Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか

2018年01月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。


  五、反対論に答える
 (A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか


 話は重複するが、本書はどんな人たちにあてて書かれているのかを、いまいちど思いおこしていただきたい。

 使徒的事業に、一生懸命になっている人びとが、ここにいる。天主の光栄のために、身を粉にして働きたいと、はげしく望み、また事実そうやっている。だが、同時にかれらは、一つの危険にさらされてもいる。――おのれの奮発心が、人びとの霊魂に、ゆたかな実を結ぶために、どうしてもなくてならぬ手段を講ずることを、なおざりにした結果、かえって事業そのものが、かれらにとって、内的生活を解かし、かつ滅ぼしてしまう精神的硫酸となっている。こういう人たちを対象に、本書は記述をすすめていく。

 であるから、内心の孤独と平和を口実に、少しも活動しない伝道者に、活動の刺激剤をあたえるとか、または利己心に迷わされて、無念無想の境地、無為閑散の生活こそは、信心の念をはぐくむのに、いちばんためになる生活だ、と誤信している人たちに“活”をいれるとか、さらに自分の内心の静けさ、自分の静寂主義を、全然妨害しないという保証さえしてくれれば――そのうえ、いくらかのもうけがある、名誉にもなる、という見込みがあれば、なにかの使徒的事業にたずさわっても悪くはなかろうぐらいに考えて、冬眠をむさぼっている怠け者どもの頭に、ぐわんと一撃をくわせるとか、すべてこういうことは、本書の目的ではない。それは、別に一巻を要する仕事である。

 されば、上に列挙した怠け者の部類にぞくする人びとは、これをその道の専門家のお世話にゆだねることにするが、かれらはこのへんで、ちょっと反省していただきたい。というのは、すべてこの世に生をいとなむかぎり、天主はかれらの存在が“活動的”であることをお望みになる、ということ、これを妨害しようとして、悪魔が、人間性の悪い傾向と共謀して、活動の欠如と奮発心の不足により、かれらの存在を空虚なもの、無意味なものにしようと必死になっている、という事実をさとっていただきたい。これがわかっていただければ、たくさん。で、筆者は専ら、いとも親愛なる、いとも敬愛すべき同志をあいてに、論議をすすめていきたい。

 およそ、天主のふところでいとなまれている活動ほど、無限の強さと無限の強さと無限の広がりをもつものはない。いかなる活動も、これにくらべるべきものはない。御父の内的生命のいとなみの強さは、他に一つの天主的ペルソナ――御子――を生みだすほど偉大である。御父と御子との内的生活のいとなみから、さらにいま一つの天主的ペルソナ――聖霊――が発出する。

 天主のこの内的生活の炎こそは、イエルザレムの高間につどうていた使徒たちの胸にそそぎ入り、かれらの伝道熱を、いやがうえにもあおり立てた。この内的生活の炎こそはまた、すべて内生を無キズに保全しようと努力している、まじめなキリスト信者にとっては、使徒的奮発心と犠牲的活動のもととなる。

 しかしながら、たとえそれが見えるしるしによって、外部に現われないにせよ、内的生活――つまり祈りの生活――こそは、それ自体、しかも強烈さにおいて他にくらべものがないほどの、活動の源泉である。祈りの生活はけっして、人の世を逃避して、無為閑散に人生を浪費する桃源郷ではない。そう思っている人があったら、これぐらいまちがった考えはない。

 祈りの生活は、天国への最短の道である。天と地をむすぶ、最短の距離であるから、それは天国への直線コースである。直線コースだから、狭い道である。キリストがおっしゃった Regnum cœlorum vim patitur, et violenti rapiunt illud「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11:12)とのお言葉は、とりわけ、祈りの生活をいとなむ人びとに、ピッタリあてはまる。


 ドン・セバスチャン・ウィヤール師(Dom Sébastien Wyart)は、厳律シトー修道会――トラピスト会――の初代総長として、名高い人物だが、かれはもともと軍人だった経験から、軍隊生活の労苦も知っていた。また修道者だったから、知的労働の疲れも、内的生活の心労も、はては上長の職責につきものの心配も、すべて知りつくしていた。かれが口ぐせのように言っていたことに、およそ世の中の仕事は、三つの種類に大別される。

