Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

初金・初土の聖伝のミサとファチマの聖母行列(大阪) 聖家族の祝日のミサと二人の幼児洗礼(東京)を天主に感謝します

2018年01月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

新年最初の聖伝のミサは、おおくの恵みと祝福で満ちたものでした。

大阪では2018年初の初金曜日、初土曜日の信心を行うことができました。
初金曜日には、顕示されたご聖体の前で聖時間を賛美と祈りと黙想とで過ごしました。

1月6日の初土曜日には、御公現の大祝日でもあり、主の御降誕と御公現の神秘を黙想しつつ、ミサの直後は日本と世界の平和を祈願してファチマの聖母行列を行いました。
聖堂を出る前に、ファチマの聖母に意向をはっきりと述べ、御憐れみを乞い求めつつ、行列を始めました。出発は12時半を過ぎていました。

ロザリオを一連ずつ唱えては、「ファチマのアヴェ・マリア」を歌詞の5番ずつ歌い、喜びの玄義から始まって苦しみの玄義第2連を唱え終わったころ、「北中島公園」に到着し、そこで「ファチマのアヴェ・マリア」の残りを全て40番まで歌いました。その後、「聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り」を皆で唱えました。
最後には、「無原罪の聖母の騎士の歌」を皆で歌いました。























1月7日の主日は聖家族の祝日でした。東京では、二名の赤ちゃんたちが幼児洗礼を受けました。一人はミサの後「日本の聖なる殉教者巡回教会」で、もう一人は生まれたばかりの赤ちゃんで外出できなかったので、晩課の後で洗礼を授けに司祭が参りました。

ミサ聖祭には、56名がミサに与る恵みを得られました。幼児洗礼式にはほとんどの兄弟姉妹の方々が残って洗礼を受けるヨゼフ君を見守って祈ってくださっていました。感謝します! 聖家族の祝日にふさわしい、祝福に満ちた日でした。この大きな御恵みに感謝致します。

この男の子たちが聖なる家庭の元でますます聖徳に導かれますように!日本で聖なる家族がますます増えますように!その聖なる家庭から、日本で多くの召命が輩出されますように!

1月8日の月曜日は成人の日で休日でもあり、12名の方々がミサに与りました。(ミサの後で来られた方を含めると13名の方々が来られました。)天主に感謝します。

最後にこのブログ Credidimus Caritati(略して「クレ・カリ」)のお話しで恐縮です。年末年始にかけて多くの方々が訪問して下さいました。先週の一週間(2017.12.31 〜 2018.01.06)の訪問者の数が、gooブログの全体の中で 949 位となりました。多くの方々が関心を寄せていただいて、ご訪問下さり、心から感謝申し上げます。


いくつかの報告をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

聖母行列をありがとうございました!
ファチマのマリア様と共にロザリオと聖歌をお捧げできたことを心から感謝申し上げます。
あんなに小さな行列で、マリア様に申し訳ありませんでしたが、憐れみ深き御母であられるマリア様は、私たちの意向、小さな行動、小さな犠牲さえも素晴らしく美しく整えられて、イエズス様にお捧げくださったに違いないと思います。
天主の真の平和が聖母の汚れ無き御心により与えられますように!
ファチマの聖母の御取り次ぎをこれからも願います。

天主にまします幼きイエズスの聖心よ、我らを憐れみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

1月7日イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日の御ミサは12年に1度の聖ピオ十世会総会の成功を祈りささげられました。これから7月までの月の第1主日には、この意向で御ミサがささげられるとのこと、心を込めてお祈りしたいと思います。またこの聖家族の祝日に2人も幼児洗礼があるのは素晴らしい祝福のようでした。

産まれて3週間めのヨゼフ君はまだ小さくとても可愛らしかったです。 もう一人のレイモンド君は、まだ産まれて1週間も経ってないので、ご自宅での洗礼式になりました。

聖家族の御ミサではマリア様とイエズス様とヨゼフ様のベトレヘムとエジプト、ナザレトでの御生活を黙想し、聖家族の御生活から、
従順であること、
マリア様に倣うこと
祈りと犠牲をお捧げすること
という3つ遷善の決心をするよう招かれました。

御聖体拝領は、聖ピオ十世会総会の成功のための意向で行いました。

洗礼式には、ほとんどの方がそのまま残られました。正式の赤ちゃんの洗礼式は時間もかかりましたが、小さなお姉ちゃまたちも嬉しそうにちょこちょこ歩きまわる中 たくさんの参列者に見守られての感動する洗礼式でした。

洗礼により罪が許されてこれからの人生が始まるという大切な場面に立ち会うことができたのは、私たちにとってもお恵みでした。

この日、日本中で最も祝福された2人は、この2人の赤ちゃんとご両親たちだったと思いました。

聖ピオ十世会総会の成功をマリア様とヨゼフ様にお祈り致します。マリア様の汚れなき御心を通してイエズス様のもとへ向かいたいと思います。

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かつて日本の司教たちが一致してした「聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈」が優れていること

聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年記念の「汚れなき聖母の騎士会の歌」

巡礼者の方から頂いたファチマ巡礼のレポートを紹介


ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問

2018年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近、新しいミサについてコメントを求められました。私は、個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。
 一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。

 私が指摘したいもう一つは、ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問です。そのうちここでは3つの証拠を提示します。



 詳しくは12年前に発表したマニラのeそよ風(第328号 2006/02/05)をご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、典礼改革に対する疑問を『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』の中で述べています。


(1)第二バチカン公会議後の典礼改革には問題があった。

【公会議後の典礼改革は、典礼の凡俗化・司牧的不賢明・軽はずみ】
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(158ページ)

【公会議後の典礼改革は、典礼レベルの低下化・司牧的幼稚症、見直しが必要】
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(159ページ)

【公会議後の典礼改革は、陳腐・平凡・愚鈍・退屈】
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(161ページ)

(2)典礼改革に問題があったのは、公会議文書の文字ではなく精神に従うべきだとする「断絶の解釈」に従ったため。

【典礼において、第二バチカン公会議の憲章と実際的適応とに著しい差異がある】
 ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 「第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。」(161ページ)

【グレゴリオ聖歌を切り捨てたことにおいても、公会議からの理論的・実践的離反がある】
 第二バチカン公会議が「教会の宝」、すなわち全人類の宝と呼んで、「最大の勤勉さで」保存するだけでなく、盛んにするようにと奨励して称賛を惜しまない教会音楽、西方カトリック教会の伝統的音楽・・・ ところで、この第二バチカン公会議の意志は受け継がれたのか?・・・「多くの典礼学者たちは、その宝を "僅かの人にしかなじめないから (esoteric)" と言って切り捨て、公会議後の典礼の "どんなときにもみんなに分かりやすい" 聖歌の名において、教会音楽を敬遠した。だから、特別な機会に大聖堂などで例外として使用されても、教会音楽はもう存在しない。その代わりに、"ありきたりの音楽(utility music)"、易しいメロディー、カンツォネッタ、はやり歌(catchy tunes)が取り入れられることになった。」(168ページ)

【グレゴリオ聖歌の「美の放棄」は「司牧的敗北」の原因】
「美を追放し、ただ実利だけを追求するところで示される恐るべき貧しさは、ますますはっきりしたものになってきた。"みんなに分かりやすい" 唯一のカテゴリーですまそうとすることが、本当に典礼をより分かりやすく、より開かれたものにしたのか、ただ貧相な典礼にしかしなかったのではないか、経験はそれを示している。・・・ "活発な参加" という名のもとに、素晴らしい教会音楽は排斥された。それにしても、この "参加" は、精神と五感を持って知覚することをも意味していないだろうか? 傾聴し、直感し、感動することは、"活発な" ことではないというのか?・・・ "はやり" の音楽をつくるだけに矮小化した教会は無能のうちに没し、教会そのものも無能になるだろう。」(168-169ページ)

(3) 「断絶の解釈」の根本に、公会議は、新しい典礼を作る会議であるかのように考える誤りがある。何人であっても、たとえ司祭であっても、典礼の僕であって、天主の神秘の主人ではない。

【典礼はショーや演劇ではない】
「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」(165ページ)

「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(166ページ)


 ラッツィンガー枢機卿は『里程標:1927年から1977年の思い出』1997年(日本語訳『わが信仰の歩み』春秋社)でも典礼改革に対する疑問を述べています。


--------引用開始---------

 私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。

 しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。

 トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。

 典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。

 いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。

 しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

 これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

 教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。

--------引用終わり---------

 ラッチンガー枢機卿は『典礼の精神』の中でも、典礼改革に対する疑問を述べています。


 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」

【参考資料】
聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳) 1969年9月25日

2018年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、東京でのミサが終わった後、新しいミサについてコメントを求められました。そこで、私個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。

 ご指摘したものの一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。

 以下に、オッタヴィアーニ枢機卿がバッチ枢機卿と連名で教皇パウロ六世に提出したお手紙をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)
1969年9月25日、ローマにて


教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由係に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけださざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

 オッタヴィアーニ枢機卿・バッチ枢機卿(署名)

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙の原文

Beatissimo Padre,
esaminato e fatto esaminare il Novus Ordo preparato dagli esperti del Consilium ad exquendam Constitutionem de Sacra Liturgia, dopo una lunga riflessione e preghiera sentiamo il dovere, dinanzi a Dio ed alla Santità Vostra, di esprimere le considerazioni seguenti:

1) Come dimostra sufficientemente il pur breve esame critico allegato - opera di uno scelto gruppo di teologi, liturgisti e pastori d’anime - il Novu Ordo Missæ, considerati gli elementi nuovi, suscettibili di pur diversa valutazione, che vi appaiono sottesi ed implicati, rappresenta, sia nel suo insieme come nei particolari, un impressionante allontanamento dalla teologia cattolica della Santa Messa, quale fu formulata nella Sessione XXII del Concilio Tridentino, il quale, fissando definitivamente i «canoni» del rito, eresse una barriera invalicabile contro qualunque eresia che intaccasse l’integrità del magistero.

2) La ragioni pastorali addotte a sostegno di tale gravissima frattura - anche se di fronte alle ragioni dottrinali avessero diritto di sussistere - non appaiono sufficienti. Quanto di nuovo appare nel Novus Ordo Missæ e, per contro, quanto di perenne vi trova soltanto un posto minore o diverso, se pure ancora ve lo trova, potrebbe dar forza di certezza al dubbio - già serpeggiante purtroppo in numerosi ambienti - che verità sempre credute dal popolo cristiano possano mutarsi o tacersi senza infedeltà al sacro deposito dottrinale cui la fede cattolica è vincolata in eterno. Le recenti riforme hanno dimostrato a sufficienza che nuovi mutamenti nella liturgia non porterebbero se non al totale disorientamento dei fedeli che già danno segni di insofferenza e di inequivocabile diminuzione di fede. Nella parte migliore del Clero ciò si concreta in una torturante crisi di coscienza di cui abbiamo innumerevoli e quotidiane testimonianze.

