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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その3

2013年07月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は初金曜日ですね。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 今回は、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」と「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2」の続きです。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会とは、イエズス・キリストがそう創立したが故に、カトリック教会が君主制的組織であり、地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つ(従って第二バチカン公会議の主張する「司教団体主義」は受け入れられない)というカトリック信仰を宣言し続け、教皇様のために祈り闘っています。そして私たちの教皇様は、今ローマにいるフランシスコ教皇様です。

 もしも、フランシスコが教皇ではなかったのなら、ではキリストの教会は可視的存在としていったいどこにあるのでしょうか? もしもフランシスコが教皇ではないのなら、この事実をいったい誰が全キリスト教世界において公式に・正式に宣言することができるのでしょうか? 全キリスト教世界は、彼を本当の教皇であると認識し続けているのが現実です。カトリック教会において、個人的な判断は、いかなる司法的な・教会法的な価値を持っていません。

 ある個人が、ヨハネ二十三世、あるいはパウロ六世、あるいはヨハネ・パウロ二世、あるいはベネディクト十六世、あるいはフランシスコを、個人として判断する権利があると主張し、全教会を前にだれそれは教皇ではないと宣言する権利があると主張した、だれそれは教皇ではないと主張したとしても、自分の主張は絶対的に確かで証明されていると言い続けたとしても、しかし、カトリック教会においてそのような主張はいかなる法的価値を持っていません。そう主張する主体が、単なる個人に過ぎないからです。

 もしも「この世に存在する本当のカトリックたち」と主張する方々が、自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言することができると信じたとすると、この同じ人々は教会に本当の教皇を与える力と義務があると思い込むかもしれません。そうして、キリストの教会に、キリストが約束した可視性と不可崩壊性(indefectibility)とを保証しようとするかもしれません。そのような人々は、自分たちの論理と、誠実な意図をもって、教会を救おうと自らコンクラーベを開いて「教皇」を選出するかもしれません。実際に、すでに、いかなる教会法根拠もなく、選挙権もなく、自分たちの「教皇」を選んでしまった人々もいます。そのようにして選ばれた自称「教皇」たちも複数存在します。正気を失ってしまったように私たちには見えますが、これは「自分の権威で「聖座が空位だ」と宣言する権利と義務がある」と信じたその論理的結論にすぎません。何故なら、それは、自分たちにこそ、教会に本当の教皇を与える権利と義務があると思い込むことだからです。

 たとえそこまでの極端な論理的結論にいかなくとも、ローマにいる教皇が本物の教皇ではないということは、あたかも信仰箇条の一つであるかのように行動する人々もいます。ローマにいる教皇を教皇としてそのために祈ることも拒否する人々もいます。

 私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、「教皇が教皇であるかないかを判断するのは私たちの義務でも権利でもない、もしもそれをすることがあるとするならば、ひょっとしたら将来の教皇が発言することがあるかもしれない、しかし、私たちは自分の義務をよく果たそう、つまりカトリック信仰を守るという義務を」、という態度をとり続けています。

 さて、前回は、父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いか?ということを考察しました。ところで、9年前に『マニラのeそよ風』第236号を書いていたその時は、あまりにも自明だと思ったので言及しませんでしたが、今回は、言及しなかったことを考察することを提案します。つまりそれは、「悪い父親が良いことを命令したら?」という場合です。

 「悪い父親」から、良いことを命令されたら私たちはどうしなければならないのでしょうか? ある人(ここでは仮にヨハネさんと呼ぶことにしましょう)の父親はカトリック信徒ではないのですが、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合を考察しましょう。ヨハネさんは、自分の父親に対してどのような態度を取るべきでしょうか? 答えは、あまりにも明らかです。もちろん、良き命令に従う、です。

【質問1】父親がカトリック信仰と道徳に合致することを命令した場合、自分の父親に対してどのような態度を取るべきか?

