アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
1969年9月25日、オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿が、教皇パウロ6世に、新しい「ミサ司式」の批判という報告書を提出しました。その日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
1規範ミサと新しい「式次第」
2ミサの定義
3ミサの目的
4いけにえの本質
5いけにえを実現させる4つの要素
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者
6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素
7宗教統一運動
8結論
1規範ミサと新しい「式次第」
1967年10月に司教会議(シノドス)がローマで開かれ、そこで「規範ミサ
1」と呼ばれるミサを試験的に司式することについて、審議があった。この試験的なミサは、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会 たものだった。
2」によって創られ とこの司教会議の参加者はこのようなミサのために非常に当惑していた。187票の投票者のうち、43の「反対3」、62いう多くの「保留4」があった。またその他の4票は棄権だった。
報道機関は、司教会議が規範ミサを「拒否した」と書いた。革新的な傾向のある報道機関はこの出来事について沈黙を守った。司教達のための、ある有名な機関誌は新しい典礼をこう言ってまとめた。
「[規範ミサをつくった者たちは]ミサに関するすべての神学をすべて白紙に戻すことを望んでいる。実質的にミサのいけにえを破壊したプロテスタントの神学に近づいている。」
ところが、『第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマミサ典礼書を公布する使徒座憲章(以下、『ローマミサ典書5』と表記する)』という名前の使徒座憲章(1969年4月3日)によって公布された「新しい司式6」は、不幸なことにこの「規範ミサ」と実質的に全く同じものである。67年の司教会議とこの69年の公布の間に多くの司教会議があったが、司教会議の問題としてこの問題については触れられなかったように思える。
使徒座憲章『ローマミサ典書』は、聖ピオによって公布された古い5世(1570年7月14日勅令『クォー・プリームム7』)ミサ典書が(このミサ典書は大部分が大聖グレゴリオそしてさらにもっと古くまで遡るものであるが8)4世紀にわたりラテン典礼の司祭のためのいけにえを捧げる規範であったことを確認している。さらにこの使徒座憲章『ローマミサ典書』は、世界中に広がったこの古いミサ典書を通して「無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります9」と付け加えている。
しかし、この同じ使徒座憲章によると、「キリストを信じる民の間に典礼の促進を目的とする研究が重ねられ、ますますその成果が上がるに連れて
10」、このローマ・ミサ典礼書の使用を決定的に中止させる典礼改革が必要になっていたことになっている。
しかし、明らかにこの最後の文章はゆゆしくも曖昧である。
キリスト教の民が、もしもかつてこの典礼をより深く知り、研究し、促進しようという望みを表明したとしたら(それは主に聖ピオ10世教皇の励ましのもとにであったが)彼らが典礼という本当の不滅の宝を発見しだしたからであった。キリスト教の民は、典礼をよりよく理解するために典礼を変えるとか変更するなどとは決して、絶対に、一度も求めたことがなかった。彼らがよりよい理解を求めたのは、唯一的不変の典礼であり、彼らはそれが変わるのを望んだことなど決してなかった。
聖ピオ5世のローマミサ典書はカトリック信者の心にとってきわめて大切なものであり、カトリックは司祭も平信徒もこれを敬虔に崇敬してきた。ふさわしい手ほどきを受けるなら、このミサ典書を使うことのどこが、聖なる典礼のより深い参与とより良き理解への邪魔になるのか、理解しかねる。この使徒座憲章「ローマ典書」が認めたように、この古いミサ典書の非常によい点を認めながらそれと同時に、キリスト教民の典礼に関する信心を養い続けることがもはやできなくなっていると評価することの理由が解らない。
そのためにこそ司教会議は既に年にこの「規範ミサ」を拒否したのだった。しかし、その同じ「規範ミサ」が今日、67新しい「司式」によって実質的に採用され押しつけられている。この新しいミサは司教会議の司教団による判断に委ねられたことが一度もなかった。キリスト教民は(そして特に宣教の地では)いかなる種類のミサ聖祭の改革といえども確かに望んでいなかった。この新しい立法は、同じ使徒座憲章「ローマミサ典書」が認めるとおり4・5世紀から変わらず続いた聖伝を覆すものである。この新しい法が定められた動機を判別することはどうしてもできない。
