Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

新しいミサの第二奉献文について

2007年06月08日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ 第二奉献文について

 1969年に新しいミサが現れ「歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした」。「これによって、典礼は人間に先立って天主から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまった」(ラッツィンガー枢機卿)。

 新しい三つの「奉献文」(preces eucharisticae)の共通の特徴は、新しい神学に基づき、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものだった。

 たとえ「第三奉献文」「第四奉献文」の中に、sacrificium (犠牲) 或いは victima (いけにえ)という言葉は存在するとしても、ミサ聖祭が罪の償いのために捧げられるという目的は言及されていない。私たちの主イエズス・キリストのいけにえの前兆であるアベルのいけにえ、アブラハムのいけにえ、メルキセデクのいけにえについては姿を消した。天主の御母聖マリアは、終生童貞とは言われなくなった。諸聖人の功徳は無視されている。聖ペトロの名前さえも消えた。地獄についても語らない。


■ オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とはパウロ六世教皇にこう報告している

 「第二奉献文はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。

 様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)


■ 第二奉献文は「ヒッポリトのカノン」(三世紀)と言われているのではないか?

 第二奉献文は昔の「ヒッポリトのカノン」と主張する人がいるが、実際はいくつかの言葉が使われているだけで、何も残ってはいない。

Hippolyte de Rome, La Tradition apostolique, texte latin, introduction et notes de Dome Botte O.S.B., Paris, Cerf, "Sources chretiennes", 1946, p. 32.

 ヒッポリトは、2番目の対立教皇であった。カトリック教会でこの「カノン」が実際に使われていたかどうかは確かでは全くない。


■ 聖ヒッポリトゥス 217-235 は聖人ではないか?

 新しいミサの促進者であるロゲ神父(Pere Aimon-Marie Roguet O.P.)は、こう説明している。

「ヒッポリトは典文としてこの文章を掲載したのではない。典文としてとは、固定されて義務である祈りの形式としてという意味である。そうではなく、自由創作のモデルとしてこれを載せた。彼の文章は決してこのまま使われたのではないだろう。最後に、彼は極めて反動的な人物であり、自らを対立教皇として立てたほどローマ位階制度に反対していた(そしてこれを自分の殉教で贖った)。従って、多分に彼は、このアナフォラ(=ミサ聖祭の祈り)をローマでその当時使われていたミサ聖祭の祈りに対立するものとして提示したのだろう。」
(Aimon-Marie Roguet O.P. Pourquoi le conon de la messe en francais?, Paris, Cerf, 1967, p. 23)


【参考資料 その1】

◆ オッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世に「第三奉献文」について、こう報告している

 「第三奉献文*84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。*85」ここで、「そは、~が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない*86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。

*84 Prex eucharistica III
*85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
*86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Desclee 1930, t. III)

 新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう。

 式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。


【参考資料 その2】
■ 新しいミサの結果

 たとえばカトリック大学の神学講座では十字架のいけにえ、というよりもプロテスタントの概念に従った「聖餐の秘跡」が教えられるようになった。

國 井 健 宏
●授業の目的・内容・進め方・履修上の条件等
ミサの基本構造である「ことば」と「食卓」がどのように誕生したか。特にミサの後半,主の食卓を囲んでの「感謝の典礼」は,最後の晩餐の主のことばと動作が儀式化されたものである。奉納(パンを取る)-奉献文(感謝をささげる)-拝領(裂いて与える)という3部構造の研究。奉献文の起源と構造,各部の意味について調べる。また日本での適応や創作の可能性について考える。
●評価方法
授業への積極的な参加態度と,レポート,発表など。学期末の試験ないしレポートによる評価。
●参 考 書
J. F.ホワイト『キリスト教の礼拝』日本基督教団出版局,J. Kodell 'The Eucharist in the NT' The Liturgical Press

