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フェレー司教へのインタビュー 司教聖別二十五年を振り返って

2013年07月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 聖ピオ十世会の総長フェレー司教様のインタビューの日本語訳ができあがりました。
 愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****


原文はこちら「聖ピオ十世会アメリカ管区」
あるいは
「DICI」


フェレー司教へのインタビュー──司教聖別二十五年を振り返って


※[ ]は訳者による補足


二〇一三年六月七日

以下はアンジェルス・プレスによる聖ピオ十世会総長、フェレー司教へのインタビューの内容である。

司教聖別について

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様があなたを司教聖別のための司祭の一人にお選びになったことを知った時、真っ先に思ったことは何ですか?

フェレー司教:最初に考えたのは、私よりもふさわしい人がいるはずだ、という思いでした。つまり、できることなら「この杯を取り除き給え!」です。次に思ったことは、私の同僚たち、司祭職における私の兄弟たちのために──“pro fratribus”──[お受けしよう]でした。なぜならこれは大きな十字架であることは明らかだからです。これは他者のために自らを捧げるという問題だからです。

アンジェルス誌:一九八八年六月三十日、ルフェーブル大司教様の手より司教聖別を受けた後のあなたの感情と心情を思い出せますか?

フェレー司教:自分がどう思い、感じていたか、あまり思い出せません。覚えているのは、聖別式に集った人々全員がどれほど感動していたかということです。あのときは空気に電流が流れていたとしか思えませんでした。私の生涯で経験したことがないものです。私がはっきりと覚えているのはこのことです。式典の間もその後も、非常な喜び、それ以外何もありませんでした。この喜びは圧倒的なものでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は著書「霊魂の旅路」(Spiritual Journey)の中で、ダカールの大聖堂で見たヴィジョンを描写しておられます。一九八八年の司教聖別はこのヴィジョンの実現であるかも知れないと、どのように説明できるでしょうか?


フェレー司教:驚かれると思いますが、その二つのことの間につながりがあると言うつもりはありません。事実、私は何か関連があるとは思いません。数名の司教たちを得るという手段は、[司祭職の復興という]事業そのものに直接関係しているとは思いません。この司教聖別は聖伝を生き残らせるための手段に過ぎません。これは[司祭職復興]事業の本質ではありません。司祭職復興の本質とは、イエズスの聖心に従って司祭たちを養成し、打ち立てるということです。肝心なのはこのことです。

司教なくして司祭は存在し得ない、というのは真実ですが、これは間違いなく、この司祭職復興の本質的要素ではありませんでした。司教聖別は聖伝を生き残らせるためには本質敵ですが、司祭職の本性そのもののためではありません。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、司教聖別をするというご自分の決定の特別な性質を明確にしようと努められました。また、司教の裁治権を伝えようとしたのではなく、ただ[秘蹟による]司祭叙階の権能のみを伝えようとしていることを強調することで、この司教聖別を離教的行為と区別しました。ところで、これらの司教の一人を総長として選ぶことは、司教としての裁治権の要求を暗示していると異議を唱え、司教の一人が総長なることに賛成できないと述べた人も過去二十五年間の中にはいました。このような異議がいかに不正確であるかを説明し、総長の役割を果たすことは司教としての裁治権を要求するものではないと、詳しく述べていただけますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様はなぜ司教聖別の時に、司教が総長であることを望まなかったのでしょうか? 明らかに、ローマとのやりとりをやりやすくするためです。総長が司教となったなら、総長である彼はローマの「罰」のもとにあることになったでしょう。例えば、当時はシュミットバーガー神父様が総長でしたが、総長が司教になったとしたら、ローマとの議論はより困難になっていたことでしょう。これは明らかにそのときの状況に限定されたことで、原則ではありませんでした。慎重さの問題でした。将来、司教が総長となることを直接に除外するということではありませんでした。

ですが、私たちは二種類の裁治権の区別をつけなければなりません。総長がその配下の会員たちの上に及ぼす普通の、通常の裁治権と、さらに別に、教区司教の裁治権とがあります。司教としての私たちには現時点において教区司教の裁治権はありませんが、総長としては私には別の裁治権があります。この二つは同じではありません。


ルフェーブル大司教の精神


アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様について、あなたが分かち合いたいと望む、特に貴重な思い出がおありですか?

