Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2018年2月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2018年01月30日 | カトリックとは
ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2017年12月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2018年2月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of February 2018. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Februarii anno MMIIXX


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年9月29日 大天使聖ミカエルの祝日「大天使聖ミカエル、ファチマの天使が教える 『謙遜』について」

2018年01月30日 | お説教・霊的講話
2017年9月29日(金)大天使聖ミカエルのミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年9月29日、大天使聖ミカエルの大祝日を祝っています。
特に大天使聖ミカエルは聖フランシスコ・ザヴェリオによって日本の守護の天使として定められました。ですから大天使聖ミカエルは日本にとって、とても大切な天使です。
私たちは今日この祝日を、特別な敬虔の念を以て捧げたいと思っています。

そこでこの大天使聖ミカエルの祝日、また初金曜日に私たちが聖時間をする事ができないので、今日は特別にミサの後に、初金曜日ではないのですけれども、短い御聖体降福式を捧げます。

今日は大天使聖ミカエルの大祝日にあたって、3つの点を簡単に黙想する事を提案します。

1つは、大天使聖ミカエルとは一体そのどういう御方なのか、皆さんぜひ知って下さい。

そして、大天使聖ミカエルは私たちに一体何を教えているのでしょうか?まずその名前が、また大天使聖ミカエルはつい最近、100年前ファチマで子供たちに私たちに、何をしなければならないかという事を教えてくれました。

最後にその教えてくれた事を、私たちは遷善の決心として立てる事に致しましょう。

大天使聖ミカエルという方は一体どんな方なのでしょうか?

皆さんよくご存知の通り、大天使聖ミカエルは目に見えない純粋の霊であり、被造物であって、聖書においては「天使」といわれている特別の被造物に属しています。この天使は詳しく言うと、聖パウロと旧約聖書によれば、9つの階級があります。

大天使聖ミカエルはある日、創造を受けました、他の天使たちと共に創造されました。これはどういう事かというと、人間やこの目に見える動植物や、この目に見える三次元の大宇宙の世界と全く異なり、私たちが一般に、聖書で一般に「天使」と言われている純粋の霊は、物体も肉体も持たない存在です。それなので天主様から直接に創造されます。

また動物や人間のように感覚、目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったりする事なく、天使たちは全て直接に、生まれながら知識を持って生まれてきました。人間よりも更に優れた知性を持っています。

天使たちの意思は人間よりもはるかに強く、もしも天使が「これだ!」と決めれば、もうその意志は固く、何も誰もそれを覆す事ができません。

天使の力は私たちりもはるかに超えて、移動する事もその力も、人間の想像を全く超える大きなものになっています。

天使たちは、天主の御旨を果たす為に創られました。天主と天使の違いは何かというと、ただ天使には始まりがあり、天主様には永遠の、始まりもなく、永遠の昔から永遠の未来まで無限にいつも常に存在してるのですけれども、天使は被造物であるが故に、限界があり、限りがあり、始めがあって、終わりがない存在です。もちろん天使はその事をよく知っていて、その永遠の威光の天主の御稜威の前に、いつも讃美と感謝と礼拝を捧げています。

天使たちの数は人間の、私たちがアダムとエヴァとその中の人間の最後の数をはるかに超えるほどいます。人間の数の何十倍何百倍かは私たちはその数を言う事はできませんが、それをはるかに超えるほどの数があります。

そして天使の一位一位は、天使の存在1つ1つは全て、全く異なった存在なのです。これはどのような事になっているかというと、例えば人間は同じ、何億の人間がいたとしても1つの種として、「人間」という種の中に1つです。人間と、犬とか、猫とか、猿とか、ロバとか、馬とかは別の種で、1つ1つが違いますが、天使たちは一位一位が、馬と、猫と、猿と、鳩が違うほど、種が違っています。

天主の全能は、その天使たちの一位一位をそれぞれ別の全く違う種として創るほどの無限の存在ですから、そのようなバラエティーに富んだ色々な種類の種の天使たちを創る事ができました。

その9つの階級に従って天主を愛しているのですけれども、ある日その天使の一部が反乱を起こしました、「天主の御旨には従わない、私は従わない!“Non serviam!”」

