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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その5

2013年07月24日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という文章を掲載しましたが、いくつかご質問をいただきました。それらに対するお答えの続きです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【質問】
司教は、異端者になることが出来るのでしょうか?


【お返事】
 司教は、異端者になることが出来るか否かについて答える前に、質問の意味を明確にしておきます。「異端者」には、二種類があります。一つは、本当の(formal)異端者で、異端説であると知りつつも故意に意図的に教会の教導権の教えを拒む者です。もう一つは、内容はそうであるが形だけの(material)異端者で、そのつもりがなくあるいは善意で教会の教えがそうであると誤解していたがために異端説に陥っている異端者です。

 カトリック教会の歴史をひもとくと、残念ながら、内容それ自体は異端であるが、善意で教会の教えがそうであると誤解していたがために、形だけの(material)異端説に陥ってしまったのみか、何回かカトリック教会当局から公式の警告を受けても、それを改めようとせず、当の(formal)異端者であると見なされたケースがいくつかあります。

 たとえば、ネストリウスです。ネストリウスはコンスタンチノープルの総大司教でしたが、428年の4月に司教に聖別されましたが、同年のクリスマスの説教で、聖母マリアは天主の聖母ではないと宣言し、天主が肉体を持つなどあり得ない、人間イエズスが神性にふさわしい者となった、と言い、聖チェレスティノ教皇はすぐにこの教えを排斥しました。

 そこで、司教は、本当の意味の(formal)異端者となることができると答えなければなりません。

【質問】
異端者は有効に公教会を統治出来るのでしょうか?

【お返事】
 すでの指摘したとおり、「異端者」には、二種類があります。一つは、本当の(formal)異端者で、異端説であると知りつつも故意に意図的に教会の教導権の教えを拒む者です。もう一つは、形だけの(material)異端者で、善意で誤解していたがために異端説に陥っている異端者です。

 たとえば司教の場合、この司教よりも上位にある教会当局が公式に複数の警告を出し、その後でも異端説に固執する場合、本当の(formal)異端者となります。そして、教会当局からの正式な裁治権の剥奪が発表されなければなりません。それまでは、異端者となった司教は、教会を統治する権限を持っていると考えられています。司教の場合にはっきりと確認できることは、教会は公式の宣言を持って初めて司教の統治の力(裁治権)を剥奪するということです。


【質問】
教皇は、異端者になることが出来るのでしょうか?


【お返事】
 これは難しい問題です。何故なら、私たちの主イエズス・キリストが聖ペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたたちを、麦のようにふるいにかけることができたが、私は、あなたのために、信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22章)と言われたからです。イエズス・キリストの祈りは必ず聞き入れられるはずだからです。

 しかし歴史を見ると、二種類の「異端者」のうち、善意の、あるいは脅されたなどのために不本意で、異端説に荷担することが少数の例において認められます。何故なら、教皇リベリウスは個人的にアリウス説の異端におち、教皇ホノリウスはキリスト単一意志説(モノテリズム)の誤謬におちたと思われているからです。

 ここで、繰り返し注意を喚起すれば、教皇が教皇として異端者となったのではないということです。つまり、教皇が教皇としての教導権を行使しして、全教会にある異端説を信じることを強要したのではないということです。

 教皇リベリウス(351~366年)は、コンスタンティノ大帝によって流罪にされました(355年)が、自由の身となるために、皇帝の要請した半アリウス派の信条に強要されて署名したからです。ただし、教皇は全教会の教導者として署名したのではありません。教皇にはこれを全教会に押しつける意向はありませんでした。

 教皇ホノリウス(625年~638年)は、二通の手紙の中で、「キリストにはひとつの意志あるのみ」と宣言し、これ以上論争を継続することを禁止したことがあります。しかしコンスタンチノープル公会議(680年~681年)は、教皇ホノリウスに異端宣言をしました。ただし、ホノリウスは手紙の中でこの問題の決定をする意図はないと述べ、信仰教義の決定をしたのではありませんでした。また、コンスタンチノーブル公会議の決議は、「教会の頭としての教皇」の教えが誤謬だといったのではありませんでした。教皇レオ二世がこの決議を裁可したのは、教皇ホノリウスが《異端説胎動のきざしがあったのに、これを抹殺するつとめ》をおろそかにしたからであるといっています。(これについては、シーアン司教『護教』(Apologetics and Catholic Doctrine by the Most Rev. M. Sheehan, 1942をご覧ください。)


【質問】
教皇は、公に(publicly)本当の(formal)異端者になることが出来るのでしょうか?