3) Siamo certi che questa considerazioni, che possono giungere soltanto dalla viva voce dei pastori e del gregge, non potranno non trovare un’eco nel cuore paterno di Vostra Santità, sempre cosí profondamente sollecito dei bisogni spirituali dei figli della Chiesa. Sempre i sudditi, al cui bene è intesa una legge, laddove questa si dimostri viceversa nociva, hanno avuto, piú che il diritto, il dovere di chiedere con filiale fiducia al legislatore l’abrogazione della legge stessa.

Supplichiamo perciò istantemente la Santità Vostra di non volerci togliere - in un momento di cosí dolorose lacerazioni e di sempre maggiori pericoli per la purezza della Fede e l’unità della Chiesa, che trovano eco quotidiana e dolente nella voce del Padre comune - la possibilità di continuare a ricorrere alla integrità feconda di quel Missale Romanum di San Pio V dalla Santità Vostra cosí altamente lodato e dall’intero mondo cattolico cosí profondamente venerato ed amato.

A. Card. Ottaviani
A. Card. Bacci


新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」

2ミサの定義 

3ミサの目的 

4いけにえの本質 

5いけにえを実現させる4つの要素
 
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

7宗教統一運動

8結論



オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究 注

2018年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1969年9月25日、オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿が、教皇パウロ6世に提出した、新しい「ミサ司式」の批判的研究(Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae)の注です。

1 Missa normativa
2 Consilium ad exequendam Constitutionem de Sacra Liturgia
3 non placet
4 juxta modum
5 Missale Romanum
6 Novus Ordo
7 Quo Primum ここで著者は公布の日付を7月13日と書いているが7月14日の誤りなので訂正して訳した。
8 原注1:「私たちのカノンの祈りは既にDe Sacramentis(4-5世紀)という論文の中に見いだすことが出来る。・・・私たちのミサは本質的な変化なしに、最も古代の共通の典礼から初めて発展したその時代にまで遡ることが出来る。このミサはカエサルが世界を支配しキリスト教信仰を地上から消滅させることが出来ると希望したその時代の原初の典礼の香りをそのまま残している。つまり、われわれの祖先が自分たちの天主であるキリストに賛美も歌を歌うために夜も明ける前から集まり祈ったその時代のものである。・・・キリスト教世界全てを見回しても、ローマ・ミサほど崇敬すべき典礼様式は存在しない。」(A. Fortescue神父 The Mass, a study of the Roman Liturgy, 1912)
「今日あるままのローマ・カノンは大聖グレゴリオにまで遡る。今日まで使われている聖体祭儀の祈りのうち東方教会にも西方教会にもこれ程まで太古に遡るものは存在しない。ローマ教会がそのミサを投げ捨てると言うことは、とどのつまり、ギリシャ正教会だけではなく英国聖公会やまだ聖伝の感覚をいくらかでも残しているプロテスタントの目にさえも、真のカトリック教会であるという主張をすることをもはや否定していることを意味するだろう。」(Louis Bouyer神父)
9 "innumeri praeterea sanctissimi viri animorum suorum erga Deum pietatem, hausitis ex eo ... copiosus aluerunt." 日本語訳は、『新しいミサ典礼書』11ページから始まる使徒座憲章の公式日本語訳を参照した。
10 "ex quo tempore latius in christiana plebe increbescere et invalescere coepit sacrae fovendae liturgiae studium."
11 Sacrosanctum Concilium
12 "ut sigularum partium propria ratio necnon mutua connexio clarius pateant."日本語訳は、南山大学監修の『第2バチカン公会議公文書全集』1986年を参照した。


13 De generali structura Missae
14 Institutio Generalis
15 原注2: このような定義をした理由として新しい式次第は脚注を付け、第二バチカン公会議文章の2つの文章を参照しろと言う。しかし、この2つの文章を見てみてもこのような定義を正当化させるのもはまったく見あたらない。
 この2つの文章のうちの最初のものは、司祭の役務と生活に関する教令(Presbyterorum Ordinis)の5番から取られている。「...司教の役務執行によって、司祭は天主から聖別されて特別な方法でキリストの司祭職に参与するものとなり、聖なる祭儀の挙行においては、典礼の中で常にわれわれのために自分の霊を通してその司祭としての任務を行うキリストの役務者として行動する。司祭は...特にミサの挙行によってキリストの供え物を秘蹟的に捧げる。」
 2つ目は、典礼憲章の33番から取られている。「典礼において、天主はその民に語り、キリストは今も福音を告げている。そして、民は歌と祈りとをもって神に答える。」「なお、キリストに代わって(in persona Christi)集会を司る司祭が神に捧げる祈りは、聖なる民全体と、参加者一同の名によって唱えられる。」
 しかし、これらの文章からどうやって新しい式次第によって定義づけられたミサの定義へとたどり付くのか見当が付かない。
 さらに、この新しいミサの定義は第二バチカン公会議の与えたミサの定義と抜本的に変わっていることを指摘しよう。なぜなら、第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令Presbyterorum Ordinis」(5番)には、「聖体祭儀の集会は信者の集いの中心である」"Est ergo Eucharistuica Synaxis centrum congregationis fidelium"とあるのにもかかわらず、新しいミサの式次第では「中心」という言葉が取り除かれ、「聖体祭儀の集会は、信者の集いである」となっているからである。こうして「集会・集うこと"congregatio"」という言葉がミサの定義の地位を不正にも奪ってしまった。
16 "Cena dominica sive Missa est sacra synaxis seu congregatio populi Dei in unum convenientis, sacerdote praeside, ad memoriale Domini celebrandum. Quare de sanctae Ecclesiae locali congregatione eminenter valet promissio Christi 'Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum'(Mt.XVIII, 20)."
 日本語の公式翻訳では、sacerdote praesideの翻訳が「キリストを代理する司祭を座長として」と原文にはない言葉が補われて訳されている。日本語に訳した方は、ミサの定義が、あまりにも不十分なので、敢えてこの語を追加したのだろう。
17 cena
18 原注3: トリエント公会議は、次のように主の御聖体における実際的現存を宣言した。「聖なる公会議は、次のことを教え、明らかに絶対的に宣言する。まず第1に、聖体の畏れ多き秘跡において、パンとぶどう酒の聖別の後、まことの天主であり、まことの人である我々の主イエズス・キリストが、パンとぶどう酒という感覚的な外見もとに、真に、現実に、実体的に現存する。」(DS1636)
また、トリエント公会議は、ミサが目に見える真の犠牲であり、象徴的な表現ではないことを宣言した。「我々の主であるイエズス・キリストは、自分の花嫁である教会に目に見える犠牲を残そうと望まれた。…この犠牲によって十字架上でただ一度成就されようとしていた流血の犠牲が眼前に現れ、…その救いの力が、我々の日々の罪が赦されるように適応されるためであった。」(DS1740)
しかも、公会議はいけにえを捧げ、犠牲を執行し、司式する者は、このために聖別された司祭であり、天主の民の集会ではないことを宣言した。「イエズス・キリストは『メルキセデクの位による永遠の司祭』であると宣言し、ご自分の体と血をパンとぶどう酒の形色のもとに、聖父である天主に捧げた。そして、使徒たちにパンとぶどう酒のもとに拝領するように自分の体と血を与え、彼らをその時、新約の司祭として制定した。彼らと、彼らの司祭職における後継者たちに、主は「これを私の記念として行え」という言葉をもって、この犠牲を捧げることを命じた。これは、カトリック教会が常に理解し教えてきたことである。」(DS1740)「『私の記念としてこれを行え』という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の御体と血を捧げるように定めたのでもないという者は、排斥される。」(Canon 2, DS 1752)
さらに、ミサが、単なる十字架の記念ではなく、罪の赦しの力を持つ真実の犠牲であることを宣言した。「ミサの犠牲は、ただ賛美と感謝のためであるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いのためでないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきではない、と言う者は排斥される。」 (Canon 3, DS 1753)
更に、次の2つの排斥文も記憶しておこう。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきであるという者は、排斥される。」(Canon 6, DS1756)
「司祭だけが聖体の秘跡を拝領するミサは不法であるから廃止すべきである、と言う者は、排斥される。」(Canon 8, DS1758)
19 superamento
20 原注4: 改めて言うまでもなく、もし定義された教義のうち一つでさえも否定するなら、最高位階制度による教導権の不可謬性の原理そのものを否定することになるので、その一つ教義の否定自体ですべての教義は否定されることになる。
21 "eminenter"
22 instituantur et reficiantur
23 tutto illegittima
24 separatamente e in assoluto
25 Actio Christi et populi Dei; Cena Dominica sive Missa; Convivium Paschale; Communis participatio mensae Domini; Memoriale Domini; Precatio Eucharistica; Liturgia verbi et liturgia eucharistica
26 ossessivamente
27 Memoriale Passionis et Resurrectionis Domini
28 原注5: もし、この表現がUnde et memoresと言うミサ中の祈りから発想を得たものだとするなら、この祈りにあるように、ご受難とご復活の後に御昇天を付け加えるべきであった。しかし、この祈りを詳しく研究すると、決して本性を異とする現実をごちゃ混ぜにはしていないことがわかる。いや、この祈りは繊細に、それでいて鮮明に、それらを区別している。「我らは主の幸いなるご受難を思い起こすのみならず、さらには、主の古聖所からのご復活、そして尚かつその栄光ある天への昇天を記憶する(… tam beatae Passioni, necnon ab inferis Resurrectionis, sed et in caecum gloriosae Ascensionis)」となっているからである。


29 詩編40:7-9、ヘブレオ10:5
30 原注6: 「感謝の祈り」(日本語では「奉献文」)と言われている新しい3つの典文は、やはり同じように、強調される部分がずれている。驚くべきことに死者の記念が取り除かれ、煉獄における霊魂の苦しみに関する言及が一切ない。しかし、償いの犠牲は、煉獄で苦しむ霊魂に適応されなければならない。
31 新しいミサのなかで、日本語では「供え物の準備」と言われている。
32 "Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate acceptimus panem (vel vitis) quem offerimus, fructum terrae (vel vitis) et manuum hominum, ex quo nobis fiet panis vitae (vel potus spiritualis)"(このラテン語を日本語に直訳すると次のようになる。「主よ、宇宙の天主よ、御身は賛美せられさせ給え。そは、我らが御身に捧げ奉るパン(或いは、ぶどう酒)は、御身の御恵みによりて我ら受け取り奉りたるがゆえなり。そは大地(或いは、ブドウの木)と労働の実り、そこから、我らのために命の糧(或いは、霊的飲み物)となるものなり。」)
原注7: パウロ6世の回勅Mysterium Fideiを参照せよ。この回勅の中で、パウロ6世は象徴主義の誤謬と同時に「意味変化transignificatio」や「目的変化transfinalizatio」という新説を排斥している。
33 Panis vitae
34 Potus spiritualis
35 原注8: 教父や教導職の文章に、確かに言葉としては見いだされる、言い回しや言葉使いが、それらが持っていた意味や文脈、また教義全体から離れ、それに言及されずに絶対的かつ新しい意味で再び使われている。(例えば、霊的糧spiritualis alimonia, cibus spiritualis, 霊的飲み物potus spiritualis)しかし、このようなことは、パウロ6世の回勅Mysterium Fideiの中で充分に摘発され排斥されたことである。
36 "Deus qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condidisti et mirabilius reformasti"
37 "Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam: ut in conspectu divinae majestatis tuae, pro nostra, et totius mundi salute cum odore suavitatis ascendat. Amen."(主よ、我らは御身に救いのカリスを御身の憐れみをこいねがいつつ捧げ奉る。そは、我らと全世界の救いのために、御身の天主の御稜威の御前に、芳しき香りと共に立ち上らんがためなり。)
38 cum odore suaviatis
39 総則49「感謝の典礼の始めに、キリストの体と血になる供え物が祭壇に運ばれる。…教会のため、また貧しい人のために信者が持ってくるか、あるいは道内で集めるかした献金または他の捧げものも奉納される。」