 このヨハネさんのお父さんが、仮に、とても悪い父親であった、酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩の父親だった、悪事をするように子供たちに命令したりすることもあった、と仮定します。そしてこの「悪い父親」が、カトリック信仰と道徳に合致することをするように命令した(例えば、勉強しなさい、悪い猥褻な雑誌を読んではいけない、ロザリオを唱えなさい、聖伝のミサに与りなさい、など)場合、私たちはどうすべきでしょうか?

(1)悪い親であろうが父親の望みは絶対である。しかし、勉強するとか、ロザリオの祈りとか聖伝のミサなどは、めんどくさいし古くさい、口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「お父さん、お父さん、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)悪い親であろうが父親として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)酒におぼれギャンブルにおぼれ家庭を顧みずに放蕩をするのは、父親とは言えない。悪事をするように子供たちに命令するような人は、父親として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。口では「父」と呼んだとしても、それは名前だけで、事実上は父親でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが子供として正しい態度だ。父親の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問1に対する 答え】

 正しい答えは(2)です。

 弱い人間性を纏った親は、私たちにとって天主の代理者であります。罪人である親も、天主の御摂理によって、私たちにとっては天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、親に従順であるべきです。親の命令が天主の戒律に合致している場合には、もちろん従うべきです。

【質問2】

 ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、彼の属する司教区の司教様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば共産主義、近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)、命令したり(例えば御聖体に対する崇敬の態度の禁止)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、日本の全ての司教様たちと一致して日本を聖母の汚れなき御心に奉献するように積極的に働いて、平信徒たちにも聖母の汚れなき御心に自分を奉献するように勧告したり、東京都議会選挙の前には、共産党に投票してはならない、と訴えていた、とします。

 ヨハネさんは、自分の司教様のこの命令に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1)悪い司教であろうと、司教様は絶対である。しかし、聖母の汚れなき御心への奉献だとか、共産党に投票してはならない、などということは古くさいことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「司教様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)悪い司教様であろうと、司教様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック司教として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの司教、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は司教でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。司教の地位を自ら辞任し放棄するように彼を訴えて行動すべきだ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問2に対する 答え】

答えは(2)です。


【質問3】

 ここにカトリック信者のヨハネさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、この教皇様は、カトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教したり(例えば近代主義)、模範を示したり(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)するのですが、今回は、どのような理由なのかは分かりませんが、「聖伝のミサは決して廃止されたことがなかった」「ルフェーブル大司教の聖別した司教たちのいわゆる "破門" など無い、撤回する。」と主張したとします。

 ヨハネさんは、教皇様のこの主張に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1)どのような教皇であろうと、教皇は絶対である。しかし、聖伝のミサとか、聖ピオ十世会、などということはどうでも良いことだ。口だけは「はい、はい」と答えておいて、実際は行動には移したくない。「教皇様、分かりました、尊敬します」と口先では言っておこう。しかし、このような良い命令は実行しない。

(2)近代主義の考えに染まっている教皇様であろうと、教皇様として尊敬する。もしも天主の掟に反することならそれをすることは出来ないが、幸福なことに、この命令は良い命令だ。その良い命令を受け入れて、従わうことこそが真の従順だ。

(3)天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇として認めない。彼は私の上にいかなる権威も無い。たとえミサの中で「我らの教皇、だれそれ」と名前を挙げて祈ったとしても、それは口先だけで、事実上は教皇でも何でもない。彼を全く無視して行動する。彼の悪い行動の全てを非難をすることが信者として正しい態度だ。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?

【質問2に対する 答え】

答えは(2)です。

 最初の(1)の態度は、多くのNovus Ordoの司教様や神父様たちの態度のような感じがしますが、そのような感じについては私が間違っていることを祈ります。

 最後の(3)の態度は、たとえ口先だけでは教皇を教皇として認めている、と主張したとしても、実際上はセデヴァカンティストの態度です。教皇が存在しようがしまいが、良い発言をしようがしまいが、彼の原理は近代主義とエキュメニズムだからすべては悪い(に決まっている)、と色眼鏡を通して見る態度です。