従って、このような典礼改革の理由は存在しないのであり、かかる典礼改革を正当化し、典礼改革それ自身もカトリックの民に受け入れられるようにする理由付けの根拠はないと思われる。
公会議も『典礼に関する憲章番で確かにミサのいろいろな部分がもう一度秩序づけられるようにという望
11』の第50みを表明した。「ミサの各部分の固有な意義と、相互の関連とがより明らかになるように
12」と。では今から新しい「式次第」がこの望みにどれだけ答えているかということを見てみよう。あらかじめ言っておくならば、新しい式次第は事実、この憲章のことなど些かも気にかけてはいないと言うことができる。
新しい「式次第」のした変更を一つ一つ調べていくと、それらは、以前の「規範ミサ」について下された判断と同じ判断をするのを正当化するほどの変更である。
新しい「式次第」は「規範ミサ」と全く同じく、多くの点でプロテスタントのうち最もひどい近代主義をそのうちに見いださざるを得ない。
2ミサの定義
まず、ミサの定義から始めよう。
ミサの定義は「ミサの一般的構造
13」と題された「ローマ・ミサ典書の総則
14」の第2章の冒頭にある、第7番段落にある。
これが新しい式次第によるミサの定義である。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である
15。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。
16」
これを見るとミサの定義は「晩餐
17」以外の何ものでもなくなってしまっている。そしてこの定義は、以後何度も現れる(8、48、55d、56番)。この「晩餐」の特徴はさらに、司祭を座長とする集いであるということである。また、この「晩餐」は最初の聖木曜日に主がなさったことを思い起こし、主の記念として催されると言う。しかし、これらの一つでさえも主の御聖体における現存、いけにえが現実に行われること、司祭が聖別の言葉を唱えるときに秘蹟を執行していること、会衆が参加していようがしていまいがそれとは関わりなく御聖体のいけにえはそれ自体で内的価値があること、などのことには全く触れられていない
18。この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、ミサがもっている基本的なしかも教義的な価値について一切言及していない。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、ここでは「頭越し
19」にされ、従って少なくとも実際上否定されるに至っている
20。
この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されている。「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」この後半部によれば、キリストの「2、3人が私の名によって集うところには私はその中にいる」という約束が、このミサの集いにおいて「特に
21」実現することになる。しかし、このキリストの約束は、キリストがご自分の聖寵をもって霊的に臨在されることを述べているに過ぎない。しかし、この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっている。
第7段落でミサの定義をした後に、次の第8段落においては、ミサを「御言葉の祭儀」と「聖体祭儀」に2分している。そして、ミサにおいては「神の御言葉の食卓」と「キリストの体の食卓」とによって成り立ち、信者たちはそこで「教えられ、糧で満たされる
22」と断言されている。この2つの部分にあたかも象徴的な価値が等しくあるかのごとく、典礼の2つの部分を全く同等化するやり方は全くふさわしくない
23。この点についてはさらに後でもう一度触れることにしよう。
総則では、ミサがその他多くのさまざまな表現をもって描写されている。これらのすべての表現は、それを全て合わせて同時に考察すれば、相対的には受け入れられ得るかもしれない。しかし、もしそれがそのあるがまま、それぞれ別個にそれ自体の切り離された意味において
24取られるなら、それらのどれも受け入れることはできない。例えば、そのうちの一部を挙げてみよう。以下の表現は、それだけでは、ミサということが出来ない。「キリストと神の民の行為」「主の晩餐、またはミサ」「復活の食事」「主の食卓への共同の参加」「主の記念」「感謝の祈り」「御言葉の祭儀と聖体祭儀」
25等々...。
全く明らかなように、カルワリオのいけにえの無流血の再現という代わりに、取り憑かれたように
26食事と記念とに強調が置かれている。
また「主の受難と復活の記念
27」という表現は不正確である。なぜなら、ミサは、本質的に、それ自体で贖いの価値を持つ「いけにえ」のみに関するものだからである。復活はいけにえの結果生じた実りである
28。
われわれはこの後に、聖変化のその言葉自体において、そして「新しい式次第」全体に亘って、このような曖昧な表現が何度も使われ新たにされているのを見よう。
3ミサの目的
