Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの霊魂の美しさ

2013年07月17日 | カトリックとは
十 二 日 聖マリアの霊魂の美しさ

   汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくして、少しの汚(けが)れもなし。  (雅歌四。七)

 聖マリアは原罪(げんざい)も自罪(じざい)も、凡(およ)そ罪の汚(けが)れというものを少しも知らぬ清浄(しょうじょう)潔白(けっぱく)な御方であった。右の言葉は実にその御霊魂(ごれいこん)の、清き美しさを讃美(さんび)したもので、その中(うち)、始め「汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくして」とは、聖母が原罪(げんざい)の汚(けが)れなくやどり給うた事を指(さ)し、後の「少しの汚(けが)れもなし」とは聖母がその御生涯(ごしょうがい)に一つの自罪(じざい)も犯(おか)し給わなかった事を示している。
 無原罪(むげんざい)は総(すべ)ての人類のうち唯(ただ)聖母にのみ与えられた特別のお恵みであるがその自罪に汚されぬ清い御生涯は、聖母が天主の御聖寵(ごせいちょう)を、些(いささ)かも無(む)にせずしてよく用(もち)いられた結果である。
 ああ、原罪なき聖母の御霊魂の美しさはどうであろう! 玲瓏(れいろう)として少しの曇りもないこの宝玉(たま)は、天主の御光(おんひかり)、成(せい)聖(せい)の聖寵(せいちょう)に照り映(は)えて、日光を反射するダイヤモンドよりも燦然(さんぜん)と、五彩(ごさい)の文(あや)に照り輝いているのである。それを目のあたりに見えたならば、誰しも「汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)し!」と感嘆(かんたん)の叫びを上げずにはいられぬであろう。
 エワの霊魂も創(つく)られた時は悉(ことごと)く麗(うるわ)しかった。けれども原罪を犯(おか)してその貴重(きちょう)な玉に大いなる瑕(きず)をつけ、我等の汚(けが)れの母となった。
 これに反して聖母はその麗(うるわ)しさを全(まつと)うして、我等の救いの母、清めの母、人類の超自然的生命の母になり給うたのである。
 聖マリアは何(なに)故(ゆえ)に原罪を免(まぬ)れ給うたのであろうか? それはその御胎(ごたい)より生まれ給うた救い主イエズス・キリストの御功徳(おんくどく)によるのであった。我等も原罪(げんざい)の汚(けが)れこそ受けて生まれるものゝ、洗礼に依(よ)って総(すべ)ての罪を赦(ゆる)され、天主の愛子(あいし)となり、三位(さんみ)一体(いったい)の特別な映像(えいぞう)を霊魂に宿(やど)し、信望(しんぼう)愛によって聖霊の神殿(しんでん)となる幸福を得(え)たが、これまた偏(ひとえ)に救い主の御功徳の御陰(おかげ)で、我等の功(いさをし)によるのではない。されば我等はその御恵を感謝すると共に、与えられた聖寵(せいちょう)を守り、徳の芽を伸ばし、花を咲かせ、善(よ)き実(み)を結(むす)ぶ義務があるのである。
 この点に於(お)いて聖マリアほど優(すぐ)れた模範(もはん)は他(ほか)にあるまい。聖母は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくましました為に、聖寵(せいちょう)にもたぐいなく富(と)ませ給うたけれど、しかしそれを些(いささ)かも無(む)にせず、一心(いっしん)に励(はげ)み給わなかったならば、謙遜(けんそん)、従順(じゅうじゅん)、忍耐(にんたい)など、あらゆる徳の花を、あれほど美しく、咲かせ給う事は出来なかったであろう。
 実にその御生涯(ごしょうがい)は、御告(おつ)げを受けられた時から、十字架上の主の御死去、御自分の御死去に至るまで、何人(なにびと)にも見られぬ程の苦痛の連続であったが、聖母はそれを悉(ことごと)く天主の聖(み)旨(むね)の儘(まま)に耐(た)え忍(しの)び、豊(ゆた)かな功(いさおし)を積まれた。されば 
その此の世を去られるのと、天国に入り給うのと同時であったのはもとより当然な事である。
 けれども我等は聖母と大いに異(こと)なっている。例え洗礼に罪を赦(ゆる)されても悪(あく)慾(よく)その他の欠点がなお残っている為に、過失(あやまち)に陥(おちい)りやすい者である。
 自分が熱心に行った筈の善行(ぜんこう)中(ちゅう)にさえ、幾多(いくた)不純(ふじゅん)な気持ちを発見するではないか。故(ゆえ)に大抵(たいてい)はその過失(あやまち)の償(つぐな)いを果(は)たし、欠点を鍛(きた)え直し、不純(ふじゅん)な点を清められる為に、煉獄(れんごく)は免(まぬが)れ難(がた)い所であろうが、聖母の示し給うた模範(もはん)に倣(なら)い、日々(ひび)心を励(はげ)まして、天主及び他人に対する愛(あい)徳(とく)を守り、己(おのれ)を全(まった)く主の御手(みて)に委(ゆだ)ねるならば、永遠の幸福を恵まれる日も、必ず早められるに相違ないのである。