40 原注9: このことは、第2バチカン公会議の典礼憲章48番の規定と明らかに矛盾している。
41 prex eucharistica
42 "ut tota congregatio fidelium se cum Christo coniungat in confessione magnalium Dei et in oblatione sacrificii."
43 "Nunc centrum et culmen totius celebrationis initium habet, ipsa nempe Prex eucharisitica, prex scilicet gratiarum actionis et sanctificationis."
44 Suscipe, sancte Pater, omnipotens aeterne Deus, hanc immaculatam hostiam quam ego indignus famulus tuus offero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabilibus peccatis et offensionibus et negligentiis meis, et pro omnibus circumstantibus, sed et pro omnibus fidelibus christianis vivis atque defunctis: ut mihi et illis proficiat ad salutem in vitam aeternam.(聖なる聖父、全能永遠の天主よ、私のまことの生ける天主である御身に、私の無数の罪と犯罪と怠りのため、また周囲にいる全ての人々のため、さらには、生存している、そして、既に亡くなった全てのキリスト教信者のために、御身の不肖なるしもべである私が、捧げる、この汚れなきいけにえを受け入れ給え。それは、私と彼らとにとって、永遠の生命へと救われるために益となるためである。)
45 nutrimentum
46 "Veni, Sanctificator omnipotens aeterne Deus: et benedic hoc sacrificium tuo sancto nomini praeparatum."(聖とならしめ給うもの、全能の永遠の天主よ、来たりて御身の聖なる聖名にそなえられたこのいけにえを祝し給え。)
47 総則233番には、「ミサの中ではひざまずく表敬が3回行われる。すなわち、パンを会衆に示した後、カリスを会衆に示した後、及び拝領前」とある。ただし、日本では、跪くことが全て「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の84番や98番、同じく233番などを見よ。また、祭壇に接吻することも「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の85番を見よ。
48 総則103「カリスをコルポラーレの上に置き、場合によってはパラで覆う。」となっており、パラの使用は義務ではなくなっている。
49 総則294「金属製の祭器は、さびを生ずるものであれば、内側全面を金メッキしなければならない。さびを生じない金属や上等な金製のものは、金メッキの必要はない。」
50 総則265「固定祭壇であれ、可動祭壇であれ、典礼書に記載されている儀式にしたがって聖別される。ただし可動祭壇は、ただ祝福することだけ[で使用すること]が出来る。」
51 mensa
52 総則265「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机には、聖別された石を置く必要は全くない。」
53 総則268「主の記念祭儀に対する尊敬、ならびに主の体と血が供される会食に対する尊敬を表すために、祭壇上には少なくとも1枚の食卓布を敷く。」
54 grottesco ringraziamento di prete e fedeli seduti
55 reverenter accipiatur
56 quasi sarcastico
57 mensa 原注10: 祭壇のもっとも主要な機能が述べられているのは、ただ1度だけ総則の259番でしかない。"Altare, in quo sacrificium crucis sub signis sacramentalibus praesens efficitur."(祭壇は、十字架のいけにえが秘跡的なしるしのもとに現在のものとなる場所である。)しかし、これだけでは、その他の名称が頻繁に使われていることによる不明確さを消し去るには、あまりにも少なすぎる。
58 "Altare, seu mensa dominica, quae centrum est totius liturgiae eucharisticae"(n.49)
59 総則262「中央祭壇は、容易に周りを回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から離して建造する。またその位置は、全会衆の注意が自ずから集まる真に中心となる場所であるようにする。」
総則276「聖体を保存する場所は、信者の個人的な礼拝と祈りに相応しい小聖堂のなかに設置されることが切に勧められる。これが出来ない場合には、…聖体は、ある祭壇、もしくは教会堂内の、…他の場所に保存するものとする。」
60 原注11: ピオ12世教皇は、1956年9月23日、典礼大会への講話の中でこう言っている。「祭壇から御聖櫃を切り離すこと、それはその起源と本性とによって結合していなければならない2つのものを切り離すことです。」
61 原注12: 新しい式次第は「ホスチア」という言葉をほとんど使っていない。「ホスチア」という言葉は典礼書における伝統的な表現であり、「いけにえ」という正確な意味を持っている。「ホスチア」という言葉が使われていないことに、またもや、「晩餐」とか「食べ物」という観点にのみ焦点を当てようとしている計画的な同じ意志を読まざるを得ない。
62 原注13: 一つのことを別のことで置き換える、あるいは取り替える、という常套手段によって、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっている(総則7「「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。十字架のいけにえが続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」及び54番)しかし、真実は、この2つのことは別の本性の事柄である。御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、つまりそれを使うということにおいてin usu、現実のものとなる。しかし、御聖体における現存は客観的に、恒常的に、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、常にある。次のような言い回しは、典型的にプロテスタント的な言い方である。「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)このような言い方には、厳密に言って、いかなる意味もない。なぜなら、天主が御言葉のうちに現存することは直接的ではないからである。この御言葉における現存は、人間の時間と空間に限られた精神の行為に結びついているからである。この間違った言い方による悲劇的な結論は、このような言い方によって、御聖体における現実の現存が、御言葉における主の現存のように、それを使うということに結びついているのではないかということを暗示していることである。すなわち、それを使っていなければ、つまり、御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存していない、ということを暗示してしまっている。
63 Haec quotiescumque feceritis, in mei memoriam facietis.
64 in mei memoriam
65 volti alla mia memoria
66 Haec…, in mei memoriam facietis.
67 Hoc facite in meam commemorationem.
68 原注14: 秘跡を執行するということは、『新しい司式』の総則の中で命令されている限りにおいて、イエズスが使徒たちにご自分の御体と御血をパンとぶどう酒の形色のもとにおいて「食べるために」与えられたという事実と同時であったということも意味されている。そのために、秘跡を執行するということは、もはや聖別という行為に存していない、すなわち、御体と御血との分離である、ということに存していない。しかし、このことにミサのいけにえという現実の本質のもののが属しているのである。(ピオ12世の回勅『メディアトル・デイ』を見よ。)
69 "naratio institutionis"
70 Ecclesia memoriam ipsius Christi agit.
71 「エピクレーシス」とは、奉献されたホスチアが聖変化するように天主の力を祈り求める教会の祈願のことである。
72 Hoc est Corpus meum
73 Hoc est Corpus Christi
74 原注15: 新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉は司祭の意向のお陰によって有効であり得る。しかし、この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。[Le parole della Consacrazione, quasi sono inserite nel contesto del Novus Ordo, possono essere valide in virtu dell'intenzione del ministro. Possono non esserlo perche non lo sono piu ex vi verborum o piu precisamente in virtu del modus significandi che avevano finora nella Messa. I sacerdoti che, in un prossimo avvenire, non avranno ricevuto la formazione tradizionale e che si affideranno al Novus Ordo al fine di "fare cio che fa la Chiesa" con-sacreranno validamente? E lecito dubitarne.]
75 "Mortem tuam annuntiamus, Domine, etc… donec venias."(主よ、御身の来るまで、我らは御身の死を告げ知らせよう。)
76 "Quotiescumque manducamus panem hunc, et calicem bibimus, mortem tuam annu-tiamus, Domine, donec venias."
77 原注16: プロテスタント的な批判がよくやるようにこれらの表現は聖書の同じ文脈に載っている(コリント前書11:24-28)と言わないように。なぜなら、教会は異なった表現で表される異なった現実を混同しないように、常にそれらの表現を並べたり、重ねたりするのを避けてきたからである。