では、今からミサの目的について見てみよう。
(1) 究極目的:至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえ
キリストの御托身それ自体の第一目的についてキリストご自身が言っている。「世に入りつつ彼は言った『御身はいけにえも捧げものも望まれなかった。しかし御身は私に体を備えて下さった
29』」と。そして、このキリストが明らかに宣言された言葉に相応しく、ミサの究極の目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえである。
「新しい式次第」では、この目的は消え失せてしまっている。
まず、奉献の祈りから"Suscipe, Sancta Trinitas"の祈りが取り除かれたことによって。またミサの終わりにあった"Placeat tibi Sancta Trinitas"の祈りが省略されたことによって。
さらに序唱から以前は日曜日ごとに唱えていた「至聖三位一体の序唱」がもはや日曜日には唱えられず、ただ三位一体の祝日にだけに限定されてしまったことによって。これによって、将来を「至聖三位一体の序唱」を耳にするのは一年に一回になってしまうだろうからである。
(2) 通常の目的:ミサの通常の目的は償いのいけにえである。
罪の償いのために、ミサという犠牲が捧げられるという、ミサの通常の目的は、脇道にずらされている。ミサが、生けるものと死せるものとの罪の赦しを得るためにあるのに、その代わりに、今ここに集う人々を養い聖化することに強調が置かれている(54番)。キリストは確かにご自分をいけにえの状態として最後の晩餐の時に秘蹟を制定された。それは私たちをこの状態において主と一致させるためであった。しかし、主の犠牲はいけにえを食する前に既になされ、[聖体拝領なしでもそれだけで]流血のいけにえの完全な贖いの価値を含んでいる。このことはミサに参列している信者が必ずしも秘蹟的に聖体拝領をする義務をもたないと言うことからも明らかである
30。
(3) 内在的な目的:
いけにえの本性がいかなるものであれ、これが天主によみされ受け入れられるものでなければならない必要が絶対にある。原罪を犯した後には、それ自体で天主に受け入れられ得るいけにえは、キリストのいけにえ以外に何も存在し得ない。
「新しい式次第」は奉献の祈り
31の本性を変えてしまっている。すなわち、奉献の祈りは、人と天主との間の贈り物の一種の交換に変えられている。つまり、人はパンをもってきて天主はそれを「生命のパン」に変えて下さる、人はぶどう酒を持ち寄り天主はそれを「霊的飲み物」に変えて下さる、ということになってしまっているからである。
「主よ、あなたは万物の造り主、ここに捧げるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。
32」
この「命の糧
33」そして「霊的飲み物
34」という言い回しの全くの曖昧さについて何の注釈もする必要がない。この言い回しでは何でも意味しうる。ミサの定義の中であったように、ここでも全く同じ重大で曖昧な表現が繰り返されている。ミサの定義の中ではキリストはただ単に霊的にのみ主の弟子らの間に現存なさると言い、ここの奉献の祈りではパンとぶどう酒とはただ単に「霊的に」のみ変化し、決して実体的に変化するとは言われていない
35。
奉献の準備において二つの素晴らしい祈りを廃止したために同じような曖昧さが生じている。「天主よ、御身は人間の実体の尊厳を素晴らしく創造し、また、これを更により素晴らしく改新され給うた。
36」という水を祝福する祈りは、人間の原初の罪のない状態に言及し、キリストの御血によって贖われた現在の状態を描写している。この祈りはアダムから現在に至るまでの、いけにえのすべての計画を素晴らしくまとめたものである。
カリスを捧げるときの最後の奉献の祈り
37は、贖罪の祈りであり、この同じ計画を再確認していた。なぜなら、そこでは、この供え物が「芳しい香りと共に
38」私たちが御慈悲をこいねがう、その天主のみいつの御前に立ち登らんことを祈っていたからだ。天主について絶えず言及しているこのような感謝の祈りを廃止してしまったために、もはや「天主的ないけにえ」と「純粋に人間だけによるいけにえ」との間にある明らかな差違が無くなってしまった。
角の角石を取り除いてしまったために、典礼改革者たちは足場を備え付けなければならなかった。つまり、ミサの本当の目的を廃止してしまったために、改革者たちは自分自身で作った架空の目的を代用させなければならなかった。だからこそ、しぐさによって、司祭と信者との一致、また信者同士の一致が強調されるようになった。
だからこそ、「犠牲として屠られるためのいけにえであるイエズス・キリストという捧げもの」に、「貧しい人々と教会のためにされる捧げもの
39」ということが重ね置かれている。これによって、ミサが見るに耐えないものに崩壊してしまうだろう。
犠牲として捧げられるいけにえ(すなわちイエズス・キリスト)が唯一であるという重大なことが完全に破壊されるだろう。そして、いけにえであるイエズス・キリストが屠られることに参与するということが、人類愛の集会あるいは社会福祉のパーティーに成り下がってしまうだろう。
