アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、
ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。
そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『
農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!
アルスの巡礼(その一)奇跡と反対:聖ヨハネ・ヴィアンネーと聖フィロメナ
無数の巡礼が、現在生きている人を尋ねて、聖遺物でもあるかのように尊敬することは、聖会史の中にも、あまり例のない出来事だ。ところが、
一八二七年から一八五九年までの三〇年間、フランスの片田舎の、さもなくば名も知られてないような、貧しいアルス村でそれが行なわれて、昼夜聖堂の中に人影がたえたことはなかった。
もちろん、最初に師を慕って、師を尋ねて来たのは、彼が生まれた、ダルディリーや、彼が神学生時代及び助任師祭時代に住んでいたエキュリーや、あるいは、ノエの人びとだった。このように、最初の巡礼は、素朴な田舎者、師の古い知り合いにすぎなかったが、次第に、師の評判は人から人に言いひろめられて、ついには当時フランスの最も学識あり、最も有名な人が師をたずねて、自分たちの霊魂に光明を請い願うようになったのである。
一八二七年には、ある村人の証言によれば、一日に平均二〇人のよそものがアルスに来たそうだ。一八二八年には、「巡礼が多数であった」と記載されている。
やがてそのために、定期の乗り合い馬車が付近の停車場とアルス村とを連絡するようになり、
師の最後の年(一八五八~一八五九年)には、これらの乗り物を利用して来た人は約八万人に上り、徒歩で来た人は約一二万人くらいあったという。もちろん、アルス村にはこのように多数の旅客を宿泊させる設備がなかった。宿屋もだんだんできて五軒となったが、やっと一五〇人泊れるだけであったので、残りの一部分は近所の百姓家の世話になり、大多数の旅人は教会の門前や、牧場の木陰に野宿をしなければならなかったのである。
そこにはメダイやコンタツ(ロザリオの数珠)や蝋燭を売る店も出ていた。メダイやコンタツは、師に祝福してもらってみやげにするため、ろうそくは聖女フィロメナの祭壇の前でもやすためであった。ヴィアンネー師の肖像画も売られていた。祈祷書にはさむような小さいものから、額面用の色つきの粗末な石版刷りまで。師はなんびとが求めても決して肖像画をえがくためにモデルとなることに応じなかったから、それらのものは、あまり似た出来映えではなかったが、それでも人々は喜んでそれを記念に買って帰った。
ヴィアンネー師は「霊魂のために囚人となった」のである。そしてこの聖なる囚人は、死にいたるまで放免されなかった。
これらの霊魂は、師の告解場にひざまずいて、良心の煩悶を師に打ち明けて、罪のゆるしを乞うとともに、将来の注意を求め、あるいは、キリスト教的完徳に進もうと欲して、師の有益な助言と、勧告とを願いに来た人々である。しかしながら、中には「生きている聖人」を見に来た物好きな人もあった。
しかしこの連中も、その大部分は、親しく師の声に接すると、まじめな心に立ち帰って告白をし、改心して家にもどった。ある時、「摂理の家」のカトリン・ラッサイニュが単純に言った。
「神父様、ほかの神父様がたは、罪人のあとを追いかけてお歩きですが、神父様の所には、罪人のほうから追いかけてまいりますわ!」
師は、この時、超自然的な歓喜にたえずして、同じ単純な調子で、「まあそうだね」と答えたそうである。
ヴィアンネー師の奇跡の評判が、アルスの巡礼を多くしたのは事実である。いつごろからこの評判が立ちだしたのだろうか?かの小麦と粉との増加の不思議は、比較的早期にあったのだから、この時分からして、人々がそのような噂をしはじめたものらしい。
謙遜なヴィアンネー師は、自分が尊敬されることを極端にきらった。しかし、そのうちに種々の病人が師のもとに連れてこられるようになった。非常に当惑した彼は、彼がその遺骨の一小片を所有しており、彼が非常に愛していた聖女フィロメナのとりなしに、すべての奇跡を帰して、自分はいわばその影にかくれようとした。
聖女フィロメナ小聖堂では、肺病や、めくらや、おしや、半身不随の患者がいやされた。師は病の治ることを求める病人に、そこで祈るようにすすめたが、その前に、彼らに熱心に罪を痛悔するように命じた。
「それはだめだ」とか、「あなたはそれに値しない」とか、師に言われれば、決して奇跡的に病の治ることはおこらなかった。
のちに述べる一八四三年の師の重体のすぐ後であった。のどの病におかされて、二年このかた一語も発することができず、ようやく筆談で用を弁じ、そのうえ、のどにたえまない激しい痛みを訴えている婦人が師のもとに来た。