2002年度上智大学大学院 神学研究科 神学専攻/組織神学より

■ 召命の危機
われわれは衰微する教会を見ている



【参考資料 その3】第二奉献文のラテン語原文

Prex Eucharistica II

Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis. Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica, ut nobis Corpus et + Sanguis fiant Domini nostri Iesu Christi.
Qui cum Passioni voluntarie traderetur, accepit panem et gratias agens fregit, detitque discipulis suis, dicens :

"Accipite et manducate ex hoc omnes: Hoc est enim Corpus meum quod pro vobis tradetur"

Simili modo, postquam cenatum est, accipiens et calicem, iterum gratias agens dedit discipulis suis, dicens :

"Accipite et bibite ex eo omnes: Hic est enim calix Sanguinis mei, novi et aeterni testamenti, qui pro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum. Hoc facite in meam conmemorationem."

Mysterium fidei :

Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.

Memores igitur mortis et resurrectionis eius, tibi, Domine, panem vitae et calicem salutis offerimus, gratias agentes quia nos dignos habuisti astare coram te et tibi ministrare.

Et supplices deprecamur ut Corporis et Sanguinis Christi participes a Spiritu Sancto congregemur in unum.

Recordare, Domine, Ecclesiae tuae toto orbe diffusae, ut eam in caritate perficias una cum Papa nostro N. et Episcopo nostro N. et universo clero.

Memento etiam fratrum nostrorum, qui in spe resurrectionis dormierunt, omniumque in tua miseratione defunctorum, et eos in lumen vultus tui admitte.

Omnium nostrum, qaesumus, miserere, ut cum beata Dei Genetrice Virgine Maria, beatis Apostolis et omnibus Sanctis, qui tibi a saeculo placuerunt, aeternae vitae mereamur esse consortes, et te laudemus et glorificemus per Filium tuum Iesum Christum.

Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum.

Amen.


【参考資料】

PREX EUCHARISTICA II

PREX EUCHARISTICA II

Eucharistic Prayer II Prex Eucharistica II

Ordinarium Missae

Ordinarium Missae


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■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教



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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日

教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月20日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日

教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日


真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割

2007年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。


■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割


 諸国の王であるイエズス・キリストは、世俗国家をも統治しなければなりません。この要求は信仰の真理です(コリント前書15:25)。この要求こそ同時に歴史の意味を判断することを許す唯一の判断基準です。つまりキリストが支配しているなら、平和、つまり「武器の平和と霊魂の平和」も支配する、そしてもしもキリストが支配しないなら、混乱と廃退が支配する(イザヤ60:12)、ということです。

 キリストの社会王国というカトリックの教義から、全ての国々と政治政府にはキリストとその教会に対する何らかの義務が導き出されます。この義務は、カトリックの諸国においてその完全な実現がなされなければならないであろう義務であり、いかなる場合であっても教会が不可変の原理として維持する義務です。

 事実、過去三世紀の教皇たち、特にピオ九世とレオ十三世は、このことに関して、不可知論と国家の宗教無関心主義という近代の誤謬に対して、何が「カトリックの教え」として見なされなければならないかを明確に定義しました。

 このカトリックの教えは、他方で、スコラ哲学の時代からカトリック神学が導き出していた教父たちの意見、歴代教皇たちの実践、カトリック諸君主の実践と完璧な延長線上にあります。つまり「世俗の事柄の霊的事柄への間接的従属」という名前のもとに知られていた本質的で恒久的な教え全体を形成しています。これは単なる偶然的な一時的なものと考えなければならない意見や実践とははっきり区別される別のものです。

 教会を脅かす現今の危機以前に著された神学のマニュアルは例外なく、「真の宗教に対する国家の奉仕的役割」とでも呼ぶべき当のカトリックの教えの説明しています。「真の宗教に対する国家の奉仕的役割」とは、すなわち国家が真の宗教に対して、より詳しく言えばキリストとその教会に対してなすべき諸々の奉仕を示しています。

 教会の教えによれば、市民社会の中心的機関である国家は、次のことをしなければなりません。

1‐市民社会の創造者である天主を敬う義務を有し、これは真の宗教の礼拝をもって為すこと。したがって、国家はカトリック宗教を国家の宗教として認めなければならず、これは不可知論および宗教無差別主義、さらには政教分離主義に真っ向から反対すること。