その反乱の時に、9つの下から2番目だった階級の大天使聖ミカエルは、「誰が一体、天主と等しいものがあるだろうか!」

私たちは天主から創られた身である。私たちは天主に従わなければならない。一体どのような事があっても、天主の御旨に従わなければならない。私たちは従う、反乱しない。どのような屈辱があったとしても、どのような辛い事があろうと、どのような何があろうと、私たちは従う。天主こそ私たちの主である。「誰が天主に等しいだろうか!」

大天使聖ミカエルは、その反乱軍の天使たちに対して他の天使たちと共に戦って、遂に彼らを地獄に突き落とすのです。そこで大天使聖ミカエルは、その天主への忠実の為に、反乱軍に代わる天使の長となりました。

ではこの大天使聖ミカエルは私たちに、何を教えているでしょうか?

「謙遜」を教えています、「一体誰が、天主に如(し)く者があるだろうか。」その名前の通りです。大天使聖ミカエルはファチマにおいて100年前に、3回子供たちに現われました。その時に大天使聖ミカエルが言った事をぜひ私たちも考察致しましょう。

まず大天使聖ミカエルは、第1の現われた時に、「私はポルトガルの平和の天使である。守護の天使である」と言って、そしてこの祈りをしました、「我が天主よ、」大天使聖ミカエルにとって、その自分の、あるいは最も被造物にとって大切なのは、この一語に尽きます、「我が天主よ。」

ファチマのメッセージはここから始まらなければなりませんでした。そして私たちの人生も、私たちにとって最も中心になる考えも、ここから始まらなければなりません。「我が天主よ、」謙遜とは何かというと、まさにここにあります。私たちが被造物であるという事を認めて、天主が在すという事を認識する事です。「我が天主よ、」大天使聖ミカエルは子供たちに、自分の態度をもって教えました。

子供たちによるとシスタールチアによると、「15、6歳の若い、とても美しい青年でした。体はクリスタルのように透き通っていて、太陽の光が通ると非常に輝く、美しく輝いていました。そしてそれと同時に、畏怖の念を起こさせるもので、力強さと、その尊厳と威厳に満ちていました。」

皆さんも、大自然のものすごい山の頂きの中から上から崖を見たり、あるいはきれいに咲く花々を見たり、あるいは恐ろしい雷や大地震や、大自然の力を目の当たりにした時に、その自然界の恐ろしいその力に、偉大な力の前に、畏怖の念を感じるかもしれませんが、子供たちも大天使聖ミカエルを見て非常に、その力強さに畏怖を感じました、恐れおののきました。

その大天使聖ミカエルは自分の体を屈めて、膝を屈めて額突いて、額を地面に付けて、「我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」と子供たちに教えました。「さぁ、このように祈れ。」

私たちはまさに謙遜でなければなりければなりません。聖フランシスコ・ザヴェリオがなぜ日本の守護の天使に大天使聖ミカエルを選んだかというと、「日本は謙遜でなければならないから」と言っています。まさに私たちも、真の天主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。

「信ずる」という事は、「天主が仰った事は確かに正しい」という事です。科学者が何を言おうと、あるいはどこかの大学の先生が何を言おうと、あるいは何とか新聞が何とか言おうと、ツイッターが何を言おうと、イギリスのエコノミストが雑誌が何を言おうと、「天主がこう仰ったという事は、絶対の真理だ」と信じる事です。天主は真理そのものにて在して、自分が間違える事も、私たちも騙す事もない。その権威がゆえに、そのそれに私たちの知性を従えさせる事です。

「礼拝する」という事は、私たちが天主から創られたという事で、「天主が創造主である」という事を認識する事です、「全て天主のもとに私たちを従わせる」事です。それが礼拝という事です。その事はもちろん態度で、跪いたり、額突いたり、あるいは香を焚いたり、あるいはいけにえを捧げたりする事で表明できます。また私たちの意思を全く主の意思に従わせる事によって、礼拝を示す事ができます。

「主を希望する」という事は、「主は私たちの善を願っている」という事を認めて、「主は決して私たちに約束を違える事がない。私たちに必ず永遠の命と、それに必要な全ての手段を、助けを下さる、約束を守られる」という事を希望する事です。それを信頼する事です。

