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無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第9号】―2018年のモットーFather Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata

2018年01月03日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なるモデレーター、コーディネーター、親愛なる騎士の皆さん―この手紙をすべての騎士および興味を持ちそうな人々に送ってください。

新年おめでとうございます、そして聖なる新年をお迎えください!

2018年
マリアの汚れなき御心を通してイエズスの聖心へ


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

記念の年2017年も終わろうとしています。多くの人々が、今年何が起こったのかと思っていることでしょう。多くの人々が、100年前にファチマで起きた太陽の奇蹟のような、天からの特別な介入を期待していたことでしょう。他には、ファチマ第三の秘密の全体が明かされるのを熱心に待ち望んでいた人々もいましたし、私たちは皆、今年ロシアがマリアの汚れなき御心に奉献されるのではと非常に望んでいました。これらすべての希望は打ち砕かれました。それどころか、教会においては状況がかつてないほど悪くなっているように見える、と言えるかもしれません。それゆえに、来年からは、ファチマのことが多かれ少なかれ、多くの人々に忘れられてゆくのではないかという恐れがあります。

しかし、もう少し深くものを見る人々は、無原罪の聖母がこの記念の年の間に多くのことをなさったのを認めない訳にはいきません。年の初めには無原罪の聖母の騎士会(MI)の騎士は約2万人でしたが、年の終わりには、聖母の周りに10万人もの騎士を集めることで無原罪の聖母が私たちの祈りに応えてくださり、私たちの努力を祝福してくださったのを見て、私たちは感謝しています。フィリピン全土に及ぶマリア様の旅行ミッションは、この国に揺らぐことのない恩寵を与え、それにはしばしば、聖母の御あわれみによる実際の奇蹟がありました。多くの国々でMIは花開き、多くの信者の側に深いマリア様中心の生活がともにありました。以前には決してなかったことですが、ファチマの神秘に引き付けられて、聖伝に近づいてきた司祭たちや修道者たちとの非常に多くの接触がありました。

私たちがさらに深く見ていくならば、無原罪の聖母が私たちに与えてくださった非常に特別な恩寵があります。今年誠実に努力した人なら誰であれ、聖母によってその御心の神秘の中へさらに全面的に導かれたのです。私たちが受けたこの種の証言がいかに多かったことでしょうか。「これほど深くマリア様を理解することは、これまでありませんでした・・・今年ほどマリア様の愛を経験したことは、これまでありませんでした・・・私の生活全体でマリア様がいかに必要なのかということが、これまでにないほどよく分かりました・・・マリア様に奉献した生活をするということが、これまでよりずっとよくできるようになりました」!

ファチマ100周年の今年、マリア様の最も貴重なものが何かということが私たちに明らかにされました。聖寵充ち満てる御心、私たちに与えられる御心、これは聖母がすべての人にあらゆる回心と聖化の恩寵を与えようと望んでおられるということを意味しています。無原罪の聖母の騎士会100周年は、多くの新たな騎士を生み出しただけでなく、彼ら全員に彼らが聖母を信頼していること、また聖霊の浄配である聖母を通して聖霊のすべての賜物と実が私たちの心に置かれたことを示してもいるのです。

しかしここで、「私たちはマリア様について十分黙想しました。さあ、今度は何か別のことをしなければなりません。昨年、ファチマに関するすべてのことが決着しました。さあ今度は変化が必要です」と思うのは、大きな間違いです。

その反対です。もし私たちに、マリアの汚れなき御心の深みに入り込んでいく機会が与えられたのなら、それはマリア様が、私たちをご自分に完全に引き寄せて、その母としての御心を駆り立てているものを私たちに見せようと望んでおられるからです。マリア様は、ご自分のためには決して何も望んではおられません! マリア様は、ご自分に与えられたすべての栄光とほまれを、当然ながら御子へお渡しになります。汚れなき御心の本質そのもの、そのすべての聖域とご出現の目的そのものは、御子の聖心の神秘に私たちを導くことです。

ですから、これが私たちを新しい年2018年に、発見の旅にならなければならない年、言ってみれば、母親の指導の下で子どもが最も偉大な宝と最も偉大な真珠を見いだすことのできる年に導くのです。聖母はただ一つの望みをお持ちです。それは、私たちに天主の愛の広さと長さ、高さと深さを明らかにしてくださる(エフェゾ3章18節参照)天主の聖心に私たちを入り込ませることです。事実、マリア様ほどイエズスの聖心を深く、またよく理解し愛した人はこれまで誰もいませんでした。この理由のために、マリアの汚れなき御心において以外に、また御心を通して以外には、救い主の最も深い神秘に入れる人は誰もいません。