(一) ほとんど、身体だけを使役する、いわゆる筋肉労働。――職人や、労働者や、軍人が従事している、骨の折れる仕事。だが、かれが断言しているように、筋肉労働は、いちばん骨の折れない、楽な仕事なのだ。そんなことはない、とあなたがどんなに抗議したところで、やはりそうなのだ。
(二) 次に、頭を使ってする知的労働。――学者や、思想家たちが、真理の探求に、精神をはげしく使役する仕事。著述家や、学校の先生が、他人の頭脳に、真理のおしえをそそぎこむために、大わらわになる仕事。また、外交官や、政治家や、商人や、技師らの仕事。戦争のとき、勝利の見とおしをつけ、全軍を統率し、用兵の裁断を果敢にやってのけるために、頭をタテヨコに働かせる軍司令官の仕事。こういう種類の仕事は、それ自体、筋骨労働よりも、はるかに骨の折れるもの、はるかに苦しいものである。「刀の刃(は)は、サヤをすりへらす」ということわざがあるが、このことをいったものである。
(三) 最後に、内的生活の心労。――この仕事は、もし人がまじめにそれをやるなら、三つの仕事の中で、いちばんつらい、いちばん骨身にこたえるものである。大聖グレゴリオ教皇も、そういっている。「悪徳と欲情に抵抗するのは、筋肉労働で汗にまみれるより、もっとつらい仕事である」
 これは、同時に、この世で、いちばんなぐさめになる仕事である。
 それはまた、いちばん大切な仕事でもある。

 内的生活は、人間の仕事というよりむしろ、人間そのものである。それは、人間そのものを、つくりだす仕事である。人間は、筋肉労働や知的労働に身をゆだね、勇敢に困難を克服して、幸福と成功を招致する。そんなわけで、どれほどたくさんの人が、こういった仕事に勇敢であることを、誇りにすることだろう。だが、この同じ人たちが、いざ善徳を獲得するための仕事である、内的生活をいとなむ段になると、そこにはただ、無精と怠慢と卑怯があるだけである。

 それもそのはず、内的生活をいとなもうと、かたく心に決意した人びとは、その理想どおり、たえまなく自分を抑制し、自分をとりまく一切の事がらを完全にコントロールして、万事において、ただ天主の光栄のためにだけ行動するように、精をださねばならぬからである。しかも、この理想を達成するためには、かれはいかなる場合にも、イエズス・キリストに一致してとどまることができるように、そのためには、達成すべき唯一の目標に、心の目を絶えずそそいでいるように、また一切の事物を、福音のおしえにしたがって評価するように、努力しなければならないからである。

 「Quo vadam et ad quid ? 」 「わたしは、どこへ行く? そして何をしに?」 聖イグナチオは、しばしば、こう自問していた。それゆえ、かれのうちにある一切のものが――知恵も、意志も、記憶も、感情も、想像も、官能も――すべてが、同一の超自然的原理から出発していた。しかし、この幸いな結果に到達するためには、どんなにつらい労苦を耐えしのばねばならぬことだろうか。

 そのためには、公然と許されている楽しみまでも、全くおのれに禁ずるか、または適当なところでやめなければならぬ。おのれを反省し、なすべきことは着実に実行しなければならぬ。あるときは働き、あるときは休む。あるいは善を愛し、悪を憎む。希望に胸のおどるときもあろうし、恐怖にわななく時もあろう。嬉しいときもあろうし、悲しいときもあろう。得意のときもあろうし、失意のときもあろう。

 だが、これらすべての場合に、しかも絶え間なく“天主をおよろこばせしよう”というタッタひとつの方角にむかって、自分の進路を固定していなければならぬ。あらゆる反対に出あってもそうするように、精をださなければならぬ。祈りのあいだ、とりわけ、ご聖体のみまえでする祈りのあいだ、浮き世のさわぎのとどかぬ孤独の境地にしりぞいて、「見えない天主を、あたかも肉眼で見るごとく」(ヘブライ11・27)、そのようにして、天主とお話することができるようでなければならぬ。いそがしい使徒的事業に、身も心もうちこんでいる最中でも、この理想を達成するために努力せねばならぬ。モイゼがそうだった。そして聖パウロは、モイゼのこの態度に、たいそう感激している。