「主を愛する」という事は、「主がこの地上の全ての目に見える善に勝って、全てのありとあらゆる有限の存在それらに勝って、この森羅万象の全てのものに勝って、全てに超えて、全てに超える善である」という事を認めて、私たちはそれを愛する事です。それを望んで、それだけを、それをも自分自身よりも更にそれを求めて愛する事です。そして遂にそれを永遠に享受するという事です、楽しむという事です。

ここにこそ私たちの本当の創造の目的があって、ここにこそ本当の幸せがあって、ここにこそ本当の私たちの憩いがあります。それを大天使聖ミカエルは私たちに教えようとしています。

しかし残念ながら、残念ながら世界の人々は、特に日本では、この本当の幸せを、本当の真理を信じる人も、礼拝する人も、希望する人も、愛する人もほとんどいません。主が私たちを、特に日本の国の人々をこれほど愛しておられるにもかかわらず、それは無関心と、あるいは無知の為に、冒瀆やあるいは侮辱によって、その主の愛は返されています。

そこで大天使聖ミカエルは私たちに、彼らに代わって赦しを願うように、「信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々に代わって、御赦しを乞い願い奉る」と祈るように教えています。また「恐ろしくも冒瀆されている、屈辱を受けている、犯されているイエズス・キリストをお慰めする為に、私たちが愛をこめて、償いの為に聖体拝領をするように」と子供たちに教えました。聖母の汚れなき御心の教会の中に招かれている私たちは、その真理を知っています。そして私たちは、大天使聖ミカエルが何を求めているかを知っています。

ですから今日、遷善の決心を立てましょう。

ぜひ大天使聖ミカエルの名前の通りに、私たちもこの雄叫びを心に響かす事ができますように、「誰が一体、天主に等しい者があるだろうか!」私は一体誰か?被造物であり、罪人であり、贖いを、赦された、贖いの恵みを受けた者である。大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。私たちの為に取り次いで下さい。私たちがいつも主の御旨だけを果たす事ができますように、もしも主の御旨に背くような事が、私の心がそれに逆らうように誘われても、「一体誰が天主に等しい者があるだろうか!いや、私は主に従わなければならない。イエズス・キリストの望みを果たさなければならない!」と聖ミカエルに付いて行く事ができますように、そして大天使聖ミカエルのように、どのような誘惑があっても、「いや、No!私は従う!」と言う事ができますように、主に背く全てのものを排除するできますように、大天使聖ミカエルの御旗の元に従う事ができますように、付いて行く事ができますように、それを求めましょう。

そして大天使聖ミカエルが教えて下さった祈りを私たちがいつも唱えますように、心の中で、「あぁ我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」といつも祈り続けている事ができますように、何をしている時もこの祈りを射祷で唱える事ができますように、そしてミサの時には、あるいは霊的な聖体拝領としてイエズス様を、恐ろしくも侮辱されているイエズス様をお慰めする、償いの聖体拝領ができますように、特にマリア様の汚れなき御心を通して、その聖体拝領をする事ができますように、特別のお恵みを乞い求めましょう。

「大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること 一、天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている

2018年01月30日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている

をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること

一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている


 天主においては、いっさいが“生命”である。
 天主は、“生命”そのものである。
 さて、無限の天主が、この生命を、最も鮮烈に、最も濃厚に、最も花やかにおあらわしになるのは、けっして、たとえば天地創造のような、その外的事業においてではない。それは、神学者たちが、「Operatio ad intra」「天主の内奥においていとなまれる業」と呼んでいる、その形容しがたい内的活動においてであり、この天主的活動の究局の成果は、御父が、永遠から永遠にわたって御子を生む、ということ、さらに御父と御子から、聖霊が、永遠から永遠にわたって発出する、ということ、この二つである。
 御子の出生と、聖霊の発出――ここにこそ、天主の本質的な、永遠的な事業があるのだ。
 いましばらく、われらの主イエズス・キリストの地上生涯に、目をそそいでみよう。
 イエズスこそは、天主のご計画の、完全な実現でいらっしゃるからである。
 イエズスは、まず三十年間を、沈黙と隠棲のうちに、お過ごしになった。次に、四十日間の黙想と苦業が、その短い三か年間の公生活の序曲だった。しかも、その短い公生活の間ですら、イエズスは祈るために、どれほどしばしば、あるいは山に、あるいは砂漠に、おしりぞきになったことだろう。Recedebat in desertum et orabat(ルカ5・16)あるいはまた、夜を徹して、天主に祈られたことだろう。Pernoctans in oratione Dei(ルカ6・12)