ですから、私たちは、イエズスが本当はどんな方なのか、イエズスの聖心の神秘とは何かを発見して驚くことをやめることは決してないでしょう。マリアの御心に完全に入り込んでいるときのみ、キリストは私たちに、小さき者たち、謙遜な者たちのために取っておかれた主の最も深い秘密を明らかにしてくださるでしょう。

それゆえに、私たちは二つの信心を別々に置いておくという危険、すなわち一方にマリアの御心への信心を置き、他方にイエズスの聖心への礼拝を置くという危険を避けなければなりません! 違います、本当の洞察は次のものです。「マリアは完全に常に、また常にマリアにおいてマリアを通して、イエズスへ至る!」。聖マキシミリアノ・コルベは、これを非常に明確に知り、生き、教えたのです(MIの奉献の祈りとイエズスの聖心をたたえるMIの講演を参照)。


ですから、2018年の第一の決心は以下のものです。

◆常にマリア様とともにいましょう。イエズスの聖心に近づくために、すべてにおいて聖母に頼り、すべてにおいて完全に、聖母の子ども、奴隷、騎士として自分を聖母に明け渡しましょう。

◆マリア様によってイエズスの聖心への信心を育みましょう(イエズスの聖心の月の初金曜日、イエズスの聖心の祝日など)。

◆今年、聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの全面的奉献を荘厳に行うか、更新しましょう(例えば3月25日に)。

◆聖母が王たるキリストに最も偉大なる栄光を与えられるようにするために、汚れなき御心の凱旋のために努力しましょう。イエズスの聖心の普遍的かつ社会的な王権を宣べ伝え、広めましょう。

◆多くの堕落した霊魂を可能な限り救うため、そしてそうすることで彼らをイエズスの至聖なる聖心に導くため、これまで以上に無原罪の御宿りの騎士および道具となりましょう(MIの奉献の祈り参照)。


しかし、私たちはまださらに進まなければなりません。

いとも聖なる二つの聖心が私たちにとっての現実となるとき、私たちがイエズスとマリアの聖心をまことに崇める者となるとき、私たちはさらに深い現実にまで、すなわち一つになった二つの聖心にまで導かれるのです。私たちがこれら二つの聖心の測りがたいほど深い面を知って愛するならば、私たちが、二つの聖心がどれほどお互いに表現できないほどの愛、一致、結合に至っているのかを知るならば、いわば、私たちが二つの聖心のお互いの関係をよく見つめるとき、いったい私たちは何と言うでしょうか?

ここにおいて私たちは、絶対的な愛の頂点の前に立っているのです。至聖なるイエズスの聖心において、この世への天主の愛がすべて明らかにされ、マリアの汚れなき御心において、天主への被造物の愛がすべて明らかにされるのです! 一つになった二つの聖心は、天主と被造物が永遠に一つになることの象徴です。愛の勝利です!

また、ここに、無原罪の聖母の騎士会の最も深い存在理由があります。私たちはそれを、2018年の間に、愛を込めた黙想のために騎士の皆さんに提供したいと思います。MIのエンブレムを見れば、一つになったイエズスとマリアの聖心と、これら二つの聖心の真ん中にMIの文字があるのが分かるでしょう。


ですから、2018年の第二の決心は以下のものです。

◆マリアを通してイエズスへ、しかしまたイエズスとともにマリアへ! この一方から他方への流れ、この相互の実り豊かさは、エミール・ヌーベール神父の著書「わが至高の理想マリアの御子イエズス」に非常に深くかつ美しく描写されています。今年、私たちはこの小冊子を手元に置き、繰り返し読みたいと思います。

◆騎士として、人類にもたらすことを許された最も偉大で最も重要なことが、ここに描写されていることを知りましょう。MIのバッジを身に着け、MIの旗に感謝し、MIの使徒職においてその旗の周りに集まることを幸せに思いましょう。

◆ひと月に一回、一つになったイエズスとマリアの聖心をたたえて大斎をしましょう。なぜなら、断食をすることは、私たちと私たちに委ねられた霊魂のための多くの恩寵の素晴らしい源泉であるからです。

◆「世の汚れに染まらず、自らを清く保つこと」(ヤコボ1章27節)を常に心がけましょう。イエズスとマリアに対する愛、そして霊魂たちに対する愛を表す次の祈りは、特に勧められます。「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。

ですから私たちは、2018年に、ファチマのメッセージという宝とMIを忘れないだけでなく、さらに深く見つめ、さらに熱心にそれを実践していくのです。なぜなら、このすべては、天主に最も偉大なる栄光を捧げ、できるだけ多くの霊魂を無原罪の聖母を通じてイエズスの聖心の下に置くために、私たちに与えられたのですから。

カール・シュテーリン神父



【英語原文】

Father Director's Letter No 9 to all Knights of the Immaculata - Motto for 2018

Dear Moderators and Coordinators, dear Knights - please forward this letter to all Knights and to those who could be interested!
HAPPY AND HOLY NEW YEAR!


