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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:司祭とは、天主の修道者 (2)

2008年09月14日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

 あなたたちは、第一に、祈りと賛美と礼拝との司祭職による司祭である。あなたたちは、第二に、自分の霊魂を聖化させ[*]、あなたたちの隣人を聖化させる、特にあなたたちのもとに送られた霊魂の聖化をさせる司祭職による司祭である。従って、あなたたちは、自分自身を屠り、犠牲とする司祭による司祭である。
【ルフェーブル大司教、1958年10月26日の司祭たちへの手紙、ラ・クロワ・ヴァルメール(フランス)】

[*]「今日、ますます増加しつつあるキリスト教社会の諸要求が、いよいよ司祭に、内的完徳を要求しているのは事実ですが、司祭は、すでに天主にゆだねられた崇高な聖役の性質そのものによっても、絶えず、またどこにあっても、自己の成聖の業に、懸命に努力すべき義務を負っていることを忘れてはなりません。」ピオ十二世「メンティ・ノストレ」

Vous êtes prêtres d’un sacerdoce de prière, de louange, d’adoration en premier lieu. Vous êtes prêtres en second lieu d’un sacerdoce sanctificateur de vos âmes [*] et de celles de votre prochain et particulièrement de ceux vers lesquels vous êtes envoyés. Vous êtes en conséquence prêtres d’un sacerdoce d’immolation, de sacrifice de vous-mêmes  - Lettre aux confrères, La Croix-Valmer (Var), 26 octobre 1958.

[*] - « Si, de nos jours, les besoins accrus de la société chrétienne exigent de plus en plus la perfection intérieure des prêtres, ceux-ci sont déjà tenus, en vertu même de la nature du sublime ministère que Dieu leur a confié, à travailler inlassablement, toujours et partout, à l’œuvre de leur propre sanctification » (Pie XII, Menti nostræ).

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アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:アルスの村

2008年09月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

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アルスの村(Ars)

 アルス村はリヨン市の北方、約三五キロメートルの地点にあって、ドムブの丘陵(plateau de La Dombes)がこれから始まろうとする、ごく平凡な場所である。リヨンのほうから来ると、静かに流れるソーヌ川に美しい影をひたす緑の丘は、アルスの少し手前でなくなってしまう。アルスからさらにブール市の方に行けば、やがて曲がりくねった楡の木の下から、水鳥が飛び立つ湖沼地方になるのである。単調な地平線、黄色っぽい土壌、貧弱ないけがき、小川の岸にはえている二列のはんの木、川のこなたの木立の中にあるデ・ガレ家の古色のおびた赤れんがの城(昔は塔があって、堀がめぐらしてあったが、封建時代の名残りは全然なくなってしまって、ただ、大きないなかの邸宅としか見えなくなっていた。過去のはなやかな狩猟や宴会を、すっかり忘れ果てたような平和な、しかしゆううつな家であった)、小川を越せば黄色の、小さい、見すぼらしい聖堂、そのかたわらにある、百姓家とちがわない貧しい司祭館、それをとりまいて散在するいくばくかの藁葺屋根、これが、ヴィアンネー師が来た当時のアルスであった。

 ヴィアンネー師は、バレー師(M. Balley)からゆずり受けた少しばかりの書籍と身のまわりのものとを馬車に積んで、自分は、神学生時代から、エキュリー(Ecully)で世話になった「ビボストおばさん」(Claudine Bibost)という婦人(これはその家に寄宿していたあのほんとうの叔母ではない)と二人で、徒歩で、エキュリーからアルスへの約三〇キロメートルを旅行した。

 アルス村の近くに来た時分には、もう薄やみが迫って、そのうえに夕もやが低くたれていた。彼らは道に迷って、牧童に教えられて、ようやくアルス村にはいった。ここからが、これから彼が受け持つ小教区だと聞いた時、アルスの新しい主任司祭は、地にひざまずいて、自分に託せられた霊魂のために祈った。人家の屋根が見えだした時に、彼はもう一度地にひざまずいて、小教区の守護の天使に祈った。

 「いかにも、貧しい、小さな村だ」と、彼は思った。しかし、すぐに、ある不思議な超自然的な感覚に動かされて、「この小教区は、今に、来る人々が入れきれないようになる」と言った。到着すると彼はまず第一に、聖堂の中にはいって、聖体の前にひれふした。(彼がここにのべる予言をしたことについて、後年、巡礼の数が非常におびただしくたってから、ある人が、どうして、このような予言ができたのか?と、彼に尋ねたことがある。彼は非常に困った様子をして「なに、私のあたまには時々馬鹿な考えが、浮かぶものですからね」とほほえみながら答えたそうである。)

 次の日、二月一〇日の朝には、ミサ聖祭を告げる鐘の音が、久しぶりで村中に響き渡った。村の人たちは「おや神父さんが見えたそうな」と、言いあったが、格別、それに気をつけようともしなかった。