 さらに、意味深長なエピソードが、ここにある。マルタとマリアの争いがそれだ。
 イエズスを接待したさい、マルタは、マリアが何もしないで遊んでいる、といって、さかんにマリアを非難する。イエズスに、マリアをしかっていただきたいのである。活動的生活が、「主の足もとにすわって、み言葉にきき入る」(ルカ10・39)観想的生活にまさっているゆえんを、力説していただきたいのである。

 だが、イエズスのお答えは、意外だ。
 「なくてはならぬものは、一つだけである。マリアは、最良の部分を選んだのだ」(ルカ10・42)とおっしゃったイエズスは、あきらかに、内的生活の優越性を、ご宣言なさったのである。祈りの生活、念禱の生活が、活動の生活にはるかにまさっていることを、ふかくわれわれに納得させたいおぼし召しがあったればこそ、イエズスはそう仰せられたのである。

 聖霊降臨のあと、伝道事業が多忙をきわめたとき、使徒たちはあくまでも、師の教訓を忠実に守って、まず祈りの務めに専心するのだった。そして、天主のみ言葉の宣伝に専念することができるようにと、俗務はすべてこれを助祭に一任するのだった。
 「わたしたちが、天主のみ言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から……七人をさがしだしてほしい。その人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈りとみ言葉のご用に当たることにしよう」(使徒行録6・3~4)

 師たるイエズスに源を発する、この伝統的考え方は、世紀の坂をくだっても、すこしも衰えをみせず、いつも歴代の教皇、教会博士、神学者たちの脳裏を支配してきた。かれらはみな一様に、内的生活は、それ自体、活動生活にまさるのだ、と断言してきた。

 かれこれ五六十年前のことだが、フランスはアベロン市(Aveyron)に、女子教育専門の修道会の総長がいた。彼女は信仰の人であり、人格者であり、偉大な性格のもちぬしだった。教区の上長たちは、彼女に、配下の修道女らの世俗化(la sécularisation)を極力勧めた。

(時の革命政府の宗教圧迫の結果、フランスでは修道会は禁止された。宗教教育を主旨とする自分の学校経営をつづけていくためには、どうしても修道生活を捨て、修道服をぬがなければならぬ。――彼女はジレンマにおちいった。―訳者)

修道生活のために、学校経営という事業を犠牲にすべきか、或いは修道生活を捨てて学校経営という事業を守るべきか?どうして良いか分からず、

天主のみ旨をどうやって知るかが分からなかったので、彼女はひそかにローマに行き、時の教皇レオ十三世に、謁見をもとめ、自分の疑いを打ち明け、また、修道生活を続けて事業を続けるようにとの圧力を受けていることを話した。

(「学校事業を続けてほしいと、人びとがしきりにわたしにすすめ、わたしの同意を強要しているのでございます。学校を続けますと、わたしどもは修道生活に、お別れしなければなりません。どちらにしてよろしいのか、わたしには判断ができませんので……」―訳者)

 いとも尊敬すべき老教皇は、耳をかたむけて、彼女の言葉にきき入り、しばし沈思熟考の様子だったが、やがて頭を上げて、次のような、まことに断固たるお答えをなさったのである。