4いけにえの本質
ではここでいけにえの本質について見てみよう。
十字架の神秘について、新しい式次第での中では、もはや明らかに表現されていない。それは、ただひっそりと、ベールを被せられているようであり、もはや人々には気がつくことができない
40。それは次の理由からである。
1)「感謝の祈り(奉献文)
41」に与えられた意味
「新しい式次第」の中でいわゆる「奉献文」というものの意味をこう言っている。「この祈りの意義は、信者の集まり全体が神の偉大な業を宣言し、いけにえを奉献することによって、自らをキリストに結び合わせることにある(54番終わり)。
42」
しかし、ミサ総則の中では、何の犠牲について言及しているのか?だれが奉献するのか?という質問には一切答えていない。「奉献文」の定義は全体でこうである。
「ここで、祭儀全体の中心であり頂点である感謝の祈り(奉献文)、すなわち、感謝と聖化の祈りが始まる(54番初め)。
43」
こうして(感謝や聖化という)結果が、原因に取って代わってしまっている。そして原因についてはだだの一言も言及がない。
何を奉献するかを明確に述べた祈りは"suscipe
44"の祈りの中にあったのだが、それは廃止され、それに代わる奉献の内容を明確にする祈りは全くない。この祈りの内容の変化は教義における変化を示している。
2)キリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっている
いけにえに関することをこのようにはっきり表現しないことの理由は、以前の聖体祭儀においてあれほど素晴らしく中心を占めていたキリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっているからである。キリストの聖体における現存について述べられるところがただ一つだけある。それはトレント公会議の引用文であり、脚注に小さく載っているだけだ。しかもそれの文脈は「養い
45」という食事に関することである(241番注63)
キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは決して暗示さえされていない。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されている。
聖三位一体の第3のペルソナに対する祈り(Veni Sanctificator
46)は、聖霊がかつて童貞女聖マリアのご胎内に降られたように捧げものの上に降り、そこで天主の現存の奇跡を起こさせることを祈るものであった。しかし、この祈りの省略は、暗黙のうちの否定というこのシステムの中に書かれており、主の御聖体における実際の現存と結びつく劣化である。
主が御聖体において実際に現存しておられると言う信仰をそれによって自然に表明していた動作や習慣を、ことごとく廃止させたり変化させることに気づかないわけにはいかない。新しい式次第は、以下に挙げることを取り除いた。
* 片膝をつく礼拝(司祭はわずかに3回しか跪かない。会衆はいくつかの例外を除いて聖変化の時に1度跪くのみである。
47)
*司祭の指をカリスの中で清めること
*聖変化後の司祭の指が聖体以外のものに触れないように指を守ること
* 聖器具(カリスやチボリウム)の清め(この清めは聖体拝領直後でなく後でしても良くなり、また、コルポラーレの外で行っても良くなった。)
*カリスを保護するパラを使うこと
48
*聖器具の内側を塗金すること
49
*可動祭壇を聖別すること
50
* 「儀式が聖堂内で行われない時」には(この区別を付けることは直接に個人の家での「感謝の晩餐」に結びつく)、可動祭壇の中に、或いは「食卓
51」の上に、聖別された祭壇石と聖遺物を置くこと
52
*3枚の祭壇の布(これは1枚に減らされた。)
53
* 跪いての感謝の祈り(このかわりに司祭も信者も座って感謝することになったが、これは見るに耐えない
54。この座ったままでの感謝の祈りは「立ったままでの聖体拝領」の結末に来るものであり、常軌を逸したことであると言わざるを得ない。)
* 聖別された御聖体が床などに落ちてしまった時にしなければならない色々な規則(その代わりに、「恭しく拾う
55」(239番)というたった一つの指針に取って代わられた。これは、ほとんど皮肉
56である。)
これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。
3)祭壇の果たす機能
祭壇はほとんど常に「食卓
57」と呼ばれている。「感謝の典礼全体の中心である祭壇、すなわち主の食卓
58(49番、また262番を参照せよ)」
祭壇は、司祭が祭壇の周りを歩き回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から切り離さなければならないとされた(262番)。祭壇はまた、会衆の注意が自発的にそこに向かうように会衆の中心に置かれなければならない(同所)しかし、262・276番を比較すると、聖体を中央祭壇の上に保存することを明らかに除外しているようだ
