Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会日本の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)御公現後第三主日(2018年1月21日)の楽譜や動画のリンク

2018年01月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。次の日本での聖伝のミサは次の通りです。

 大阪:
1月19日(金)午後6時
1月20日(土)午前10時半


 東京
1月21日(主)午前10時半
1月22日(月)午前07時

をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

3rd Sunday after Epiphany
Introit • ScoreVideoMp3Organist • Adorate Deum omnes Angeli ejus

Adorate Deum omnes angeli ejus. Audivit, et laetata est Sion; et exsultaverunt filiae Judae. Dominus regnavit; exsultet terra; laetentur insulae multae.

Gradual • ScoreVideoOrganist • Timebunt gentes

Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam. V. Quoniam aedificavit Dominus Sion, et videbitur in majestate sua. Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam.

Alleluia • ScoreVideoOrganist • Dominus regnavit exsultet terra

Alleluia alleluia. Dominus regnavit a ligno, exsultet terra, laetentur insulae multae, alleluia.

Offertory • ScoreVideoOrganist • Dextera Domini(聖木曜日のOffertoriumと同じです)

Dextera Domini fecit virtutem, dextera Domini exaltavit me. Non moriar, sed vivam, et narrabo opera Domini.


Communion • ScoreVideoMp3Organist • Mirabantur omnes

Mirabantur omnes de his quae procedebant.

シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」

2018年01月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。

 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ダニエル・フュレップ「キコの共同体、ネオカテクメナート(新求道共同体)の道について司教様のご意見は何ですか?」

シュナイダー司教「これは極めて複雑で悲しい現象です。オープンにはっきり言ってしまうと、これはカトリック教会におけるトロイの木馬です。私は彼らのことをよく知っています。何故なら私はカザフスタンにおいて、カラガンダにおいて、数年間彼らのための司教代表だったからです。私は彼らのミサや会合にも何度も出席しましたし、彼らの創立者であるキコの書いたものを読みました。ですから私は彼らのことをよく知っています。

私が外交なしにオープンに話すなら、私はこう言わなければなりません。ネオカテクメナートは、教会の内部における、カトリックの飾りだけを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体[23]です。

最も危険な側面は、御聖体に関するものです。何故なら御聖体は教会の中心部(心臓)だからです。この中心部(心臓)がおかしくなっているとき、体全体もおかしくなります。ネオカテクメナートにとって、御聖体とは第一に兄弟的な宴会です。これはプロテスタントです。典型的にルター的な態度[24]です。彼らは御聖体が真の犠牲であるという概念と教えを拒絶します。彼らは御聖体を犠牲であるする聖伝の教え、そして聖伝の信仰は、キリスト教的ではなく異教的である[25]という見解さえ持っています。
これはまったく馬鹿げてきます。これは典型的にルター的でありプロテスタント的です。彼らの御聖体の典礼の間、御聖体をまったく軽々しく取り扱います。時として恐るべきこととなります[26]。
御聖体拝領の時に彼らは座り、小さな破片には神経を払わないのでそのまま捨てられます。御聖体拝領の後、沈黙のうちにイエズスに祈り、礼拝する代わりに、彼らはダンスを踊ります。これは本当にこの世的であり、異教的で、非超自然的です。

第二の危険は、彼らのイデオロギーです。ネオカテクメナートの主要な考えは、彼らの創立者であるキコ・アルグェジョ(Kiko Argüello)によれば次の通りです。すなわち、教会は理想的な生活をしていたが、しかしこれは四世紀のコンスタンティノ皇帝の時までで、その時までだけが効果的に現実の教会であった。ところがコンスタンティノ皇帝とともに教会は不健康となり始めた。教義的にも、典礼的にも、道徳的にも廃退していった。[27] そこで教会は、この教義と典礼の廃退のこれ以上落ちることができない岩盤の底に到達したが、それがトリエント公会議の教令である、と。

しかしながら、キコの意見とは反対に全く正反対が真実です。つまり、トリエント公会議は教会歴史の最高点の一つでした。それはトリエント公会議の教義と規律の明快さによります。