 「あなたの娘たちの中で、ほんとうに修道精神を持っているひとが、ほんとうに念禱生活を愛好しているひとがおありでしょう。それなら、何より先に、またどんな事業を犠牲にしても、まずこれらの修道女に、修道生活をりっぱに確保してやることです。もしあなたが、修道生活も確保できない、学校経営も確保できない、というのでしたら、天主さまはきっとフランスに、他の事業をいくつも起こしてくださるでしょう。もしそれが必要だと、おぼし召されるのなら。
 あなたがたが、ほんとうにりっぱに修道生活をおやりでしたら、たとえそのためにフランス政府から、外国へ追放されるようなことがありましても、あなたがたは、あなたがたのお祈りと犠牲の功徳によって、以前にもまして、祖国フランスのためにお役に立ちましょう。せっかく天主様に一生をおささげした結果、手に入れた霊のたからなる修道生活を奪われたまま、国内にとどまって、教育事業にたずさわっているよりも、そのほうがもっともっと、フランスのためにはなるでしょう。」
« Avant toutes choses, avant toutes oeuvres, gardez la vie religieuse à celles de vos filles qui ont vraiment l'esprit de leur saint état et l'amour de la vie d'oraison. Et si vous ne pouvez conserver et cela et les oeuvres, Dieu saura susciter en France d'autres ouvrières, s'il le faut. Pour vous, par votre vie intérieure, surtout par vos prières, par vos sacrifices, vous serez plus utiles à la France, en Testant vraiment religieuses, même loin d'elle, qu'en demeurant sur le sol de votre patrie, privées des trésors de votre consécration à Dieu. »
 これと同じ所信を、聖ピオ十世教皇は、ある教育専門の大修道会にあてた書簡のなかで、表明していられる。
 「わたしのきいたところによれば、こういう意見が、世間に流行している、と。しかもこの意見に追従して、あなたがたは、青少年の教育事業を、第一位におき、あなたがたの修道生活を、その次においている、そして、現代の精神と必要が、それを要請している、と。
 だが、わたしは、このようなまちがった意見が、あなたがたの修道会において、また、あなたがたと同じように、教育を主旨とする他の修道会において、たとえごくわずかにもせよ、修道者たちから信用をかちえることを、絶対に許さない者である。物には序列がある。順位がある。この序列、この順位を、あなたがたの生活にハッキリさせてほしい。すなわち、修道生活は、普通一般の生活よりも、はるかに優越する地位を占めるべきである。
 また、あなたがたは、自分たちの教育の義務によって、隣人にたいして重大な負債がある、とおっしゃっておられる。ごもっともである。だが、あなたがたは、それよりさき、天主に宣立した修道誓願のゆえに、天主にたいしては、いっそう重大な負債があることを、了承しなければならぬ。」
Nous apprenons qu’une opinion est en train de se répandre, d’après laquelle vous devriez mettre au premier rang l’éducation des enfants, et la profession religieuse seulement au second : ainsi l'exigeraient l'esprit et les besoins du temps, Nous ne voulons absolument pas que cette opinion trouve tant soit peu de crédit auprès de vous et des autres Instituts religieux, qui, comme le vôtre, ont pour but d'édurcation. Qu’il soit donc bien établi, en ce qui vous concerne, que la vie religieuse l’emporte de beaucoup sur la vie commune et que si vous êtes gravement obligés à l’égard du prochain par le devoir d’enseigner, bien plus graves encore sont les obligations qui vous lient envers Dieu.

 さて、修道生活の存在理由、その主要目的は、内的生活を身につけることである。
 これ以外のなにものでもないはずだ。
天使的博士・聖トマスは、次のようにいっている。
「観想的生活は、それ自体、活動的生活よりも、いっそうすぐれている。いっそう好ましいものである。」

 さらに、聖ボナヴェントゥラは、内的生活が、活動的生活にまさっていることを示すために、多くの比較形容詞を使って、次のようにいっている。
 「内的生活は、活動生活にくらべて、いっそう高貴である。いっそう安全である。いっそう効果に富んでいる。いっそう甘美である。いっそう恒久的である。Vita sublimior, securior, opulentior, suavior, siabilior」


 (一)Vita sublimior ――内的生活は、いっそう高貴である。
 活動的生活は、人間あいての生活である。
 観想的生活は、天主あいての生活である。
 観想的生活は、われわれを、いっそう高尚な真理の境地に、ひき入れる。それでも、真理の観照によって、現実の生活を忘れさせない。人間生活の第一原因なる天主から、常にまなざしを離させないからである。
 観想的生活は、活動的生活よりも、いっそう高尚である。高尚だからこそ、活動的生活に比べて、いっそう広範な分野をもっている。
 「マルタは、からだで、タッタ一つの場所にしかいなかった。そして、ただわずかなことについてだけ思いわずらい、わずかなことのためにだけ、せわしく立ち働いていた。これに反して、マリアは、心に燃えさかっている愛によって、多くの場所におり、多くの仕事をしている。マリアは、天主を観想し、天主を愛することによって、あらゆる事物を見ている。そのために、心が広くなって、あらゆる事物に達し、あらゆる事物をとらえ、あらゆる事物をわが身に抱容する。
 マリアにくらべると、マルタはごくわずかなことについてしか、思いわずらわなかった、といえるだろう」(『雅歌について』八)
 これは、サン・ビクトールのリシャール師の言葉だが、まことに真理をうがっている。

