I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言
公会議の目的を明らかにする
ルフェーブル大司教は最初の総会から公会議の曖昧さ(多義性)が現れたと書いた。いったい何のためにこの公会議を開催したのか? 教皇ヨハネ二十三世は、公会議を方向付けたそのやり方をしっかり語り、教理を司牧的に表明することをとした (10月 11日の講話)。
ところが曖昧さ(多義性)はそのまま残った。公会議が何を言おうとしているのか公会議が望んでいたことを知ろうとすることが難しいと言うことに、様々な発言と討論とを通じて人々は気づきだした。
人々は、こう言っていた。
「公会議はドグマ的公会議ではなく司牧的だ、私たちは新しい信徳道理(ドグマ)を定義するのを望まない、真理を司牧的に説明するのだ」と。
自由主義者及び進歩主義者たちは曖昧な雰囲気の中で生きるのを好む。何も定義しないということを口実に、健全な教理を明確に説明することも放棄するのだろうか?
ルフェーブル大司教はこう説明する。
「だから、 11月 27日の私の提案、それは私が既に中央準備委員会に提出した提案で、 120人という大多数の委員たちの承認を受けた提案があったのです。公会議でその提案はルッフィーニ枢機卿及びロワ大司教(Mgr Moy, ケベックの大司教)を含める幾つかの票を得ていました。この提案は、公会議の‘司牧的’性格とは何だったのか正確に設定する機会となっていたことでしょう。」
大司教はマイクの前に立ってこう言った。
「現代の誤謬に割りこむ余地を与えないように私たちの教理をどうやって定義し、そして一つの同じ文書の中で、どうやったら神学をよく知らない人々にこの真理を分かりやすく理解させることができるだろうか?」
革新者たち皆が耳をそばだてていた。このルフェーブルという男は、彼らの計画を可能ならしめていた「司牧的」という単語の曖昧さを取り除いてしまおうと何を提案するのだろうか?と。
ルフェーブル大司教はこう言った。
「それぞれの委員会は二つの文献、すなわち一つはより教義的なテキストで神学者たちのための文書であり、他方はより司牧的で、カトリックであれ非カトリックであれ、あるいは未信者たちであれ、その他の人々のための文書を作ることができるはずです。」
大司教は自分が出す解法の長所を詳しく説明した。しかし彼らはこれ以上彼の言葉を聞こうと思わなかった。何だって? 二つの文書だと! そうなら仕事が二倍になる。いずれにしてもスコラ哲学的な用語を使うことなど問題外だ。
勿論、ルフェーブル大司教は精緻な正確さを持ってこれら二つの反論に論駁していた。すなわち、むしろ仕事が単純になるだろう、そして皆が公会議から最大の利益を引き出すことができるであろう、と。
しかし自由主義者たちと新近代主義者たちは、多義性というベールを保ち続けようと堅たく決心していた。
「公会議の目的を明確に説明するということは、彼らをとても苛立たせた。従って、私の提案は拒否された。」
第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言