 人生の様々な困難も、また欲情がひきおこす烈しい内心のあらしも、ひとたび内的生活の軌道にのった人びとを、脱線させることはできない。天主への巡礼の道はけわしく、不幸にも、しばしば力のよわるときもあろう。が、すぐに起きあがる。そして、以前に倍する勇気をふるいおこして、前進をつづける。

 それには、どれほどの心労が、ともなうことだろう。したがって、この霊生の仕事が要求する努力のまえに、すこしもたじろがない人びとの労苦にたいして、天主はすでにこの世から、どれほどのよろこびをもって、おむくいになることだろう。これはだれもが知っている事実である。

  (この章 続く)

2月2日の聖母マリアの御潔めの祝日:Adorna thalamum tuum, Sion:Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών

2018年01月24日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月2日は聖母マリアの御潔めの祝日です。大阪で聖伝のミサがあります。

 イエズス・キリストのご降誕から40日目にあたり、ルカの福音書の次の個所のことを記念します。

「そして、モイゼの律法にしたがい、かれらが清められる日になったとき、子を主にささげるためにイエルザレムにつれて行った。それは、「はじめて生まれる男の子は、みな、主に聖別されたものといわれねばならない」と主の律法にしるされているし、また主の律法にあるとおり、「山鳩一つがいか、あるいは鳩のひな二羽」をいけにえとしてささげるためであった。ところで、イエルザレムには、義人で、敬虔で、イスラエルのなぐさめを待ちのぞんでいるシメオンという人がた。聖霊はその人の上にあった。かれは、聖霊によって、主のキリストを見るまでは死なないと啓示されていたが、この時、霊にみちびかれて神殿にきていた。両親がその子イエズスをつれて、この子のために律法の慣習をおこなおうとしてきたとき、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。」
おさな子についてこういわれたので、両親はおどろいたが、シメオンはかれらを祝福してから、母のマリアに、「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」といった。
また、アゼル族ファヌエルの娘で、大へん年老いたアンナという預言者がいた。乙女の時をへて、七年間夫とともに生活し、やもめになって八十四歳になるまで神殿をはなれず、断食と祈りとをおこなって、夜ひるとなく天主に奉仕していた。この人もこの時に来て、天主に感謝し、イエルザレムの救いを待ちのぞんでいる人々に、その子のことを話していた。」


 福者ヘンリコ・スソに倣ってこの祝日を準備しましょう
 福者ヘンリコは、この祝日の前の三日間は、霊的に三本のロウソクを準備しました。
(1)聖母の童貞としての汚れない清さ、
(2)聖母のはてしなき深い謙遜、
(3)聖母の母としての尊厳

 毎日三回「マグニフィカト(Magnificat)」を唱え、これをロウソクとしました。

 その祝日の夜明けに、信者等が聖堂に集まる前に、中央祭壇の前に跪いて聖母の御生涯を黙想し、聖母が幼きイエズスを抱き聖殿に奉献するのを観想しました。

 大阪の「聖母の汚れなき御心聖堂」では、典礼が午後6時から始まります。



 まずローソクの祝別と配布があります。司祭は次の5つの祈りをもってローソクを祝別します。

Oremus. Domine sancte, Pater omnipotens, æterne Deus, qui omnia ex nihilo creasti, et jussu tuo per opera apum hunc liquorem ad perfectionem cerei venire fecisti : et qui hodierna diepetitionem justi Simeonis implesti : te humiliter deprecamur, ut has candelas ad usus hominum, et sanitatem corporum et animarum, sive in terra, sive in aquis, per invocationem tui sanctissimi nominis, et per intercessionem beatæ Mariæ semper Virginis, cujus hodie festa devote celebrantur, et per preces omnium Sanctorum tuorum bene+dicere, et sancti+ficare digneris : et hujus plebis tuæ, quæ illas honorifice in manibus desiderat portare, teque cantando laudare, exaudias voces de cælo sancto tuo, et de sede majestatis tuæ : et propitius sis omnibus clamantibus ad te, quos redemisti pretioso sanguine Filii tui : qui tecum vivit.

Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui hodierna die Unigenitum tuum ulnis sancti Simeonis in templo sancto tuo suscipiendum præsentasti : tuam supplices deprecamur clementiam; ut has candelas, quas nos famuli tui in tui nominis magnificentiam suscipientes, gestare cupimus luce accensas, bene+dicere, et sancti+ficare, atque lumine supernæ benedictionis accendere digneris : quatenus eas tibi Domino Deo nostro offerendo digni, et sancto igne dulcissimæ caritatis tuæ succensi, in templo sancto gloriæ tuæ representari mereamur. Per eundem Dominum.

