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フリブールのカテドラル(司教座聖堂)の紹介 Cathedrale de Fribourg

2008年09月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 エコンの神学校の学頭のド・ジョルナ神父様が、私たちをフリブールの巡礼に連れて行って下さいましたので、写真をご紹介します。

 フリブールのカテドラル(司教座聖堂)をご紹介します。


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
フリブールの街並み


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
フリブールのカテドラル(司教座聖堂)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
フリブールのカテドラル(司教座聖堂)


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
内部


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
カテドラルの塔に登るブラザー

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
カテドラルの塔に登る

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)
カテドラルの塔から眺めたフリブールの街並み


フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)

フリブールのカテドラル(司教座聖堂)Fribourg (Switzerland)


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【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.10.聖伝と聖書

2008年09月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

聖伝と聖書

 チェトゥスが争ったまた他の競技場は、天主の啓示に関する概要で、「啓示の源泉」に関する予備準備文書と取り替えられた新しい概要だった。天主の啓示の口伝えによる聖伝を、聖書に従属する、聖書の一解釈にすぎないと格下げする思潮に乗って、緩和された形態で、プロテスタントの誤謬が公会議でまた生まれ出ていた。

 だからこそ、1964年の春、ルフェーブル大司教及び彼の友であるラ・シャノニー (La Chanonie)、グリモー (Grimault)、モリオ (Morilleau) 及びプルー(Prou)らが「聖伝は聖書より範囲がより広い」と述べる修正案を書面で提案したのだった。

 彼らはこう言う。それは、公会議が「聖書の中に、少なくとも暗示的に内包されていないような真理を、聖伝において見出す可能性」を排除するようには見えないようにするためだった。

 この修正案は拒否された。奇妙なことに、チェトゥスの指揮した闘いは聖書の無誤謬性(inerrantia 間違いがないこと) を守ることだけに限定され、天主からの聖伝の不変性が手落ちとなっていた。

 『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum) は、後に聖伝は「教会において進歩する」と言うだろう。公会議後の誤謬である、進化する「生ける聖伝」という概念は、ここに根拠を見出すだろう。

 チェトゥスの教父たちは、しかしながら、投票するべき文書の権威について公会議後の事務局に質問するという功績があった。

 11月 15日、フェリチ大司教は、神学委員会が 1964年 3月 3日に出した見解に言及した。明示的に定義されたその事項だけが定義される。その他は、文書の権威はそれの種類によって違った。この告知は極めて重要なものだった。公会議は、定義としては何らも定義しなかったのであり、公会議はそれ自体として、不可謬ではないのである。

 ところがチェトゥスの教父たちは、なによりもまず信教の自由に対立する闘いに没頭していた。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

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