(二)Vita securior ――内的生活は、いっそう安全である。
  内的生活には、危険は、ほとんどないといってよい。
  活動にばかり没頭している生活には、危険はつきものだ。
  霊魂は、いらだつ。熱に浮かされたように、興奮する。エネルギーは消耗する。
  それで、霊魂のちからは、よわっていく。
  活動的生活には、三つの危険がある。
  「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことについて、思いわずらい、心を騒がしている」(ルカ10・41)

  第一の危険「思いわずらう」――これは頭のなかに起きる心配ごとである。
  第二の危険「心を騒がす」――これは、心のなかに起きる感情のあらしである。
  第三の危険「多くのことについて」――たくさんの用務にたずさわっているから、そこから自然、努力にも、行動にも、分裂が生じてくる。
  これに反して、内的生活を心に確保するためには、いっさいの事がらを、タッタひとつのこと――すなわち天主との一致に、集中してしまう必要がある。げに、なくてはならぬものはタダ一つ!他のことはみな、第二次的の価値しかない。天主との一致を達成するための、また、天主との一致をいっそう深めていくための、手段でしかないのだ。
(三)Vita opulentior ――内的生活は、いっそう効果に富む。
 内的生活は、観想的生活とともに、「よいものがすべて、同時に、わたしにくる」(知恵の書7・11)
 内的生活は、人間のあらゆる生活様式のなかで、「最良の部分」(ルカ10・42)なのである。
 内的生活は、活動的生活よりも、功徳が多い。なぜか。
 内的生活をすれば、意志は天主にむかって、ますます高く飛翔するからである。
 成聖の恩寵は、霊魂に、ますますみなぎりあふれるからである。
 霊魂は、天主を“愛する”という唯一の動機から、いっさいの行動を起こすようになるからである。

 (四)Vita suavior ――内的生活は、いっそう甘美である。
 ほんとうに内的な霊魂は、天主のおぼし召しに、おのれをゆだねる。
 天主をおよろこばせすることだけを考える。
 楽しいことも、苦しいことも、同じ心をもって、忍耐づよい心をもって、甘んじ受ける。
 艱難にあっても、よろこばしい顔つきをしている。
 十字架をになうのを、幸福のきわみとさえ思っている。
 世の中に、これほど幸福な人がいるだろうか。

 (五)Vita stabilior ――内的生活は、いっそう恒久的である。
 活動的生活が、どんなに激烈であっても、それはしょせん、この世かぎりのものである。
 説教も、教育も、その他あらゆる事業も、死の関門にたてば、たちまちおきざりにされて、永遠の世界にまでついていくことはできない。
 内的生活だけは、永遠に絶えることがない。
 だれも、これを奪い去ることはできない。(ルカ10・42)
 内的生活によって、この世の旅路は、永遠の光照にむかっての、内心の絶えまない向上となるのだ。内心の向上の果てる処、そこには死の関門が、ひかえてはいるだろう。だが、この死の想定さえも、内心の向上を、たぐいなくいっそう強烈に、いっそう迅速にするのみである。
 内的生活の優越性についての本章を総括する、聖ベルナルドの有名な言葉がここにある。

 「内的生活によって、人はいっそう純潔になる。
 あやまちに落ちいることは、いっそう少なくなる。
 あやまちに落ちいっても、いっそう早くたちなおる。
 救霊の道を、いっそう安全にたどる。
 いっそう多くの恩寵をいただく。 
 いっそう安らかにいこう。
 いっそう安らかに死ぬ。
 煉獄では、いっそう早くきよめられる。
 天国では、いっそう大きなむくいをいただくのである」(聖ベルナルド『福音書注解』)
« En elle l’homme vit plus purement, tombe plus rarement, se relève plus promptement, marche plus sûrement, reçoit plus de grâces, repose plus tranquille, meurt plus rassuré, est plus vite purifié et obtient une plus grande récompense.»

[Haec (vita) sancta, pura et immaculata, in quo homo vivit purius, cadit rarius, surgit velocius, incedit cautius, irrogatur frequentius, quiescit securius, moritur fiducius, purgatur citius, praemiatur copiosius (S. BERNARD, Hom. Simile est.).



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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