2018
Through the Immaculate Heart of Mary to the Sacred Heart of Jesus


Dear Knights of the Immaculata!

The jubilee year 2017 is drawing to a close. Many wonder what happened this year. Many expected a special intervention from heaven, similar to the solar miracle 100 years ago in Fatima. Others longed for the whole of Fatima's third secret to be revealed, and we all wished so much that this year Russia would be consecrated to the Immaculate Heart of Mary. All these hopes were dashed. On the contrary, one could say that it looks worse than ever in the Church. Therefore, it is to be feared that after this year Fatima will more or less be forgotten by many.

But those who look a little deeper have to admit that the Immaculata has worked a lot during this jubilee year: at the beginning of the year there were about 20,000 knights in the M.I., and at the end of the year we are grateful to see that the Immaculata has answered our prayers and blessed our efforts by gathering 100,000 knights around her.
Mary's Mission Tour throughout the Philippines has given this country unspeakable graces, often associated with real miracles of her mercy. In many countries the M.I. has blossomed, together with a deepened Marian life on the part of many faithful. Never before have there been so many contacts with priests and religious who, attracted by the mystery of Fatima, have approached Tradition.

If we look yet deeper, there is a very special grace which the Immaculata has given us: whoever has made a sincere effort this year, has been introduced by her more thoroughly into the mystery of her Heart. How many testimonies of this kind have we received: "Never before have I understood Mary so profoundly … Never before have I experienced her love so much as this year... More than ever, I have come to realize how necessary she is in my whole life... Better than ever before have I been able to live my consecration to her"!

This year of the Fatima centennial gave us the revelation of what the most precious thing in Mary is: her Heart - full of grace, her Heart - given to us, which means that she wants to give everyone all graces of conversion and sanctification; she wants to pull us out of a sinful life and lead us to holiness. The centenary of the Militia Immaculatae has not only brought forth many new knights, but has also shown all of them how much they can trust their Lady and that through her, the Spouse of the Holy Ghost, all his gifts and fruits are placed in our hearts.

Whoever approached her this year did not seem surprised by her greatness and majesty, her royal power and maternal love, her great mercy.

But now, it would be a big mistake to think: "We have meditated enough on Mary, now something else has to happen. Everything revolved around Fatima last year, now a change is necessary."

ON THE CONTRARY: If we were given a chance to penetrate the depth of Mary's Immaculate Heart, it is because Mary wants to draw us completely to herself in order to show us what motivates her motherly Heart. Never Mary wants anything for herself! All the glory and honour given to her, she necessarily passes on to her Son: the very essence of the Immaculate Heart and the very purpose of all her sanctuaries and apparitions are to introduce us into the mystery of the Sacred Heart of her Son.

And this brings us to the new year 2018, which must become a journey of discovery, so to speak, during which the child can find the greatest treasure and the most precious pearl, under the guidance of his mother. She has only one wish: to make us plunge into the Heart of God, who reveals to us the breadth and length, the height and depth of His love (cf. Eph 3:18). In fact, no one has ever understood and loved the Sacred Heart of Jesus more deeply and better than Mary. For this reason, there is no other access to the deepest mystery of the Saviour than in and through the Immaculate Heart of Mary.

And we will never cease to be amazed upon discovering who Jesus really is, and what the mystery of His heart is. Only when completely submerged into the Heart of Mary will Christ reveal to us His deepest secrets, which He has reserved for the little ones and the humble ones.

We must therefore avoid the danger of placing both devotions side by side: on the one hand, the devotion to Mary's Heart, and on the other hand, the worship of Jesus' Heart! No, the real insight is the following: Mary wholly and always, and in her and through her always, Jesus! Very clearly did St. Maximilian Kolbe perceive, live and teach this (see the prayer of consecration of the M.I. and its conferences in honour of the Sacred Heart of Jesus).


Hence, the annual resolution No. 1:

/ Be always with Mary; depend totally on her; surrender to her totally and completely as her child, slave and knight close to the Heart of Jesus:

/ Foster devotion to the Heart of Jesus with Mary (1st Fridays, Month of the Sacred Heart, Feast of the Sacred Heart, etc.);

/ Solemnly make or renew this year your total consecration to Jesus through Mary according St. Louis-Marie Grignion de Montfort (e. g. on March 25th);

/ Strive for the triumph of the Immaculate Heart that She may give Christ the King the greatest glory; proclaim and spread the universal and social kingship of the Sacred Heart of Jesus;

/ More than ever, be the knights and instruments of the Immaculate Conception to save as many lapse souls as possible and thus to lead them to the most holy Heart of Jesus (see act of consecration of the M.I.).