「あなたには地上の薬は役にたたぬ。しかし、天主はあなたを癒そうと思し召しになっています。聖女フィロメナに祈りなさい。筆談の道具を聖女の祭壇の上にのせて、無理におねだりなさい。もし天主があなたに声を返してくださらないならば、聖女の声をゆずってくださいと願いなさい!」
彼女の祈祷はたちどころに聞き入れられた。
シャルル・ブラジーという男は、両足が痲痺して、松葉杖にすがらねば歩くことができなかった。ヴィアンネー師は、彼に聖女に向かって九日間の祈祷をしなさいと薦めた。なんの効果も表われない。信仰がたりないのだ。この男はもう一度祈祷をくりかえした。しかし、まだ疑いの心がさらなかった。
「神父様、杖をここにおいて帰ることができるでしょうか?」
「さあ、まだいるだろうよ!」と師は答えた。
しかしながら、祈祷の日をかさねているうちに、彼の心に信仰がもえだした。満願の日は八月一五日、聖母被昇天の大祝日だった。病人はその日、師のミサ聖祭のあとに、祭器室に身をひきずってやって来た。
「神父様、どうでしょう?今度は杖を聖女フィロメナにさしあげて、よろしゅうございますか?」
「よろしい!」
この男は両杖を空中にさしあげながら、群衆をかきわけ、聖女の小聖堂に走り去った。
両足の痲痺はこの瞬間に完全になおってしまったのだ。
一八五七年の灰の水曜日に、八才になる男の子を乳母車にのせて連れて来た、身なりのいやしい貧しい母があった。この女は告白をすませてから、ミサのあとに無理に祭器室にはいって来た。そして、子供のために師の祝福を願った。
「この子は抱いて歩くには大きすぎる。さあ、あなたは立ち上がって、子供を床にたたせてごらん!」
「でも、立てませんもの!」
「きっとできる。聖女フィロメナにおすがりなさい」
師に言われたように、女は子供を床におろして、その手をとって、どうかこうか、聖女の小聖堂まで連れていった。子供はおよそ四五分間ほどそこに跪いて祈っていた。
母は激しい感動にとらえられて、その間始終涙にむせんでいた。
すると突然子供は自分で立ち上がって、「おなかがへった!」というと、いきなり母のさし出す手をふりきって、聖堂の入り口に向かってくつ下のままかけて行った。見ると雨が降りだしていた。
「おかあさん、だから靴をもってくれはいいのに!」
木靴を買ってもらった子供は、大喜びで、他の子供たちと遊びだした。この奇跡はアルスでも大評判になった奇跡の一つだ。
こんなふうに、奇跡の大多数は、聖女フィロメナのとりなしになっていたが、聖女がくるのがまに合わなくて、ヴィアンネー師が奇跡の現行犯人?となったこともある。
ある貧しい女が、松葉杖にすがってやって来た。女はあわれみをこうような目つきでヴィアンネー師の顔をみつめた。その気の毒な様子に師は思わず
「歩いてごらん!」と言った。師に付き添っていた助任司祭のトッカニェ師も、「さあ、言いつけられたように歩いてごらん」と言った。
ほんとうに、女は歩きだした。巡礼の群衆は夢中になった。
「さあ、早くつえをもって、あっちに行きなさい!」とヴィアンネー師は彼女を追い立てるが早いか、自分もまた大急ぎで、あっちに逃げていってしまった。
ある日、師は自分で話した。
「きょうは実にえらいことが起こってしまった。私は本当に恥ずかしくて、鼠の穴でもあったら、その中にはいってしまいたかった。・・・天主はまた奇跡をなさるので、どうにもこうにも仕方がない。ある女が、目のところに大きなはれもののある子供を私の所につれて来た。そして、私の手をそれに触れると、それが消えてしまったじゃないか・・・」
「こんどは、聖女フィロメナではないでしょうね?」と聞いていたトッカニェ師がつきこんだ。師は暫くだまっていたが、やがて、「やっぱり、それでも何かしてくださったのだろう」と返事をした。
数千人の病人が全快を望んでアルスに来たのだが、いやされたのは、そのうちの何割あるいは何分だったろう?それはわからない。ただいやされない人が大部分を占めていたことは疑うべくもない。それは今日のルルドでも同じことだ。
病気の治癒は最も貴重なたまものではない。病苦に耐える力こそ、よりとうとい天主の賜物なのである。なぜならば、しのぐことを知る霊魂にとっては、病床は霊魂を清めて、人を天主に近づかせる修徳の道場であるからだ。
ある時、師はひとりの病人に言って聞かせた。
「私の友よ、あなたが治るように祈っていいかどうか私にはわかりません。そんなにりっぱに十字架をになえる肩から、それを取ってしまうのは、惜しいことです!」
が、しかし、師がかくまでその取り次ぎに信頼し、天国における「彼の代理人」「彼の大使」だと呼んだ聖女フィロメナとは、どのような聖女であろうか?また、なぜ彼は巡礼をこの聖女に対して特に祈らせたのか?
