アヴェ・マリア!
■ 主観的権利なのか、それとも客観的権利なのか?
『信教の自由に関する宣言』2
「したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。」
【コメント】 強制からの免除、あるいはより正確に言うと、誤った宗教の信奉者が妨げなしに公に自らの礼拝儀式を執り行うということは、上述したように、もしこれが権利として認知される場合、あくまで消極的権利でしかない。
同じく既に述べたとおり、かかる免除はそれ自体において悪である。たとえ、ある国の具体的状況において、より大きな悪を避けるため、あるいはまた、より大きな善を確保するためにこれを容認することができるとしてもである。
ここで筆者が成す主張の説明として、ひとつ例を引いてみることにする。ある父親が思春期を迎える息子を過度に押さえつけないため、強制し過ぎないために、一定の限度内で、また適度に目を配りつつ、「若気のいたり」を犯す自由を与えたとする。(無論、実際そうなった場合、この父親はとにそれが過ちであったことを指摘する心構えである。)強制からの、このような免除が、それ自体として悪である、ということは疑いの余地がない。なぜなら、それは道徳的な悪への扉を開くことになりかねないからだ。たとえ、それが特定の状況において、認容し得る、より小さな悪であると見なされるとしてもである。
しかるに、悪であることは、いかなる権利の対象にもなり得ない。したがって、誤った宗教の信者に対して与えられる、強制からの免除はいかなる権利の対象にもなり得ない。言葉を換えて言えば、かかる免除は客観的権利ではない。
【疑問点4】 はたして第二バチカン公会議は、誤謬あるいは道徳的悪に与する者が客観的に(すなわち客観的権利として)自らの宗教、すなわち誤った宗教を公に執り行う消極的権利を保持すると教えているのか。もしそうであるとすれば、かかる主張はピオ十二世が次の言葉で解説している「客観的権利」についての伝統的な教理と両立するのか。「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、喧伝、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
第一章 ■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
第二章 ■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論
■ 主観的権利なのか、それとも客観的権利なのか?
『信教の自由に関する宣言』2
「したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。」
【コメント】 強制からの免除、あるいはより正確に言うと、誤った宗教の信奉者が妨げなしに公に自らの礼拝儀式を執り行うということは、上述したように、もしこれが権利として認知される場合、あくまで消極的権利でしかない。
同じく既に述べたとおり、かかる免除はそれ自体において悪である。たとえ、ある国の具体的状況において、より大きな悪を避けるため、あるいはまた、より大きな善を確保するためにこれを容認することができるとしてもである。
ここで筆者が成す主張の説明として、ひとつ例を引いてみることにする。ある父親が思春期を迎える息子を過度に押さえつけないため、強制し過ぎないために、一定の限度内で、また適度に目を配りつつ、「若気のいたり」を犯す自由を与えたとする。(無論、実際そうなった場合、この父親はとにそれが過ちであったことを指摘する心構えである。)強制からの、このような免除が、それ自体として悪である、ということは疑いの余地がない。なぜなら、それは道徳的な悪への扉を開くことになりかねないからだ。たとえ、それが特定の状況において、認容し得る、より小さな悪であると見なされるとしてもである。
しかるに、悪であることは、いかなる権利の対象にもなり得ない。したがって、誤った宗教の信者に対して与えられる、強制からの免除はいかなる権利の対象にもなり得ない。言葉を換えて言えば、かかる免除は客観的権利ではない。
【疑問点4】 はたして第二バチカン公会議は、誤謬あるいは道徳的悪に与する者が客観的に(すなわち客観的権利として)自らの宗教、すなわち誤った宗教を公に執り行う消極的権利を保持すると教えているのか。もしそうであるとすれば、かかる主張はピオ十二世が次の言葉で解説している「客観的権利」についての伝統的な教理と両立するのか。「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、喧伝、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論