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カトリック近代主義の系譜:カントの啓蒙思想

2008年09月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年 - 1804年)の思索を見てみよう。

 ケーニヒスベルクの思想家であるカントによれば、私たちが物において置く(=感覚する)ことしか、先験的に(=必然的なやり方で)物を知ることが出来ない(daß wir nämlich von den Dingen nur das a priori erkennen, was wir selbst in sie legen)(『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft (第二版への序文))。

 カントによれば、人間は「物自体」(Ding an sich) を認識できない。認識の対象は、感覚に与えられ得るものだけであり、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまる。

 カントによると、人間が物それ自体が何であるかその本性が何であるかその真理が何であるか現実が何であるか、知り得ない。カントは、人間悟性は自分の内部(に映る現象)を知るに留まる、とした。今まで、人間の外部にある物事が、人間の知性を規定してこれが何かを知らしめた、これからはカントによれば、人間の悟性が物を規定する、とした。

 カントによれば、因果性・必然性とは、純粋悟性概念であり、形而上学的な価値を持たない。従って、天主の存在は証明できないとし、創造主である天主と被造物との間にある類比(アナロギア)は知り得ない、とする。従って、天主に関する全ての言説は、神話でしかない。例えば、カントによれば、三位一体とは、善良・聖性・正義という三つの性質が一つになっていることの象徴にすぎない、人間となった天主の聖子とは、英雄的な人間にすぎない(『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft, 1793年)。

 道徳において、人間の本性と人間の行動は、常識によれば、その目的によって規定される。しかし、カントは、目的の原理を認めず、善の概念も体験からは得られないとするので、最高の善の存在も知り得ないとする。カントによれば、善なる行為とは、人間の本性に適合する目的・対象をもち、人間を最高究極の目的まで秩序付けるものではなく、ただ純粋な義務による。人間の行為は、全ての対象と目的から独立していて無関係であるからだ。カントは、究極の目的を拒否し、私たちの行為の目的としての善を否定し、最高の善・究極目的としての天主を排除し、「実践理性の自律」を宣言した。これがフランス革命の人権宣言に先立つ、ドイツの天主からの独立宣言であった。

 これが、全てを人間の上に、人間だけの上に築く新しい哲学、新しい宗教、新しい内部からの「啓示」であった。人間の外にある天主もなく、そこからの啓示もなく、全ては人間の上に築かれた。

 カントが幼児に受けた教育は、プロテスタントの敬虔主義であり、これがカントをして文句なしに道徳と宗教の価値を受け取らせた。大学時代にはニュートンの実証科学に影響を受けた。そこで、カントにとって、ニュートンの物理学の明らかさと、自分の心の奥底に道徳律の確実性というこの2つの手を付けて変えることが許されない法則を両立させようとしたのだった(カントの墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則 Der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir 」とある)。

 『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft では、形而上学は、物それ自体 (Ding an sich) を取り扱うので、不確実であり誤っているとしたが、次の『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft では、自分の敬虔主義を擁護するために、「私は、信仰に場所を与えるために理性を壊した」と言って、形而上学に知の価値を与えている。カントによれば、物それ自体について語る形而上学は、盲目的な信仰に還元されて、道徳生活のために使われるとき有効となる。現実世界の物それ自体は、学問的には間違っているが、生活するために便利である限り道徳的に真であるとする。

 つまり、人間悟性の向こう側の外にある、天主とか世界とかは知の対象ではないが、便利で必要なので存在しなければならない。これらは「そうかもしれない」というレベルであるが、しかし「あたかもそうであるように」生活しなければならない。人間は、物それ自体の知を拒否するが、それについてあたかも知っているかのように行動しなければならない。人間は、悟性の向こう側について決して確実ではないが、しかしこれらが確実であるかのように生活しなければならない。

 カント流の徳とは「尊厳において人間をその人格において維持すること」(『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft)であり、必ずしもこの地上での幸福とは結びつかない。従って、来世における報償者としての天主を要求し想定するのみであり、「天主が人間の理性の外に存在することを断定することが出来ない」(「オプス・ポストムム」コンヴォルートゥム7)。