【お返事】
教皇が、公に(publicly)本当の(formal)異端者になる(従って信仰を失う)可能性については、純粋な仮説として考察した神学者たちがいます。特に、聖ロベルト・ベラルミンの仮説が有名ですが、しかし、聖ロベルト・ベラルミン自身「異端的教皇」という可能性については具体的に実現可能であるとは考えていたとは思われません。聖ベラルミンは、具体的に或る教皇が公に異端説に陥ることが出来、教会がどのように又、何時それに気がつくことができるかなどについては全く考察せずに、単に抽象的な神学上の意見としてその可能性を取り上げたに過ぎなかったからです。同じ聖ロベルト・ベラルミンはこの意見を取り上げると同時に、教皇は本当の異端に陥ることが決してできないという意見のほうがより蓋然性があるとしています。

 私たちの主イエズス・キリストの「私は、あなたのために、信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22章)と言われた約束は、教皇の教皇としての公の信仰がなくなることがないという最も根本的な原理です。教皇が、もしも間違うことがあったとしたら、それは個人としての資格でのみのことです。

 それが教皇であれ、誰であれ、本当に(formally)明らかに(notoriously)全教会の前で異端者となるためには、彼は異端であると正当な当局から宣言され、その警告にもかかわらず異端説に固執しなければなりません。しかし、教皇に対してそれをすることは実際上不可能です。何故なら、教皇が教会法に縛られないこと、また、教皇に誰によっても裁かれないこと(Prima Sedes a nemnine iudicetur.)、これらは教会法の根本的原理であるからです。

 従って、教皇は個人としては異端に陥ることがあり得ても、事実上、教皇としての教皇が本当の(formal)異端者となることは不可能であると思われます。


【質問】
異端者の教皇は有効に公教会を統治出来るのでしょうか?

【お返事】
 フランスの聖伝のドミニコ会発行のSel de la terre誌に掲載された研究によると、スアレス(Suarez)は神学者の共通意見によると異端者の教皇であっても教皇職を続けて行使することができると言っています。ビルアルト(Billuart)は、より共通の意見は異端者の教皇でも教皇職を続けて行使することができると主張しています。ビルアルトによると、教会によってはっきりと異端者であると宣言されるまで、明らかな異端者であったとしても教皇職を遂行する権限をキリストによって与えられている、と言います。(Billuart, De Fide, Diss. V, A. III, No 3, ofj. 2)また、ガリグ・ラグランジュ(Garrigou-Lagrange)は、ビルアルトの論に従い、異端者であり、教会の一員でなくなったとしても、教会のかしらであり得ると言います。(De Verbo Incarnato p. 232)これも、個人としての教皇と役職としての教皇とを区別することを基礎としています。

 筆者の個人的な意見としては、ビルアルトやガリグ・ラグランジュは正しいと思います。ユダヤ教は天主によって来たるべきメシアを告げ知らせるために立てられましたが、ユダヤ教の大司祭カイファは、私たちの主イエズス・キリストを信じようとせずかえって主を十字架に渡しました。それにも関わらずカイファは大司祭の地位を失わなかったからです。

「その中の一人で、その年大司祭だったカヤファが、「あなたたちには、何一つわかっていない。一人の人が人民のために死ぬことによって、全国民が亡びないほうが、あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」といった。かれは、自分からこういったのではない。この年の大司祭だった彼は、イエズスがこの国民のために、また、ただこの国民のためだけではなく、散っている天主の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである。イエズスを殺そうと決めたのは、この日からであった。」(ヨハネ11章)

 イエズス・キリストに対する信仰を持っていなかったにもかかわらず、私たちの主は、カヤファの大司祭としての権威を疑問に付したことがありませんでした。天主の許可によって、邪悪の神秘(mysterium inituitatis)は、正式な天主の大司祭、ユダヤ教の最高権威者としてのカヤファはイエズス・キリストを死刑と定め、イエズス・キリストに従う全ての人々を迫害したのです。聖パウロは、カヤファの後継者である大司祭アナニアに対して言った言葉をとがめられた時、パウロは彼が大司祭だとは知らなかったと言い、脱出の書 (22: 28) を引用して自分の過失を認めています。私がここで言いたいことは、天主は信仰の無い大司祭が、ご自分の民の宗教を有効に統治することを許していた、という事実です。


【質問】
教皇と教会が聖伝の教えに反する事を公布、あるいは宣言する事が可能だと神父様はお考えなのですか?

