Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

(フリオ・メインビエレ神父による)「カトリック神学によるユダヤの民」

2008年12月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 待降節です。人類が天主から約束されたメシアを待望して四千年の間待ちこがれていた時期を私たちは典礼において生きています。天主が人となったという歴史的事実は、世界の無からの創造という事実に並ぶ一大事件でした。天主が人となって生まれる、ということほど偉大な事件はありません。

 天主が人となって私たちの内に住み給うたことは、歴史の頂点であり中心です。私たちにはこれに対して二つの態度しかありません。私たちの主イエズス・キリストを救い主として信じて受け入れるか、あるいは拒否するか、です。キリストの側につくか、あるいは反キリストの側につくか、です。
 歴史は私たちの主イエズス・キリストを角の親石として流れています。私たちに救い主を与えるために天主はアブラハムを選び給い、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちが選ばれた民として救い主を迎えるはずでした。天主によって聖別された選民、人類の救霊事業のために特別の召命と使命を受けた民が。

 悲劇は、この聖なる民が自分の使命に忠実ではなかったことでした。政治の問題でもなく、経済の問題でもなく、民俗学の問題でもなく、社会学の問題でもなく、人類学の問題でもありませんでした。神学の問題でありました。

 そこで Julio Meinvielle 神父様の書いた『歴史の神秘におけるユダヤ人』"El judío en el misterio de la historia" から、

第1章、カトリック神学によるユダヤの民 (Capítulo I: El Judío según la Teología Católica) をご紹介致します。

=====


 ユダヤ人は、今日生まれ明日消えていくような他の民族と同じではない。ユダヤ人は時と空間とに限定された素晴らしい文明を作り上げる他の民族と同じではない。エジプトの様々な大帝国、アッシリア帝国、ペルシア帝国、ギリシアとローマの帝国を私たちは思い出す。彼らの栄光は、一日だけの栄光であった。

 ユダヤの民は、東洋と西洋との十字路に刻まれた大変小さな部分であるが、この小ささをして天主の神秘を数世紀にわたって運ぶものとした。そして民族の肉体において刻まれたこの天主の神秘を運ぶために。

 ユダヤの民は文明を創造してはならない、何故ならこれは人間に関することだからである。彼らには天主に関することだけが委ねられている。

 これは神学的な民である。天主が御自分のために創造された民であるから。主なる天主がイエズス・キリストのご来臨の二千年前に、メソポタミアのカルデアにあるウルに住んでいた太祖アブラハムを呼び、次のように言われたことをモーゼは「創世の書」において私たちに伝えている。

1- おまえの土地と親と父の家を出て、私がおまえに示す国に来い、
2- そうすれば、私はおまえを偉大な民とし、おまえを祝福し、おまえの名前を偉大なものとしよう、おまえは祝福されるだろう、
3- 私は、おまえを祝福するものを祝福し、おまえを呪うものを呪うだろう、おまえにおいて地上の全ての血筋は祝福されるだろう。(創世の書十二章)

 ユダヤの民は、アブラハムの子孫であり、天主にその起源がある。何故なら天主がその他人類の中からこれを選び給うたからであり、天主が、これにおいて地上の全ての血筋が祝福されることようにこれに約束したからである。従って、イスラエルは偉大なものであり、これは神学的な偉大さにおいて偉大である。

 しかしこのイスラエルの偉大さはアブラハムの肉体上の子孫であるということだけにあるのであろうか?それともアブラハムが天主の約束に対して持っていた信仰においてあるのだろうか?

 このことは極めて重要である。何故なら、もしも天主の祝福がアブラハムの肉体上の子孫のためのものであれば、アブラハムの子孫であるという事実から、ユダヤの民は地の全ての民のなかで選ばれ祝福されたものとなるからであり、もしも、その反対に、この祝福が天主の約束に対する信仰に限定されているとすると、肉体上の子孫と言うことには価値が無くなる。約束に対する信仰によってアブラハムの子孫とならなければならない。つまり、信仰に基づく霊的子孫と言うことだ。


イスマエルとイサアク

 天主の御計画に寄れば、イスラエルの偉大さは、どこに存するのだろうか?

 これを示すために、天主はアブラハムに二人の息子を与えた。一人は奴隷女のアガルからの子供であり、普通の自然のやり方で生まれ、イスマエルという名前を付けられた。もう一人は、全ての期待に反して、その老後に妻のサラが彼のために生んだ息子で、天主の約束に適う子供であり、イサアクという名前を付けられた。

 イサアクとその子孫たちとともに、天主はアブラハムと結んだ契約を確認し給うた。イスマエルに対しても、主は祝福を与えたが、彼をして偉大な民の頭にするということを約束する単に物質的なものであった。このイスマエルから現在のアラブの民が生まれて、ユダヤ人がパレスチナに入ることに激しく対立している。奴隷女の子供イスマエルは、イサアクを軽蔑し迫害していたので、アブラハムは妻であるサラの頼みに従って、天主の命令にも従いながら、イスマエルを家の外に追い出さなければならなくなった。(創世の書二十一章)

 アブラハムのこの二人の子孫であるイスマエルとイサアクとは何を意味しているのだろうか?天主の神秘に関する偉大なる使徒、聖パウロは私たちにこう説明する。イスマエルとイサアクとは二つの民の前兆であると。