キコによると、教会の暗黒時代は四世紀から第二バチカン公会議まで続いたことになっています。第二バチカン公会議によって初めて教会に光がやって来た、と。

これは異端です。何故ならこれはつまり聖霊が教会を捨て去っていたと言うことだからです。これは本当にセクト的(新興宗教的)でマルチン・ルターと同じ線にあります。ルターは、自分が来るまで教会は暗闇の中にいた、自分を通してのみ教会に光がある、と言いました。キコの立場は、ルターと根本的に同じです。ただ違うのはキコは教会の暗黒時代をコンスタンティノ皇帝から第二バチカン公会議までとしたことだけです。従って、彼らは第二バチカン公会議を間違って解釈しています。彼らは自分たちこそが第二バチカン公会議の使徒であると言います。そう言うことによって、自分たちがやっている全ての異端的な実践や教えを第二バチカン公会議を使って正当化するのです。これは重大な乱用です。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

(続く)


[23] この共同体は、教会の典礼をプロテスタントとユダヤ教の要素を混ぜ合わせている。
[24] この共同体は、典礼聖省が彼らの典礼乱用を承認することを長い間待っていた。典礼聖省に照会をして、信徒のための教皇庁評議会が新求道共同体の公教要理の方針(Catechetical Directory)とそこにある典礼外の実践を承認した。従ってがこの許可は典礼以外の実践のみ適応する。2012年1月20日の教令は、新求道共同体の「典礼革新」と何の関係もない。この「典礼革新」は、直ぐさま終わらせなければならない。何故ならそれは教会の普遍的な法規と実践に反しているからだ。
[25] トリエント公会議(1545–63)は、プロテスタントの見解に反対して、次のことをドグマとして宣言した。すなわち、ミサ聖祭の犠牲は罪の償いの要素を含める(DH 1743, 1753)。犠牲はキリストご自身によって命じられた。これは単なる記念でも栄光化でも感謝でもなく、生ける人と死せる人のために捧げられる罪の償いの現実の犠牲である。しかし、ミサが現実の犠牲であるという事実は、キリストの犠牲が繰り返されなければならない、ということではない。教会はキリストの犠牲を異教の人身御供に変えるのではない。ミサ聖祭は十字架の犠牲の繰り返しではない。ミサ聖祭は秘蹟の印のもとでキリストの唯一の犠牲が現前することである。この意味において、ミサ聖祭は「記念」である。ここにおいて、秘蹟の経綸の現実が現前する(DH 1740)。キリストは、ミサ聖祭においても十字架の上に置いても同じ最高司祭である(DH 1743)。
[26] 新求道共同体の典礼は、ローマミサ典書の総則にも従わず、その他の典例法規にも従わず、自分自身の「典礼革新」にのみ従う。新求道共同体の典礼のやり方は乱用で一杯である。実際、バチカンは平信徒が彼らのミサで説教をしたり、典礼の最中に信徒が踊ったり、感謝の祭儀の祈りの時に跪かずに立ったままでいたり、座ったまま聖体拝領したり、キリストの御血が入った大きなカリスを手渡したりすることについて注意した。教会音楽についての規定も全く無視されている。別の問題は、新求道共同体は信徒たちを小教区と教会から分離させる。主日のミサ聖祭は乱用だらけで、常に共同体の「プライベートなミサ」として土曜日の夕方に捧げられる。普通は教会の中ではなく、世俗の場所、たとえば共同体の部屋で。
[27] 313年6月13日、コンスタンティノ皇帝はミラノの勅令を発し、キリスト教の迫害を終わらせ、キリスト教をローマ帝国の有効な宗教として認めた。315年、同じ皇帝は死刑の方法としての十字架を廃止し、異教の諸宗教が有していた特権をカトリック教会にも与えた。321年コンスタンティノ皇帝は主日を休日とした。ローマ帝国の絶対的な支配者として、324年からローマ帝国中における教会の制度的基礎を確立することを助けた。プロテスタントらは、カトリック教会の制度的構造と社会政治的強さの確立、及び王座と祭壇の結びつきは、異教主義の勝利であると考えている。