 カントは、啓蒙(Aufklärung, les Lumières, las Luces / Ilustración, Enlightenment)とは何かを説明してこう言う。啓蒙とは、罪深い未熟状態から自らを解放することである。未熟状態とは、他人の指導なしには悟性を用いることが出来ないことである(Was ist Aufklärung?)、と。天主も宗教も排除して、人間が自分の理性だけで自律し、独立する、それが啓蒙である。フリー・メーソンのレッシング(Gotthold Ephraim Lessing)は、「人類の教育」(Die Erziehung des Menschengeschlechts) で、すでに、天主から解放された純粋な理性の宗教を提案している。啓蒙は、天主がたとえ存在しなかったとしても、有効な普遍の道徳律を築くことを追求した。

 カントの「あたかも天主が存在しているかのように」生活する、という態度が、正に、啓蒙の新しい宗教の態度であった。インマヌエル・カントの神は、観念上の仮定の神、啓蒙思想の寛容の価値を保証する神であった。天主が真に存在し給うが故にではなく、イエズス・キリストが真の天主であるからではなく、もしかしたらそうかも知れないけれども、とにかく天主が存在するかのように(veluti si Deus daretur)人生をおくらなければならない、と。

 カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ニーチェ、フォイエルバッハ、マルクスなど、ドイツの観念論は、超越する天主を人間の内部に閉じこめようとする闘いであった。カントによって、天主は、人間の道徳の守護者に成り下がり、フォイエルバッハは天主を人間の生み出したものとし、ニーチェはその死を宣言した。その代わりに人間が、全ての基準となり、原理となり、目的となった。


 聖ピオ十世教皇は、回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』(近代主義の誤謬について)において、近代主義をこう説明して排斥している。

不可知論
6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学 、[カトリック信仰の]信憑性の根拠 、外的啓示 といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義 の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。

 しかし、第一バチカン公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように』
 さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように』
 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように』と定めています。・・・


生命的内在
7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。

 したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象 ───上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます─── のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。

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アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:試練

2008年09月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


試練

 苦しまずには、どんな善も行なわれることができない。人の子はあざけられ、うったえられ、十字架にのぼって世を贖いたもうた。人々のために偉大なる功績をたてた世々の聖人たちは、みな主の御足跡を追って、主に似たものとなったのである。アルスの聖司祭(Saint Curé d'Ars)も、またこれを知っていた。彼は自分の羊の霊魂の救いのために、激しく身をむちうち、また断食し、また、夜眠らなかった。しかし、彼の愛し奉る主は、彼をなおよく御身にあやからせるために、もっとつらく、もっと苦しいなやみを彼に送りたもうた。

 一つの地方に、あるいは一つの社会に、久しい間はびこっている悪習を、矯正し、または、愛好する悪徳を攻撃しようと欲する者は、反抗をさけることができない。ヴィアンネー師も、またこれを期待するところがあった。実に師の成功は恐ろしい試練の結んだ実であったのである。

 まず最初の数ヶ月というものは、村民は聖堂に集まるごとに、絶えまない叱責、強迫、呪いを、説教壇上の師の口から聞いた。会衆がいくら不満な様子をしても、退屈な様子をしても、説教者は少しもたじろがなかった。

「あなたがたにものを言う時には、私はけっしてあくことがないのです。」と彼は彼らに告げた。
「どうだね、神父さんの説教は長いかね?」と、ある時、司教がひとりの老農夫に訊ねた。
とても長いのです。そしていつも地獄のことばかりです。神父さんはいつも両手をうって、《子供たちよ、おまえたちは救われない》と言うか、さもなくば、自分で自分の胸をうつのです。まあ、なんという胃の腑を持っている神父さんでしょう。」と彼は答えた。

 村民たちのつぶやきは、ただ説教のことばかりではなかった。「神父さんは、あまりに厳しい」これが彼に関する定評だった。告解をしても罪のゆるしをくれない。子供の初聖体も延ばされてしまう。

「きっと、うちの子だからなんだろう!」と邪推する母親もあった。

 日曜日に働きたい百姓、居酒屋でさわぎたい男たち、ダンスとその後の楽しみとが好きな若者と娘、彼らはみなヴィアンネー師の敵となった。

 こんな連中のみではなかった。ほんとうに熱心な、よい信者たちも、師の指導をあまり厳格すぎると考えた。師は自分の理想を、すべて師の指導をあおぐ人々の理想としたのだ。師は彼らの心から被造物に対する最もかすかな執着をも滅ぼしつくそうとした。そして、彼らをして克己、制欲の機会を一つものがさせなかった。彼らをもっともけわしい道に導いた。