【お返事】
 まず、はっきり区別しておきますが、教皇が個人的に異端に陥る可能性があることと、教皇が教皇として異端を全教会に信じることを強制することとは別のことです。

 教皇は、個人的な立場で、聖伝の教えに反する事を発表することはできますが(過去にそのような例が少数ありました)、しかし、教皇として、最高の教導権を行使して、全カトリック教会に聖伝の教えに反する事を信じることを強制することは、天主の御摂理によって、できません。


【質問】
ヨハネ二十三世や、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世などは、聖伝の教えに反する事を公布、あるいは宣言したのではないでしょうか?

【お返事】
 ヨハネ二十三世や、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世が行った行為を良く分析してみると、彼らは一度も不可謬権を行使して新しい教えや、聖伝の教えに反する教えを、全教会に信じるように法的に強制する表現を使ったことは一度もありませんでした(もしも、ヨハネ・パウロ二世の回勅 Ordinatio Sacerdotalis で女性が司祭になることができないということが不可謬権の行使でないとするなら)。

 第二バチカン公会議の革新を実践するという悪い模範や乱用はありましたが、それをしなければ救われない、カトリックではない、カトリック信仰ではない、という明らかな定義として発布したこともなければ強制したこともありませんでした。

 第二バチカン公会議の問題は、正に、教会の権威を行使することを避けたことにあります。
第二バチカン公会議の事務総長であるフェリチ枢機卿は、1964年11月16日第123回総会においてこう言っています。
「公会議の文章は公知の一般的な規則によって解釈されなければならない。」すなわち、
「公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。」
 そして、第二バチカン公会議は、「排斥文」をつけることを避け、信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきものとして定義するとみずから明らかに宣言することをせずに、強制することを避けたのでした。
(これについては、【質問】第二バチカン公会議はどこが特別なのかをご覧ください。)

 同様のことは、新しいミサについても言えます。パウロ六世が1969年に発布した使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』の最初に印刷されたラテン語原文には、新しいミサを許可することしか言及されていません。

(つづく)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の御謙遜

2013年07月24日 | カトリックとは
十 九 日 聖母の御謙遜

主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり。   (ルカ 一。四八)