 真ん中の(2)が、現在、フェレー司教様の下で、聖ピオ十世会が取っている態度です。この態度を取り続けるために、聖ピオ十世会は多くの苦しみがありました。

 ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議で発布された神学校運営に関する規定(ratio fundamentalis)を忠実に適用させました。エコンの神学校はそれを適用させている数少ない神学校のうちの一つです。ルフェーブル大司教様は、第二バチカン公会議の文章のどれが良く、どれが間違っているかを区別することをよく知っていました。

 ルフェーブル大司教様は、アシジの集会をしたローマと交渉して、一人の司教を聖別して良いというローマの同意を得ることさえもしました。たとえアシジの集会をした当局でも、カトリック聖伝をまもる司教を聖別して良いというのは良い命令です。すでに書いたことですが、繰り返せば、ルフェーブル大司教様は「もう手遅れだ、私たちには天罰を待つしかない、天罰で現代文明が滅びることだけが解決策だ」とは言いませんでした。ルフェーブル大司教様は、ローマと交渉し、ローマの権威を認めつつも、しかし、生き残り手段として、1988年にカトリックの司教を聖別したのです。

 ルフェーブル大司教様は、「単なる一カトリック司教」として、カトリック教会の中に聖伝が戻ってくるように働きかけていたのです。ルフェーブル大司教様はローマに、聖伝に自由を与えてくれることを求めていました。もしも新規なこと、革新的なこと、ありとあらゆる「実験」が許されるのなら、聖伝にも「実験」する自由を与えてほしいと。

 聖ピオ十世会は、すでに1970年教会から公式の認可を受け、ローマの枢機卿らから賞賛の手紙を受け取っています。スイスの一司教が教会法に反してそのような権限がないにもかかわらず、聖ピオ十世会の認可を取り下げたとき、ルフェーブル大司教様はローマの教会裁判所に訴えて判決をお願いし、それが受理されたにもかかわらず、その裁判はすることをブロックされました。すべての迫害は聖伝のミサを捧げ続けていたからです。従って、この迫害は全く不法であり、聖ピオ十世会は教会法上、存在し続けています。

 ところで数年前から、ベネディクト十六世の方から自主的に、聖ピオ十世会に対して次のような要求がありました。「聖ピオ十世会は、カトリック教会のまっただ中にある、カトリック教会の正真正銘の正しい修道会である、と私は宣言したい。その宣言のために聖ピオ十世会は何らの条件を受け入れる必要が無い。そのままの聖ピオ十世会に教会法による教区を任せたい。聖ピオ十世会を無条件で属人区としたい」と。

 バチカンでは聖伝のミサを捧げている高位聖職者たちがいます。信憑性のあるそのような保守派の高位聖職者たちから、聖ピオ十世会の神学的立場に同意するということを伝えてきます。これらのバチカンの保守派高位聖職者が言うには「教皇様は、破門撤回のときと同じように、見返りに何の要求なしに【第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに】聖ピオ十世会を承認するつもりだ、公式ルートからの内容は、教皇様の意向ではない、バチカンにはどんな手を使ってでも教皇の計画を潰そうという人々がいる、今後も聖ピオ十世会は、今と同じように思う存分[第二バチカン公会議への]攻撃を続けることができる、教皇は教理聖省よりも上にある、教皇様が聖ピオ十世会を守る」云々と。(これについてはすでに「私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練」において詳細に書きました。)

私たちはどうしてカトリック教会に聖伝を復興させる手伝いができるかという試練(2)

アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、...



 聖ピオ十世会とエクレジア・デイ委員会傘下の修道会らの違いはどこにあるかというと、今回、ローマの方から聖ピオ十世会に接近があったのに比べ、エクレジア・デイ委員会の傘下にある修道会らは、皆、自分たちの方からローマに行って聖伝のミサをすることができる修道会として公式の認可を受けるために働きかけました。そして、バチカンの反聖伝の勢力は、今まで聖ピオ十世会を中心に一つとなっていた聖伝の勢力を分断することを試み、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会たちを作り上げることによって聖伝の分裂化を成功させました。
 もう一つの違いは、ローマが、非公式的には、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議の改革を受け入れる必要が無い、第二バチカン公会議や新しいミサを受け入れるという要求など一切無しに、聖ピオ十世会を承認したい、という要望を出してきたに比べ、エクレジア・デイ委員会傘下の修道会らには、第二バチカン公会議や新しいミサの受け入れを要求したことです。

 聖ピオ十世会の昨年の苦しみはここにありました。確かに近代主義に染まってはいるけれども、ベネディクト十六世は、正当な教皇様なのなら、もしも教皇様が聖ピオ十世会に関して正当な、良い望みを示すなら、どうしてそれを拒むことが出来るでしょうか?