「共通の社会の絆で一つに結ばれた人々は、ばらばらの個人としてあるときに比して天主に対する依存の度合いが減ずるということはありません。少なくとも個人と同等に社会は、自らの存在、存続、ならびにを負うところの天主に感謝をささげる義務を有します。それゆえ、誰一人として天主に対する己の義務をなおざりにすることが許されず、またすべての義務の中で最大の義務は、各人が好むところのではなく天主が定めたところの宗教を知性と心情とをもって奉持することであり、そして確実で疑いの余地を許さぬ証拠が数々の宗教の中で唯一の真の宗教を確証付けているように、これと同様に政治社会は、あたかも天主がいささかも存在しないかのように振舞うこと、あるいは宗教が特異で意味のないものであるとしてこれなしにすませること、あるいは自らの気ままな好みにしたがってある特定の宗教を無差別に選ぶということは許されません。実際これは大きな犯罪です。天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬される(honorer)ことをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.21-23 / PIN 130)

「それゆえ、世俗社会は、まさに社会として天主を自らの本源かつ創始者として認め、このために天主の権能と権威とに自らの捧げる礼拝を通して崇敬しなければなりません。正義ならびに理性の命じるところにしたがって、国家は無神論的たることはできません。また、国家はあらゆる宗教に対して等しい態度を取り、そのすべてに同等の権利を与えることができません。このようなやり方は無神論を標榜するのに等しいからです。

 このようなわけで、社会においてある特定の宗教を信奉することが必要であるため、唯一つ真であり、諸々の明白な真理の印によって容易くそれと見極めることのできるところの宗教を信奉しなければなりません。」
(レオ十三世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 203-204)

2‐自らの定める法を天主ならびに教会の法に準拠させる、さらに良いのは(国家レベルでの事実上の無神論に真っ向から対抗して)天主ならびに教会の法を国の法制に染み込ませること。

「天主ならびにイエズス・キリストが法制および公事から排除され、こうして権威が天主ではなく人間に由来するものとされたため、権威自体の基盤が覆されることとなりました。」
(ピオ十一世回勅『ウビ・アルカノ』Actus I p.152)

「諸々の国家ならびに政権が、内部および外部における政治的営みをイエズス・キリストの教えと戒律とに即して為す、という聖なる義務を自らに課すなら、その場合に、ただその場合にのみ有益な平和を享受することができます。」
(ピオ十一世回勅『ウビ・アルカノ』Actus I p.160 / PIN 514)

「実際、キリスト・イエズスが人々に、自らの救いを託すべき贖い主として、また従うべき立法者として与えられたということはカトリック信仰の教義です。」
(『ピオ十一世回勅『クアス・プリマス』Actus II p.73 / PIN 536)

「諸国家は年毎に行うこの祝日の記念をとおして政府ならびに司法府は個々の市民と同様に、キリストに対して公の礼拝を捧げ、その法に従うという義務があります。国家社会の長は、キリストがおん自らを公の営みから排除したところの者たちのみならず不遜にもわきに置き、無視した者たちを罪に定め、かかる侮辱に対していとも恐るべき報復をされる、ということを思い起こさねばなりません。なぜなら主の王としての尊厳は国家全体が、天主の法とキリスト教の諸原理とに基づいて立法、司法ならびに青少年の知的ならびに道徳的育成(これは健全な教えと道徳の純潔さとを遵守しなければなりません)の律されることを要求するからです。」
(ピオ十一世、クゥアス・プリマス, Actus III p. 91-92 /PIN569)

3-国家の目的の教会の目的に対する間接的な従属のために、地上的共通善の獲得を教会ならびに人々の自由を損なうことなしに追求するのみならず、世俗的次元において教会と人々との善益を(国家の政教分離主義に対して)積極的に助長すること。