But we must go further still:

When both holiest Hearts have become reality for us, when we have truly become worshippers of the Hearts of Jesus and Mary, we are introduced to an even deeper reality, that is, to the union of both Hearts. If we are able to acknowledge and love so unfathomable deep aspects of these two Hearts, if we per how both of them turn to each other in indescribable love, unite, merge, as it were, when we look at the relationship of both hearts to each other — what shall we say?

Here we stand before the absolute summum of LOVE: in the most holy Heart of Jesus the whole love of God for the world is revealed; in the Immaculate Heart of Mary the whole love of the creature for God is revealed! The united Hearts are the symbol of the eternal union of God and creature. The triumph of love!

And here lies the Militia Immaculatae deepest raison d’être, which we would like to present to the knights for loving contemplation during the year 2018. When we look at the M.I. emblem, we see the united Hearts of Jesus and Mary and the M.I. in the midst of these Hearts!


Hence the annual resolution No. 2:

/ Through Mary to Jesus, but also with Jesus to Mary! This flow from one to the other, this mutual fertilization, is depicted very deeply and beautifully in Father Emil Neubert's book "My Supreme Ideal, Jesus — the Son of Mary". This year, we want to take this booklet in hand and look at it again and again;

/ Be aware that the greatest and most important thing, as a knight, to be allowed to bring to mankind is depicted here: be happy to wear the badge of the M.I. and appreciate its banner and gather around it in the apostolate of the M.I.

/ As much as possible fast once a month, in honour of the united Hearts of Jesus and Mary, because fasting is a great source of many graces for us and the souls entrusted to us. The 1st Friday could be the worldwide fast day of M.I. (on a voluntary basis).

/ Constantly strive at "keeping yourself immaculate from this world" (James 1:27). The prayer that expresses the love for Jesus and Mary and also for souls is especially recommended: “Jesus, Mary, I love you - save souls!”

And so, in 2018, not only will we not forget the treasures of the message of Fatima and the M.I., but we will also look deeper and more earnestly put it into practice, because all this was given to us only to give God the greatest glory and to lay as many souls as possible at the feet of Jesus' Heart through the Immaculata!

Fr. Karl Stehlin

2018年1月7日(主日)東京で聖伝のミサ(トリエント・ミサ)が午前10時半からあります。

2018年01月03日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年1月7日(主日)は東京で「聖家族の祝日」のミサが午前10時半からあります。

1月7日(主) イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日 
        午前09時  聖歌の練習及び告解
        午前10時  ロザリオ及び告解
        午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)
        午後12時半頃 幼児洗礼
        午後02時半頃 主日の晩課(グレゴリオ聖歌による)
       【公教要理はクリスマス休暇で、お休みします】

1月8日(月) 御公現の平日(4級)白 
        午前7時 ミサ聖祭



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Feast of the Holy Family
Introit • ScoreVideoMp3Organist • Exsultet gaudio pater Justi



Exsúltat gáudio pater Iusti, gáudeat Pater tuus et Mater tua, et exsúltet quæ génuit te.
義人の父は、よろこびいさめよ。父と母とはよろこべ。あなたを生んだものは、よろこびおどれ。
Ps. 83, 2-3.(詩篇、83ノ2-3)
Quam dilécta tabernácula tua, Dómine virtútum ! concupíscit et déficit ánima mea in átria Dómini.
万軍の主よ、主の家は実に愛すべきものである。私の心は、主の家に入ろうとあこがれて、もえつくされんばかりである。

Gradual • ScoreOrganist • Unam petii with verse “Beati qui”


Unam pétii a Dómino, hanc requíram : ut inhábitem in domo Dómini ómnibus diébus vitæ meæ.
私は、一つの恵みを主に願い、なによりもこれをのぞむ。すなわち、生涯にわたって主の家に住むことである。
V/. Beáti, qui hábitant in domo tua, Dómine : in sǽcula sæculórum laudábunt te.
℣.主の家に住む者は幸せである。かれらは永遠に主をほめたたえるであろう。

Alleluia • ScoreOrganist • Vere tu es Rex absconditus


Allelúia, allelúia. Vere tu es Rex abscónditus, Deus Israël Salvátor. Allelúia.アレルヤ、アレルヤ、℣.イスラエルの天主、わがすくい主よ、まことに主は、かくれたる王にてまします、アレルヤ。