フェレー司教: まず、大司教様の飾り気のなさと常識です。他方では、物事に対する非常な先見の明があったということです。常に超自然的でした。大司教様はいつも天主を仰ぎ見ておられました。大司教様が祈り、信仰、そして天主との一致によって導かれていたというのははっきりとした事実でした。大司教様にとって、普段の行いにおいて主と常に一致していなければならないというのは、普通のことであり当たり前のことでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様の、司祭的敬虔さ、教義に関する健全性、そして革命に反対する行為という比類ない精神を、神学生たちと司祭たちにどのように教え込んでおられますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様ご自身の話、教え、著作その他にできるだけ触れてもらうようにしています。私たちは神学生たちのために大司教様の講話のテープがあります。フランス人たちはここでは得をしています! ですが、全神学生たちがそれらに触れることができるよう翻訳作業をしています。英語ではすでに本の形で数冊がまとめられています。「彼らは聖主の王冠を奪った They Have Uncrowned Him」「司祭職の聖性 Priestly Holiness」そして「永遠のミサ The Mass of All Time」などです。

次に、大司教様ご自身が神学校において私たちにくださった手段を実現し、適用させようとしています。例えば、大司教様ご自身が準備なさった組織、授業計画、訓戒です。大司教様は神学校の成り立ちと、構成を決定しました。例を挙げますと、私たちの神学校での哲学と神学は、教会が勧めてきたように聖トマス・アクィナスの教えに基礎を置いています。教導権[に関する授業]はルフェーブル大司教様が特に熱望した授業であり、教会と社会へ啓蒙主義の原則を導入することに反対して戦った、ピオ十二世に至るまでの十九世紀の教皇たちの回勅を教えています。私たちは素晴らしい実りをもたらすこの教えに今なお従っています。


一九八八年から続く発展


アンジェルス誌:一九八八年の司教聖別式以来、聖ピオ十世会にとって良くも悪くも最も意義深い変化は何でしょうか?

フェレー司教:非常に多くの変化があるのかどうか、私にはわかりません。私たちは徐々に年をとってきています。私たちの修道会はいまだ若い修道会ですが、でも今や、一九八八年にはいなかった年配の司祭たちがいます。これは外見上の変化だと言えるかも知れません。当時、私たちには四人の司教がいましたが、今は三人です。多くの国々にはさらに多くの修道院ができました。が、これは事業の通常の発展なのであって、大きな変化ではありません。

私たちはルフェーブル大司教がくださった教えに忠実に留まっています。ここ数年間を振り返れば、ルフェーブル大司教様が一九八八年に「ローマは司教聖別後の五、六年のうちに私たちに歩み寄って来るだろう」と言われたことが事実となっています。[ルフェーブル大司教様の予感が実現するのに]ほぼ二十四、五年かかりました。しかし、機はまだ熟していないことは明らかです。つまり、ルフェーブル大司教様が教会内に起こることを期待した変化、聖伝への立ち戻りはまだありません。ですが明らかなことは、ローマ当局がその道を歩み続けるなら破壊は続くでしょうし、そしていつの日か、当局は立ち戻らなければならないのです。そのとき、彼らは私たちのもとへと再びやって来るでしょう。

その一方で、近年に起きたことを見て下さい。すなわち、古いミサは廃止されなかったという告白、一九八八年の破門の撤回、そして私たちが以前にはもっていなかった教会内での影響です! これは、言うまでもなく、公会議への批判が、聖ピオ十世会の外においても、しかもローマにおいてすら高まっており、これは比較的新しい現象です。


発展のために必要なこと


アンジェルス誌:司教聖別なくしては不可能であったはずの、過去二十五年間に起きた数々の事業と奉仕を説明していただけますか?