「したがって、この世において善い生活と言われるに値する生活の目的は天上における至福に他ならないので、そのため王の責務には、民衆の善良な生活を彼らが天上の至福にいたることができるよう確保することが含まれる。すなわち王は[自らに属する領域、すなわち地上的次元において]この種の生活を助長する事柄を促進し、これを妨げる事物に関しては、可能な限りこれを禁止するということである。」
(聖トマス・アクィナス『王の統治について』第一巻16章)

「世俗社会は・・・公的繁栄を促進しつつ、市民の善を追求しなければならないが、そのやり方はただ単に障害をおかないというだけでなく、市民が得たいと望んでいるこの最高の不可変の善の追求と獲得が出来る限り容易にすることが出来るように保証するというやり方でなければならない。最初は、その義務が人間を天主と一致させることにある宗教の務めを聖なるものとして不可侵的に遵守させることである。」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.23 / PN 131)

「しかるに、人間における、当の至高かつ究極の善に到達する能力を減じるどころかかえ;却ってこれをいや増すことが公権にとっての義務なのです。実に、この善にこそ人々の永遠の至福が存するのです。しかし、宗教なしにこの義務を完遂することは不可能です。」
(レオ十三世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 204)

「しかるに、この共通善、すなわち公共社会の正常かつ安定した状態(具体的には個人ならびに家庭にとって、品位を伴い、規則正しく、幸福な生活を天主の法に従って営むことが困難でない状態を言います) を確立すること、かかる共通善にこそ、国家およびその諸々の機関の目的と規範が存します。」(ピオ十二世 ローマ貴族への訓話 [1947年1月8日] Documents 1947 p.23 / PIN 981)

4-教会の国家に対する間接的な権力のゆえに、教会に対して奉仕的な機能、とりわけ「世俗的権力」(ないしは「物質的な剣」)の役目を果たすこと。

「福音は私たちに、教会および教会の権力の内には2つの剣、すなわち霊的な剣と地上的な剣とが含まれることを教えています。(中略)したがって、このいずれの剣も教会の権勢の中に含まれるのですが、前者は教会によって、後者は教会のために振るわれるべきものです。すなわち前者は司祭の手によって、後者は王ならびに兵士の手によって、ただし司祭の同意と意向に基づいて振るわれなければなりません。しかるに、一方の剣は他方の剣に、つまり世俗的権力が霊的な権勢に従属することが必要です。」
(ボニファス8世 勅書『ウナム・サンクタム』DS 873)

「聖トマスおよび当時の最も秀でた神学者たちが[聖ベルナルドの]有名なかの著作に依拠しつつ、教会が2つの剣を有すると説く(「執行的次元において教会は単に霊的な剣を有するのみであるが、秩序付けを為すための権力においては地上的剣を有している」)際、彼らの意図したのは、諸々の霊的利害自体のため、および超自然的目的のために、霊的な剣は地上的な剣を指導する権能ならびに義務を有する(中略)という事実を述べることに過ぎなかった。」
(ジャック・マリタン 「霊的事象の首位性」Plon 1927年 p.191-192)

「歴史家は、教皇聖グレゴリオ7世、イノセント4世、ならびにボニファチオ8世の個人的傾向について長々と論じることができるだろう。しかるに各人の個人的傾向がどうであれ、彼らが教皇として一様に説いたのは[教会が世俗的権力に対して有する]間接的権力の教義です。」
(前掲書 p.196)

「俗世間および一切の地上的権力に対する教会の優位性を時代の変遷を超越した真理として表明しなければなりません。宇宙万物における根本的な無秩序を避けようと思うならば、教会が民々を人間生活の究極目的―――この目的は国家の目的するところのもとの同一ですが―――へと導くことが必要であり、そのため、教会が自らに託されている霊的な利害の名の下に様々な政権及び諸国民を指導しなければならないのです。・・・この条件の下においてのみそれらの政権および諸国民は、安定を得ることができるのです。何故なら天の王国をお与えになる方は、いつかは過ぎ去るべき地上の王国を取り去り給うことがないからです。
(前掲書 p.122)