78 Autonoma (absoluta)
79 Missa est sacra synaxis seu congregatio populi.
80 "Qua salutatione et populi resonsione, manifestatur ecclesiae congregatae mysterium."(この挨拶と会衆の応答は、ともに集まった教会の神秘を表す。)
81 cum populo
82 sine populo
83 "populus sui sacerdotii munus exercens"(総則45番「共同祈願、すなわち信徒の祈りにおいて、会衆は、自分の祭司職の務めを実行して、全ての人のために祈る。」)
84 Prex eucharistica III
85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Descl?e 1930, t. III)
87 in persona Christi
88 "quidam de populo"
89 エピクレーシスについて、総則の55番「ハ」は、こう言っている。「この特別な祈りによって、教会は神の力を願い求め、…祈る。」
90 in persona Christi
91 原注18: キリスト教を信ずる民にとって信じられないほどの、且つ、悲惨な改革は、聖金曜日の祭服の色が黒ではなく、赤になったことである(総則308番のロ)。赤は、特に殉教者を記念する色であり、教会がその花婿であるイエズス・キリストの死を喪に服す色ではない。
92 原注19: これは、フランスのドミニコ会司祭Pere Roguet O.P.のことである。
93 "un homme un peu plus homme que les autres"
94 actio Christi et Ecclesiae
95 "Presbyter celebrans... populum... sibi sociat in offerendo sacrificio per Christum in Spiritu Sancto Deo Patri"
96 per Spiritum Sanctum Deo Patri
97 paschalismo
98 "prex eucharistica IV"
99 "pro omnibus orthodoxis atque catholicae fidei cultoribus"
100 "omnium qui te quaerunt corde sincero"
101 "cum signo fidei, et dormiunt in somno pacis"
102 "obieunt in pace Christi tui"
103"Quorum fidem tu solus cognovisti"
104 原注20: ローマ・カノンの翻訳のうちいくつかは、"locus refrigerii,lucis et pacis"(すずしみと光と平和の場所)が、「至福、光、平和」という状態として訳されている。「苦しむ教会」に関して明確な言及が消え失せてしまったことについては何と言ったらよいだろうか!
105 原注21: この省略omissionの病熱の最中に、ただ一つ付け加えられた言葉がある。それは、告白の祈りのなかで罪を告白し、「思い」と「言葉」と「行い」に続けて「怠りomissio」の罪が付け加えられたことである。
106 Communicantes, et momoriam venerantes, in primis gloriosae semper Virginis Mariae, Genitricis Dei et Domini nostri Jesu Christi, sed et beatorum Apostolorum ac Martyrum tuorum, Petri et Pauli, Andeae, Jacobi, Joannis, Thomae, Jacobi, Philipi, Bartholomaei, Matthaei, Simonis et Thaddaei: Lini, Cleti, Clementis, Xysti, Cornelii, Cypriani, Laurentii, Chrysogoni, Joannis et Pauli, Cosmae et Daminai: omnium Sanctorum tuorum; quorum meritis, precibusque concedas, ut in omnibus protectionis tuae muniamur auxilio. Per eundem Christum Dominum nostrum. Amen.(聖なる一致をしつつ、我らは、まず、我らの天主なる主、イエズス・キリストの御母、終生童貞なる光栄あるマリアの記念を謹んで行い奉る。また更に、主の聖なる使徒かつ殉教者、ペトロとパウロ、アンドレア、ヤコボ、ヨハネ、トマ、ヤコボ、フィリッポ、バルトロメオ、マテオ、シモンとタデオ、また、リノ、クレト、クレメンテ、シクスト、コルネリオ、チプリアノ、ラウレンチオ、クリソゴノ、ヨハネとパウロ、コスマとダミアノ、および主の全ての聖人らの記念を恭しく行い奉る。願わくは、彼らの功徳と祈りとによって、我らが全てにおいて御身の保護の助力を与え給わんことを。同じ我らの主キリストによりて、アーメン。)
107 Libera nos, quaesumus, Domine, ab onmibus malis, praeteritis, praesentibus, et futuris: et intercedente beata et gloriosa semper Virgine Dei Genitrice Maria, cum beatis Apostolis tuis Petro et Paulo, atque Andrea, et omnibus Sanctis, da propitius pacem in diebus nostris: ut ope misericordiae tuae adjuti, et a peccato simus semper liberi, et ab omni perturbatione securi.(主よ、願わくは、過去、現在、未来の全ての悪より我らを救い給え。終生童貞なる永福の光栄ある天主の御母マリアと御身の至福なる使徒ペトロとパウロ、また、アンドレアとともに、全ての諸聖人のおん取り次ぎにより、おん慈悲をもって今日平安を与え給え。そは、おん憐れみの御業に助けられ、常に我らが罪から救われ、全ての惑わしから安全に守られんがためなり。)
108 原注22: 新しい司式が提示されたとき記者会見の席で、レキュイェ神父P?re L?cuyerは理性だけを信じているという「信仰宣言」をはっきりとし、会衆の参加していないミサでの挨拶は、「Dominus tecum主はあなたと共に」「Ora, frater兄弟よ祈れ。」という言い方を考えているとさえいった。これは、「作り事がなくなり、真理に適わないことがなくなるためである」(ソノママ)とのことである。
109 "tremendum mysterium"
110 "Aufer a nobis"の祈り
111 "Oramus te, Domineの祈り
112 "Aufer a nobis"
113 "Omramus te, Domine"
114 "mensa" 総則の260番には、「感謝の祭儀は、…聖堂以外の場所においては、…適当な机の上でも行うことが出来る。但し必ず食卓布とコルポラーレを備えなければならない」とある。総則の265番には「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机(260参照)には、聖別された石をおく必要はない」とある。
115 "convivium"
116 総則244番の「ニ」によると、「助祭または教会奉仕者[これは、いわゆる侍者のことである。]は、カリスとプリフィカトリウムを拝領者に差し出し、拝領者は、適宜に、自分の手で、カリスを口に持って行く。拝領者は、左手でプリフィカトリウムを口の下に保ち、こぼさないように注意しながら、少量の御血をカリスから拝領する」とある。
117 総則65:「教会奉仕者は、祭壇での奉仕と、司祭及び助祭を助けるために選任される。教会奉仕者には、特に祭具の準備をすること、及び特別奉仕者として聖体を信者に授けることが委ねられる。」
118 総則66:「聖教奉仕者は、福音を除き、聖書を朗読するために選任される。また共同祈願の意向を述べ、詩編朗読者がいないときには、朗読の合間に詩編を唱えることが出来る。宣教奉仕者は、感謝の祭儀において、固有の役割を持っている。この役割は、より上級の位階の奉仕者がいる場合にも、宣教奉仕者自らが果たさなければならない。」
119 総則67:「朗読の間にある詩編または聖書参加を朗唱することは詩編朗唱者の務めである。」
120 総則68の「イ」:「解説者=信者を祭儀に導き、よりよく理解させるために、信者に指示や説明を与える。」
121 総則68の「ロ」:「案内係=地方によっては、教会の入り口で信者を迎え、適当な席に案内し、また行列を整理する。」
122 総則68の「ハ」
123 総則68「また、ミサ典礼書、十字架、ろうそく、パン、ぶどう酒、水、香炉を運ぶ者がある。」
124 mulier idonea 総則70:「助祭に固有な役務以外の役務は、選任を受けていなくとも、男子信徒が行うことが出来る。司祭席の外で行われる役務は、…女子にも委ねることが出来る。」
125 "ministeria quae extra presbyterium peraguntur"
126 原注23: このことに関して、今ではたとえ司祭が共同司式の前或いは後に一人でミサを捧げなければならない時でさえも、司祭はもう一度共同司式の時に両形色で聖体拝領することが合法的になってしまったようである。


127 原注24:「ヒッポリトのカノン」として提示されたが、実際はいくらかの言葉がそのまま使われているだけで何も残ってはいない。
128 原注25: "Gottesdienst" no.9, 14 Mai 1969


129 原注26: ビザンチン典礼に於いて見いだされる次の要素を考察せよ。長い何度も繰り返される悔悛の祈り。司式司祭と助祭の祭服を着るための荘厳儀式。プロスコメディアという捧げものの準備のそれ自体で完全な一つの典礼様式。たとえ奉献の祈りの最中であっても聖母や諸聖人への何度も繰り返される祈祷。福音を読むときに「目に見えない共同司式者」としての天使の諸階級への祈り。聖歌隊はケルビコンと名付けられ、天使の階級の一部と見なされている。聖所を教会のその他の部分と区別し聖職者を平信徒と分離させる至聖所の幕(イコノスタシス)。全典礼がそれへと意味付けられている天主の神秘を象徴する隠れた聖変化。天主へと面し決して会衆に対面しない司式司祭の姿勢。聖体拝領は必ず司式司祭によってのみ配られること。聖変化した両形色に対する絶えざる礼拝の印。会衆の本質的に観想的な態度。東方典礼に於いてはたとえそれがあまり荘厳でない様式に於いてでも1時間以上続き「敬虔の念を起こさせ、言語を絶する、・・・天的な、命を与える神秘」として常に定められている。また、ローマ・ミサに於いてそうであったように、聖ヨハネ・クリソストモの典礼と聖バシリオの典礼に於いて、いかに「晩餐」や「会食」の考えがいけにえの考えに明らかに従属しているかということを最後に記しておく。


130 "Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem Omnipotentis Dei ac beatorum Petri et Pauli Apostolorum eius se noverit incursurum."
原注27: トレント公会議第23総会に於いて(御聖体についての教令に於いて)その宣言の目的をこう定義した。「御聖体の使用と礼拝についての信仰の教えに於いて、この宿命的な時代に於いて敵がまいた排斥されうる誤謬と離教の毒麦を完全に根こそぎにするため。主は御聖体によって全てのキリスト者を一つにまとめ結びつけようと望まれ、我らの主はご自分の教会に一致と愛との象徴として御聖体を残された。」(DB.873)
131 ティモテオへの第一の手紙6:20「おまえに委ねられたものを守れ。新奇な言葉に惑わされるな。」
132 原注28: ピオ12世回勅『メディアートル・デイ』1. §3には、こうある。
「心と魂によって、教会の典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。典礼の研究、特にその起源の研究によって、祝日の意味や、用いられる式文の意味、教会の儀式の意味をより深くより正確に知ることが出来る。これに反して、何が何でも全てを古代の状況に戻そうとするのは、賢明でもないし、賞賛すべきことでもない。例えば、祭壇のもとの形を復興しようとしてテーブルのこれに変えようとするもの、祭服には決して黒色を用いないと言う人々、聖画や聖像を聖堂から取り除こうと言う人々、救い主がお受けになった激しい苦難を表さないような十字架を要求する人々、そして使徒座から与えられた規定に合っているのに混声音楽を非難したり否定したりする人々は、正しい道から外れている。…このような思想や態度は、非合法なピストイアの教会会議があおり立てた不健全な考古学主義を復興させようとするものであり、またそれは、この会議を不法なものとし、人々の霊魂に大きな害を与えた種々の誤謬を復古しようとするものである。天主である創立者から委ねられた「信仰の遺産」の常に忠実な守護者である教会は、当然のことながらそれを否定した。」
 ここで、ピオ12世は、1794年8月28日ピオ6世が発布した使徒憲章Auctorem Fideiを参照させている。たとえば、
(33)「ピストイア会議は、典礼に関する諸原則の一部を忘れてきた原因を除くために、『儀式の簡素化、自国語による典礼、声高く唱えること』を望んでいる。こうして、教会によって認められている現行の典礼は、諸原則の一部を忘れたことから導入されたかのように主張している。…この命題は軽率、信心深いものを傷つけ、教会を傷つけ、教会を攻撃する異端者を助長する。」(DS2633)
また、(66)には、「『信徒が全教会と声を合わすようにしなければ、それは使徒自体の実践と天主の勧めに反することである』と主張することは、すなわち、典礼上の祈祷に国語の使用を取り入れようとすることは、誤りであり、軽率であり、諸秘義の執行の秩序を乱すものであり、数多くの悪弊を導入するものである」とある。
133 原注29: パウロ6世回勅『エクレジアム・スアム』1964年4月3日
134 原注30: パウロ6世、1969年4月3日聖木曜日の説教「実際上離教的なパン種が、教会を分裂させ、分断し、粉々にしています。」
135 原注31: パウロ6世、同じく、1969年4月3日聖木曜日の説教「私たちが今読んだばかりのコリント人への第1の手紙の中で聖パウロが優しく告発しているこの離教とこの分裂が私たちの中にもあるのです。」
136 原注32: 第2バチカン公会議について、よく知られた事実が、現在、自ら自分がその教父であったと自慢している人たちがこの公会議を否定していることである。彼らは公会議の内容を「爆発させよう」と決心して公会議を終えて帰路についた人たちである。反対に、教皇聖下は閉会の時に、この公会議はいかなる変化をも導入しなかった、と宣言された。不幸なことに聖座は、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」を仲介にして、説明の出来ないほどの早さで、公会議の文章に不忠実であることを(しかもこの不忠実さは日増しに増加ばかりするのであるが)許し、しかも推奨している。この不忠実さは、見かけ上はただ単に形式的なものに過ぎない変更(ラテン語、グレゴリオ聖歌、尊敬を払うべき典礼様式、等々)から信仰の実体に触れさえする様々な変更にまで至っている。私たちがこの研究によって明らかにしようとした恐るべき結果は、また更に心理学上より劇的に、規律の部門において、またキリスト教会の教導権の分野において、影響を及ぼしており、それと同時に、聖座が持つ名誉ある地位とこれに払わなければならない従順とを揺るがしてしまっている。


オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究(続き)

2018年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究の続きをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」

2ミサの定義 

3ミサの目的 

4いけにえの本質 

5いけにえを実現させる4つの要素
 
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

7宗教統一運動

8結論 


6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

 以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。
 新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。
 私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。
 第二奉献文127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。
 新しいミサはローマに「司牧上の仕事の豊かな源」として、「法律的と言うよりもむしろ司牧的な文章」として導入された。そして、各国の司教協議会はそれぞれの状況に合わせて様々な民の「精神」にそれを適応させることが出来るとされた。
「典礼のための新しい聖省」の第一部門はさらに「典礼書の出版と絶え間ない見直し」のための責任者とされた。
 この考えは、ドイツ、スイス、オーストリアの典礼研究所の公式出版物の中に最近、反映されてこう書かれた128。
 「今ではラテン語が様々な国の言葉に訳されなければならない。「ローマ式」は地方教会のそれぞれの個性に適応されなければならない。かつて時を越えて考えられたものは、絶えず変わる文脈と具体的な状況に合わせ、普遍教会の絶え間ない流動とその無数の会衆に会わせなければならない。」

 新しい司式を発布する際の使徒座憲章それ自体でさえ、第二バチカン公会議の明らかな望みに反して「言語の多様相違のうちにも、全ての人によって同じ一つの祈りが[?]、大祭司イエズス・キリストを通して、聖霊のうちに、どの香にもまして芳しい香りとして、父に捧げられることになるからです」という全く曖昧な表現により教会の普遍的な言語であるラテン語に対し最後の一撃を与えている。
 これゆえに、ラテン語を失うことは当然だと考えられる。また第二バチカン公会議はグレゴリオ聖歌がローマ典礼のローマ典礼であることを示すものであると認め、「典礼儀式に置いて名誉ある地位が与えられなければならないと」命じたが、新しいミサでは特に入祭文や昇階誦を自由に選んで良くなったために論理的にグレゴリオ聖歌さえも失われてしまうだろう。
 従って、その仕組みから、新しい司式は多様で実験的なものであり時と場所によって変わるものだった。礼拝の単一性がこうして一度、そして永久に壊れてしまうなら、いったい信仰の単一性を保つための基礎として何が存在することだろうか。かつては信仰と単一性に礼拝の単一性が結びつき、それが妥協することなく信仰を常に守っていたと私たちは教えられてきた。

 新しいミサが、トレント公会議で教えられた信仰を私たちに提示する意向を全くもたないことは明らかである。ところでカトリック信者の良心が永遠に結ばれているのはまさにこの信仰である。従って、新しいミサが発布されると真のカトリック信者は劇的な選択の必要に直面する。



7宗教統一運動

 使徒座憲章は、新しい司式が東方教会から借りたことになっている信心と教義の豊かさについて明確に言及している。しかし、結果は東方典礼の精神からあまりにも遥かに離れ、そして実にその精神とは対立することになり、信者をして東方典礼様式からうんざりさせて離れさせるのみである。
 この宗教統一運動の為に東方典礼から借りたものはいったいどんなものがあるだろうか。基本的には「奉献文」を導入させるための数多くの文章(これをアナフォラと言う)。しかし、そのうちのどれ一つとして東方典礼のアナフォラの複雑さや美しさに及ばない。また、その他のものとして両形色での聖体拝領と助祭の使用である。
 東方典礼に近づくために導入したいくつかの要素に反して、新しい司式はローマ典礼がかつて東方典礼に最も近づいていた要素を、全て故意に取り除いてしまった129。同時に、新しい司式は、紛れもなくローマ的で、またいつ始まったかも分からないほどの古いローマの性格を放棄してしまっている。そうすることによって、霊的にそれ自体で貴重であったもの全てから切り離されてしまった。
 この代わりに新しい司式は、プロテスタントの一部の典礼に近くなったが、プロテスタント化したその新しい要素はカトリックの信仰にとって非常に近くにあった要素というわけではない。同時にこれらの新しい要素はローマ典礼を退廃させ東方典礼からもさらに疎外化させた。それは新しい司式の先駆者であるプロテスタント宗教改革で起きたことと全く同じことであった。
 新しい典礼はその見返りとして、かつてなかったほどの霊的危機の時代に於いて棄教・背教の境界線をうろつき今や教会の組織に毒を入れ、教会の教義・礼拝・道徳・規律の一致を崩そうとして教会の破壊を企てているものどもを全て喜ばすだろう。




8結論 

 使徒座憲章も述べているとおり、聖ピオ5世はカトリック信者の間の一致を作るための道具としてローマ・ミサ典書を作った。トレント公会議の命令に従って、その当時プロテスタントの反乱によって脅かされていた典礼的礼拝あるいは信仰それ自体に対しての危険を全て排除するためのミサ典書であった。全く正当化されうる重大事態そしてさらに預言的でさえもあることには、聖ピオ5世は1570年このミサ典書を発布する勅書の最後にこう荘厳な警告を与えた。
「もし誰であれ、このミサ典書を勝手に変更しようとあえてするものがあるとするならば、彼は全能の天主の御怒りと主の聖なる使徒聖ペトロと聖パウロの怒りとを自分の上に呼び起こすものであると言うことを良く知るが良い130。」
 「新しい司式」がバチカン報道局に提出されたとき、トリエント公会議が述べていた[ミサを変えるのを禁止する]様々な理由はもはや存在しなくなったと、全く不賢明なことさえ言っていた。トリエント公会議のこれらの勅令は、今日でもまだ適応するばかりでなく、それらの勅令を存在するに至らしめた条件が今日ではさらに非常に悪化して存在している。教会が天主の息吹を受けて、教会の防御としてドグマ上の定義や教義上の声明を出したのは、まさに信仰の純粋な遺産を脅かす、いつの時代にもある罠を追撃するためであった131。これらの教義上の定義や宣言は典礼によって守られると共に教会の典礼に影響を与えた。そして典礼は教会の信仰の最も完璧な記念碑となったのである。この礼拝をキリスト教の古代の実践へと戻し、古代にあった原初の自発性を人工的に再構成しよう、という試みはピオ12世があれほど声を高めて排斥した「不健康な考古学主義132」に身を投じることである。さらに言えばそのような試みは典礼様式の保護のために建てられた神学的防御の壁を全て崩し、過去数世紀の長きに亘って典礼を豊かにしてきた全ての美しさを取り除いてしまうことである133。しかもこれら全てが教会の歴史に於いて最も危機的な時(たとえそれが最高の危機を迎える時でなかったとしても)の一つである今なされるとは!

 今日、教会の外だけでなく教会の中に於いてでさえ分裂と離教が公に認められている134。教会の一致はただ単に脅かされているだけではない。教会の一致は既に悲劇的にも蝕まれている135。信仰に反する誤謬はただ単に暗示されているだけではない。謬説は典礼的乱用と逸脱を通して今では公に認められ強制的に押しつけられている。136

 過去4世紀に亘って典礼における一致の印と保証として立ち止まった典礼の伝統を打ち捨てることは、そしてこの典礼を別の典礼で取り替えることは、しかも、それが暗に許可する無数の自由のために、分裂の印以外の何にもなり得ない別の典礼、カトリック信仰の完全性に反する暗示や明らかな誤謬を多く含む典礼によって取り替えることは、われわれは良心上はっきりこう言わなければならないが、はかり知ることの出来ない誤りである。

御聖体の祝日に 1969年6月5日

【注はここにあります。】

英語訳はここにあります。


1969年9月25日オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿が教皇パウロ6世に提出した、新しい「ミサ司式」の批判的研究

2018年01月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

1969年9月25日、オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿が、教皇パウロ6世に、新しい「ミサ司式」の批判という報告書を提出しました。その日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」