59。このことは、司式者のうちにおける永遠の大司祭イエズス・キリストの現存と、秘蹟的に実現する同じ主の現存とを、取り返しがつかないほど切り離してしまうだろう。以前は司祭もいけにえも一つの同じ現存であった
60。
御聖体は会衆の個人的な信心のために別の場所に安置するように勧められている。(それはあたかもある種の聖遺物への信心であるかのように。)それは教会に入るやいなや、注意はもはや御聖体の現存する御聖櫃ではなく、全てを剥ぎ取られた裸のままのテーブルへと注目が行くようにするためである。ここでも再度、個人的な信心と典礼的信心とが対照的違いを見せている。[新しい]祭壇が[古い]祭壇を破壊するために建てられた。
御聖体拝領時には、同じミサ中に聖別されたパンを配るようにと強く勧められている。また、司祭用のパンさえも少なくとも幾人かの信者には配布するようにと強く勧めれられている。
61このことを見ると、われわれはミサ外の御聖体への信心と同じく、御聖櫃に対してもなされている軽蔑的な態度が常にあると言わざるを得ない。そしてこのことは聖別された形色が残っている限り続く、御聖体における主の現実的な現存という信仰への新たな別の激しい攻撃となっている。
62
4)聖変化の言葉
古い聖別の言葉はふさわしく秘蹟を執行するためのものであって叙述的なものではなかった。このことはとりわけ次の3つのことから明らかである。
(ア) 聖書の言葉が一字一句そのまま取られていたわけではなかったこと
聖パウロによる「信仰の神秘」という言葉が挿入されていたが、それは司祭が、位階的司祭職を通して教会によって実現される神秘に対して司祭の信仰をすぐに宣言するものであった。
(イ)句読点や印刷の構成がそれを示していたこと
HOC EST ENIM で始まる聖変化の言葉は、その始まる前には、ピリオドがあり、聖変化の言葉からは新しい段落が始まっていた。それは叙述の語り口から秘蹟的な断定的な語り口へと明らかな変化をもたらしていた。秘蹟の言葉は大きな活字で頁の中央に、そしてしばしば別の色で印刷されていた。それは明らかに歴史的文脈から区別されていた。これら全ては固有のそれ独自の価値をこの聖変化の言葉に与えていた。
(ウ)アナムネーシス(ギリシア語で「思い出すこと」の意)
「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう。
63」の祈りはアナムネーシスといわれる。この「私を想起して
64」はギリシア語では、"eis teu emon auamuesiu"であり、敢えて訳せば「私を想起することに向かって
65」である。
この「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう」という言葉は、キリストがなさっているということ、行為しているキリストに言及していた。そしてそれは単なるキリストの、或いは、この出来事の記念ではない。これはキリストがなさったこと(これを、…私を想起して行うだろう
66)を、キリストがしたそのやり方で想起するようにと招く言葉であり、ただ単に主のその人柄や晩餐を想起するに止るものではない。
聖パウロの言葉(「これを私の記念として行いなさい
67」)というのは、古いミサの言葉にはなかったものである。しかし、これを毎日国語で聞く者に、キリストの記念があたかも感謝の祭儀ということの究極目的であるかのようにそれに全神経が行ってしまうだろう。しかし、キリストの記念というのは聖体祭儀の始まりに過ぎないのである。このようにして、記念という観念が、最後に、またしても秘蹟を執行しているということ
68(つまり、御体と御血を秘跡的に分離させつつご聖体を聖変化させるということ)に取って代わることだろう。
「制定の叙述
69」という表現を使うことによって(55番の「ニ」)叙述様式が強調されている。そしてこれは、アナムネーシスの定義によって繰り返されている。この定義に於いては「教会は、キリスト自身の記念を行う
70」とある。(55番の「ホ」)
とどのつまり、エピクレーシス
71のために出された理論、また、聖変化の言葉とアナムネーシスの言葉の変化は、聖変化の言葉の意味の仕方を変える効果を持っている。新しいやり方では、聖変化の言葉が歴史的叙述を構成する一要素として司祭によって語られ、もはや、司祭はキリストのペルソナに於いて行為し、そのキリストによって発せられた絶対的断定(「これは私の体である
72」であって、「これはキリストの体である
73」と言うのではない)を表明するものとしてなされるのではない。
74
さらに、「主の死を告げ、復活を讃えよう、主がこられるまで
75」という会衆の直後の言葉は、またしても終末論的覆いの元に、主の御聖体における実際上の現存に関する同じ曖昧さをもたらしている。キリストが時の終わりに再臨されると言う期待が、如何なる説明も区別もなく、主が祭壇上に実体的に存在されるまさにその瞬間に高らかに宣言されるのである。これはあたかも主の再臨こそが本当に主が来られることであって、聖変化による現存は本当ではないかのようである。