フェレー司教:簡単です。司教聖別からずっと、聖ピオ十世会の司教たちは一九八八年の聖別式までに叙階された司祭よりもさらに多くの司祭たちを叙階し続けています。ですから、聖ピオ十世会の事業の発展のために司教たちが必要だったことは明白です。事業の継続のため不可欠な存在です。司教なしでは聖ピオ十世会は消滅していたことでしょう。また、天主とその王国のために戦うキリストの兵士たちを作るという堅振の秘蹟の授与もあります。最後に、聖伝がその権利を取り戻すことができるよう、教会全体に及ぼしているこの影響を否定できません。

アンジェルス誌:聖ピオ十世会を批判する一部の人々は、カンポスの場合を除いて、"エクレジア・デイ" 委員会傘下の修道会は自らの司教たちを持っていないということを指摘しています。ですから彼らは、司教聖別は必要なかった、エクレジア・デイ傘下のこれらの修道会は自らの司教たちを持たなくても存在しているのだから、と異議を唱えています。過去二十五年以上に渡る聖ピオ十世会の歴史とエクレジア・デイ傘下の修道会との違いを比べることで、一九八八年のルフェーブル大司教様の的確な判断、すなわち、聖ピオ十世会の、聖ピオ十世会出身の一人の司教が必要である、単に会が生き残るためというだけでなく、会の完全な使命を保持するためにという判断を、今日、当時よりもさらに明確に論証していただけますか? 

フェレー司教:最初に言えることは、"エクレジア・デイ" 傘下の全会員の方々は、私たちが司教たちを持っていなかったら自分たちは存在していなかっただろうとよく理解している、ということです。直接、あるいは間接的に、彼らは聖ピオ十世会の命脈に依存しています。これはもう明白です。現在、エクレジア・デイの使徒職の実りは教区司教たちの善意に完全に依存しています。教区司教たちは聖伝のカトリック的生活を打ち立てるという、そういった方向への使徒職の可能性を限定することで、そのような強い真面目な望みを大幅に制限しています。エクレジア・デイの方々は第二バチカン公会議の新規なこと、世俗、そして新しいミサを[聖伝に]混ぜ込まなければなりません。これこそ、聖ピオ十世会と "エクレジア・デイ" 傘下のグループとの大変大きな違いです。一部のグループは、徐々に私たちに近づいてきていると見ています。言うまでもなく、すべてのグループではないのですが。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、唯一の聖伝の司教として(カストロ・マイヤー司教様を除きます。しかし彼は自分の活動領域をご自分の教区にほぼ限定されました)、司教聖別に先立って世界中を旅することでご自身を酷使されました。その結果、ただ一人にとどまらず、四名の司教たちを聖別する道を選ばれました。過去二十五年間に数えきれないほど多くの聖伝信者たちが増え続けていますが、悲しむべきことに聖ピオ十世会の司教たちの数は今や三名に減ってしまいました。聖伝の事業を続けるために三名の司教様たちで充分でしょうか? さらなる司教様たちを聖別なさる必要があるのではないでしょうか?

フェレー司教:実際のところ、二〇〇九年からずっと、私たちは三人で働き続けている結果となっています。言うまでもなく、うまくいっています。従って三名のままで[物事が]順調にいっているのは明らかです。ですからもう一名司教を聖別する緊急性も特別の必要性もありません。

もちろん、たとえ今すぐに[司教を聖別する]必要性がないにしても、将来に関しては自らにしっかりと問わなければなりません。

私の答えは簡単です。すなわち、大司教様があのような決断するよう導かれた状況がふたたび出現したなら、そのとき、私たちは同じ手段を取ることでしょう。


正常化の最初の一歩


アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様はローマ当局と穏便な関係に達することを常に望み続けていましたが、司教聖別はローマ当局が聖ピオ十世会を敵意をもって取り扱うという側面と、迫害するという事態をもたらしました。司教様たちは、少なくとも過去十年に渡って、この敵意と迫害の解決方法を、聖ピオ十世会の使命の原則を妥協するというやり方でなく、見つけ出そうとしてきました。少なくとも今までのところ、あなた方の努力は解決に至っていません。あなた方の善意にも関わらず、努力が成功からほど遠いのはなぜだと思われますか?