2ミサの定義 

3ミサの目的 

4いけにえの本質 

5いけにえを実現させる4つの要素 
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

7宗教統一運動

8結論
 







1規範ミサと新しい「式次第」

 1967年10月に司教会議(シノドス)がローマで開かれ、そこで「規範ミサ1」と呼ばれるミサを試験的に司式することについて、審議があった。この試験的なミサは、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会 たものだった。
2」によって創られ とこの司教会議の参加者はこのようなミサのために非常に当惑していた。187票の投票者のうち、43の「反対3」、62いう多くの「保留4」があった。またその他の4票は棄権だった。
 報道機関は、司教会議が規範ミサを「拒否した」と書いた。革新的な傾向のある報道機関はこの出来事について沈黙を守った。司教達のための、ある有名な機関誌は新しい典礼をこう言ってまとめた。
「[規範ミサをつくった者たちは]ミサに関するすべての神学をすべて白紙に戻すことを望んでいる。実質的にミサのいけにえを破壊したプロテスタントの神学に近づいている。」
 ところが、『第2バチカン公会議の教令に基づいて刷新されたローマミサ典礼書を公布する使徒座憲章(以下、『ローマミサ典書5』と表記する)』という名前の使徒座憲章(1969年4月3日)によって公布された「新しい司式6」は、不幸なことにこの「規範ミサ」と実質的に全く同じものである。67年の司教会議とこの69年の公布の間に多くの司教会議があったが、司教会議の問題としてこの問題については触れられなかったように思える。
 使徒座憲章『ローマミサ典書』は、聖ピオによって公布された古い5世(1570年7月14日勅令『クォー・プリームム7』)ミサ典書が(このミサ典書は大部分が大聖グレゴリオそしてさらにもっと古くまで遡るものであるが8)4世紀にわたりラテン典礼の司祭のためのいけにえを捧げる規範であったことを確認している。さらにこの使徒座憲章『ローマミサ典書』は、世界中に広がったこの古いミサ典書を通して「無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります9」と付け加えている。
 しかし、この同じ使徒座憲章によると、「キリストを信じる民の間に典礼の促進を目的とする研究が重ねられ、ますますその成果が上がるに連れて10」、このローマ・ミサ典礼書の使用を決定的に中止させる典礼改革が必要になっていたことになっている。
 しかし、明らかにこの最後の文章はゆゆしくも曖昧である。
 キリスト教の民が、もしもかつてこの典礼をより深く知り、研究し、促進しようという望みを表明したとしたら(それは主に聖ピオ10世教皇の励ましのもとにであったが)彼らが典礼という本当の不滅の宝を発見しだしたからであった。キリスト教の民は、典礼をよりよく理解するために典礼を変えるとか変更するなどとは決して、絶対に、一度も求めたことがなかった。彼らがよりよい理解を求めたのは、唯一的不変の典礼であり、彼らはそれが変わるのを望んだことなど決してなかった。
 聖ピオ5世のローマミサ典書はカトリック信者の心にとってきわめて大切なものであり、カトリックは司祭も平信徒もこれを敬虔に崇敬してきた。ふさわしい手ほどきを受けるなら、このミサ典書を使うことのどこが、聖なる典礼のより深い参与とより良き理解への邪魔になるのか、理解しかねる。この使徒座憲章「ローマ典書」が認めたように、この古いミサ典書の非常によい点を認めながらそれと同時に、キリスト教民の典礼に関する信心を養い続けることがもはやできなくなっていると評価することの理由が解らない。
 そのためにこそ司教会議は既に年にこの「規範ミサ」を拒否したのだった。しかし、その同じ「規範ミサ」が今日、67新しい「司式」によって実質的に採用され押しつけられている。この新しいミサは司教会議の司教団による判断に委ねられたことが一度もなかった。キリスト教民は(そして特に宣教の地では)いかなる種類のミサ聖祭の改革といえども確かに望んでいなかった。この新しい立法は、同じ使徒座憲章「ローマミサ典書」が認めるとおり4・5世紀から変わらず続いた聖伝を覆すものである。この新しい法が定められた動機を判別することはどうしてもできない。
 従って、このような典礼改革の理由は存在しないのであり、かかる典礼改革を正当化し、典礼改革それ自身もカトリックの民に受け入れられるようにする理由付けの根拠はないと思われる。
 公会議も『典礼に関する憲章番で確かにミサのいろいろな部分がもう一度秩序づけられるようにという望11』の第50みを表明した。「ミサの各部分の固有な意義と、相互の関連とがより明らかになるように12」と。では今から新しい「式次第」がこの望みにどれだけ答えているかということを見てみよう。あらかじめ言っておくならば、新しい式次第は事実、この憲章のことなど些かも気にかけてはいないと言うことができる。
 新しい「式次第」のした変更を一つ一つ調べていくと、それらは、以前の「規範ミサ」について下された判断と同じ判断をするのを正当化するほどの変更である。
 新しい「式次第」は「規範ミサ」と全く同じく、多くの点でプロテスタントのうち最もひどい近代主義をそのうちに見いださざるを得ない。


2ミサの定義 

 まず、ミサの定義から始めよう。
 ミサの定義は「ミサの一般的構造13」と題された「ローマ・ミサ典書の総則14」の第2章の冒頭にある、第7番段落にある。
 これが新しい式次第によるミサの定義である。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である15。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。16」
 これを見るとミサの定義は「晩餐17」以外の何ものでもなくなってしまっている。そしてこの定義は、以後何度も現れる(8、48、55d、56番)。この「晩餐」の特徴はさらに、司祭を座長とする集いであるということである。また、この「晩餐」は最初の聖木曜日に主がなさったことを思い起こし、主の記念として催されると言う。しかし、これらの一つでさえも主の御聖体における現存、いけにえが現実に行われること、司祭が聖別の言葉を唱えるときに秘蹟を執行していること、会衆が参加していようがしていまいがそれとは関わりなく御聖体のいけにえはそれ自体で内的価値があること、などのことには全く触れられていない18。この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、ミサがもっている基本的なしかも教義的な価値について一切言及していない。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、ここでは「頭越し19」にされ、従って少なくとも実際上否定されるに至っている20。
 この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されている。「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」この後半部によれば、キリストの「2、3人が私の名によって集うところには私はその中にいる」という約束が、このミサの集いにおいて「特に21」実現することになる。しかし、このキリストの約束は、キリストがご自分の聖寵をもって霊的に臨在されることを述べているに過ぎない。しかし、この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっている。
 第7段落でミサの定義をした後に、次の第8段落においては、ミサを「御言葉の祭儀」と「聖体祭儀」に2分している。そして、ミサにおいては「神の御言葉の食卓」と「キリストの体の食卓」とによって成り立ち、信者たちはそこで「教えられ、糧で満たされる22」と断言されている。この2つの部分にあたかも象徴的な価値が等しくあるかのごとく、典礼の2つの部分を全く同等化するやり方は全くふさわしくない23。この点についてはさらに後でもう一度触れることにしよう。
 総則では、ミサがその他多くのさまざまな表現をもって描写されている。これらのすべての表現は、それを全て合わせて同時に考察すれば、相対的には受け入れられ得るかもしれない。しかし、もしそれがそのあるがまま、それぞれ別個にそれ自体の切り離された意味において24取られるなら、それらのどれも受け入れることはできない。例えば、そのうちの一部を挙げてみよう。以下の表現は、それだけでは、ミサということが出来ない。「キリストと神の民の行為」「主の晩餐、またはミサ」「復活の食事」「主の食卓への共同の参加」「主の記念」「感謝の祈り」「御言葉の祭儀と聖体祭儀」 25等々...。
 全く明らかなように、カルワリオのいけにえの無流血の再現という代わりに、取り憑かれたように26食事と記念とに強調が置かれている。
 また「主の受難と復活の記念27」という表現は不正確である。なぜなら、ミサは、本質的に、それ自体で贖いの価値を持つ「いけにえ」のみに関するものだからである。復活はいけにえの結果生じた実りである28。
 われわれはこの後に、聖変化のその言葉自体において、そして「新しい式次第」全体に亘って、このような曖昧な表現が何度も使われ新たにされているのを見よう。


3ミサの目的 

 では、今からミサの目的について見てみよう。
(1) 究極目的:至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえ
 キリストの御托身それ自体の第一目的についてキリストご自身が言っている。「世に入りつつ彼は言った『御身はいけにえも捧げものも望まれなかった。しかし御身は私に体を備えて下さった29』」と。そして、このキリストが明らかに宣言された言葉に相応しく、ミサの究極の目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえである。
 「新しい式次第」では、この目的は消え失せてしまっている。
まず、奉献の祈りから"Suscipe, Sancta Trinitas"の祈りが取り除かれたことによって。またミサの終わりにあった"Placeat tibi Sancta Trinitas"の祈りが省略されたことによって。
さらに序唱から以前は日曜日ごとに唱えていた「至聖三位一体の序唱」がもはや日曜日には唱えられず、ただ三位一体の祝日にだけに限定されてしまったことによって。これによって、将来を「至聖三位一体の序唱」を耳にするのは一年に一回になってしまうだろうからである。

(2) 通常の目的:ミサの通常の目的は償いのいけにえである。
 罪の償いのために、ミサという犠牲が捧げられるという、ミサの通常の目的は、脇道にずらされている。ミサが、生けるものと死せるものとの罪の赦しを得るためにあるのに、その代わりに、今ここに集う人々を養い聖化することに強調が置かれている(54番)。キリストは確かにご自分をいけにえの状態として最後の晩餐の時に秘蹟を制定された。それは私たちをこの状態において主と一致させるためであった。しかし、主の犠牲はいけにえを食する前に既になされ、[聖体拝領なしでもそれだけで]流血のいけにえの完全な贖いの価値を含んでいる。このことはミサに参列している信者が必ずしも秘蹟的に聖体拝領をする義務をもたないと言うことからも明らかである30。

(3) 内在的な目的:
いけにえの本性がいかなるものであれ、これが天主によみされ受け入れられるものでなければならない必要が絶対にある。原罪を犯した後には、それ自体で天主に受け入れられ得るいけにえは、キリストのいけにえ以外に何も存在し得ない。
「新しい式次第」は奉献の祈り31の本性を変えてしまっている。すなわち、奉献の祈りは、人と天主との間の贈り物の一種の交換に変えられている。つまり、人はパンをもってきて天主はそれを「生命のパン」に変えて下さる、人はぶどう酒を持ち寄り天主はそれを「霊的飲み物」に変えて下さる、ということになってしまっているからである。
 「主よ、あなたは万物の造り主、ここに捧げるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。32」
 この「命の糧33」そして「霊的飲み物34」という言い回しの全くの曖昧さについて何の注釈もする必要がない。この言い回しでは何でも意味しうる。ミサの定義の中であったように、ここでも全く同じ重大で曖昧な表現が繰り返されている。ミサの定義の中ではキリストはただ単に霊的にのみ主の弟子らの間に現存なさると言い、ここの奉献の祈りではパンとぶどう酒とはただ単に「霊的に」のみ変化し、決して実体的に変化するとは言われていない35。
 奉献の準備において二つの素晴らしい祈りを廃止したために同じような曖昧さが生じている。「天主よ、御身は人間の実体の尊厳を素晴らしく創造し、また、これを更により素晴らしく改新され給うた。36」という水を祝福する祈りは、人間の原初の罪のない状態に言及し、キリストの御血によって贖われた現在の状態を描写している。この祈りはアダムから現在に至るまでの、いけにえのすべての計画を素晴らしくまとめたものである。
 カリスを捧げるときの最後の奉献の祈り37は、贖罪の祈りであり、この同じ計画を再確認していた。なぜなら、そこでは、この供え物が「芳しい香りと共に38」私たちが御慈悲をこいねがう、その天主のみいつの御前に立ち登らんことを祈っていたからだ。天主について絶えず言及しているこのような感謝の祈りを廃止してしまったために、もはや「天主的ないけにえ」と「純粋に人間だけによるいけにえ」との間にある明らかな差違が無くなってしまった。
 角の角石を取り除いてしまったために、典礼改革者たちは足場を備え付けなければならなかった。つまり、ミサの本当の目的を廃止してしまったために、改革者たちは自分自身で作った架空の目的を代用させなければならなかった。だからこそ、しぐさによって、司祭と信者との一致、また信者同士の一致が強調されるようになった。
 だからこそ、「犠牲として屠られるためのいけにえであるイエズス・キリストという捧げもの」に、「貧しい人々と教会のためにされる捧げもの39」ということが重ね置かれている。これによって、ミサが見るに耐えないものに崩壊してしまうだろう。
 犠牲として捧げられるいけにえ(すなわちイエズス・キリスト)が唯一であるという重大なことが完全に破壊されるだろう。そして、いけにえであるイエズス・キリストが屠られることに参与するということが、人類愛の集会あるいは社会福祉のパーティーに成り下がってしまうだろう。


4いけにえの本質 

 ではここでいけにえの本質について見てみよう。
 十字架の神秘について、新しい式次第での中では、もはや明らかに表現されていない。それは、ただひっそりと、ベールを被せられているようであり、もはや人々には気がつくことができない40。それは次の理由からである。