「使徒職の秘訣」第一部 その一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を天主はお望みになる

2018年01月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を、天主はお望みになるを
兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


第一部 天主は、外的活動も、内的活動も、お望みになる


一、使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる


 このうえなくおおらかであること、絶対に物惜しみをしないこと―これこそは、天主性の特長である。
 天主は、無限に、善良であられる。さて、善良なる者の心のあえぎは、ただひとつ―それは、自分がもっている善や幸福を、他の者にもわかちあたえたい、ということである。
 わが主イエズス・キリストの地上生涯をみれば、そのことがよくわかる。それは、天主のこの汲めども尽きないおおらかさの、たえまない表れだった。福音書をちょっと見てもわかるとおり、イエズスの聖心は、世の人びとを、天主の真理に、永遠の生命に引きよせようと、かわくほど望んでおられる。そして、そのたどられた道々に、慈悲と哀憐と博愛のたからを、おしげもなくまきちらしていく。
 この使徒職の炎を、イエズス・キリストは、ご自分の花よめなる教会にも、おわかちになった。それは、かれの愛のプレゼントである。かれの生命のあふれである。かれの真理の解明であり、かれの聖性のかがやきである。この天主的炎にあふられ、活気づけられたればこそ、カトリック教会は、世紀の流れを通じて、天主なる花むこのお手本にならって、使徒的事業を継続していくのではないか。
 「人間は、おなじ他の人間によって、救霊の道を、示されねばならぬ」(レオ十三世のお言葉)
 ああ、天主の摂理がうちたてた、感嘆すべくも世界的なこの計画よ、この法則よ!なるほど、ただイエズス・キリストだけが、世のあがないの代価である。尊い御血を流された。キリストは、ちょうど聖体の秘跡においてそうなされるように、単独で直接、人びとの霊魂に、御血の功徳をほどこし、そこでお働きになることができたにちがいない。しかし、かれは、その恩寵の分配の仕事において、協力者を、助手を、お求めになる。なぜだろうか。
 むろん、天主としてのかれの威厳が、それを要求するにちがいなかろうが、それにもまして、人びとにたいするかれの永遠の愛が、かれにそうさせるのである。その臣僕をして、霊魂の統治にあたらせるのは、天地の王なる天主にとって、ふさわしいことではあろう。だが、この貧しい、いやしい被造物なる人間を、ご自分の事業の労苦と栄光に参加させてくださるのは、天主のがわからいって、どれほどのおおらかさであることだろう!
 十字架の上でうぶごえをあげ、救世主のつらぬかれた脇腹から生まれでた教会は、おのれの使徒職にたずさわる人びとを使って、天主の人イエズス・キリストの慈悲と贖罪の事業を、世の終わりまで続けていく。イエズス・キリストのご意志によって生まれたこの使徒職は、教会が、万国民の霊魂に、天主的生命をそそぎ入れるための、実質的機関であり、人びとの霊魂を征服してゆくための、最も通常の武器なのである。
 使徒職にたずさわる人びとの中で、第一番にくるのが“聖職者”であって、その聖なる階級は、キリストの軍団の幹部を形成している。かくも多数、かくも聖にして奮発と熱誠にもえる司教・司祭たちから成る聖職者階級は、それだけでもすでに、栄光と称賛にあたいする存在だが、特にアルスの聖司祭の列聖によって、ひときわ異彩を放った。
 聖職者についで、教会の初期から、いわば“志願兵”の軍団が存在してきた。それはまことに、精鋭の軍団で、その持続的な、花々しい生長発展の姿は、まさしく教会が、活気に富む霊体であることを示す、最もあきらかな証拠の一つとして、指摘されるべきである。
 これに属する者では、まず初代の世紀における、観想的修道会の人びとがあった。かれらは、そのたえまない祈りと、はげしい苦業によって、異教世界の回心に貢献するところが甚大であった。
 中世紀に起こったのは、説教修道会、托鉢(たくはつ)修道会、騎士修道会、および異教徒から信徒の俘虜をあがないもどす英雄的使命を目的とした、種々の修道会である。
 最後に、現代においては、あたかも雨後の竹の子のように、諸種の修道会が群起している。その中には、教育を目的とするもの、職業を教えるもの、外国宣教を主要目的とするもの、その他、多種多様の修道会がある。そして、かれらの使命は、種々の形式のもとに、物心両面の恩恵を世の人びとにほどこすことにある。
 そのほか、教会は、あらゆる時代を通じて、信徒のあいだに、一騎当千の協力者を見いだしてきた。それは、たとえば、熱心なカトリック信者であった。現代では、何々団、何々会、と名のついているもの、いわゆる“事業の人”と名づけられるもの、伝道熱にもえる人たちがそれである。かれらはいずれも、自分たちの力をたがいに結集して、共通の母なる教会への奉仕に、一切をささげつくしている。一切を ― 時間も、才能も、財産も、そしてしばしば自由さえも。また、時としては、おのれの血、おのれ自身のいのちさえも。