フェレー司教:初めに、私たちの教会法的正常化の第一歩は、私たちではなくローマから来たのだ、ということを指摘したいと思います。私が最初に動いたのでありませんでした。私たちがあるがままでありつつ、この正常化を進めることができるような状況なのかどうか理解しようとしました。今は明らかにそうではありません。

なぜでしょうか? ローマ当局は、第二バチカン公会議のときに教会に導入された、危険で有毒な原則に依然として固執しているからです。これこそ、私たちが一緒に行くことができない理由です。

どのくらいの時間を必要とし、どれほどの苦難を耐え忍ばなければならないのか、時が来るまで私にはわかりません。十年かも知れません。もっと、あるいはそれ以下かも知れません。答えは天主のみ手の内にあります。

アンジェルス誌:あなたはローマからの、とりわけ新しい教皇様からのコンタクトを喜んで受け入れようというままでおられますか?

フェレー司教:もちろんです。喜んで受け入れますとも! カトリック教会は天主の教会です。聖霊は依然として、第二バチカン公会議後、教会内に置かれた障害物を飛び越えて働いています。聖主が物事をまっすぐに進めたいとお望みなら、そうなさいます。いつそうなるのか、天主だけがご存知です。でも私たちは怠りなく準備しておかねばなりません。完全かつ真実の解決策は、ローマ当局がふたたびその方向に動くときにのみ、もたらされるはずです。

アンジェルス誌:ローマ当局の間に聖伝への回心が起きたのか、あるいは始まっているか、決定を下すために、私たちはどんなしるしを観察できるでしょうか? 

フェレー司教:それがいつ始まるのかを口にするのは難しいですね。第一に、典礼、それからそれ以外の典礼よりもっと弱い別の分野における努力という、すぐれたしるしを、[破門撤回やスンモールム・ポンティフィクムを発布した]ベネディクト十六世において私たちは見ていました。これらのことは教皇様に対する猛反発に直面して起こりました。言うまでもなく、これは私たちが今考えていること[聖伝へのたち戻りということ]の糸口にはなりませんでした。ですが、確実に[聖伝への回心は]教会のトップから来なければなりません。

聖伝へと戻りたがっているノブス・オルドの司教たち、司祭たち、そして信者たちといった、[ヒエラルキーの]下方から来るものもいくつかはあるでしょう。小規模ながら、この動きはすでに始まっていると思います。まだ主流ではありませんが、確実な一つのしるしです。しかし深い大規模な変化は上から、教皇様から来なければなりません。さまざまな側面から由来するかも知れませんが、確実に言えることは、[聖伝への回心は]天主と聖主イエズス・キリストを教会の正当な場所、つまり中心に据えるということになるはずです。

アンジェルス誌:聖伝への回心はトップから、ローマから来るとするなら、教会全体を復興するという事業はどのようにして進展できるのでしょうか?

フェレー司教:回答するには大変難しい問いです。現時点では、物事が変化しないなら、内部の迫害と内部における大規模な戦いが起きるといえるかも知れません。何らかの変化、例えば、迫害が起こったとすると、その後教皇様が聖伝へと戻って来るなら、状況はがらりと変化するはずです。教会を正しい道に連れ戻すため、天主が付けてくださる青写真がどんなものかは、天主だけがご存知です。

アンジェルス誌:こういった聖伝への立ち戻りを早めるため、何ができるでしょうか?