1)「感謝の祈り(奉献文)41」に与えられた意味
「新しい式次第」の中でいわゆる「奉献文」というものの意味をこう言っている。「この祈りの意義は、信者の集まり全体が神の偉大な業を宣言し、いけにえを奉献することによって、自らをキリストに結び合わせることにある(54番終わり)。42」
 しかし、ミサ総則の中では、何の犠牲について言及しているのか?だれが奉献するのか?という質問には一切答えていない。「奉献文」の定義は全体でこうである。
「ここで、祭儀全体の中心であり頂点である感謝の祈り(奉献文)、すなわち、感謝と聖化の祈りが始まる(54番初め)。43」
 こうして(感謝や聖化という)結果が、原因に取って代わってしまっている。そして原因についてはだだの一言も言及がない。
 何を奉献するかを明確に述べた祈りは"suscipe44"の祈りの中にあったのだが、それは廃止され、それに代わる奉献の内容を明確にする祈りは全くない。この祈りの内容の変化は教義における変化を示している。

2)キリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっている
 いけにえに関することをこのようにはっきり表現しないことの理由は、以前の聖体祭儀においてあれほど素晴らしく中心を占めていたキリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっているからである。キリストの聖体における現存について述べられるところがただ一つだけある。それはトレント公会議の引用文であり、脚注に小さく載っているだけだ。しかもそれの文脈は「養い45」という食事に関することである(241番注63)
 キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは決して暗示さえされていない。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されている。

 聖三位一体の第3のペルソナに対する祈り(Veni Sanctificator46)は、聖霊がかつて童貞女聖マリアのご胎内に降られたように捧げものの上に降り、そこで天主の現存の奇跡を起こさせることを祈るものであった。しかし、この祈りの省略は、暗黙のうちの否定というこのシステムの中に書かれており、主の御聖体における実際の現存と結びつく劣化である。

 主が御聖体において実際に現存しておられると言う信仰をそれによって自然に表明していた動作や習慣を、ことごとく廃止させたり変化させることに気づかないわけにはいかない。新しい式次第は、以下に挙げることを取り除いた。
* 片膝をつく礼拝(司祭はわずかに3回しか跪かない。会衆はいくつかの例外を除いて聖変化の時に1度跪くのみである。47)
*司祭の指をカリスの中で清めること
*聖変化後の司祭の指が聖体以外のものに触れないように指を守ること
* 聖器具(カリスやチボリウム)の清め(この清めは聖体拝領直後でなく後でしても良くなり、また、コルポラーレの外で行っても良くなった。)
*カリスを保護するパラを使うこと48
*聖器具の内側を塗金すること49
*可動祭壇を聖別すること50
* 「儀式が聖堂内で行われない時」には(この区別を付けることは直接に個人の家での「感謝の晩餐」に結びつく)、可動祭壇の中に、或いは「食卓51」の上に、聖別された祭壇石と聖遺物を置くこと52
*3枚の祭壇の布(これは1枚に減らされた。)53
* 跪いての感謝の祈り(このかわりに司祭も信者も座って感謝することになったが、これは見るに耐えない54。この座ったままでの感謝の祈りは「立ったままでの聖体拝領」の結末に来るものであり、常軌を逸したことであると言わざるを得ない。)
* 聖別された御聖体が床などに落ちてしまった時にしなければならない色々な規則(その代わりに、「恭しく拾う55」(239番)というたった一つの指針に取って代わられた。これは、ほとんど皮肉56である。)

 これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。

3)祭壇の果たす機能
 祭壇はほとんど常に「食卓57」と呼ばれている。「感謝の典礼全体の中心である祭壇、すなわち主の食卓58(49番、また262番を参照せよ)」
 祭壇は、司祭が祭壇の周りを歩き回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から切り離さなければならないとされた(262番)。祭壇はまた、会衆の注意が自発的にそこに向かうように会衆の中心に置かれなければならない(同所)しかし、262・276番を比較すると、聖体を中央祭壇の上に保存することを明らかに除外しているようだ59。このことは、司式者のうちにおける永遠の大司祭イエズス・キリストの現存と、秘蹟的に実現する同じ主の現存とを、取り返しがつかないほど切り離してしまうだろう。以前は司祭もいけにえも一つの同じ現存であった60。
 御聖体は会衆の個人的な信心のために別の場所に安置するように勧められている。(それはあたかもある種の聖遺物への信心であるかのように。)それは教会に入るやいなや、注意はもはや御聖体の現存する御聖櫃ではなく、全てを剥ぎ取られた裸のままのテーブルへと注目が行くようにするためである。ここでも再度、個人的な信心と典礼的信心とが対照的違いを見せている。[新しい]祭壇が[古い]祭壇を破壊するために建てられた。
 御聖体拝領時には、同じミサ中に聖別されたパンを配るようにと強く勧められている。また、司祭用のパンさえも少なくとも幾人かの信者には配布するようにと強く勧めれられている。61このことを見ると、われわれはミサ外の御聖体への信心と同じく、御聖櫃に対してもなされている軽蔑的な態度が常にあると言わざるを得ない。そしてこのことは聖別された形色が残っている限り続く、御聖体における主の現実的な現存という信仰への新たな別の激しい攻撃となっている。62

4)聖変化の言葉
 古い聖別の言葉はふさわしく秘蹟を執行するためのものであって叙述的なものではなかった。このことはとりわけ次の3つのことから明らかである。
(ア) 聖書の言葉が一字一句そのまま取られていたわけではなかったこと
 聖パウロによる「信仰の神秘」という言葉が挿入されていたが、それは司祭が、位階的司祭職を通して教会によって実現される神秘に対して司祭の信仰をすぐに宣言するものであった。
(イ)句読点や印刷の構成がそれを示していたこと
 HOC EST ENIM で始まる聖変化の言葉は、その始まる前には、ピリオドがあり、聖変化の言葉からは新しい段落が始まっていた。それは叙述の語り口から秘蹟的な断定的な語り口へと明らかな変化をもたらしていた。秘蹟の言葉は大きな活字で頁の中央に、そしてしばしば別の色で印刷されていた。それは明らかに歴史的文脈から区別されていた。これら全ては固有のそれ独自の価値をこの聖変化の言葉に与えていた。

(ウ)アナムネーシス(ギリシア語で「思い出すこと」の意)
「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう。63」の祈りはアナムネーシスといわれる。この「私を想起して64」はギリシア語では、"eis teu emon auamuesiu"であり、敢えて訳せば「私を想起することに向かって65」である。
 この「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう」という言葉は、キリストがなさっているということ、行為しているキリストに言及していた。そしてそれは単なるキリストの、或いは、この出来事の記念ではない。これはキリストがなさったこと(これを、…私を想起して行うだろう66)を、キリストがしたそのやり方で想起するようにと招く言葉であり、ただ単に主のその人柄や晩餐を想起するに止るものではない。
 聖パウロの言葉(「これを私の記念として行いなさい67」)というのは、古いミサの言葉にはなかったものである。しかし、これを毎日国語で聞く者に、キリストの記念があたかも感謝の祭儀ということの究極目的であるかのようにそれに全神経が行ってしまうだろう。しかし、キリストの記念というのは聖体祭儀の始まりに過ぎないのである。このようにして、記念という観念が、最後に、またしても秘蹟を執行しているということ68(つまり、御体と御血を秘跡的に分離させつつご聖体を聖変化させるということ)に取って代わることだろう。
 「制定の叙述69」という表現を使うことによって(55番の「ニ」)叙述様式が強調されている。そしてこれは、アナムネーシスの定義によって繰り返されている。この定義に於いては「教会は、キリスト自身の記念を行う70」とある。(55番の「ホ」)
 とどのつまり、エピクレーシス71のために出された理論、また、聖変化の言葉とアナムネーシスの言葉の変化は、聖変化の言葉の意味の仕方を変える効果を持っている。新しいやり方では、聖変化の言葉が歴史的叙述を構成する一要素として司祭によって語られ、もはや、司祭はキリストのペルソナに於いて行為し、そのキリストによって発せられた絶対的断定(「これは私の体である72」であって、「これはキリストの体である73」と言うのではない)を表明するものとしてなされるのではない。74
 さらに、「主の死を告げ、復活を讃えよう、主がこられるまで75」という会衆の直後の言葉は、またしても終末論的覆いの元に、主の御聖体における実際上の現存に関する同じ曖昧さをもたらしている。キリストが時の終わりに再臨されると言う期待が、如何なる説明も区別もなく、主が祭壇上に実体的に存在されるまさにその瞬間に高らかに宣言されるのである。これはあたかも主の再臨こそが本当に主が来られることであって、聖変化による現存は本当ではないかのようである。

 この考えは付録に付いている選択肢2の表現に於いてさらに強く打ち出されている。そこでは「このパンを食べ、カリスを飲むごとに、主よ、我らは御身の死を告げ知らせよう、主が来られるまで76」となっている。ここではいけにえを屠ることと食すること、主の現存と再臨と言った別の現実が一緒に置かれ、全くの曖昧さのうちにぼやかされている。77



5いけにえを実現させる4つの要素 

いけにえがどのように実現するのかについてみてみよう。いけにえを実現させるものの中には次の4つの要素がある。

それは

1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

であるが、それらについて見てみよう。

(1) 信者の占める位置
新しい司式に於いては信者の占める位置は自律的(切り離されている)78であり、全く偽りである。これは、最初の定義「ミサは、聖なる集会の儀、すなわち、民の集会である79」から司祭の会衆への挨拶に至るまで(総則28番)そうである。司祭の会衆への挨拶は一同に会した共同体に「主の現存」を示すためであり、この挨拶と会衆の返答とによって集った教会の神秘が表されるとされている。80
 そこで暗示されていることは、確かにキリストは本当に現存されるが、しかし、それはただ単に霊的な現存に過ぎないこと、そして、教会の神秘は、ある一つの集会がそのような霊的現存を表し願っているに限りにおける教会の神秘に過ぎないということ、である。
 この解釈は常に強調されている。
ミサの共同体的性格を取り憑かれているかのように言及することによって(74~152番)。
「会衆の参加するミサ81」(77番~126番)と「会衆の参加しないミサ82」という、依然にはなかった区別を付けることによって(209~231番)。
「共同祈願、すなわち信徒の祈り」という定義によって(45番)。共同祈願の定義には、またしても、平信徒の「祭司職」83が強調され、この平信徒の祭司職が司祭の祭司職と切り離され、自律的であるかのように提示され、司祭の祭司職に従属することが全く述べられていない。しかし、司祭は聖別を受けた仲介者としてTe igiturの祈りと、2つのMementoの祈りの中で会衆の全ての意向を取り次ぐものである。
 「第三奉献文84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。85」ここで、「そは、~が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。