 使徒職に献身するこれらの人びとの雄々しい姿は、だれも感激なくして眺めることができない。それはまた。大きな励ましとなる。
 このように、天主はおぼし召しの時に、時代の要請と情勢にみごとに即応した、いくたの事業を、摂理のみ手をもって、さかんに起こしてくださるのである。教会の歴史は、このことを雄弁に物語っている。 ― 教会に、なにか新しい必要が起こって、これを満たしてやらねばならない時、教会がなにか新しい危険におびやかされて、これからおのれを安全にまもらねばならない時、そういう時には、きまって、当代の必要が要請する新しい修道会の創立をみるのである。
 そんなわけで、今日でも、とりわけ現代社会のひどい罪悪の激流に抵抗するために、昨日まではほとんど知られていなかった、諸種の新しい使徒職が起こりつつある。すなわち、初聖体をよく準備させるためのカトリック要理の教授、初聖体拝領後の少年、少女、および信者、未信者へのカトリック要理の教授、各種の信心会、祈祷の使徒会、レジオ・マリエ、慈善の使徒職なる聖ビンセンシオ・ア・パウロ会、黙想会、学生連盟、カトリック学士会、カトリック医師会、カトリック文芸協会、カトリック経営の諸学校、カトリック出版物・・・などなど。
 これらの使徒職は、いずれもみな、「わたしは、あなたたちの霊魂のために、大いに喜んで、すべてを費やし、わたし自身さえも費やすつもりである」(コリント後12:15 )といった、聖パウロの魂を燃えたたせていた、火のような伝道精神に霊感されて、起こったものである。じっさい聖パウロは、イエズス・キリストの御血の功徳を、すべての人の心にそそぎ入れようと、かわくほど望んでいたのである。
 キリストの王国の伸張発展をめざして、布教戦線の第一線に立つこれらの人びとに、わたしはこのつたないページをささげる。かれらは、おのれの尊い使命を達成するために、熱誠と奮発に燃え、情熱をかたむけつくして、働いてはいるだろう。だが、同時に、ある種の危険にもさらされてはいないだろうか。
 外面的活動が激しいので、身も心も消耗しつくした結果は、「何よりもまず、内的生活の人」でありえない状態に在るのではなかろうか。また、いつの日か、どうにも説明のできない不成功により、さらにおのれの霊魂にこうむった甚大な損害によって、内生不足の当然の罰を受けることでもあるなら、そんなとき、すっかり意気消沈して、全く戦意をうしない、まるで敗残兵のように、布教戦線を脱落するようなことはないだろうか。
 本書に盛られている思想は、実は筆者自身のためにも、少なからず利益となったことを、ここに告白する。いろんな雑務に追いまくられている関係上、ややともすれば、外面の世界におし流されようとする危険にむかって、たたかうために。
 どうか本書が、筆者と同じ危険にさらされている人びとを、世俗化の不幸から、救ってくれますように。また、かれらに、天主の事業のために、“事業の天主”を棄ててはならぬ、という真理をなっとくさせて、かれらの勇気を鼓舞し、かれらの活動を、正しい軌道にのせてくれますように。
 さらにまた、聖パウロが、「ああ、もしわたしが、福音を述べ伝えないならば、わざわいなことよ」(コリント前9:16)といった言葉は、けっしてわれわれに、「人は、たとえ全世界をもうけても、もしその霊魂をうしなうならば、なんの利益があるだろう」(マテオ16:25)とのキリストのお言葉を、忘れさせる口実を与えるものではない、ということを、ふかくさとらせてくださいますように。
 ここに、家庭の父母がある。
 かれらは、『信心生活の入門』を、愛読している。
 ここにまた、キリスト信者の夫婦がある。かれらは、たがいに使徒職にたずさわるのは、自分の義務である、また、子どもたちを、キリストへの愛と模倣にむかって教育していくのも、自分らの義務である、と信じている。こういう人たちは、本書のあたえる教訓を、たやすく、自分に適応することができるであろう。
 かれらの使徒的奮発心を、いっそう効果的にするためには、ただ信心深くあるということだけでは足りないのだ。どうしても内的生活がなければならぬ。さらにまた、かれらの家庭を、イエズス・キリストの精神をもって、かおらせるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。最後に、かれらの家庭を、永久にかわらない平和―いろんな試練があっても微動だにしない、そしていつまでも、真にキリスト教的家庭の家宝として存続するこの平和をもって、きよく美しくかざるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。この内的生活の必要を、もしかれらが本書によって、いっそう痛切に感ずるようになるなら、まことにさいわいである。