   祈   願

 ああ、原罪(げんざい)の汚(けが)れなき至(し)聖(せい)なる御母(おんはは)聖マリアよ、我等は御身の天主より恵まれ給いし豊かなる御聖寵(ごせいちょう)を喜び、主を讃美(さんび)し奉る。
何卒(なにとぞ)、我等をも総(すべ)ての汚(けが)れより潔(きよ)め、以(もっ)て御子(おんこ)に相応(ふさわ)しき住(す)み家(か)となし給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)



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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その4

2013年07月17日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という文章を掲載しましたが、いくつかご質問をいただきました。それらにお答えしたいと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【質問】
『第一バチカン公会議によれば、信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければなりません。これは特別教導権の行使です。』とありますが、第一バチカン公会議によれば何なのかを分かりやすく説明して下さい。これでは『第一バチカン公会議によれば、. . . を命じなければならない』と読めてしまい、意味が良く分かりません。

【お返事】
大変失礼しました。これは「第一バチカン公会議によれば、"信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければ、私たちの信仰箇条とはなりません。" これは特別教導権の行使です。」と「私たちの信仰箇条とは」を挿入してお読みください。


【質問】
第一バチカン公会議のどの宣言/教令によると、その主張通りになるのか、その典拠をはっきり提示して下さい。それはどこでしょうか?

【お返事】
教皇の特別教導権の行使については、第1バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職について DS 3070 以下をご覧ください。これについては、「マニラの eそよ風」236号にも引用したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇のペルソナとその役職とを区別したカトリック神学は、どこで読む事が出来ますか?

【お返事】
私の理解が正しければ、たとえばカイェタヌスがそれを主張しています。
Persona papæ potest renuere subesse officio papæ. ... Et si hoc in animo pertinaciter gereret, esset schismaticus per separatio- nem sui ab unitate capitis. Ligatur siquidem, persona sua, legibus officii sui quoad Deum. (in 2a 2ae, q39, al, n6)

カイェタヌスをジュルネ枢機卿が "L'Eglise du verbe incarné: Sa structure interne et son unité catholique" の中で引用しています。

これについては、以前「離教にあらず、破門にあらず」で言及したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇はいつ不可謬なのですか?

【お返事】
教皇は、教皇座から(ex cathedra)発言するときに不可謬です。つまり、諸民族の最高の教師として、教皇がある真理を全ての信者らが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。この場合、教皇が誤ることがないように、聖霊の補佐が教皇に約束されています。神学者たちは共通意見として、この他の幾つかの場合にも教皇に不可謬の特権を帰属しています。例えば、列聖の時(少なくとも1983年以前の列聖について)、或いは、教会の普遍的律法において、或いは、教皇が自分の全ての前任者たちの教えを繰り返すとき、などです。
(この質問と答とは五年前に「【質問】教会において誰が権威を持って教える権能を持つのか?教会の教導権は不可謬か?」というタイトルで書かれたものです。ご覧くだされば幸いです。)


【質問】
何故1983年以後の列聖については、不可謬とは限らないのですか?

【お返事】
何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、歴代の教皇たちと同じ意味において「列聖」するという意図があるのか大きな疑問があるからです。何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、今も昔もそして未来も変わらない真理という概念を持っているのか疑問があるからです。たとえば「教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できない」という点です。
さらに、列聖をするときに不可謬権を行使すると考えられているのは、カトリック教会のドグマではなく神学者たちの共通意見だからです。


【質問】
 教皇はどうやってこの強制の意志を表明するのですか?

【お返事】
 教皇は、全教会において、ある一つの教義を義務として強制しようとする意志を、これを拒否する人間はカトリック信仰をもはや持ってはいない、従って、拒否する人は教会の外にある(排斥される)と明確に宣言して、明らかに表明しなければなりません。


【質問】
教皇がどの位の教導権を行使しているかを客観的に判断する権限は聖ピオ十世会にあるのでしょうか?それともカトリック信徒一人一人にあるのでしょうか?

【お返事】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現それ自体にあり、これによって「不可謬権を行使して信じることを強制している」ということが誰が見てもわかるように、客観的に判断されます。
ただし、教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、私の考えでは、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあります。


【質問】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現にあるとはどういう意味ですか?