この考えは付録に付いている選択肢2の表現に於いてさらに強く打ち出されている。そこでは「このパンを食べ、カリスを飲むごとに、主よ、我らは御身の死を告げ知らせよう、主が来られるまで
76」となっている。ここではいけにえを屠ることと食すること、主の現存と再臨と言った別の現実が一緒に置かれ、全くの曖昧さのうちにぼやかされている。
77
5いけにえを実現させる4つの要素
いけにえがどのように実現するのかについてみてみよう。いけにえを実現させるものの中には次の4つの要素がある。
それは
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者
であるが、それらについて見てみよう。
(1) 信者の占める位置
新しい司式に於いては信者の占める位置は自律的(切り離されている)
78であり、全く偽りである。これは、最初の定義「ミサは、聖なる集会の儀、すなわち、民の集会である
79」から司祭の会衆への挨拶に至るまで(総則28番)そうである。司祭の会衆への挨拶は一同に会した共同体に「主の現存」を示すためであり、この挨拶と会衆の返答とによって集った教会の神秘が表されるとされている。
80
そこで暗示されていることは、確かにキリストは本当に現存されるが、しかし、それはただ単に霊的な現存に過ぎないこと、そして、教会の神秘は、ある一つの集会がそのような霊的現存を表し願っているに限りにおける教会の神秘に過ぎないということ、である。
この解釈は常に強調されている。
ミサの共同体的性格を取り憑かれているかのように言及することによって(74~152番)。
「会衆の参加するミサ
81」(77番~126番)と「会衆の参加しないミサ
82」という、依然にはなかった区別を付けることによって(209~231番)。
「共同祈願、すなわち信徒の祈り」という定義によって(45番)。共同祈願の定義には、またしても、平信徒の「祭司職」
83が強調され、この平信徒の祭司職が司祭の祭司職と切り離され、自律的であるかのように提示され、司祭の祭司職に従属することが全く述べられていない。しかし、司祭は聖別を受けた仲介者としてTe igiturの祈りと、2つのMementoの祈りの中で会衆の全ての意向を取り次ぐものである。
「第三奉献文
84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。
85」ここで、「そは、~が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない
86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。
2)司祭の占める位置
司祭の立場は過小化され、変えられ、間違っている。
1. まず第一に、平信徒との関係に於いて、司祭は「キリストのペルソナにおいて
87ミサを執行する聖別された司式者」ではなく、その代わりに、よくても平信徒たちの単なる座長、或いは兄弟として取り扱われている。
2. 第二に、教会との関係に於いては、司祭は「民のなかの或る一人
88」である。エピクレーシスの定義に於いて(55番)天主への呼びかけは特定の個人がなすものではなく、教会がなすものとされている
89。そのため司祭の役割は消されてしまっている。
3. 告白の祈り。告白の祈りは今ではもはや集団的になってしまった。司祭はもはや天主とともなる裁判官・証人・取り次ぎ者ではなくなった。そのため、司祭がかつてしていた許しを与えることが廃止されたのは論理的だといわねばならない。司祭は兄弟達の一部となった。「会衆の参加していないミサ」に於いて侍者でさえも告白の祈りの時に司祭を兄弟と呼ぶようになった。
4. 既に、この典礼改革の前から、司祭の聖体拝領と平信徒の聖体拝領という意味深い区別が廃止されていた。司祭の聖体拝領に於いて、永遠の大司祭(=イエズス・キリスト)とキリストのペルソナにおいて
90行為している者(=司祭)が最も親密な一致に到達するのである。
5. 今では、司祭のいけにえを捧げる権能について、或いは司祭に固有な聖別するという行為について、つまり、司祭を通して御聖体における主の現実的な現存が生じることについて一言でさえも見いだすことが出来ない。今ではもはやカトリック司祭は、プロテスタントの牧師以外の何ものでもないようだ。
6. ある場合には、白衣とストラさえあればミサを捧げても良くなった(298番)など、祭服は目の前から消え失せ、任意的になった。祭服は、司祭が元来もっているキリストとの同一性を意味し、祭服が消えることによっては、この司祭とキリストとの同一性をゆがめてしまっている。つまり、司祭はキリストの全ての美徳を身につけているものではなく、平信徒と区別できるような点は1つか2つそこそこしか持たない単なる「非常任の役員」に成り下がっている
91。ある現代の説教者
92が与えたユーモラスな(しかし彼自身にとってはまじめな)定義によれば司祭は「その他の人よりもほんの少しだけましな人
93」でしかない。
