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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:主観的権利、それとも客観的権利?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 主観的権利なのか、それとも客観的権利なのか?

『信教の自由に関する宣言』2
「したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。」

【コメント】 強制からの免除、あるいはより正確に言うと、誤った宗教の信奉者が妨げなしに公に自らの礼拝儀式を執り行うということは、上述したように、もしこれが権利として認知される場合、あくまで消極的権利でしかない。
 同じく既に述べたとおり、かかる免除はそれ自体において悪である。たとえ、ある国の具体的状況において、より大きな悪を避けるため、あるいはまた、より大きな善を確保するためにこれを容認することができるとしてもである。
 ここで筆者が成す主張の説明として、ひとつ例を引いてみることにする。ある父親が思春期を迎える息子を過度に押さえつけないため、強制し過ぎないために、一定の限度内で、また適度に目を配りつつ、「若気のいたり」を犯す自由を与えたとする。(無論、実際そうなった場合、この父親はとにそれが過ちであったことを指摘する心構えである。)強制からの、このような免除が、それ自体として悪である、ということは疑いの余地がない。なぜなら、それは道徳的な悪への扉を開くことになりかねないからだ。たとえ、それが特定の状況において、認容し得る、より小さな悪であると見なされるとしてもである。
 しかるに、悪であることは、いかなる権利の対象にもなり得ない。したがって、誤った宗教の信者に対して与えられる、強制からの免除はいかなる権利の対象にもなり得ない。言葉を換えて言えば、かかる免除は客観的権利ではない。

【疑問点4】 はたして第二バチカン公会議は、誤謬あるいは道徳的悪に与する者が客観的に(すなわち客観的権利として)自らの宗教、すなわち誤った宗教を公に執り行う消極的権利を保持すると教えているのか。もしそうであるとすれば、かかる主張はピオ十二世が次の言葉で解説している「客観的権利」についての伝統的な教理と両立するのか。「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、喧伝、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)


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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 存在論的尊厳、行動の自由?

『信教の自由に関する宣言』2
「このバチカン教会会議は、・・・ 信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであ(る)・・・ ことを宣言する。・・・ すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであ(る)[がゆえに固有の尊厳を有する]。・・・ したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。」

疑問点1 第二バチカン公会議は、信教の自由の基盤となる人間の尊厳が、真および善へ現実に追随(adhésion)しているか否かに関わらず、理性と自由意思とを具える人間本性自体の尊厳 にのみ存すると教えているのか。

疑問点2 もし、そうであるとすれば、第二バチカン公会議の教えは聖書が私たちに示す、堕罪の後の人祖ならびにその子孫における人間的尊厳の失墜、および贖いによる回復と両立するのか。ローマ・ミサ典書は司祭に「全能の天主よ、不節制により傷ついた人間本性が、癒しをもたらす断食を熱心に実行することにおいて原初の尊厳を回復するようにさせ給え。」(聖木曜日の集祷文)と言わせていないか。

疑問点3 第二バチカン公会議の当の教えは、同様に各人の主観的条件(責任を伴う悪意の無知、あるいは責任を伴わない無知)を捨象して次のように述べているレオ十三世の教えと両立するのか。
「もしも知性が誤った観念に固執するなら、もしも意志が悪を選択してそれに固執するなら、知性も意志もその完成へとは到達せず、両者とも生まれつきの尊厳を失い腐敗する。従って、善徳と真理とに反することを日の光にさらして大衆の目に触れさせることは許されていない。この自由放埒を擁護し法の保護のもとに置くことは言わずもがなである。」
(回勅 『インモルターレ・デイ』Actus II p.39 / PIN 419)


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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出


第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

第3章 第二バチカン公会議についての疑念

 一般的な意味での自由、次いで信教の自由について考察した後、同章では先に解説した諸々の概念を信教の自由の問題をとり扱った第二バチカン公会議の文書自体、すなわち公会議宣言『信教の自由に関する宣言』(1965年12月7日発布)に適用してみることにしましょう。その際、当文書の各部分について疑問および問題点を逐次指摘していくこととします。

 本稿の著者は、これらの疑問を別々の項目に分け、それぞれに同公会議文書が提起する主要な問題に対応した題目を付しました。各項目においては、まず公会議宣言『信教の自由に関する宣言』からの抜粋を引用し、必要に応じて当該問題のはらむ困難点を正確に示すために「問題提起」を定めた後に、一つあるいは複数の疑問を提示します。各項目は、同一の主題に関連する中の複数のくだりを考慮に入れ得ます。その場合、各引用文に序列と引用先を示す番号を付すこととします。

 著者は三十九の固有の意味での「疑問点」と、それに付随するまたはそれほどの重要性を帯びないことがらに関する「問題点」とを区別します。「疑問点」については、疑問文として提示し、ハイかイイエかの明確な答えを出すことが、そしてそれができない場合には必要な意味の区別を導入することができるようにします。

 「疑問点 26」から「疑問点 29」に関する部分は、第二バチカン公会議の文書そのものに言及するのではなく、草案起草委員会の報告者の宣言に関わるものです。何故ならこれらの宣言は、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』の前提となっている哲学的概念に光を当てるものだからです。



* *


■ 人間人格の尊厳?

1-『信教の自由に関する宣言』1
「現代において人々は人格の尊厳を日増しに意識するようになっている。」

【問題点1】 公会議は、「現代において人格の尊厳は、ますます深い忘却、否むしろ軽蔑の対象となっている」というべきではなかったか。

2-『信教の自由に関する宣言』1
「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。・・・ 人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、・・・ 社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、・・・」

【問題点2】 これらの「要求」、ならびに信教の自由に対する「熱望」は、旧西洋キリスト教社会で急増するセクトの放縦かつ活発な攻勢にあえぐカトリック国家および諸々のキリスト教社会の崩壊、瓦解、分断の印ではないか。あるいはまた、第二バチカン公会議はこれらの表現によって、キリスト教ならびにその他全ての宗教を絶滅する「神聖な」義務の意識に基づくイスラムの征服的拡張に言及しているのか。それとも第二バチカン公会議は共産主義政権の圧制にあえぐ諸国、すなわちポーランド、ハンガリー、そしてとりわけルーマニアとチェコスロバキアにおけるカトリック信徒ならびに教会の、いわば窒息させられた希求、踏みにじられた要求のことを言おうとしているのか 。
 以上三つの問題点に対する解答は、第二バチカン公会議が、全ての宗教のために見境なくあらゆる状況において要求する信教の自由に光を投げかけるだろう。

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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