フェレー司教:祈りと犠牲です! すべての人は身分上の義務に従うべきであり、マリアのけがれなき御心への信心に励み、ロザリオを祈るべきです。ロザリオについては、私は新たな十字軍を開始することを考えています。

アンジェルス誌:あなたが公会議に関して、また公会議後の教会と妥協することを計画した(あるいは計画中である)と主張する人々になんと言われますか?

フェレー司教:それは聖ピオ十世会を分裂させたがっていた人々のプロバガンダにすぎません。彼らがなぜそのような考えを持っているのかわかりません。総長が決して妥協せず、妥協するつもりもなかったことについて、総長を非難するために彼らが昨年の非常に難しい状況を利用したのは一目瞭然です。私は聖ピオ十世会を妥協させしようと意図したことは一度もありませんでした。

それにしても、自らに問いかけてみて下さい。敵でないならば、聖ピオ十世会が分裂するのを見ることは、誰にとっての益になるのでしょうか? 自分たちの弁証法で聖ピオ十世会を分断する人々は、自分たちがやっていることの理由をじっくりと考えてみるべきです。つまり、ウィリアムソン司教様とその追随者たちのことを言っています。

アンジェルス誌:過ぎ去った十年間を振り返ってみて、他のやり方で成し遂げたらよかったことがあるでしょうか?

フェレー司教:ええ、もちろんですとも。私たちは戦いの後は、いつも前よりも賢くなります。私がいつも言い続けてきたことを、さらに強調しましょう。そうする必要はないと思ったのですが。つまり、[将来の]合意協定がどんなものであれ、私たちが妥協するつもりのない「必須条件(a condition sine qua non)」が常に存在する、ということです。これ以外にありません。私たちは、今あるがままに留まります。これこそ、私たちをカトリックたらしめ、私たちがカトリックのままでありたいと望んでいる理由です。

私は確実に、連絡手段を改善するでしょうし、そして実際にすでに改善しました。情報漏洩によって身動きが取れなくなっていましたが、今は別なやり方を取っています。

アンジェルス誌:ローマとの関係を越えて、次なる二十五年間に向けて、あなたは聖ピオ十世会とカトリック教会のためにどんな望みを抱いておられますか?

フェレー司教:今後二十五年間のうちに、教会が新しく花咲き乱れるものとなるのを見ることができるよう、聖伝へ立ち戻るのを眼にするだろうということです。

アンジェルス誌:司教聖別二十五周年を讃え、記念するためのふさわしい手段として、聖職者と平信者の両方に何をお勧めになりますか?

フェレー司教:私どもの敬愛する大司教様を讃えるため、大司教様のさまざまな徳、すばらしい謙遜、清貧、慎み、信仰に倣おうと努めて下さい。さらに、私どもを導く原則を理解するために、ルフェーブル大司教様の教えを学んで下さい。つまり、聖主への、教会への、ローマへの、ミサへの、そしてマリアのけがれなき御心への愛を、です。

(出典:アンジェルス・プレス)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:隣人愛

2013年07月01日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 七 日
隣  人  愛

(一)キリストが、あらゆる徳に越えて其の実行を奨励(しょうれい)し給うたものに、隣人(りんじん)愛(あい)がある。われら全世界の人間はいづれも同一の天主に作られ,皆、同一の御父の子供なのであるから、機会ある毎に隣人に対して愛の心を現さなければならない。
 主イエズスは最後の晩餐(ばんさん)の時に遺言(ゆいごん)として、「汝等,相愛(あいあい)せよ」と命ぜられ、また公(こう)審判(しんぱん)の有様を予言し給うた際にも人が天国に入るか否(いな)かの判決はこの世にありし時、隣人を愛したか否かによって定められるものであると仰せられた。 
そしてその終りに、「汝らがわがこの最も小さき兄弟の一人になしたる所は事毎(ことごと)にわれになせしなり」とのたまうたのは、隣人を見ること恰(あたか)も主を見る如くにして、主を愛する心を以て隣人を愛すべきことを諭(さと)し給うたのである。
 信仰は勿論(もちろん)、救(たす)霊(かり)の土台である。しかし死んだ信仰では何の役にもたたない。活(い)かして始めて価値(ねうち)が出るのである。信仰を活(い)かすものはすなわち天主に対する愛である。そうして天主に対する愛を現す方法は,隣人を愛することなのである。
 故(ゆえ)に天主を愛することと隣人を愛することとは離すことができない。我等がもしイエズスを喜ばせ奉るつもりならば、是非(ぜひ)、隣人(りんじん)をも愛さねばならぬのである。