3)教会の占める位置
最後にキリストに関する教会の立場を見よう。「会衆の参加しないミサ」というただ唯一の例外を除けば、ミサが「キリストと教会の行為
94」(総則4番・司祭職に関する教令14番参照)とは見なされていない。
「会衆の参加するミサ」においては、「キリストを思い起こし」、列席の会衆を聖化するためという目的を除いて、教会については、全く言及がなされていない。「司祭も、集会を司会し、その祈りを指導し、…キリストによって聖霊において神である父にいけにえを奉献するに当たって、会衆とともに一つになり
95…。(60番)。」
ここでは、「聖霊を通して、父なる天主に
96ご自分自身を捧げ給うキリストに、会衆を結びつける」と言うべきではなかったのではないか。
この文脈に於いて、次の諸点に注意すべきである。
まず第一に、「我らの主キリストによりて」という、いつの時代にあっても祈りが聞き入れられるための教会に与えられた保証の言葉が省略されているという重大な事態。(ヨハネ14:13-14、15:16、16:23-24)
第二に、どこにでも顕著な「復活主義
97」。それはあたかも「聖寵の交わり」ということに、これほど重要な観点がもはや別に存在しないかのようである。
第三に、恒常的で永遠の現実である超自然の聖寵の分与ということが、時間の次元へと引きずり降ろされてしまっているほどの奇妙で疑わしい「終末主義」。われわれはもはや「暗闇の権力」に対する戦闘の教会ではなく、「永遠との結びつきを失ってしまったただ純粋に現世的なことでしか考えられていない未来」へと向かって旅する教会、歩む人々のことを聞くようになった。
教会は、一・聖・公・使徒継承とはもはや言われなくなった。第4奉献文
98では、ローマ・カノンの祈りの「全ての正統カトリック使徒継承の信仰を保持する人々のために
99」の代わりに、今ではただ単に「真摯なこころで御身を求めるすべての人の100」になってしまった。
更にまた、死者の記念では「信仰の印を持って平安の眠りに眠る
101」が無くなってしまった。そこではただ単に「御身のキリストの平安に於いて逝った
102」だけであり、しかも以前の目に見える一致という観念を明確によりひどく破壊するさらなる言葉が付け加えられた。「御身のみがその信仰を知り給う
103」全ての死者のいけにえ、と。
さらに、既に述べたように、新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう
104。
どこにもかしこにもある省略は、教会の神秘の土台を壊し非神聖化させるものである。特に教会は聖なる位階制度として表されてはいない。天使達や諸聖人は共同の告白の祈りの第2部で名前を列挙されずに全てひっくるめられている。第1部において、聖ミカエルの名を省略することにより、聖ミカエルのペルソナに於いて、証人かつ裁判者としての諸天使・諸聖人は全て消え失せてしまった
105。様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)コムニカンテスにおいて、ローマの教会がその上に建てられた、また彼らによって疑いもなく使徒の聖伝が伝えられた、聖なる教皇と殉教者達の記念をしていた。聖グレゴリオは、彼らの名を列挙してこれを完成させ、それを持ってローマ・ミサとなったのであるが、新しいものはそのコムニカンテス
106からこれらの聖なる教皇や殉教者達の記念が廃止されてしまった。リベラ・ノス
107の祈りにおいては聖母マリア、使徒と全ての聖人がもはや言及されなくなってしまった。こうして、聖母や諸聖人の取り次ぎはもはや危険の時に於いてでさえ求めなくなってしまった。
式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。
司祭が侍者なしに司式しているときに全ての挨拶、最後の祝福が省略されることにより、また「イテ・ミサ・エスト」は侍者がいるときでも、会衆が参加していなければ、もはや言わなくなってしまった。
108諸聖人の通功というドグマが明らかに攻撃を受けている。
ミサの最初の告白の祈りが2つあったことは、司祭がキリストの役者の能力を身にまといながらも深々と上体を下げ、自分がこの崇高な使命にふさわしくないこと・彼が今なそうとしている恐るべき神秘
109にふさわしくないことをどれほど良く認めているかを示していた。更には「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ、清き心を持って至聖なるところに入らせ給え」の祈り
110で至聖所に侵入することさえもふさわしくないことをいかに良く認めていた。そのために祭壇に封印された聖遺物の殉教者達の功徳の取り次ぎを「主よ、ここに聖遺物を置く主の聖人らの功徳、また全ての聖人らの功徳によって、私の罪を赦し給えと我らは祈る。」の祈りをもって願っていた
111を示していた。しかし、「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ・・・
112 」の祈りも、「主よ、ここに聖遺物を置く・・・