 天主は救い主の御母たる高き御位(みくらい)に、身分高き貴婦人(きふじん)を選び給わず、却(かえ)って一(いち)労働者の許嫁(いいなずけ)なる至って身分低き聖マリアをお選びになった。これに就(つ)いての予言は、勿論(もちろん)早くからすべての律法(りっぽう)学士やフアリザイ人達の知る所であったが、実際に待望(たいぼう)の救い主がかように平凡な家庭から出(い)で給はうとは、彼等の夢にも思いがけなかった事であろう。
 然し天主は常に人の意表(いひょう)に出て、世間の富ある、名誉ある、権力(けんりょく)ある、傲慢(ごうまん)なる人々を用(もち)いずに、却(かえ)って、貧(まず)しき,賤(いや)しき、弱き、謙遜(けんそん)なる人々を使ってその思(おぼ)し召(め)しを実現し給うのである。従って、かようにして行われた大事業は、その人々の力(ちから)によるものでなく、天主の御力(おちから)によるものである事が容易(ようい)にさとられる。即ち人々は天主の道具に過ぎず、御(み)光(さ)栄(かえ)は当然天主に帰(き)すべきものである事がわかるのである。
 聖マリアはこの事を深く悟(さと)っておいでになった。されば聖エリザベトに讃美(さんび)された時、直(す)ぐにその讃美(さんび)を天主に帰(き)し「我が魂主を崇(あが)め奉り、我が精神救い主にてまします神によりて喜悦(よろこび)に堪(た)えず」と仰せられた。言い換(か)えれば御自分が救い主の母と選ばれ給うた事よりも、御自分を用いられて天主が救(すく)霊(い)の事業を起こし給う事を喜びとし、感謝せられたのである。之は己(おのれ)を空(むな)しうするもので、誠に謙遜(けんそん)の極地(きょくち)といってもよいではないか。
 更に聖マリアは御自分が他の婦人より天主の御母に選ばれ給うたのは御自分が他の総(すべ)ての婦人より賤(いや)しき為であると信じて居られた。故(ゆえ)に大天使に向かっても「我は主の婢(つかひめ)なり」と答え、聖エリザベトに対しても「主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり」と仰せになったのである。
 そして「蓋(けだ)し見よ、今より萬代(よろずよ)までも人、我を幸いなる者と称(たた)えん」と予言された際にも、御自分に就いては少しも誇る色なく、ひたすらかくはかられ給いし天主の御善徳(ごぜんとく)を讃美(さんび)し給うたのであった。その御謙遜(ごけんそん)は実に何と称(たた)えたらよいであろう!
 かゝる聖母を尊敬(そんけい)し、その大いなる幸(さいわい)を祝(ことほ)ぎ奉(まつ)る為には、我等も先ずその深い御謙遜(ごけんそん)に倣(なら)わねばならぬ。謙遜(けんそん)の心なき者がいかに聖マリアを尊敬(そんけい)すると云っても、天主はそれを嘉(よみ)し給わぬに相違ない。
 されば聖人方は皆謙遜(けんそん)の徳を何よりも好(この)み、一切(いっさい)の働きも功(いさおし)も、その徳その奇蹟(きせき)も悉(ことごと)く天主の御光栄(みさかえ)として献(ささ)げ尽(つ)くし、自(みずか)らは少しも誇(ほこ)る事がなかった。「我が神、我が総(すべ)て」という聖フランシスコの言葉は、そういう聖人方の心境(しんきょう)を 言いあらわしたものである。
それに反して罪多く善業(ぜんぎょう)少ない人々にとっては、謙遜(けんそん)は最(もっと)も難事(なんじ)である。かような人々は生来(せいらい)我意(がい)が強く、天主の御光栄(みさかえ)よりも己の栄誉を求めている。従(したが)って他人から軽蔑(けいべつ)や恥(ち)辱(じょく)を受ける事を非常に恐れ、忍耐や心の平安など少しもなく、些細(ささい)な事にも激(げき)し易(やす)い。叉己の功(いさおし)や犠牲は得々(とくとく)と数(かぞ)え立てるが、己の欠点や弱(じゃく)熱(ねつ)には更に留意(りゅうい)せぬ為、益々罪に陥(おちい)り易(やす)い危険がある。斯(か)かる誤りは勿論(もちろん)、謙遜(けんそん)の徳の不足に帰因(きいん)するもので、そういう人はどれほど天主を愛し奉る心があっても、自(おの)ずと自愛心に制(せい)せられて十字架を好(この)まず、いかに聖母を尊敬(そんけい)しても、その御跡(みあと)に倣(なら)って謙遜(けんそん)の徳を求めようとはせぬ。我々はよくよく己を反省して、もっと謙遜(けんそん)を修(おさ)めるように心がけよう。
 何となれば謙(へり)遜(くだ)る人は現世(このよ)では既(すで)に天主の御祝福を受けて、心の平安と楽しさを味(あじ)わい、來(のちの)世(よ)では天国の福(ふく)楽(らく)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いないからである。

   祈   願

 あゝ謙遜(けんそん)の模範(もはん)なる御母(おんはは)聖マリアよ、子たる我等にも御身の御謙遜(ごけんそん)を伝え給え。謙遜(けんそん)は御身にあやかる最(もっと)も近き道なれば、天主が御身の謙遜(けんそん)をみそなはして御独子(おんひとりご)の御(み)母(はは)たる高き御位(みくらい)を与え給いし如く、我等の賤(いや)しきを顧(かえり)み給いて、それに相応(ふさわ)しき徳を恵み給うよう、御伝達(おんとりつぎ)の程を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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