Offertory • ScoreOrganist • Tulerunt Jesum parentes ejus


Tulérunt Iesum paréntes eius in Ierúsalem, ut sísterent eum Dómino.
両親は、イエズスをつれて、彼を主にささげるために、エルザレムにのぼった。

Communion • ScoreVideoMp3Org.Color • Descendit Jesus cum eis


Descéndit Iesus cum eis, et venit Názareth, et erat súbditus illis.
イエズスは、かれらとともにナザレトに下り、かれらに服従し給うた。

トリノの聖骸布 イエズスは「来てみよ」とおおせられた。「主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」

2018年01月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の聖骸布のお話の続きをもう一度黙想します。イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る

【信仰の光における聖骸布】

聖骸布の像は、光と関連した特質を備えている。
写真のネガティブの特質、三次元的特質、広島での放射能によって生じた像に似た、繊維の表面酸化など。
まるでこの像が、とても強力で短い光の照射によって、それも暗い墓のなかで、生じたかのようだ!
このことはすぐに復活のことを思い起こさせる。
科学はこの像が復活の時にできたことを指し示す。

洗者聖ヨハネが私たちの主イエズス・キリストを指し示して「天主の子羊を見よ!」と言ったように。
この言葉を聞いて、聖アンドレアと聖ヨハネはイエズスに従った。
イエズスは振りむいて「何をのぞむのか?」と彼らに尋ねた。
彼らは答えて 「ラビ、あなたはどこにとまっておられますか?」と言った。
イエズスは彼らに「来てみよ」とおおせられた。(ヨハネ1章38-39節)

「来てみよ」
私たちも聖骸布の前で同じことを言うことができる。
全ての人が自分で来てみよ!
私たちの主イエズス・キリストは聖骸布を通して沈黙のうちに語っておられる。
主の両目は閉じている。聖骸布では主の口は閉じている。
しかし、来て主を見ようとする霊魂達に、主はなんと雄弁に語りかけられることか!

預言者ザカリアは400年前に宣言していた。
「私は、ダヴィドの家と、イエルザレムに住む人たちの上に、あわれみと祈りの霊をそそぐ。かれらは、自分が刺したものをふりあおいで、ひとり子のためにするような嘆きで、かれのために嘆き、初子のために泣くように、かれのために泣く。」(ザカリア12章10節)

「あなたについて、私の心はこういった。『主のみ顔をさがせ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」(詩編26章8-9節)

「主とそのおん力とを探し求め、つねにみ顔をたずねよ。」(詩編104章4節)

「主が、みいだされたいとおぼしめすあいだに、主を、さがし求めよ。」(イザヤ55章6節)

古い時代の多くの偉大な人の中には、その人の生存中に作られた銅像があることがある。しかし、その人の実際の写真はない。

私たちの主イエズスキリストについては、私たちは、ある意味で、彼の写真そのものを持っている!
150年以上前の偉大な人の中で、絶対的に唯一のこと。

「闇から光が輝き出せとおおせられた天主は、キリストの顔にある天主の光栄の知識を照らすために、私たちの心にかがやかれた。」(コリント後書4章6節)

私たちは、聖骸布の中に次の言葉の真実を見る。
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おん独子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1章14節)

私たちは自らの子を送られる天主の愛を見る。
「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章16節)

そして私たちと共に生きるためだけでなく、またとりわけ、私たちの救いのために死ぬため。
「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、かれとともに他のすべてを賜らないはずがあろうか。」(ローマ8章32節)

私たちはこれら全てのことを聖骸布のうちに見る。

「私の手と私の足を見よ、私自身だ。さわって確かめよ。あなたたちが見ている私のこんな肉と骨とは、霊にはない。」(ルカ24章39節)
「こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20章20節)

「またトマに向かって、『あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!』」(ヨハネ20章27節)

私たちは聖骸布に同じことをすることができる。

聖イグナチオと一緒に、私たちの主イエズスキリストの御傷のひとつひとつを見ながら、こう言うことができる。
「主が苦しまれたのは、私のためである」と。

聖パウロが言ったように、「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰によって、生きている。」(ガラツィア2章20節)

「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香しいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちにあゆめ。」(エフェゾ5章1-2節)

主に倣うためには、主を見なくてはならない。

主を見るにあたって、この「人の手に依らぬ」最も聖なる像について黙想する以上に善い方法はない。

「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によって、ますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント後書3章18節)

もし私たちが永遠にわたって栄光の主に似たものであろうと望むなら、ここ地上において私たちは苦しみを受けられる主と似た者でなければならない。

「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)

私たちはまた、私たちが聖骸布に見る全てのことは、童貞マリア(と聖ヨハネと聖なる婦人達)が十字架の下で、それが起こった時にごらんになったということを覚えておかなくてはならない。