 教皇様が聖ピオ十世会の活動にお墨付きを与えたい、聖ピオ十世会が現在の教会の危機からカトリック教会を救うために教皇様を助けることを教皇様が望んでいる、だから、聖ピオ十世会が第二バチカン公会議を受け入れる必要はない、この聖ピオ十世会の活動の「公認」は、聖ピオ十世会をして第二バチカン公会議を飲み込ませる罠ではない、のであれば、本当のことが本当であると宣言されることは、それ自体で善であるのですから、私たちはいったいどうしてそれに従わないことができるでしょうか?

 これについては、一年前に、記事を書いたことがあります。
【質問】「あまりに多くの失望を味わったので罠かもしれないという疑い」とはどういうことなのでしょうか?

アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、 今回は御質問に答えることをお許しください。御質問については、少し私が編集しました。【質問】聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様...


 ベネディクト十六世は、正当な教皇様です。イエズス・キリストはベネディクト十六世の口を通して今でも語り続けることができます。だから、もしも良い望みであるのならば、それに従うべきです。結局、去年の6月には、最後の最後に、ローマは聖ピオ十世会が第二バチカン公会議とその後の改革を受け入れることを要求したので、その命令には従うことができませんでした。

 私たちは、カトリック教会がイエズス・キリストの真の唯一の教会であると信じています。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けます。聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを、教皇様のために、カトリック教会のために捧げます。

 願わくは、教皇様が聖伝に立ち戻りますように! 教皇様が、カトリック教会をその聖伝に立ち戻らせますように!
 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え!教皇様を守り給え!
 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)



聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:天国

2013年07月05日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

三 十 一 日
天     国

(一)聖パウロは「汝らは地上に於いて旅人なり。」と申された。旅人はいずれも目的地をもっている。われらの目的地は天国である。天国こそわれらの真(まこと)の故郷(ふるさと)で、この世は、ただ旅の空の、一夜の宿のようなものにすぎない。
 旅人は常に目的地にあこがれ、寄留(きりゅう)せる人は本国を慕(した)う。われらもその如く片時(かたとき)も天国を忘れてはならない。
 真(まこと)の故郷(ふるさと)にはまだ見ぬ愛の父の天主、御母マリア、またその御子イエズス・キリストを始めとして、多くの兄弟姉妹なる天使聖人方が、われらの帰宅の日を待ち侘(わ)びていて下さる。
罪の為に呪(のろ)われたこの世に於いてさえ、自分の家へ帰れば嬉しく、親子兄弟の交(まじ)わりは楽しい。まして天国は無限(むげん)愛(あい)の天主がその愛子(あいし)に永遠の幸福を惜しみなく与えて下さる祝福の所である。どれほどに喜ばしく、どれほどに楽しいかは殆ど想像もできないのである。
聖パウロは天主の特別の御恵(おんめぐみ)によって、この世にありながら第三天まであげられたことがあった。聖人はこの体験を語って。
「天主がこれを愛し奉る人々に具(そな)え給いしこと、目もこれを見ず耳もこれをきかず、人の心にも上(あが)らざりき」と云っておられる。
 我等が天国における最大の幸福は、限りなく善に、限りなく美しい天主を目のあたりに仰ぎ奉って、永遠にこれを愛し、これに愛せられる甘美(かんび)なる楽しさである。また天国は人として正当なる望みの悉(ことごと)く満たされる所で,,真(しん)善美(ぜんび)を慕(した)い求める心はここに全く満足を得(え)る。しかもそれは一時的ではない、永久に変わることがなく失われることがないのである。
 この世の空(むな)しい快楽(かいらく)の忽(たちま)ちに過ぎ去るのと比(く)較(ら)べて、何という甚だしい違いであろう。
アシジの聖者フランシスコが臨終(りんじゅう)に際し弟子達に向かい、「我、最愛の兄弟等よ、罪における楽しみは短く,地上における苦しみは短く天国における光栄は限りなし。我等は天主に大いなる物を約せしが天主は我等に、より大いなる物を約し給えり」という言葉を遺(のこ)されたのもまことに道理(どうり)と云わなければならない。