 以下の命題は、1682年3月19日付けの「ガリア主義聖職者の宣言」にあるものですが、ピオ六世によって誤謬であるとして排斥されています。
「諸々の王ならびに主権者は、地上的事物に関する限り、天主の定めによっていかなる教会権力にも従属しない。彼らは教会の長上の権威によって、直接的ないしは間接的に罷免されてはならない。また、王ならびに主権者の権威のもとにある民は、彼らに負うところの服従、従順および中世の誓願から解放されることはできない。公の安寧に必要であり、また国家のみならず教会にもすぐれて駅となるこの教理は天主の御言葉、教父らの伝統、ならびに諸聖人の模範に合致したものとして不断に遵守されねばならない。」

 ピオ六世は、ピストイア会議に反対して出された憲章『アウクトーレム・フィデイ』の中で以下の通りに宣言しています。
「ピストイア会議の甚だしく欺瞞に満ちた大胆不敵さにたいして沈黙を守るわけにはいかない。同会議は使徒座によってはるか以前から弾劾されている1682年のガリア議会宣言に向こう見ずにも最大の賛辞を惜しみなく捧げるのみならず、当の宣言に一層の権威を持たせるべく、これを『信仰について』と題した勅令中に狡猾に含め入れ、明け広げにその諸条項を採択し、荘厳な公の宣言によって当勅令の各部分が収める内容を全てそれに承認の判を押した。・・・それゆえ、私は同会議において近々なされ、おびただしい数の諸悪を伴う採決を無思慮で躓きを呼び・・・かつこの使徒座に対して甚だ有害なものとして断罪し排斥する。」
(DzS 2699-2700)

 カノンであるコンスタンタン神父(chanoine Constantin)は、カトリック神学事典(Dictionnaire de théologie catholique)の第4巻の第一97コラムでこう明言しています。
「現在の教理において、また第一バチカン公会議以降、1682年の宣言を奉じることは異端に陥ることを意味している。」

ピオ九世は次の命題を排斥しています。
「教会には物理的力を行使する権力がなく、また直接的ないし間接的な世俗的権利を一切保持しない。」
(ピオ九世、『シラブス』第二4排斥命題)

「教会がキリストから、洗礼を受けた者に対して彼らの永遠の救いに関する一切のことについての全面的な権力を譲り受けたこと、またその結果、キリスト教社会において世俗的権力は、天主の定めるところに従って、教会の裁治権に間接的に従属する。
(ビヨ枢機卿『デ・エクレジア・クリスティ(キリストの教会について)』ローマ、グレゴリア出版、1929年 第二巻 Q. XVIII, 4, p. 76-80)

 ここでビヨ枢機卿はスアレスの『デファンシオ・フィデイ(信仰の擁護について)』(第三巻、22章)ならびにイノチェンテ十一世、アレクサンドロ八世、そして最後にピオ六世によってピストイア会議に反対する勅書『アウクトーレム・フィデイ』を通して排斥された諸々の見解を念頭に置いています。


5-宗教的領域(教会がかくの如くあるべしと定めるところの宗教的領域)における秩序を乱すもの、および福音の宣教に対立するものたちに反対して、地上的な剣を、霊的な領域における怠りの責め咎(とが)を受けることなく用いること。

「宗教の善益のために認与された種々の特権は、カトリックの法に従う者にのみ適応されるということが重要である。余は異端者ならびに離教者がかかる特権に与らざるのみならずさらには諸々の業役に課せられることをよしとする。」
(テオドシオ皇帝法典『異端者に関する法令』XVI, 5, 1. 324年9月1日、ロ・グラッソ第69引用文書)

「ユダヤ人、ならびにその年長者、父祖らは、次のことに留意するように。すなわち、この法規の制定後、彼らのうちの何ものかが、彼らの呪わしい党派を逃れ、天主の宗教へと立ち戻る者を投石する、或いはその他の愚昧な手段によって攻撃するなら、即座に刑吏に引き渡され、その共謀者とともに火刑に処される、ということである。」
(テオドシオ皇帝法典『ユダヤ人に関する法令』XVI, 8, 10. 315年10月10日、ロ・グラッソ第77引用文書)