2)司祭の占める位置
 司祭の立場は過小化され、変えられ、間違っている。
1. まず第一に、平信徒との関係に於いて、司祭は「キリストのペルソナにおいて87ミサを執行する聖別された司式者」ではなく、その代わりに、よくても平信徒たちの単なる座長、或いは兄弟として取り扱われている。
2. 第二に、教会との関係に於いては、司祭は「民のなかの或る一人88」である。エピクレーシスの定義に於いて(55番)天主への呼びかけは特定の個人がなすものではなく、教会がなすものとされている89。そのため司祭の役割は消されてしまっている。
3. 告白の祈り。告白の祈りは今ではもはや集団的になってしまった。司祭はもはや天主とともなる裁判官・証人・取り次ぎ者ではなくなった。そのため、司祭がかつてしていた許しを与えることが廃止されたのは論理的だといわねばならない。司祭は兄弟達の一部となった。「会衆の参加していないミサ」に於いて侍者でさえも告白の祈りの時に司祭を兄弟と呼ぶようになった。
4. 既に、この典礼改革の前から、司祭の聖体拝領と平信徒の聖体拝領という意味深い区別が廃止されていた。司祭の聖体拝領に於いて、永遠の大司祭(=イエズス・キリスト)とキリストのペルソナにおいて90行為している者(=司祭)が最も親密な一致に到達するのである。
5. 今では、司祭のいけにえを捧げる権能について、或いは司祭に固有な聖別するという行為について、つまり、司祭を通して御聖体における主の現実的な現存が生じることについて一言でさえも見いだすことが出来ない。今ではもはやカトリック司祭は、プロテスタントの牧師以外の何ものでもないようだ。
6. ある場合には、白衣とストラさえあればミサを捧げても良くなった(298番)など、祭服は目の前から消え失せ、任意的になった。祭服は、司祭が元来もっているキリストとの同一性を意味し、祭服が消えることによっては、この司祭とキリストとの同一性をゆがめてしまっている。つまり、司祭はキリストの全ての美徳を身につけているものではなく、平信徒と区別できるような点は1つか2つそこそこしか持たない単なる「非常任の役員」に成り下がっている91。ある現代の説教者92が与えたユーモラスな(しかし彼自身にとってはまじめな)定義によれば司祭は「その他の人よりもほんの少しだけましな人93」でしかない。

3)教会の占める位置
 最後にキリストに関する教会の立場を見よう。「会衆の参加しないミサ」というただ唯一の例外を除けば、ミサが「キリストと教会の行為94」(総則4番・司祭職に関する教令14番参照)とは見なされていない。
「会衆の参加するミサ」においては、「キリストを思い起こし」、列席の会衆を聖化するためという目的を除いて、教会については、全く言及がなされていない。「司祭も、集会を司会し、その祈りを指導し、…キリストによって聖霊において神である父にいけにえを奉献するに当たって、会衆とともに一つになり95…。(60番)。」
 ここでは、「聖霊を通して、父なる天主に96ご自分自身を捧げ給うキリストに、会衆を結びつける」と言うべきではなかったのではないか。

 この文脈に於いて、次の諸点に注意すべきである。
 まず第一に、「我らの主キリストによりて」という、いつの時代にあっても祈りが聞き入れられるための教会に与えられた保証の言葉が省略されているという重大な事態。(ヨハネ14:13-14、15:16、16:23-24)
 第二に、どこにでも顕著な「復活主義97」。それはあたかも「聖寵の交わり」ということに、これほど重要な観点がもはや別に存在しないかのようである。
 第三に、恒常的で永遠の現実である超自然の聖寵の分与ということが、時間の次元へと引きずり降ろされてしまっているほどの奇妙で疑わしい「終末主義」。われわれはもはや「暗闇の権力」に対する戦闘の教会ではなく、「永遠との結びつきを失ってしまったただ純粋に現世的なことでしか考えられていない未来」へと向かって旅する教会、歩む人々のことを聞くようになった。
 教会は、一・聖・公・使徒継承とはもはや言われなくなった。第4奉献文98では、ローマ・カノンの祈りの「全ての正統カトリック使徒継承の信仰を保持する人々のために99」の代わりに、今ではただ単に「真摯なこころで御身を求めるすべての人の100」になってしまった。
 更にまた、死者の記念では「信仰の印を持って平安の眠りに眠る101」が無くなってしまった。そこではただ単に「御身のキリストの平安に於いて逝った102」だけであり、しかも以前の目に見える一致という観念を明確によりひどく破壊するさらなる言葉が付け加えられた。「御身のみがその信仰を知り給う103」全ての死者のいけにえ、と。
 さらに、既に述べたように、新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう104。
 どこにもかしこにもある省略は、教会の神秘の土台を壊し非神聖化させるものである。特に教会は聖なる位階制度として表されてはいない。天使達や諸聖人は共同の告白の祈りの第2部で名前を列挙されずに全てひっくるめられている。第1部において、聖ミカエルの名を省略することにより、聖ミカエルのペルソナに於いて、証人かつ裁判者としての諸天使・諸聖人は全て消え失せてしまった105。様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)コムニカンテスにおいて、ローマの教会がその上に建てられた、また彼らによって疑いもなく使徒の聖伝が伝えられた、聖なる教皇と殉教者達の記念をしていた。聖グレゴリオは、彼らの名を列挙してこれを完成させ、それを持ってローマ・ミサとなったのであるが、新しいものはそのコムニカンテス106からこれらの聖なる教皇や殉教者達の記念が廃止されてしまった。リベラ・ノス107の祈りにおいては聖母マリア、使徒と全ての聖人がもはや言及されなくなってしまった。こうして、聖母や諸聖人の取り次ぎはもはや危険の時に於いてでさえ求めなくなってしまった。

 式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。

 司祭が侍者なしに司式しているときに全ての挨拶、最後の祝福が省略されることにより、また「イテ・ミサ・エスト」は侍者がいるときでも、会衆が参加していなければ、もはや言わなくなってしまった。108諸聖人の通功というドグマが明らかに攻撃を受けている。

 ミサの最初の告白の祈りが2つあったことは、司祭がキリストの役者の能力を身にまといながらも深々と上体を下げ、自分がこの崇高な使命にふさわしくないこと・彼が今なそうとしている恐るべき神秘109にふさわしくないことをどれほど良く認めているかを示していた。更には「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ、清き心を持って至聖なるところに入らせ給え」の祈り110で至聖所に侵入することさえもふさわしくないことをいかに良く認めていた。そのために祭壇に封印された聖遺物の殉教者達の功徳の取り次ぎを「主よ、ここに聖遺物を置く主の聖人らの功徳、また全ての聖人らの功徳によって、私の罪を赦し給えと我らは祈る。」の祈りをもって願っていた111を示していた。しかし、「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ・・・112 」の祈りも、「主よ、ここに聖遺物を置く・・・113」の祈りも両方とも省略されてしまった。告白の祈りが2つあったということ、また司祭と平信徒との2回の聖体拝領があることに関して既に述べたことはここでもまた意味深長である。
 いけにえを捧げているという外的要素、つまり、ミサの聖なる性格を明らかにさせるものは非神聖化された。例えば、至聖所以外での司式のために叙述されていることを見ると、祭壇の代わりに、聖別された祭壇石や聖遺物のない単なる「食卓114」を用いて良いことになっている。しかも、祭壇布は1枚だけで良くなっている。(260、265番)ここでもまた、既に述べた主の現存にかかわることを全て適応することが出来る。「食卓に連なること115」と食事のいけにえを主の現存から切り離してしまっている。

 非神聖化への過程は新しい供え物の行列によって完成された。すなわち種なしパンであるよりもむしろ普通のパンについて語られている。侍者の子供でさえ(しかも、両形態での聖体拝領の時には平信徒まで)もが、聖器具に触れることが許されていること(244番の「ニ」116)。司祭、助祭、教会奉仕者117、宣教奉仕者118、詩編を唱える係119、解説者120 (司祭は自分のしようとしていることを絶えず「説明」するように要請されているので司祭自身さえも注解者となってしまっている。)、男女の朗読者、会衆を門で出迎えて席まで付き添う奉仕者121、献金を集める人122、またその他、供え物を運ぶ人123、供え物を受け取る人、などなど、多くの侍者や平信徒が絶え間なく教会内をあちこちに行き来し非常に気を散らせる雰囲気。これら全ての規定された活動のほかに非聖書的であり非パウロ的な規定がある。それは、「ふさわしい女性124」が教会の聖伝に於いて初めて朗読し、さらに司祭がすること以外のことを執行する125のが許される(70番)。最後に、偏狂的な共同司式の強調。これによってついには司祭の御聖体への信心を破壊し、唯一の司祭かつ犠牲であるキリストの中心的姿をぼかし、このキリストという中心を共同司式者の集団的存在が影を覆って解き崩してしまうだろう126。


6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

 以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。
 新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。
 私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。
 第二奉献文127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。
 新しいミサはローマに「司牧上の仕事の豊かな源」として、「法律的と言うよりもむしろ司牧的な文章」として導入された。そして、各国の司教協議会はそれぞれの状況に合わせて様々な民の「精神」にそれを適応させることが出来るとされた。
「典礼のための新しい聖省」の第一部門はさらに「典礼書の出版と絶え間ない見直し」のための責任者とされた。
 この考えは、ドイツ、スイス、オーストリアの典礼研究所の公式出版物の中に最近、反映されてこう書かれた128。
 「今ではラテン語が様々な国の言葉に訳されなければならない。「ローマ式」は地方教会のそれぞれの個性に適応されなければならない。かつて時を越えて考えられたものは、絶えず変わる文脈と具体的な状況に合わせ、普遍教会の絶え間ない流動とその無数の会衆に会わせなければならない。」

 新しい司式を発布する際の使徒座憲章それ自体でさえ、第二バチカン公会議の明らかな望みに反して「言語の多様相違のうちにも、全ての人によって同じ一つの祈りが[?]、大祭司イエズス・キリストを通して、聖霊のうちに、どの香にもまして芳しい香りとして、父に捧げられることになるからです」という全く曖昧な表現により教会の普遍的な言語であるラテン語に対し最後の一撃を与えている。
 これゆえに、ラテン語を失うことは当然だと考えられる。また第二バチカン公会議はグレゴリオ聖歌がローマ典礼のローマ典礼であることを示すものであると認め、「典礼儀式に置いて名誉ある地位が与えられなければならないと」命じたが、新しいミサでは特に入祭文や昇階誦を自由に選んで良くなったために論理的にグレゴリオ聖歌さえも失われてしまうだろう。
 従って、その仕組みから、新しい司式は多様で実験的なものであり時と場所によって変わるものだった。礼拝の単一性がこうして一度、そして永久に壊れてしまうなら、いったい信仰の単一性を保つための基礎として何が存在することだろうか。かつては信仰と単一性に礼拝の単一性が結びつき、それが妥協することなく信仰を常に守っていたと私たちは教えられてきた。

 新しいミサが、トレント公会議で教えられた信仰を私たちに提示する意向を全くもたないことは明らかである。ところでカトリック信者の良心が永遠に結ばれているのはまさにこの信仰である。従って、新しいミサが発布されると真のカトリック信者は劇的な選択の必要に直面する。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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