 アルスは、物質的にも貧しかったが、宗教的道徳的にも、極めて弛緩し、退廃した農村であった。それは、主として、かの(フランス革命)恐怖時代の反宗教政策のもたらしたものだった。

 当時、政府からアルスの主任司祭に任ぜられた人は、いうまでもなく、(フランス革命を支持する)離教的司祭であって、彼は、その後、全然聖職をなげうって、それまで自分が敬していたアルス村で商店を開くようになった。かかる出来事が、とれほど、信者の蹉きとなったかは、たやすく想像できる。

 そういうわけで、ヴィアンネー師の来る以前の二五年間というものは、アルス村は、異教の土地と、少しも違わなくなっていた。村びとが全然信仰を失ったと言っては、言いすぎであろう。しかし、なんぴとも極端に無頓着か、冷淡であった。師が来任しても、毎朝のミサ聖祭にあずかるものは、二、三名の婦人だけであった。村びとは、日曜日のミサも、口実をさがして、すぐに欠席した。また、出席している人々も、始めから終わりまで、堪えがたい退屈の色をあらわしていた。居眠りをする者、私語をかわすもの、祈りの本をあちこちと開けて見ている者、この最後の種類の人々に対して、師は「まるで、印刷屋の間違いでもさがしているようだ」と、説教の時に皮肉を言ったことがある。ミサ聖祭がすむと、師が祭壇をおりるか、おりないうちに、会衆は急に「まるで、一時に皆、心臓でも悪くなったように」新鮮な空気を吸いに、聖堂を出てしまう。

「神父さんが、あんな長く説教をするのは、みんなに、教会に行くのを嫌がらせるためなのだ」と彼らは言った。

 それだから、日曜日の夕の務めなどには、聖堂はほとんどがらあきであった。

 これに反して、ごくわずかの人口に対して、四軒あった村の居酒屋は、日曜日の午後は大繁盛であった。「玉ころがし」の遊戯で、的をはずして声高に笑う声や、酔いどれが石につまずいたりしてののしる声は、聖堂の内部まで遠慮なく響いてきた。大人も、若者も、さては少年までも、冒済ののしりを発する惑い習慣をもっていた。

 熱心な信者だと言われる婦人たちも、年に数回、大祝日に聖体拝領をするだけであった。男たちは、復活祭の義務を果たすことを恥辱だと考えていた。ある年、ヴィアンネー師に、だれにも見られないように香部屋で、聖体をさずけてくれとたのんだ男さえあった。

 アルス村の教会の祝日は、聖シクスト(Sanctus Sixtus)の祝日がそうであったが、それは、もうとうに宗教的な祭日ではなくなっていて、男たちは八日間、居酒屋に入りびたり、若い男女は八日間ダンスと夜ふかしとをし続ける時になってしまっていた。村の人たちは、別に盗賊を働くようなこともなかったが、家畜を売る時に年令をごまかす細工をしたり、また麻を売る時に粗悪なものを中に包んで、買い手をだますくらいのことは、なんとも思っていなかった。収穫期でもなければ、日曜日に畑に出ることはなかったが、しかし、日曜日以外にはしなかった他の戸内の労働があった。たとえば、道具の手入など。そして、収穫期にでもなろうものならば、日曜日の安息などあったものでない。牧草や麦を(その季節季節に)山のように積んだ車は、野道を右に左にせわしそうに動いていた。

 こう述べてくると、いかにも、アルスは宗教的に実にひどい所のようであるが、その実、その辺の村落はみな五〇歩、百歩であったので、村びとが、特に司祭や宗教に対して、敵意をいだいているというわけでもなく、前に言ったとおり、それらは要するに、極端なむとんちゃくと冷淡から出たことなのである。なおアルス村の最初の状態を知るには、ヴィアンネー師の説教集を読めばよい.現存する彼の説教の大部分は、比較的初期のものである。

 師に託せられたものは、このようにやせた畑であった。神の御恵みによって、少数のよい麦もあるにはあったが(たとえば、城に住んでいたデ・ガレ家の女主人(Mademoiselle Marie-Anne-Colombe Garnier des Garets, Mademoiselle d'Ars)で、当時六四才になっていた老婆や、村長、その他、数名の人々は、各自、自分らの能力に応じて、師の改革事業を援助した)、しかし、畑に茂っていたのは、毒麦だったのだ。これを見て、若いヴィアンネー師の胸が張りさけるようだったのも無理はない。しかし、彼はすぐに気を取り直して、改革事業に着手した。

