アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでしょうか?
天主が人となったという歴史的事実は、世界の無からの創造という事実に並ぶ一大事件でした。天主が人となって生まれる、ということほど偉大な事件はありません。
クリスマスの偉大さを理解するために、まず、天地の創造の偉大さを黙想しましょう。
天主は天地万物を無から創造しました。「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に、現実に「ある」ようになります。その前にはものは「あり」えません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、何かが冷たいから熱いへと動くようなその何か(「基体」と呼んでおきましょう)を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在さえも無かった、絶対的な意味での無いから有るという絶対的な変化です。
被造物から見ると、「創造された」ということは、天主に対する絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。
しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。
天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちが、ここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。
ここでクリスマスの神秘の偉大さに話を移します。
今から2008年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。天主が人間となることです。
これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。
しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。
天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。
従って「神はイエスを通して自己定義された」こともなければ、「神が御自身をイエスの父として定義づけられた」こともありません。
因みに「天主の定義」というものはありません。
ですから「イエスが神の永遠の本質に構成的に属する」とか、「イエスにおいて人間の現実が、神に取り入れられた」とか「父の右に上げられたキリストは、人間であることをやめるわけではないのだから、ある意味で人が神の定義に入り込んだ」などということは決してありませんでした。また「イエスの具体的な生涯は、神の永遠の本質に属し、これを構成している」などということも全くありません。
ですから「神の定義は、キリスト教信仰によれば、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざを除外してはありえない」【=つまり「神の定義は、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざをもってなされなければならない。】ということも、キリスト教の正統な信仰とは全く関係ない主張です。
これらは「本質」とか「定義」という言葉の意味をよく知らない人のいう言葉遊びにすぎません。
何故でしょうか。天主は、人間となる義務も必然性もなかったからです。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来たからです。
もう一度確認しましょう。
天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間なったという、この事実と真理を信じる信仰に、全キリスト教信仰は立っています。
しかし繰り返しになりますが、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。
ですから「イエスの生と死と復活を、最終的、決定的、不可逆的、終末論的なできごととして信仰告白することの中には、論理的に言って、すでに、このできごとが神の永遠の本質の中に根拠付けられている、という起源論的な主張が含蓄されているである」ということは、全くの間違いだと言わなければなりません。
もしこれが本当だとすると、天主の全能と天主の自由が無くなってしまい、本質によってプログラムされた必然的・本能的必要性として、托身が行われ、救いの業が行われたということになってしまいます。しかし、これはキリスト教信仰に反しているからです。
私たちの主イエズス・キリストが托身することは、天主の自由な愛によってなされました。本質によって必然的になされたものでは決してありませんでした。
天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。
この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。
天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。
そして天主の御言葉が人間となったことによって、天主は何も変わることがありませんでした。
ここに、天主の私たちに対する自由な無限の愛を見るのです。
天主が人となって私たちの内に住み給うたことは、歴史の頂点であり中心です。私たちにはこれに対して二つの態度しかありません。私たちの主イエズス・キリストを救い主として信じて受け入れるか、あるいは拒否するか、です。キリストの側につくか、あるいは反キリストの側につくか、です。
歴史は私たちの主イエズス・キリストを角の親石として流れています。私たちに救い主を与えるために天主はアブラハムを選び給い、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちが選ばれた民として救い主を迎えるはずでした。天主によって聖別された選民、人類の救霊事業のために特別の召命と使命を受けた民。
悲劇は、この聖なる民が自分の使命に忠実ではなかったことでした。政治の問題でもなく、経済の問題でもなく、民俗学の問題でもなく、社会学の問題でもなく、人類学の問題でもありませんでした。神学の問題でありました。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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天主は天地万物を無から創造しました。「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に、現実に「ある」ようになります。その前にはものは「あり」えません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、何かが冷たいから熱いへと動くようなその何か(「基体」と呼んでおきましょう)を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在さえも無かった、絶対的な意味での無いから有るという絶対的な変化です。
被造物から見ると、「創造された」ということは、天主に対する絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。
しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。
天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちが、ここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。
ここでクリスマスの神秘の偉大さに話を移します。
今から2008年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。天主が人間となることです。
これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。
しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。
天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。
従って「神はイエスを通して自己定義された」こともなければ、「神が御自身をイエスの父として定義づけられた」こともありません。
因みに「天主の定義」というものはありません。
ですから「イエスが神の永遠の本質に構成的に属する」とか、「イエスにおいて人間の現実が、神に取り入れられた」とか「父の右に上げられたキリストは、人間であることをやめるわけではないのだから、ある意味で人が神の定義に入り込んだ」などということは決してありませんでした。また「イエスの具体的な生涯は、神の永遠の本質に属し、これを構成している」などということも全くありません。
ですから「神の定義は、キリスト教信仰によれば、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざを除外してはありえない」【=つまり「神の定義は、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざをもってなされなければならない。】ということも、キリスト教の正統な信仰とは全く関係ない主張です。
これらは「本質」とか「定義」という言葉の意味をよく知らない人のいう言葉遊びにすぎません。
何故でしょうか。天主は、人間となる義務も必然性もなかったからです。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来たからです。
もう一度確認しましょう。
天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間なったという、この事実と真理を信じる信仰に、全キリスト教信仰は立っています。
しかし繰り返しになりますが、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。
ですから「イエスの生と死と復活を、最終的、決定的、不可逆的、終末論的なできごととして信仰告白することの中には、論理的に言って、すでに、このできごとが神の永遠の本質の中に根拠付けられている、という起源論的な主張が含蓄されているである」ということは、全くの間違いだと言わなければなりません。
もしこれが本当だとすると、天主の全能と天主の自由が無くなってしまい、本質によってプログラムされた必然的・本能的必要性として、托身が行われ、救いの業が行われたということになってしまいます。しかし、これはキリスト教信仰に反しているからです。
私たちの主イエズス・キリストが托身することは、天主の自由な愛によってなされました。本質によって必然的になされたものでは決してありませんでした。
天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。
この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。
天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。
そして天主の御言葉が人間となったことによって、天主は何も変わることがありませんでした。
ここに、天主の私たちに対する自由な無限の愛を見るのです。
天主が人となって私たちの内に住み給うたことは、歴史の頂点であり中心です。私たちにはこれに対して二つの態度しかありません。私たちの主イエズス・キリストを救い主として信じて受け入れるか、あるいは拒否するか、です。キリストの側につくか、あるいは反キリストの側につくか、です。
歴史は私たちの主イエズス・キリストを角の親石として流れています。私たちに救い主を与えるために天主はアブラハムを選び給い、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちが選ばれた民として救い主を迎えるはずでした。天主によって聖別された選民、人類の救霊事業のために特別の召命と使命を受けた民。
悲劇は、この聖なる民が自分の使命に忠実ではなかったことでした。政治の問題でもなく、経済の問題でもなく、民俗学の問題でもなく、社会学の問題でもなく、人類学の問題でもありませんでした。神学の問題でありました。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
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文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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