 師に対する不平は、単につぶやきにのみとどまらなかった。師を憎む人たちは、ついに恐ろしい讒言と迫害との手段にでた。アルス村でも、まず最初に、師の招きに応じて、師のもとに集まった者は、前にもしるしたように、純真な少女たちであった。自己のいやしい楽しみの相手を失った若者たちは、師に復讐をしようとしても、公然と師に反抗することができないので、かげにまわって聞くにたえぬ風説を言いふらした。師は少女たちを不正の愛情をもって愛している。師がやせて、顔色の悪いのは、少女たちを司祭館にひき入れて、毎夜ふしだらな生活をいとなんでいるからだ。

 師の名まえが、わいせつな歌の中に歌いこまれた。師を侮辱する無名の手紙が幾回となく司祭館に投げこまれた。司祭館の門の扉にはりつけられてあったことさえあった。あるいは、また、終夜、司祭館の外でブリキカンをたたいて、そうぞうしくさわぎたてられたこともあった。

 またもっとひどい評判を立てられた。司祭館の付近に住んでいた、ひとりの不幸な娘が、父なし子を宿してしまったことがあった。なんびとの扇動によったものか、この娘は十八ケ月の間、夜な夜な司祭館の窓の下に来て、その子の父はヴィアンネー師だと言って、きたなくののしりちらしたそうである。

 一八二三年にベレー教区が復活して、従来リヨン教区に属していたアルスは、ベレー教区にはいることになった。新しいドゥヴイ司教はヴィアンネー師を知らなかった。そして、師に関する無名の投書が頻繁として来るので、遂にあるほかの司祭を派遣して事実を調査させた。この調査の結果、師の日常に一点の非難すべき点もない事が明白にされたのはもちろんである。しかし、この出来事はどれほど、師の心を苦しめたかわからなかった。

もし、私がアルスに来る時に、ここでどれほど苦しまなければならないか、ということがわかっていたならば、私はそのために死んでしまったかもしれない。」と言ったことさえある。

 これらの悩みを、師はおおしく耐えしのんだ。天主の司祭としての名誉に関するこれらの讒言に、彼の胸ははりさけるばかりであったが、彼は自分の敵をゆるし、そうするだけでなく、彼らのある者が困窮におちいった時には、それを救ってやりもした。そればかりではない、彼は苦悩を愛したのである。

「私は今に私が棒で打ち叩かれてアルスを追われ、私の聖職を停止され、終身、牢屋にいれられる日が来ると思っていた。」

 師は後年、このように親しい人にもらしたが、それにもかかわらず、「愛して苦しむことは、もはや、苦しまないことである、これに反して、十字架をのがれるのは、ますますその重さを感じることなのだ。・・・十字架の愛を願わなければならない。すると、十字架は甘美なものとなる。私は四、五年間その経験をした。私は讒言された。私はその時、実に背負いきれないほどの十字架を持っていた。私は十字架を愛する御恵みを求めた。そうして、私は幸福になった。実にこれよりほかに幸福はない、と、私は自分に言うようになった。」とも言えるようになった。

 師は悪人に抗弁せず、また、自分に託せられた地より去ることもしなかった。彼が自分の事業を、祈祷と、涙と、断食と、不眠と、鮮血とで守っているかぎり、だれひとり彼がなした善を滅ばすことができる者は存在しない。彼は敵の罵声に包囲されながら、自分の部屋にはいるやいなや、地にひざまずいて自らを鞭打ち、あわれむべき罪人の改心のために、自分の無辜の肉身をつんざいていたのである。

 右にのべたような誹謗中傷に耳をかすものは、もちろん、村民の中でも、無知な、あるいはごく不良な一部分にかぎられていた。城の女主人デ・ガレ夫人も村長のマンディ氏も、その他、村のまじめな人びとは、みなこの司祭を尊敬した。

 デ・ガレ夫人に関しては、彼女はヴィアンネー師がアルスに来る前にも、慈悲ぶかく、信仰に富んだ老婦人であったそうであるが、常に家にひきこもって人とまじわらず、その信心は、ひとしきり以前に流行したジャンセニズム(これは主として「天主のおそれ」を説き、またカルヴァン主義に似るところがあった異端で、一六・七世紀にベルギーに源を発し、一八世紀にフランスで、暴威をほしいままにしたものである)の影響をうけてかたよりすぎ、厳格すぎていた。