名著「使徒職の秘訣」序説(Dom Chautard 著 山下房三郎 訳)

2018年01月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳を、兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 原著はL'Ame de Tout Apostolatで、聖ピオ十世会の神学生は、神学校入学と同時にこれを読むことを課されます。

序説

Ex quo omnia,     すべては、天主から
Per quem omnia,    すべては、天主によって、
In quo omnia.     すべては、天主のために
                         (ローマ 11 : 36 )

ああ、かぎりなく偉大、かぎりなく善良な天主よ。あなたの内的生命にかんして、信仰がわたしたちに啓示するもろもろの真理は、まことに感嘆すべきものです。また完全に、わたしたちを驚倒させます。
 聖なる御父よ、あなたは永遠から永遠にわたって、あなたの完全なイメージなる聖言(みことば)のうちに、あなたご自身を、静観していらっしゃいます。
 聖言は、あなたの美しさに見とれて、こころおどり、―かくて、あなたと聖言との双方のご恍惚から、無限愛の炎が、すなわち聖言が、発出されます。
 ああ、拝むべき三位一体の天主よ、あなただけがタダひとり“内的生命”でいらっしゃいます。―円満な、みちあふれている、そして終わりのない!
 はてしもなく善良な天主よ、あなたは、あなた自身を、その内的生命の外部にも、そそぎだそうとお望みになりました。あなたがひとこと、言葉をおだしになりますと、御手のわざなるすべての被造物は、虚無の中からおどり出て、あなたのもろもろの完徳をあらわし、あなたの栄光をうたいます。
 創造主なるあなたと、あなたのお息のひとふきによって造られ、そして生かされたちりにすぎない人間とのあいだには、無限にふかいふちがよこたわっていましたのに、あなたの霊なる愛の聖霊は、これをあとかたもなく、埋めつくそうとおぼし召されました。
 このようにして、聖霊は、愛したい、おのれを他の者に与えたい、というそのはてしないご意欲を満たす手段を、お見いだしになるのです。
 かくて、聖霊は、ちりにひとしい人間を、天主の境地にまで高め、これを“天主化”しようとのご計画を、あなたのふところで、おたてになりました。このご計画によりますと、御手によって、人間のかたちにつくられましたこのひとかたまりの土は、“天主のように”なり、あなたの永遠の幸福にあずかることができるのです。
 ああ、前にも後にも絶えてあるまじき、愛の奇跡でありますことよ―このご計画は!
 この驚嘆すべき大事業の達成を、あなたの聖言は、みずから進んで、お引き受けになります。
 かくて、聖言は、人となられました―人間を“天主”にするために!(聖アウグスチヌスの言葉)
 しかし、聖言よ、あなたは人におなりになっても、“御父のふところ”を絶対に、お離れになりません。
 「御父のふところ」―ここにこそ、あなたのご生命の実質があるのです。ここにこそ、あなたのご生命の源泉があるのです。ここからこそ、あなたの使徒職の、賛嘆すべきすべての活動が、流れでているのです。
 ああ、イエズス、わたしたちとともにいます天主―エンマヌエルよ、あなたは使徒たちに、あなたの“福音”と、あなたの“十字架”と、あなたの“ご聖体”を、おあずけになりました。さらに、全世界に出て行って、すべての国民に福音を述べ伝え、天にいますわたしたちの御父のために、無数の子どもをもうける―という使命を、かれらにお授けになりました。
 それがすむと、あなたは、御父のみもとに、お帰りになりました。
 それ以来、天主の人イエズス・キリストの神秘体を聖化し、これを統治する任務をお引き受けになりましたのは、聖霊よ、あなたでございます。
 神秘体の頭なるキリストから、肢体なるわたしたち信者の霊魂に、“天主的生命”をそそぎ入れるためのお仕事に、聖霊よ、あなたはかたじけなくも、人の子らの中から、協力者を、助手を、お選みになりました。聖霊降臨のよき日、天からふりそそいだ天主の火に燃えさかった使徒たちは、全世界に出て行って、天主のお言葉を、人びとに述べ伝えて、その精神を照明し、天主の恩寵を、人びとの心にそそぎ入れて、天主の愛に燃えあがらせ、―このようにして、あなたが、ご自身のうちに、あふれるほどに持っておいでになる“天主的生命”を、あまねく世の人びとにも、わかちあたえられるのでした。