(律法に服従しようとするあなたたちは、私にいうがよい。あなたたちには律法がわかっているのか?アブラハムには二人の子があった。一人は奴隷女から、一人は自由民の女から生まれたとかきしるされている。奴隷女の子は肉体によって生まれ、自由民の女の子は約束によって生まれた。そのことは、前兆として語られている。すなわちこの女たちは二つの契約である。一つは、シナイの山から出て、奴隷を生む。これがアガルである。またアガルは、アラビアではシナイの山を指す。そしてアガルは、その子らとともに奴隷になっている今のイェルザレムと同列である。しかし上にあるイェルザレムは自由であって、私たちの母である。果たしてこうかきしるされている。「石女(うまずめ)で子を生まぬ者よろこべ。生みの苦しみを知らぬ者、声あげてよろこべ。ひとり住みの女の子どもは、夫のある女の子どもより多い」。兄弟たちよ、あなたたちは、イザアクのように約束の子である。そのころ肉体によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今もそうしている。しかし聖書には何といわれているか?「奴隷女とその子を追い出せ。奴隷女の子は自由民の女の子とともに遺産を受けられないから」とある。そして兄弟たちよ、私たちは奴隷女の子ではなく、自由民の女の子らである。)

 アブラハムの子として奴隷女アガルから自然な実りとして最初に生まれたイスマエルは、アブラハムの肉から来る栄光としてユダヤ人たちの会堂(シナゴーグ)を前兆している。それに対し、イサアクは、天主の約束に従って石女(うまずめ)のサラから奇跡的に生まれ、カトリック教会を表現し前兆している。教会はイサアクのようにキリストの約束に対する信仰から生まれたからだ。

 従って、アブラハムの肉体上の子孫が救われるのではなく、キリストへの信仰によって霊的にアブラハムと結ばれる人々が救われるのである。

 アブラハムにおいて形成されたユダヤの民は、アブラハムとの肉体上の一体化によるのではなく、キリストを信じることによって信仰においてアブラハムと同化することによって救いを得ることができるであろう。

 キリストと一致するものは全てアブラハムと太祖たちの至福の子孫を形成し、天主の約束の対象となる。カトリック教会とは、天主の力によって豊饒となったサラである。霊は生かし、肉はその反対に何の役に立たない。これについてイエズス・キリストは語るだろう。

(「生かすのは霊で、肉はなんの役にも立たない。私のいった言葉は霊であり、命である。」ヨハネ六章)

 この民が、言い換えるとアブラハムに肉の繋がりによって結合しているこの民の一部が、この血統だけの一致のみが義化するものであり救霊に結びつくものであると信じることが起こりうるのであろうか?

 然り。それは起こりうることであった。そしてそれが起こってしまった。そしてこれの前兆として、使徒聖パウロが解説するには、天主は「アブラハムには二人の子があった。一人は奴隷女から、一人は自由民の女から生まれた。奴隷女の子は肉体によって生まれ、自由民の女の子は約束によって生まれた。」とさせたのであった。

 これは全てアレゴリア(類型)として語られたが、それはアブラハムとの肉的な一致という事実は奴隷の子であるイスマエルにおいて表現され、イエズス・キリストへの信仰によるアブラハムの模倣は、約束の子であるイサアクにおいて前兆された。

 また、真のイスラエル人と、イスラエル人とを区別しなければならない。何故なら真のイスラエル人は、アブラハムの天主に対する信仰をイエズス・キリストを信じることによって真似たからである。イスラエル人はアブラハムの信仰を真似ずに肉による子孫である。そしてこれはイスマエルによって前兆された。

 イスマエルはイサアクを迫害した。聖パウロはそれを解説してこう付け加えている。「そのころ肉体によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今もそうしている。」(ガラチア4:29)

 以上がイスマエルがイサアクを迫害することが神学的必要性であると表明することであり、これがシナゴーグ(ユダヤ会堂)がカトリック教会を迫害する理由であり、血肉による結合だけによってアブラハムと結ばれているだけのユダヤ人たちが、キリストへの信仰によってアブラハムと結ばれている真のイスラエルであるキリスト教徒たちを迫害する理由である。

(つづく)

【関連記事】

【参考資料】「十字架の印」の韓国語訳(聖号経)と中国語訳

2008年12月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「十字架の印」を伝統的な韓国語でどう唱えるかをご紹介致します。

성호경(聖号経)

† 성부(聖父)와 성자(聖子)와 성신(聖神)의 이름을 인(因)하여 하나이다. 아멘.


【台湾】
十字聖號經
因父,及子,及聖神之名者。阿們。

【香港】
聖號經
因父。及子。及聖神之名者。亞孟。

 中国語に訳された最初の「」という漢字は、ラテン語の
In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti の最初の in という言葉から由来しています。

 天主教は韓国に中国経由で(特にマテオ・リッチの『天主実義』を通して)伝えられたこともあり、中国語の用語の影響が多く見られます。そのため、

† 성부(聖父)와 성자(聖子)와 성신(聖神)의 이름을 인(因)하여 하나이다. 아멘.

と、因という言葉が入っています。

十字架の印
聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アメン。

SIGNUM SANCTAE CRUCIS
In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti. Amen

【関連記事】


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】