 それが、ヴィアンネー師の指導のもとに、次第に、うるおいのある敬虔さに変わっていった。彼女は、毎朝、城を出てミサ聖祭にあずかりに来るようになった。しかも、馬車をやめて、徒歩で来たり、冗費を節約して、貧民を助け、めぐんだのであった。のちに彼女は午後にも、なお一回聖堂に参詣し、聖体を訪問するようになった。

 デ・ガレ夫人のほかに、身分のいやしい人びとのうちにも、また数名の敬けんな老婦人がいた。それから、例の師を慕って、その指導を喜んでうけるようになった少女たちの一団がいた。こうしていつのまにか、アルスの聖堂の中には、聖体の前に祈る人影がたえないようになってしまった。いつ行ってみても、必ず、ヴィアンネー師のほかに、何人かがそこにひざまずいていた。
このような人々は、知らず知らず、師の跡を追うて、神秘の道に進みつつあったのだ。主のみ前にとどまる長い時間に、彼らが主に語る言葉は少なくとも、彼らはここにあることに無上の幸福を感じ得たのである。

 アルスの農夫に、ルイ・シャッファンジョンという老人があった。ヴィアンネー師は、彼のことをこう物語った。

「この村に数年前に死んだひとりの男があった。彼は毎朝、畑に出かける前に、教会によって祈りをしたが、ある日、鍬を聖堂の入り口に置いたままで祈りに夢中になってしまった。近所で働いている百姓たちは、どうして彼が来ないのだろうと不恩義に思ったが、ふと思いついて、帰りに聖堂によってみた。はたして、その男はそこにいた。
「いったい、おまえは長いこと、なにをしていたのだ?」と聞くと、
「私は天主をみていました。それから天主も私を見ておいでになった。」と彼は答えた」と。

 師はこの話をたびたびくり返していたが、「彼は天主を見、天主は彼を見ておいでになった。子供たちよ、宗教はこのひと言につきている。」と、いつもつけ加えて村の人たちに教えた。しかり、老農夫が到達した観想の境地こそ宗教の真髄である。

 彼はいつのまにか、ヴィアンネー師の感化によって、旧約の老トビアを思わせるような信仰の人になっていたのだ。

 このような人はあったけれども、一般に、男子と青年とは師の苦心にもかかわらず、婦人たちのように、すべてがたびたび教会に祈りに来るというわけにはいかなかった。農業があまり忙しいからである。それでも、日曜日の夕べの務めのあとに、顕示された聖体の前で、祈祷に一時間を費やす者はまれでなかった。それから、夕べになって、教会の鐘の音がなり響くと、大勢の村びとたちは、三々五々、聖堂に群れ集まって、ヴィアンネー師と声を合わせて、夕の祈りをとなえるようになった。
ヴィアンネー師は、また時々近隣の司祭の手伝いにたのまれて、付近の村で説教したり、告白をきいたり、あるいは病人を訪問したりなどした。彼はいかに、自ら疲れていようが、またそれが夜であろうが、また、雨が降ろうが、風が吹こうが、決して司祭の義務、あるいは愛徳の務めを、ゆるがせにすることがなかった。

 師はアルス村に来てから数年ののちには、非衛生的な生活と、四六時中の精神の緊張と、また、おそらくはドムブ地方の湖沼より出る毒気とによって、慢性的に熟をわずらう体となった。一八二七年に、人々に無理にすすめられて某医師の診察をうけた時の医師の記載が残っている。

 その医師は師に、脂肪、あるいは牛乳入りのスープ、鶏肉、仔牛の肉、ビール、新鮮な、あるいは煮た果実、はちみつ、砂糖と牛乳とをまぜた紅茶、よく熟した多量の葡萄などをすすめている。

 師の平素の、しかも、そのあとまでも続けられた献立を知っているわれらは、この食事表を見て、微笑を禁じえない。

 ある時、それは秋の雨降りの日であった。病人に呼ばれて、他村まで行ったけれども、高熱に戦慄しているからだで、骨の髄まで雨にぬれて、病人の家についた時には、すわっていることもできず、病人のかたわらにあった寝台に横たわって、ようやくその告白をきいた。

「私は病人よりも、もっと病気だった。」と帰って来てから周囲の人にもらした。

 隣人に対する愛も、天主に対する愛と等しく、自己の犠牲を要求するものだ。彼は聖人であったから、また、それゆえに、超自然的のお人好しであったから、善のためには、いくらでも他人の依頼に応じたのである。

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