(二)主イエズスは御弟子(みでし)達に「我に仕(つか)えるひとはまた我おる所に居らしめん」と仰せられた。主は我等に天国の席を与え、御自分の傍(かたわ)らにおかんことを切(せつ)に望(のぞ)み給うのであるまた天国における我等の母なる聖母マリアも子たる我等が首尾(しゅび)よく御側(みそば)に至るようたえず祈っていて下さる。
そして我等の兄弟なる諸聖人は我等にその美しき模範(もはん)を示し我等を励ましつつ天国への道を歩(あゆ)めと招いて下さるのである。
イエズスは最後の晩餐(ばんさん)終って後、御弟子(みでし)達に別離(わかれ)を告(つ)げ給うたとき、彼らを慰(なぐさ)めて、「我が父の家に住所(すみどころ)多し、我は至りて汝らの為に所を備(そなえ)んとす」と仰せられた。
故(ゆえ)に主は我らのためにも天のエルザレムにおいて、美しい住み家を具(そな)え置き
給うであろう。
我等は主の御期待に添(そ)い奉るためにも、艱難(かんなん)に屈(くつ)することなく勇ましく徳の道を進まければならない。
    
 永久(とこしえ)の望(のぞ)み     与えられし身は、
     世のもの忘れて、  天のみ慕(した)う。

○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて、われらすべて天国に入るを得(え)んために、
「めでたし」 三度誦(とな)えん。

     祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト主は天国に我等の住(す)み家(か)を具(そな)へんとして昇天し給えり。
願わくは聖母の御伝達(おんとりつぎ)により、我等にも天国に至りて,諸天使、諸聖人と共に主に謁(まみ)え、主を愛し、しかして主と聖霊と共に永遠に統治(しろしめ)し給う、聖(おん)父(ちち)を讃美(さんび)する限りなき幸福を与え給わんことを。  アメン。


聖母聖月信心の終りの祈祷

聖マリアよ、我等、御身に捧げたる此の月を終らんとするに当たり、御前(みまえ)に
跪(ひざまず)き、我等が御身の子としての讃美(さんび)、感謝、祈祷(いのり)を捧げ奉る。
 我等は御身があらゆる聖寵(せいちょう)と美点(びてん)とを与えられ給いしことを、三位(さんみ)一体(いったい)なる天主に感謝し奉り、また御身が我等の為に代願(だいがん)し、我等の願いを叶(かな)わしめ、我等に慰めを与え我等に天主の聖寵(せいちょう)を求め給いしことを御身に感謝し奉る。
 愛すべき御母よ、この月の日の如く、何時(いつ)にても、何処(いづこ)にでも、御身の貧しき子なる我等をみそなわし給え。危険に臨みては御保護を、戦いに於いては御助力を、苦難に際しては忍耐を与え給え。
 罪人(つみびと)の為には改悛(かいしゅん)と赦(ゆる)し、義人(ぎじん)の為には聖徳(せいとく)の進歩を求め給え。遂に我等、総(すべ)てに最終まで耐え忍ぶ力と、善(よ)き臨終(りんじゅう)、(かん)仁(じん)なる審判(しんぱん)を求め給え、御伝達(おんとりつぎ)によりて総(すべ)ての危難(きなん)より救われ、今、御身の子として愛を以て、御身にまかせ奉りし我等総(すべ)てを、天国に於いて再び御身の御前(みまえ)に集(つど)わしめ給わん事を願い奉る。
 ここに誠心(まごころ)より「天主の御母聖マリア、罪人(つみびと)なる我等の為に今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。」とさけぶ我等の中一人も滅(ほろ)びに至らざらんことを願い奉る。 
アメン。