113」の祈りも両方とも省略されてしまった。告白の祈りが2つあったということ、また司祭と平信徒との2回の聖体拝領があることに関して既に述べたことはここでもまた意味深長である。
いけにえを捧げているという外的要素、つまり、ミサの聖なる性格を明らかにさせるものは非神聖化された。例えば、至聖所以外での司式のために叙述されていることを見ると、祭壇の代わりに、聖別された祭壇石や聖遺物のない単なる「食卓
114」を用いて良いことになっている。しかも、祭壇布は1枚だけで良くなっている。(260、265番)ここでもまた、既に述べた主の現存にかかわることを全て適応することが出来る。「食卓に連なること
115」と食事のいけにえを主の現存から切り離してしまっている。
非神聖化への過程は新しい供え物の行列によって完成された。すなわち種なしパンであるよりもむしろ普通のパンについて語られている。侍者の子供でさえ(しかも、両形態での聖体拝領の時には平信徒まで)もが、聖器具に触れることが許されていること(244番の「ニ」
116)。司祭、助祭、教会奉仕者
117、宣教奉仕者
118、詩編を唱える係
119、解説者
120 (司祭は自分のしようとしていることを絶えず「説明」するように要請されているので司祭自身さえも注解者となってしまっている。)、男女の朗読者、会衆を門で出迎えて席まで付き添う奉仕者
121、献金を集める人
122、またその他、供え物を運ぶ人
123、供え物を受け取る人、などなど、多くの侍者や平信徒が絶え間なく教会内をあちこちに行き来し非常に気を散らせる雰囲気。これら全ての規定された活動のほかに非聖書的であり非パウロ的な規定がある。それは、「ふさわしい女性
124」が教会の聖伝に於いて初めて朗読し、さらに司祭がすること以外のことを執行する
125のが許される(70番)。最後に、偏狂的な共同司式の強調。これによってついには司祭の御聖体への信心を破壊し、唯一の司祭かつ犠牲であるキリストの中心的姿をぼかし、このキリストという中心を共同司式者の集団的存在が影を覆って解き崩してしまうだろう
126。
6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素
以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。
新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。
私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。
第二奉献文
127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。
新しいミサはローマに「司牧上の仕事の豊かな源」として、「法律的と言うよりもむしろ司牧的な文章」として導入された。そして、各国の司教協議会はそれぞれの状況に合わせて様々な民の「精神」にそれを適応させることが出来るとされた。
「典礼のための新しい聖省」の第一部門はさらに「典礼書の出版と絶え間ない見直し」のための責任者とされた。
この考えは、ドイツ、スイス、オーストリアの典礼研究所の公式出版物の中に最近、反映されてこう書かれた
128。
「今ではラテン語が様々な国の言葉に訳されなければならない。「ローマ式」は地方教会のそれぞれの個性に適応されなければならない。かつて時を越えて考えられたものは、絶えず変わる文脈と具体的な状況に合わせ、普遍教会の絶え間ない流動とその無数の会衆に会わせなければならない。」
新しい司式を発布する際の使徒座憲章それ自体でさえ、第二バチカン公会議の明らかな望みに反して「言語の多様相違のうちにも、全ての人によって同じ一つの祈りが[?]、大祭司イエズス・キリストを通して、聖霊のうちに、どの香にもまして芳しい香りとして、父に捧げられることになるからです」という全く曖昧な表現により教会の普遍的な言語であるラテン語に対し最後の一撃を与えている。
これゆえに、ラテン語を失うことは当然だと考えられる。また第二バチカン公会議はグレゴリオ聖歌がローマ典礼のローマ典礼であることを示すものであると認め、「典礼儀式に置いて名誉ある地位が与えられなければならないと」命じたが、新しいミサでは特に入祭文や昇階誦を自由に選んで良くなったために論理的にグレゴリオ聖歌さえも失われてしまうだろう。
従って、その仕組みから、新しい司式は多様で実験的なものであり時と場所によって変わるものだった。礼拝の単一性がこうして一度、そして永久に壊れてしまうなら、いったい信仰の単一性を保つための基礎として何が存在することだろうか。かつては信仰と単一性に礼拝の単一性が結びつき、それが妥協することなく信仰を常に守っていたと私たちは教えられてきた。
新しいミサが、トレント公会議で教えられた信仰を私たちに提示する意向を全くもたないことは明らかである。ところでカトリック信者の良心が永遠に結ばれているのはまさにこの信仰である。従って、新しいミサが発布されると真のカトリック信者は劇的な選択の必要に直面する。