「キリスト教徒の中で異教徒に転じ背教する者たちについては、遺書を残す能力ならびに権利が剥奪され、既に死亡している場合は、当人の遺書は無効なものと見なされる。」
(テオドシオ皇帝法典『棄教者に関する法令』XVI, 7, 2. 381年5月2日、ロ・グラッソ第76引用文書)

「あなたに与えられた王の権能が、この世の物事を指導するためだけではなく、教会の擁護のためにあるということを、あなたは注意深く考察しなければなりません。それは犯罪者の大胆不敵さを処罰しつつあなたは確立されている秩序を守り、平和が乱されたところにおいて真の平和を返し、他者の権利の横領者たちを切り離し、アレクサンドリアの教会の司教座を古来の信仰に連れ戻すためです。」
(教皇レオ一世が、レオ皇帝に。異端者たちによって横領されたアレクサンドリアの司教座について。PL LIV,1129-1130)

「聖寵の助けをもって、外部では武力を持って全ての場所において異教徒の攻撃と不信仰者らからの荒廃からキリストの聖なる教会を守り、内部ではカトリック信仰の知識によって教会を強めることが余に属している。」
(シャルルマーニュ皇帝が教皇レオ三世へ、ロ・グラッソ第一78引用文書)

「未信者は全て彼らの自由選択能力に任されているので、また信仰への召命は天主の聖寵だけが働かなければならないので、彼らは信仰へ強制されてはならない。・・・しかし教皇は未信者の裁治権の地に聖福音を伝える宣教者たちを派遣することを命じることができる。そしてもしも彼らが宣教師を受けることに従わないなら、世俗の腕によって強制されなければならず、教皇のイニシアティヴで彼らに対して戦争がおこる。」
(イノチェンテ四世、『デ・ヴォト・エト・ヴォティ・レデンプチオネ』IX,ロ・グラッソ第436引用文書)

「イタリアの領土において教皇その人格に反対して犯された公の侮辱と冒辱は、それがたとえ演説、行為、書物でなされたものであれ、王の人格に対してなされた侮辱と冒辱であるとして罰せられる。」
(聖座とイタリアとの条約 1929年2月11日、第8条、ピオ十一世 Actus V, p.24.)

「イタリアは・・・必要なところにおいて、聖職者達にその霊的役務の行使のために、公権の保護を与える。」
(聖座とイタリアとの政教条約、1929年2月11日、第一条、ピオ十一世 Actus V, p.24.)

「天主を否定することを驕り高ぶる人々によって、このカトリック国に反対して引き起こされる不正な陰謀と邪悪な作戦にもかかわらず、スペインのカウディヨは、祖国をその言葉と賢明な配慮、感銘を与える個人的な模範、使徒聖ヤコボと聖パウロとがこの地まで運び説教した教えに常に忠実な模範により、それを維持している。いつもの如く、真理は道を開かせ、日に日に誤謬に勝利するだろう。従って、私たちがスペインのカウディヨに、その祖国になした偉大な奉仕に対して感謝をするのは極めて正しいことである。」
(リベリ大司教、ヨハネ二十三世のもとのスペインにおける教皇大使のタラゴナにおける訓話、1963年)

結論:私たちは読者に上記の5つの不可変のカトリックの教えを再読して下さるように招きます。これは変わることができない教えであり、諸国の背教のためにますますこれを完全に適応されうることが希になっているとしても、私たちはこれを再確認して断言しなければなりません。何故なら、正に諸国の背教を教会の新しい教えとしてはならないからです。

 ここで次のことを付け加えます。国家は教会とカトリック信徒の擁護のために宗教的領域に介入する時、国家が本来もっていない権利を自分のものとするのではありません。そうではなくむしろ国家は教会に対してこの奉仕を負っています。何故なら霊的な事柄に対してこの世的なものは奉仕しなければならないからです。特に「世俗権力は、それ自体で、教会の判断により、永遠の救いを危険なものとするその他のカルトの公的な示威行為を規制し統制することができる。」
(公会議草稿、カトリック国家に関する段落)


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