聖母マリアは御体を清められ、主を布の内に置かれたが、それは私たちには決して語り尽くせない悲しみと愛をもってなさった。

イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る、これが最善の方法。

聖骸布に主の像を見るが、主の御体の実体はそこにはない。

御聖体においては、私たちには主の像は見えないが、主の御体、御血、御霊魂と御神性の実体がそこにあり、完全に、本質的に、生きておられる。

御聖体は聖骸布よりも限りなく勝れている。

ミサ聖祭では、それは主の御受難の単なる像ではなく、主が十字架の上でお捧げになり、祭壇の上で現実に捧げられているキリストのいけにえそのもの。

Acte de consécration à la Sainte Face, par Sainte Thérèse de l’Enfant-Jésus

O Face adorable de Jésus ! Puisque vous avez daigné choisir particulièrement nos âmes pour vous donner à elles, nous venons vous les consacrer. Il nous semble, ô Jésus, vous entendre nous dire : « Ouvrez-moi, mes sœurs, mes épouses bien-aimées, car ma Face est couverte de rosée, et mes cheveux sont humides des gouttes de la nuit ». Nos âmes comprennent votre langage d'amour; nous voulons essuyer votre doux Visage et vous consoler de l'oubli des méchants. A leurs yeux, vous êtes encore « comme caché... ils vous considèrent comme un objet de mépris ! »

O Visage plus beau que les lys et les roses du printemps, vous n'êtes pas caché à nos yeux ! Les larmes qui voilent votre divin regard nous apparaissent comme des diamants précieux que nous voulons recueillir, afin d'acheter, avec leur valeur infinie, les âmes de nos frères. De votre bouche adorée, nous avons entendu la plainte amoureuse. Comprenant que la soif qui vous consume est une soif d'amour, nous voudrions, pour vous désaltérer, posséder un amour infini !

Epoux bien-aimé de nos âmes ! si nous avions l'amour de tous les cœurs, cet amour serait à vous... Eh bien, donnez-nous cet amour, et venez vous désaltérer en vos petites épouses. Des âmes, Seigneur, il nous faut des âmes ! Surtout des âmes d'apôtres et de martyrs; afin que, par elles, nous embrasions de votre amour la multitude des pauvres pécheurs.

O Face adorable, nous saurons obtenir de vous cette grâce ! Oubliant notre exil, sur les bords des fleuves de Babylone, nous chanterons à vos oreilles les plus douces mélodies. Puisque vous êtes la vraie, l'unique patrie de nos âmes, nos cantiques ne seront pas chantés sur une terre étrangère.

O Face chérie de Jésus ! En attendant le jour éternel, où nous contemplerons votre gloire infinie, notre unique désir est de charmer vos yeux divins, en cachant aussi notre visage, afin qu'ici-bas personne ne puisse nous reconnaître... Votre regard voilé, voilà notre ciel, ô Jésus !

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

トリノの聖骸布 イエズス・キリストだけがこの聖骸布に写っている男と一致する

2018年01月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様の持ってきてくださったトリノの聖骸布の実物大の複製は、私たちに別な霊的な新しい息吹を与えてくれました。

イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る。


「あなたについて、私の心はこういった。『主のみ顔をさがせ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」(詩編26章8-9節)

「主とそのおん力とを探し求め、つねにみ顔をたずねよ。」(詩編104章4節)

「主が、みいだされたいとおぼしめすあいだに、主を、さがし求めよ。」(イザヤ55章6節)

幼きイエズスの聖テレジアの聖なる御顔への奉献の祈り
Acte de consécration à la Sainte Face, par Sainte Thérèse de l’Enfant-Jésus


O Face adorable de Jésus ! Puisque vous avez daigné choisir particulièrement nos âmes pour vous donner à elles, nous venons vous les consacrer. Il nous semble, ô Jésus, vous entendre nous dire : « Ouvrez-moi, mes sœurs, mes épouses bien-aimées, car ma Face est couverte de rosée, et mes cheveux sont humides des gouttes de la nuit ». Nos âmes comprennent votre langage d'amour; nous voulons essuyer votre doux Visage et vous consoler de l'oubli des méchants. A leurs yeux, vous êtes encore « comme caché... ils vous considèrent comme un objet de mépris ! »

O Visage plus beau que les lys et les roses du printemps, vous n'êtes pas caché à nos yeux ! Les larmes qui voilent votre divin regard nous apparaissent comme des diamants précieux que nous voulons recueillir, afin d'acheter, avec leur valeur infinie, les âmes de nos frères. De votre bouche adorée, nous avons entendu la plainte amoureuse. Comprenant que la soif qui vous consume est une soif d'amour, nous voudrions, pour vous désaltérer, posséder un amour infini !