 ああ、天主の“火”よ。ああ、イエルザレムの高間のしあわせな黙想者なる使徒たちを、一瞬にして別人にされました聖霊よ、あなたの使徒職に参加するすべての人の心に、主を愛する熱心の火を、燃えさからせてください。そういたしましたら、かれらはもはや、ただカトリックの教義や道徳の説教者となるだけでは満足せず、さらに進んで、キリストの尊い御血を、人びとの霊魂にそそぎ入れる、生ける“輸血者”となるでしょう。
 光の聖霊よ、どうぞ使徒職にたずさわる人びとの心に、次の真理を、不滅の文字をもって、きざみつけてください。すなわち―
「かれらの使徒的活動は、あなたを究極の原理とし、イエズスを唯一の源泉とするこの超自然的生命を、かれらが自分自身で生きぬく度合いに応じてのみ、効果を生ずるものである。」
という真理を!
 ああ、無限の愛なる聖霊よ、どうぞかれらの心に、内的生活にむかっての、はげしいあこがれの火をたきつけてください。あなたのおやさしい、ちからづよい愛の火花で、かれら
の霊魂を浸透し、そしてかれらに深くさとらせてください。―うつし世の旅路における、まことの幸福は、ただ内的生活のいとなみにだけある、ということを。
 そして、この内的生活とは、一切の慈悲の父、一切のやさしさの父なるあなたのふところでいとなまれる、あなたご自身のご生活と、イエズスの聖心のご生活を、できるだけ忠実に模倣し、かつこれに参与することにほかなりません。
 ああ、原罪のけがれなき聖処女、使徒の元后なる聖母マリア!どうぞ、このつたないページを祝福してください。これを読むすべての人に、次の真理をふかくさとらせてください。―天主が、その恩寵を、人びとの霊魂にそそぎ入れるため、摂理のふだんの道具として、使徒職にたずさわる人たちの活動をお使いになるとき、かれらの活動がゆたかな実をむすぶためには、どうしてもその活動が、「ある仕方で、天主ご自身の活動に、参与せねばならぬ」―という真理を。
 そして、あなたこそは、受胎告知の日、聖言がご胎内で人となられた瞬間、永遠に不動、永遠に静かな、この”天主ご自身の活動”が、御父のふところでいとなまれているのを、静かに眺めておられたのです。そして、聖言のご托身のおかげで、わたしたちはあなたを、”われらの母”とお呼びすることができるのです。

(続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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