尊(とうと)き天主の御母マリアよ           ▲ 更に祝せられ給えかし。
我等の救い主イエズス・キリストの御母よ      同じ
憐(あわ)れみの御母よ                  同じ
罪人と貧しき者の依托(よりどころ)               同じ
総(すべ)ての聖徳(せいとく)の亀鑑(かがみ)                 同じ

我が最愛の御母、支配者、代願者(だいがんしゃ),    ▲ 更に祝せられ給えかし。
 
生涯(しょうがい)殊に今月我等に賜(たまわ)りたる恩恵(おんめぐみ)の為に ▲ 我等、誠心より汝に感謝し奉る
 
我が罪悪(ざいあく)の為に受くべき地獄と、肉(にく)身(しん)、霊魂(れいこん)の
悪より、御伝達(おんとりつぎ)をもって救い給いしことを           同じ
この聖(せい)月(げつ)に祈り得たる恩恵(おんめぐみ)の為に             同じ
この聖月の中に我等に授け給いし聖寵(せいちょう)及び光明(ひかり)の為       同じ
我等に賜(たまわ)りし歓喜(よろこび)、慰(なぐ)籍(さめ)の為に              同じ
この月の中に御身の模範(もはん)が我等の心に起こしたるよき決心の為に 同じ
今月の中に我等に賜(たまわ)りたる総(すべ)てと我等の受けたる知らざる恵(めぐみ)の為に 同じ
     祈 願 せ ん

慈悲深き聖母マリアよ、我等今この聖(せい)月(げつ)を終らんとするに当たり、省(かえり)みればわれらが信心の勤行(つとめ)には足らざることのみ多く、また卑(いや)しきわれらが祈りには、聴き入れらるるに堪えざるものありき。されど御身は哀憐(あわれみ)の御母なれば、そを見そなはし給うことなく、御身の栄光(さかえ)の為に、この聖月の信心を行いたる我等の意志(こころざし)を顧(かえり)み給え。
 我等の足らざるを許し、却って慈悲深き御身に信(より)頼(たの)み御身にさけびし者の捨てられしこと、古(いにしえ)より今に至るまで世に聞こえざるを思い給え。
 願わくは我等を御身の子として、我等の意志(こころざし)、我等のうやうやしき祈りを御父に捧げ、その聴き入れられんことを請(こ)い求め給え。 アメン。

我等に深き痛悔(つうかい)と罪のゆるしを天主より請い求め給わんことを▲更に願い奉る。
生ける信仰、天主の憐(あわ)れみのかたき信頼、天主に対する燃ゆる
愛を求め給わんことを                       同じ
真実の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、忍耐及び艱難(かんなん)に臨(のぞ)み,御身の子として主に
依(よ)り頼みを得んことを                       同じ
我等今より忠実に主に奉仕へこれを最終まで持続せんことを      同じ
御身の識(しろ)し召す我等の為に、最も益(えき)にして且つ最も必要なる
御恵を求め給わんことを                       同じ
我が両親、朋友(ほうゆう)、親族恩人等を御身の御保護の中に入れ給わんことを  同じ  
すべての罪人(つみびと)と、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を憐(あわ)れみ給わんことを          同じ

     祈 願 せ ん

ああマリアよ今も、また特に臨終(りんじゅう)の時に我を捨て給わざれ。愛すべき御母よ、わが臨終に於いては我が今月屡々(しばしば)御前に跪(ひざまず)きて、「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために今も臨終の時も祈り給え。」とさけびしことを記憶(おぼ)へ給え。
 ああマリアよ。願わくはここに集(つど)える我等すべてを御身の伝達(とりつぎ)によ地獄より救い、天国に於いて再び御前に会(かい)し、御身の愛と御慈悲(おじひ)とを、永遠に讃美(さんび)するを得(え)せしめ給え。アメン。

注意  なおこの終りにおいて聖母マリアの讃美歌(マグニフイカト)或は他の感謝の聖歌を歌うことが習慣となっている。



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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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