(二)しかし隣人愛や博愛(はくあい)といっても、ただ感情や気分の上で他人を愛するのでは足(た)りない。実際に他人(ひと)を愛する業(わざ)、即ち肉(にく)身上(しんじょう)の精神上の慈善業(じぜんぎょう)を行わなければ本当の愛とはいえぬのである。
 聖母マリアの御手本を仰(あお)ぎみよ。彼女は天使ガブリエルより、天主の御母(おんはは)となるべき御告(つ)げを受けさせ給うと間もなく、その歓喜(よろこび)を聖女エリザベトに分(わか)たんとしてはるばる危険多き旅をせられ、この親戚(しんせき)を訪れ給うたそしてその時、恰(あたか)も懐胎(かいたい)していたエリザベトを助けるために、さまざまな働きをして三月ほどもその許(もと)に止(とど)まり給うたのである。
 これいづれも、他人を己(おのれ)の如く愛し給うマリアのやさしい御心(みこころ)のあらわれに外(ほか)ならない。
けれども聖母が最(もっと)もすぐれた隣人愛の鑑(かがみ)を示し給うたのは、御子の十字架の下(もと)にただずんでいられた時であった。その時、傷(いた)ましい御子の有様に彼女の胸も苦痛(くるしみ)のため、張(は)り裂(さ)けんばかり悩(なや)まれたが、マリアは全世界の人々の救(きゅう)霊(れい)を思ってはその隣人愛のために、よく耐(た)え忍(しの)んで、最愛の御子を天主に献げ以て  救世(あがない)の大事業を完成せしめ給うたのである。
 翻(ひるがえ)って、われらの隣人愛を見るならばどうであろうか?われらは果たして親子、兄弟,親戚などを十分に愛しているだろうか?己の利益にならぬとて、彼等の老(お)い或は病(や)みたる時、之を粗末にし或は看護(かんご)せぬようなことがないか?
もしあればこれこそ最も隣人愛に背(そむ)くことである。
隣人(りんじん)愛(あい)にはすべて犠牲(ぎせい)が伴(ともな)う。博愛(はくあい)を口にしつつ、利己(りこ)主義(しゅぎ)から脱(のが)れえぬのは大きい矛(む)盾(じゅん)といわなければならない。われらはこのことをよく心にとめて、人を愛するために何事をか忍(しの)ぶよき習慣(しゅうかん)を養(やしな)うようにしよう。

○ 聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて我等の心に隣人(りんじん)愛(あい)を増(ま)さんため「めでたし」
三度誦(とな)へん。

     祈 願 せ ん

 イエズス・キリスト主は原罪(げんざい)によりて悪魔(あくま)の奴隷(どれい)となりし我等を、新(あら)たに天主の子とならしめんため、人と生まれ,かたじけなくもわれらの兄弟となり給えり。
 されば願わくはわれらにも、あらゆる人を兄弟として、言葉よりも行為(おこない)に
より、真実(しんじつ)の心を以て互いに愛し互いに祈り、互いに親切を尽くし相(あい)共に天国に至りて主の御前(みまえ)に一家の如く和合(わごう)する御恵(おんめぐみ)を与(あた)え給え。聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて。 アメン。


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