おかしな事には、聖女フィロメナは、私たちがそれについて、最も知るところの少ない殉教者である。聖女の存在それ自身さえ、全く偶然に(人間の目からみれば)世に知られたのだ。すなわち一八〇二年の五月二四日に、ローマの聖女プリシッラのカタコンプを修理していた一職工が、たまたまある一つの墓を発見したのである。そこにほ、《フィロメナよ、なんじに平安あれ》という簡単な碑銘があって、一四、五才と思われる少女の骨が横たわっていた。その頭のそばには一つの小さいガラスの瓶の破片があった。これは、少女の鮮血の数滴をいれたものに相違なく、初代教会が殉教者を葬る時にした習慣であった。そして、その付近の壁には、三本の矢と二つのいかりと一本のオリーブの枝が描いてあった。われらが聖女に関して知るところはそれだけである。いつの時代の人であるか、いかなる身分の人であるか、いかなる殉教を遂げたのであるか、全く知るよしがない。フィロメナという名さえ、少女の本名かどうかわからない。フィロメナとは「愛する者よ」の意味であるからである。
千七百年の間、フィロメナは人に知られず、ローマの地底に眠っていた。他の殉教者たちの遺骨は、人びとの尊敬をうけるようになっても、彼女の眠りはさまたげられなかった。地上での彼女の仕事は終わってしまっていたらしかった。彼女の遺骨が発見されてからも、まだ人びとは彼女に注意しなかった。
三年ののちに、ある若い司祭が自分の司教のおともをしてローマに来た。この司祭は信仰が鈍っている自分の受け持ち教会に天主の祝福をうけるために、この機会を利用して、殉教者の遺骨を持って帰りたいと希望した。最初、彼に与えられたのは、カタコンブからの名まえもわからぬ遺骨であったが、それでは物たりないので、司祭は名の知れている遺骨をこうた。そこで特別の好意によって、三体の名の知れている遺骨の中から、ほしいものを選んでさしつかえないとゆるされた。司祭は単にフィロメナの名に興味を感じてこれを選択した。
持って行かれた遺骨はナポリで、片手に矢を、他の片手にゆりとパームとを持っている小さな聖像の中におさめられた。そして、ある信心深い婦人が、衣服をつくって、聖像に着せることになった。この婦人が聖像に手をふれるやいなや、たちまちにして彼女の一〇年の持病がなおったのである。聖像がたずさえられて司祭の郷里に向かう途中、行く先先の町で、村で、奇跡はますます盛んに行なわれだした。司祭も、修道士も、貴人も、民衆も聖像の周囲に群がるようになった。そして、ついに教皇も、慣例を破って、信仰のために殉教したことのほかに事跡の知れないこの少女を、聖列に加えた。素性の知れぬ人が、祭壇上に公の栄誉をうけたのは、教会史上、未曾有のことであったのである。
ヴィアンネー師は、ふとしたことから、リヨンのポーリヌ・ジャリコ(彼女はのちに有名な信仰弘布会を建てた婦人である)から、聖女の遺骨の一小片をもらいうけて、アルスの聖堂の内部に、「聖女フィロメナの小聖堂」を造り、そこの祭壇の上に、殉教のパームを手にして横たわる聖女の像を安置した。
ヴイアンネー師は、なぜこの聖女フィロメナと特に共鳴したか?聖人伝の愛読者なる師は、大勢の聖人伝や逸話を知っていて、説教をする際にも、たびたびそれを引用した。それなのに、なぜ、師はそれについてなんの知るところもないこの聖女を、特に愛したのか?われらは天主の摂理のすべての理由を知ることができない。しかし、われらの推測を用いて、その幾分かを想像するならば、まず
第一に、聖女フィロメナは、ヴィアンネー師の愛してやまない「かくれたる者」であった。聖女に関しては、この世では・・・どのようにして彼女が去ったかということのほかに・・・何事も知られていない。彼女の霊魂が天国において大いなる栄誉をうけている間にも、地上では、天主は彼女を人間の尊敬からかくしたもうた。彼女は存在しなかったも同然であった。しかるに千七百年ののちに、天主は突然多くの奇跡をもって、彼女の「灰」さえ、その御眼にいかにとうときかを示したもうたのだ。ヴィアンネー師は言ったことがある
「私たちは聖人にならなければならない。けれども他人にそれをさとられてはならぬ。聖女フィロメナがよいお手本だ」と。