 彼はけっして、夢のような野望をいだいたのではない。師が改革しようと望んだのは、全世界ではなく神より託せられたこの小さいアルス村であったのである。彼はアルスの村民のために説教し、アルス村民の悪習を攻撃した。もし神の摂理が彼を他の場所におきたもうたならば、彼もまた違う手段を講じたかもしれない。しかし、ほんとうは、弊害の根源はどこに行ってもたいてい同一で、ただ、その現われ方が時と所とで多少違っているにすぎないのである。それだから、その治療法も結局同一で、つまり古来の伝統的の方法となるのである。

 ゆえに彼が祭壇の前にひざまずいて祈りながら案出したプログラムは、決して新奇なものではなかった。それはすべてのよい司祭が、自己の牧する羊の救霊のためにとるべきあたりまえの方法であった。すなわちなるべく早く、信者に近づくこと。よい信者の助力を求め、同時に、彼らをますます徳にむかって奮発せしめること。無頓著な人びとを宗教の務めの実践に導くこと。よこしまな生活を送っている人びとを改心させること。そのためには、なによりもまず、いっさいの善のみなもとなる神に祈り、その恩寵をこい求め、人びとを聖ならしめるために、自分自らをまず聖ならしめ、罪人に代わって苦業をすることである。自分の前途に横たわる事業を見て、若いヴィアンネー師は、自分の無力を感じたに相違ない。しかし彼は同時に、自己のうちに、不可思議な恩寵の能力をも感じたのである。神はたかぶる者の誇りをうちひしぐために、かよわく、いやしき者をえらびたもう。聖なる司祭は、一見、平凡の手段をもって、偉大なる事業を成就するのである。

 師が着手した最初のことは、司祭館の内部の整理(?)であった。司祭館は城の女主人の好意で相当によい家具(寝台や、安楽椅子や、上等の食卓など)が無償で貸し与えられていたのであるが、師はバレー師の古い寝台をはこんで来たので、華麗な寝台は不用になった。その他の家具類も、師がこれから営もうとする生活には、不向きのものばかりだったので、デ・ガレ家に敬意を表わしに行ったついでにそれらを引き取ってもらうように依頼した。

 連れて来た「ビボストおばさん」も、始めは、料理番にするつもりであったのだが、用事がないので長くはおかなかった。

 村の人たちは、すぐに新しい神父さんが、並の人とは違うのに気がついた。やや裕福に暮らしている百姓らは、自分たちが貧乏人に一銭、二銭を施してやることが困難なのに引きかえて、ヴィアンネー師が、自分のためになにもとっておかないことにびっくりした。乞食は乞食たちで、師の慈悲深い評判を立てたけれども、同時に、「ヴィアンネー神父さんは、エキュリーから、どっさりはいっている財布を持って来たようだが、長く続くまいぜ」と言ったりした。

 司祭館がかたづくと、ヴィアンネー師はさっそく信者の家を一通り訪問した。約六〇戸の戸数であるから別にたいした数ではない。しかし、師はなかなかじょうずにそれをやってのけた。なかには、彼の訪問を無愛想に迎えた家もあったが、大多数は「親切な、愉快な、あいそうのよい神父さんだ」との印象をもって、彼を迎えた。めいめい信者の家で、仕事のことや、収穫のことや、そのようなことを話したり、聞いたりしているうちに、師は、家族のこと、子供の数や年令や、お互いの親戚関係や、それらのことを聞きこんでしまった。そして、彼らの信仰の程度をだいたい、測量してしまったのである。

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「啓示し給う天主の権威の故に」propter auctoritatem Dei revelantis

2008年09月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック信仰とは、信徳唱で私たちが唱える通りです。
真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

 何を信じるのかという、カトリック信仰の対象は「主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教え」です。つまり天主が啓示し給える真理です。

 何故信じるのか、というカトリック信仰の動機は「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に」です。つまり天主は真理の源であり誤りなき御者であるから、その天主の権威によるのです。

 カトリック信仰は、真理であるがゆえに信じるのです。真理であるがゆえに教義なのです。真理であるがゆえに、信仰とは知性が天主の聖寵の助けをもってこの真理に "付き従う" のです。

 カトリック信仰は、誤り無く私たちを騙すこともない天主の権威を動機として信ずるのです。啓示し給う天主の権威は、私たちの個人的な体験でも感情でもありません。

「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」これが私たちのカトリック信仰です。

 だから、聖パウロは「信仰は、希望するものの保証であり、見えないものの証拠である。」Est autem fides sperandarum substantia rerum, argumentum non apparentium (ヘブレオ11:1) と言ったのです。つまり、この「保証」「見えないものの証拠」とは、見えないものを啓示し教える天主の権威に他ならないからです。この天主の権威にのみに基づいて、私たちの信仰の確実性が与えられるのです。

 だから、第一バチカン公会議も私たちは天主の真理に「啓示し給う天主の権威の故に」propter auctoritatem Dei revelantis (Dz 1789 & 1811) と宣言したのです。

「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」

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