Epoux bien-aimé de nos âmes ! si nous avions l'amour de tous les cœurs, cet amour serait à vous... Eh bien, donnez-nous cet amour, et venez vous désaltérer en vos petites épouses. Des âmes, Seigneur, il nous faut des âmes ! Surtout des âmes d'apôtres et de martyrs; afin que, par elles, nous embrasions de votre amour la multitude des pauvres pécheurs.

O Face adorable, nous saurons obtenir de vous cette grâce ! Oubliant notre exil, sur les bords des fleuves de Babylone, nous chanterons à vos oreilles les plus douces mélodies. Puisque vous êtes la vraie, l'unique patrie de nos âmes, nos cantiques ne seront pas chantés sur une terre étrangère.

O Face chérie de Jésus ! En attendant le jour éternel, où nous contemplerons votre gloire infinie, notre unique désir est de charmer vos yeux divins, en cachant aussi notre visage, afin qu'ici-bas personne ne puisse nous reconnaître... Votre regard voilé, voilà notre ciel, ô Jésus !

【聖骸布に写る男の人の姿】
この布には死んだ男の人のしるしがついている。
この布は石の上に置かれ、亡くなった人の背面がその上に置かれ、布は頭から上に折られ、体全体を覆った。
顔、胸、腕、両手、両足のしるしが両側についている。
この男の人は重傷を負ってい。
特に両肩に、また両腕や両足にまでも鞭打ちの跡がある。
手首と両足には釘の跡があり、それらの箇所から血が流れた跡がある。
脇腹には刺した槍の跡と多量の血がある。
おでこと後頭部には茨の跡がある。
肩に重量物(十字架)の跡がある。
鼻の近くの頬に殴られたあとがある。(聖ヨハネがこれについて記録している。大祭司の部下が私たちの主イエズスキリストの顔を強く打った、と。)
これらすべての傷が一緒にあるというのは大変稀。

【十字架に掛けられた人】
通常奴隷が死刑になったときは、その前に鞭打ちは行なわれなかった。
行なわれたのは鞭打ち刑か十字架刑のどちらかであって、両方行なわれたのは稀。
茨の冠は例外的。
十字架刑になった人は通常両足を折られた。(十字架刑を受けて両足を折られた人の骨が何例か発見されている。)
悪い奴隷の罰として、普通遺体は十字架刑の後、そのまま穴に投げ入れられた。

【イエズス・キリストだけがこの聖骸布に写っている男と一致する】
キリストの場合、ピラトが鞭打ちを行なわせたのは、十字架刑を免れさせるため。
ピラトはファリザイ人達の憎しみを満足させようとして、そのためには鞭打ちで十分だろうと思った。しかしファリザイ人達は更にイエズスの死を求めた。
ローマ時代においてキリスト以外の茨の冠を被らせられた例はない。
キリストの両足は折られず、代わりに脇腹に槍が刺された。
キリストは、高価な布に包まれて丁寧に埋葬された。
これら全部の傷に該当する例は、私たちの主イエズス・キリストを除いて、他に歴史上に知られた例がない。

【見ることのできないもの・無いもの】
1)絵筆や塗料の跡が無い。まったく見つけることができない。
(聖骸布は「人の手に依らぬイコン(像)」と呼ばれたイコンによく合致する。このイコンはエデッサに存在していた。)

2)聖骸布には腐敗の跡が無い。
(通常死者の骨があれば、その周りの肉や布は完全に腐敗している筈。骨がなく、布には腐敗がなく、布に置かれた体にも腐敗の跡がない。)
3)体なしの布。その布は体から完全に外されている。
(エジプトのミイラの場合、体にしっかりと巻かれていたため布を剥がすことはほとんど不可能。)
4)血の跡の箇所は全て正確に残っている。しかし血の塊にも、布にも、肉にも、全く剥がれた跡がない
(このことは復活によってのみ説明が付く。体にこれほど多くの深い傷があり、釘の跡や胸にあいた穴のような相当大きな血の跡がこれほど多くあるので、このような傷に包帯を巻いたとしたら、三日後にその包帯を取るとしても何も剥がさずに取ることはできない。全く不可能。)
5)この体はこの布の中に三日間以上はなかった。三日経つと腐敗が始まり、死後硬直がなくなる。しかし、腐敗の跡がない
6)体はこの布の中に三日間以上はなかった。
(首は、後ろ側が伸びた状態になっており、前側ではほとんど見えない。十字架に付けられた人は息を引き取った時に首を前に倒し、そのあと体が仰向けに置かれても、死後硬直によってその首は上がったまま。腐敗が始まって死後硬直がなくなったとしたら、首は石の上に倒れかかった筈。しかし聖骸布ではそうではない。死後硬直のままの状態。埋葬の三日後に、この体から何も剥がさずに布を取り去ることはできない。