第二に、アルスの聖司祭は、聖女フィロメナの尊敬が、一に無条件の信仰であることを喜んだのだろう。前にものべたとおり、われらは彼女に関してなんらの人間的、歴史的な知識をもっていない。教会は彼女に対して一つの除外例をもうけたのだ。われらの有するものは彼女の奇跡と教皇のことばのみである。ヴィアンネー師は純粋に天上的な彼女を愛したのである。
しかし、おそらく
一番おもな理由は、ヴィアンネー師が人々の注目をひきだして、それを非常に心苦しく感じていた時に、都合よく聖女フィロメナが出現したことであろう。師は奇跡を行なうようになりだした。もとより彼は、それが天主の大能のあらわれであって、天主がその能力を示さんがために、もっともいやしい道具を用いたもうのだ、ということを知りぬいていた。ただ天主に「いな」と答えて、そのみわざをさまたげないことだけが彼の仕事である。とはいうものの、奇跡は奇跡である。いくら、彼が自分は虚無であると言ったところで、そばの人は承知しない。彼が人々の賞賛をさけることもできないし、また、多少の満足感を覚えないこともなかったであろう。それゆえ、ヴィアンネー師は、これらの不都合をさけるために、なんぴとかの身代わりを要したのである。なるほど、彼の聖堂には、大天使聖ミカエルの聖像も、洗礼者聖ヨハネの聖像もあった。しかしながら、大天使聖ミカエルも洗礼者ヨハネも、久しい以前からそこにいて別に奇跡は行なわなかった。それが急に奇跡を行ないだしたとしたならば、いったい、天国で何事が起こったかと、人々はあやしむに相違ない。しかるに聖女フィロメナであるならば、今ちょうど奇跡を行ないだしたところでもあるし、新奇な聖女の出現に、人気が沸騰している最中である(あきっぽい人間に対しては・・・聖人にもはやり、すたれがある・・・天主はわれらを救ってくださるために、このようにわれらの弱点までも、これを利用したもうのである)ヴィアンネー師はそれで、人目につきやすい肉体的な奇跡を、聖女フィロメナにたのんだものであろう。
上のような推測はとにかくとして、実際、聖女フィロメナは、ヴィアンネー師とともに、苦しみなやむ巡礼者の祈祷を天主のみ前に取り次ぎ、こい求める奇跡を行なってくれる力づよくやさしい助け手であった。
しかしながら、聖女とアルスの聖司祭との間には、もっと深い内面的な関係があった。それは、ただの人の前の言いわけだけではなかった。アシジの聖フランシスコと聖女クララ、聖ベネディクトとその妹聖女スコラスチカ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロとルイズ・ド・マリヤック、その他多くの例があるようにヴィアンネー師と聖女フィロメナとの間には、霊魂の奥ふかくに、神秘的な純潔な愛情がかわされていたのである。フランスの片田舎の村司祭と、千七百年も昔のローマの一少女との間に結ばれた友愛。このような珍しい例は、ほかにない。
しかし、確かに、聖女フィロメナは、(ダンテにとってベアトリチェがそうであったように)ヴィアンネー師の「ベアトリチェ、彼の理想、彼の星、彼の導き手、彼の慰め手、彼の清き光」であったので、この友情は聖司祭が年老いるとともに、ますます深く、ますますこまやかになっていった。師はある時、カトリンにこのようなことを言った。
「この三晩というものは、私は、ものたりない思いがした。何か空虚がある。聖女フィロメナは、私の彼女に対する思い方がたりないと言って、私を叱っているようだ。私はもう少し彼女に祈ろうと約束した」
ヴィアンネー師の心の中にあったものは、
「熱い、騎士的の愛」であったのだ。彼の心は、人からくるそしりや中傷、たえまなき悪魔の攻撃のうちで、聖女フィロメナによって、どれほどささえられ、慰められたかしれないのである。
(注)教皇ヨハネ二三世は、歴史的に確証のない聖人や、その他の言い伝えに基づいて祝われていた祝日を、教会の典礼から除外した。聖女フィロメナの祝日も同じように除外された。
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