われわれはヨーロッパの血にまみれた侵略を見るであろう。ウラディーミル・プーチンはこのことをわれわれに約束しているのである!

 しかし もし教皇が司教たちと一致して、聖母の汚れなき御心にロシアを公的かつ荘厳に奉献なさるならば、ロシアは回心し、そしてその旗は黒から白へと変えられるであろう。ロシアはキリスト教世界を救うためにとどまるであろう。しかしそれはただロシアが祝せられたおとめマリアの功績を通じて回心するときにのみそうなのである。


【参考資料】
 この情報を下さったゼン・トマスさんに感謝します。

【正論】田久保忠衛 国際政治の潮流に逆らう露
 ・・・ 三井物産、三菱商事、ロイヤル・ダッチ・シェル3社が進めていた石油・天然ガス開発事業の「サハリン2」に突然ロシア政府が介入し、ロシア政府系の天然ガス独占企業体のガスプロムに経営権を持っていかれた事件、歯舞諸島海域で日本の漁船がロシアの国境警備艇に拿捕(だほ)され、その際、銃撃を受けた漁民1人が殺された事件、つい最近ではカムチャツカ半島沖のベーリング海で富山県の漁船が拿捕される事件があった。いずれも弱い相手に遠慮会釈なく力を行使するロシア国家の体質がむき出しになっている。

 仮借のない力の信奉者であるロシアに向かって「3島返還」などの媚態(びたい)を示すことがどれだけ無意味であるか。プーチン大統領とラブロフ外相の言動は改めて日本国民に冷水を浴びせる効果があったのではなかろうか。・・・

 ≪スターリン主義の残滓≫

 国内の言論弾圧のすさまじさはポリトコフスカヤ女史の暗殺だけをとってみても明白だろう。プーチン大統領就任の2000年以来少なくとも14人のジャーナリストが反体制記事を書いたが故に暗殺されている。このうち1件も事件の解明はなされていない事実は何を物語っているだろうか。言論、集会、結社の自由が次第に奪われていく社会にあってプーチン大統領の人気が上昇しているところに異常を感じる。北方四島の返還はロシア国民の反対が多いというが、独立系の世論調査を行っている国際社会学研究センターの2年前の調査では四島返還支持が51%、反対が24%という結果がでている。・・・

 北方領土問題は故エリツィン大統領がいみじくも述べたようにスターリン主義の残滓(ざんし)だろう。国際政治の潮流がどのような動きを始めたかにはプーチン政権も気がついていないはずはない。それを無視し、大胆不敵にもラブロフ外相が微妙な時期に北方四島を訪れる行動は奇怪である。国際世論に中国は敏感に反応し、外務省高官をハルツームに派遣するなどの動きを始めている。「法と正義」をうたった「東京宣言」を平気で無視するロシアはどこへ向かうのか。・・・

■ Putin in nuclear threat against Europe
(プーチン、ヨーロッパに核の脅しをかける)

President Vladimir Putin has sent a chilling message to world leaders on the eve of the G8 summit with a threat to aim Russian nuclear missiles at European cities for the first time since the Cold War.

プーチン大統領はG8サミット前夜、冷戦以来初めてのヨーロッパの都市にをロシアの核ミサイルで狙うという脅しと共に、背筋も凍るようなメッセージを世界の指導者達に送り出した。


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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

コロラド大学のネイシ・モカン教授らによると「死刑は犯罪抑止に効果あり」

2007年06月13日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 報道によると「死刑は犯罪抑止に効果あり~各種調査が証明」とのことです。

 AP通信によると、コロラド大学のネイシ・モカン教授(経済学)らが2003年にデータを分析し、06年に同じ調査を見直した結果、死刑を1件執行するごとに殺人が5人減り、逆に死刑を1回減刑するごとに殺人が5件増えることが分かった。

 01年以降、死刑の犯罪抑止効果について数十件の研究が行われているが、いずれも死刑には犯罪抑止効果があると結論している。・・・

 主な調査結果は次の通り。
1)エモリー大学が03年に行った調査では、死刑が1件執行されると平均18件の殺人が防止できる(ほかに防止件数を3件、5件、14件とする研究もある)。
2)00年にイリノイ州が死刑執行を停止して以来、4年間で殺人が150件増加した(ヒューストン大学調べ)。
3) 死刑を迅速に執行するほど犯罪抑制効果は高い。死刑囚が監房で過ごす期間が2.75年短縮されるごとに殺人が1件防止できる(04年、エモリー大学調べ)。

 05年の殺人件数は全米で1万6692件。死刑執行件数は60件だった。

Studies Say Death Penalty Deters Crime
By ROBERT TANNER AP National Writer

"Science does really draw a conclusion. It did. There is no question about it," said Naci Mocan, an economics professor at the University of Colorado at Denver. "The conclusion is there is a deterrent effect." ...

Among the conclusions:

- Each execution deters an average of 18 murders, according to a 2003 nationwide study by professors at Emory University. (Other studies have estimated the deterred murders per execution at three, five and 14).

- The Illinois moratorium on executions in 2000 led to 150 additional homicides over four years following, according to a 2006 study by professors at the University of Houston.

- Speeding up executions would strengthen the deterrent effect. For every 2.75 years cut from time spent on death row, one murder would be prevented, according to a 2004 study by an Emory University professor.

In 2005, there were 16,692 cases of murder and nonnegligent manslaughter nationally. There were 60 executions. ...

【その他の参考資料】
Death Penalty Deters Murders, Studies Say

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