【お返事】
明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきものとして定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義することになる、ということです。
取り扱われている題材と表現方法から、教導権をどれほど行使しているか、神学的解釈の法則に従って知ることができる、ということです。たとえば、公会議についていえば、公会議の公文書の全ての内容が不可謬性を帯びているのではなく、そのうちの canon と呼ばれる排斥文のみが不可謬です。たとえば「もしも誰かが××と言ったら、彼は排斥される」という表現の文章です。これのみが不可謬です。
教皇の回勅などについて言えば、回勅・勅令で、特別教導権を行使してドグマの決定をしたとき、その決定の回勅に書かれていること全てが不可謬ではなく、そのうちの一部「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、○○がドグマであると宣言し定義し決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを否定するなら、彼は排斥される」などが、不可謬です。


【質問】
教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあるとはどういうことですか?

【お返事】
教皇や公会議の文章が明確に不可謬権を行使していると考えられた文章があっても、それが不可謬ではないと発表がなされることがある、ということです。
たとえば、ヨハネ・パウロ二世の回勅 Ordinatio Sacerdotalis で女性が司祭になることができないという発言がありました。回勅が出た直後は、その表現からこれは不可謬であると考えられていました。何故なら次のような表現があったからです。
"Wherefore, in order that all doubt may be removed regarding a matter of great importance, a matter which pertains to the Church's divine constitution itself, in virtue of my ministry of confirming the brethren (cf. Lk 22:32) I declare that the Church has no authority whatsoever to confer priestly ordination on women and that this judgment is to be definitively held by all the Church's faithful."
これが不可謬であると主張したものには、たとえばORDINATIO SACERDOTALIS: AN EXERCISE OF INFALLIBILITYがあります。
 しかし、後日、教義聖省長官のラッツィンガー枢機卿によってこれ(Ordinatio Sacerdotalisのこの部分)は不可謬権の行使ではないと発表があったからです。


【質問】
教導権の行使の程度の違いについて言及する権威ある文書を教えて頂けますか?

【お返事】
 『教導権の行使・投入の程度/度合い』という表現・言い方は、日本語の読者に理解しやすいように自分の言葉で説明したもので、必ずしも過去の神学者たちの使ったラテン語からの翻訳ではありません。しかし、言い方はそうではないかもしれませんが、内容は古典的な教えです。
 教導権の行使の程度の結果は、「教義の神学的資格」(Theological Notes / Qualifications)として現れます。

 たとえば、聖ピオ五世のクォー・プリームムのように、聖伝のミサを「自由に合法的に使用する事が可能であり、適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、承認し、認可する。」「故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」などという表現を見るとき、パウロ六世のつかった新しいミサ発布の時の表現との違いに、従って教導権の行使の程度の違いがあることがわかります。
(聖ピオ五世のクォー・プリームムの教導権の行使の程度については「クォー・プリームムの法的適応範囲は一体どこまでなのか」において考察したことがあります。ご覧くだされば幸いです。)



【質問】
 1950年11月1日、ピオ十二世教皇は、どのようにして、天主の御母聖マリアの被昇天のドグマの定義決定の時、強制の意図を表明したのですか。

【答え】
 ピオ十二世は、使徒憲章『ムニフィチェンティッシムス・デウス』(MUNIFICENTISSIMUS DEUS)において次のように宣言して、このドグマを強制しました。

「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、天主の汚れなき御母終生童貞聖マリアがその地上での生涯を終えたのし、肉体と霊魂とにおいて天上の栄光に上げられたということが、天主から啓示されたドグマであると宣言し定義決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを故意に疑うとしたら、願わくは天主がそれを赦し給わぬことを!彼は天主よりのカトリック信仰を完全に棄てた者であるということを知るように。」


【質問】
[Indefectiblity]の意味は『不滅』だけでしょうか?

【お返事】
Indefectibilityの意味は、聖ピオ十世の公教要理にある通りです。キリストの教会が破壊され得ないということは、もちろん信仰や道徳が純粋に保たれるということもありますが、信仰という目に見えないものを超えて、ペトロの上に立てられた目に見える社会的制度として、使徒継承の位階制度が世の終わりまで保たれるということも含みます。

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA の the Church の項には Indefectibility of the Church について言及があります。ご覧くだされば幸いです。少し引用します。

By this term [of indefectibility] is signified, not merely that the Church will persist to the end of time, but further, that it will preserve unimpaired its essential characteristics. The Church can never undergo any constitutional change which will make it, as a social organism, something different from what it was originally. It can never become corrupt in faith or in morals; nor can it ever lose the Apostolic hierarchy, or the sacraments through which Christ communicates grace to men. The gift of indefectibility is expressly promised to the Church by Christ, in the words in which He declares that the gates of hell shall not prevail against it. [...]


(続く)


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