以上を説明できるのは復活しかない。

【聖福音が語る私たちの主イエズス・キリストの埋葬の布】
ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリットに共通の語源がある。
この単語は、通常「高価な素材から作られたきめ細かな布」を指す。
聖マテオの福音:「屍をうけとったヨゼフは、それを清い(=汚れていない)覆布でつつみ(マテオ27章59節)」と。
聖マルコは「ヨゼフは亜麻布を買い、イエズスを十字架からおろし、亜麻布でつつみ、岩にほった墓におさめた。(マルコ15章46節)」と。

復活後にその布についている印は全て、その布の中にあったキリストの埋葬された体による印であった、ということを間接的に示している。

【「人の手に依らぬイコン(像)」という名前それ自体】
歴史によるとエデッサには「人の手に依らぬイコン(像)」があった。

【他のイコンに大きな影響を与えた】
その「人の手に依らぬイコン(像)」を真似して多くのイコンが模写された。模写されたのイコン(像)には、とても大きな目のような、奇妙な特徴がある。
イコン(像)を描いた画家たちが、写真のネガティブの効果、つまり聖骸布の陰陽の反転を理解できなかったから。

【像を中心にするために聖骸布の片側に付け足された布】
現在の聖骸布の一番下の隅二箇所に長方形が二つ欠けている。
全体にわたって長い継ぎ目もある。
聖骸布の折り目はこの継ぎ布を加えた新しい幅に合わせてある。
この継ぎ布は、後の時代のどの折り目よりも前から存在した。
その布なしでは、顔が中心にならない。
この布が加えられることによって、顔がちょうど聖骸布の左右の中央になる。

大きなキャンバスの上に像を左右不対称に描いておいて、その像を再び左右対称にするためにキャンバスの一部を追加するような絵描きがいるだろうか?

上下についても言える。布は足の端から数センチ先まで伸びている。ところが、つま先の爪は布でカバーされていない。
中心から少し外れているということは、聖骸布が偽物ではないことを証明する。

【聖骸布から発見された、エデッサ地域からの花粉の存在】

【1898年:初めての写真】
1898年、アマチュアの写真家セコンド・ピアが聖骸布の写真を撮った。その写真のネガによって初めてキリストの顔が再び「見える」ようになった。


フランスの科学アカデミーの会員で不可知論者のイヴ・デュラージュ医師は聖骸布を分析したが、解剖学的な間違いはなかった。
デュラージュ医師は聖骸布に関する論文をパリの科学アカデミーに提出し、その中で聖骸布が医学的、科学的に説得力のあるものであること、聖骸布は本当にキリストの体を覆ったものである意見を述べた。

解剖学的な間違いなく、写真が発明される500年以上も前に、ネガによってのみ見られる像をいかに偽造することができただろうか?
聖骸布には前と後ろの二つの像がある。両方の寸法は一致する。(これを絵描きや偽造者が実現するのは非常に困難。)

【STURP:1978年】
1)アメリカの科学者達による STURP (“Shroud of Turin Research Project”—トリノ聖骸布研究プロジェクト)は、星を研究する方法(分光法)で聖骸布を研究した。結論:「聖骸布の像が、鞭打ちを受け十字架に付けられた男の本当の人間の形の像であると、今の段階では結論する。これは画家の作品ではない。血のしみはヘモグロビンからなっており、血清アルブミンテストも陽性である。」
2)火星の山のレリーフに用いて成功した三次元技術を使い、聖骸布について分析したが、地上の他のどの像よりも極めて良好な結果を得た。
3)繊維の専門家によると、聖骸布の縫い目は死海の近くのマサダ城塞で発見され1世紀のものとされる織物に合致する。ツイル(三つ綾)と呼ばれる織り方は、1世紀のシリアのデザインと合致している。「トリノの聖骸布の亜麻布については、それが1世紀の織物師による高級な製品からなるということを示す。」
聖骸布の漂白は不均一。聖骸布の漂白は古代の方法であり、8世紀以前のものである。(8世紀以前は、少量の液を使い、織る前に糸を漂白した。糸は均一に漂白されず、糸によって他の糸より色が濃くなる。8世紀以降の新しい方法では、布全体が一度に漂白されるので、均一に漂白される。)


2018年の最初の初水曜日 聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

2018年01月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、1月3日は、2018年の最初の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。

2018年の最初の初水曜日に、この一年を聖ヨゼフに奉献し、「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。



なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
2018年に聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】