Oremus. Domine Jesu Christe, lux vera, quæ illuminas omnem hominem venientem in hunc mundum: effunde bene+dictionem tuam super hos cereos, et sanctiüfica eos lumine gratiæ tuæ, et concede propitius; ut, sicut hæc luminaria igne visibili accensa nocturnas depellunt tenebras; ita corda nostra invisibili igne, id est, Sancti Spiritus splendore illustrata, omnium vitiorum cæcitate careant : ut, purgato mentis oculo, ea cernere possimus, quæ tibi sunt placita, et nostræ saluti utilia; quatenus post hujus sæculi caliginosa discrimina, ad lucem indeficientem pervenire mereamur. Per te, Christe Jesu, Salvator mundi, qui in Trinitate perfecta vivis et regnas Deus, per omnia sæcula sæculorum.

Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui per Moysen famulum tuum, purissimum olei liquorem ad luminaria ante conspectum tuum jugiter concinnanda præparari jussisti : bene+dictionis tuæ gratiam super hos cereos benignus infunde;quatenus sic administrent lumen exterius, ut, te donante, lumen Spiritus tui nostris non desit mentibus interius. Per Dominum ... in unitate ejusdem Spiritus Sancti ...

Oremus. Domine Jesu Christe, qui hodierna die in nostræ carnis substantia inter homines apparens, a parentibus in templo espræsentatus : quem Simeon venerabilis senex, lumine Spiritus tui irradiatus, agnovit, suscepit, et benedixit: præsta propitius; ut ejusdem Spiritus Sancti gratia illuminati atque edocti, te veraciter agnoscamus, et fideliter diligamus : Qui cum Deo Patre in unitate ejusdem Spiritus Sancti ...

私たちの主イエズス・キリストを象るローソクを司祭の手から受け取りながら、聖シメオンの歌をグレゴリオ聖歌で歌います。

Ant.:Lumen ad revelationem gentium : et gloriam plebis tuæ Israel.
異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれ。

Nunc dimittis servum tuum, Domine : secundum verbum tuum in pace.
今こそ、あなたのしもべを死なせてください、主よ、みことばどおり、安らかに。
Ant.Lumen.

Quia viderunt oculi mei : salutare tuum.
私の両目は、主の救いを見ましたから。
Ant.Lumen.

Quod parasti : ante faciem omnium populorum.
あなたが万民の眼前にそなえられた救いを。
Ant.Lumen.

(以上をローソクの配布が続いている間は何度も歌い続けます。そろそろ終わりそうになると次を歌って締めくくります。)

Gloria Patri, et Filio : et Spiritui Sancto.
願わくは聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを
Ant.Lumen.

Sicut erat in principio, et nunc, et semper: et in sæcula sæculorum. Amen.
始めにありし如く、今も、いつも代々に至るまで。アメン。
Ant.Lumen.





あるいは



 最後に次のアンティフォナを歌います。

Exsúrge, Dómine, ádiuva nos : et líbera nos propter nomen tuum. etc.

 次の祈りを持ってローソクの祝別と配布を終わります。

Exáudi, quǽsumus, Dómine, plebem tuam : et, quæ extrinsécus ánnua tríbuis devotióne venerári, intérius asséqui grátiæ tuæ luce concéde. Per Christum, Dóminum nostrum.
R/. Amen

 次に司祭は次のように言って行列を始めます。
Procedámus in pace.
平和のうちに出発しよう。

In nómine Christi. Amen.
キリストの聖名において。アメン。

 行列が始まるとロウソクに火を灯します。

 聖母が自分の心にともされた天主の光と愛のこの炎が決して消されることがないように願いつつ、この神秘的行列にお伴する諸聖人に向って、自分と一緒に「アドルナ・タラムム(Adorna thalamum tuum)」を歌いましょう。

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christum:
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:
天の門なるマリアを抱擁せよ。
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。



あるいは

あるいは



この祝日は元々はエルサレムで、キリスト教の迫害が終わった4世紀(386年)から行われ、ローソクの行列は五世紀(450年)から加えられて執行していました。
六世紀にはコンスタンチノープルでも「出会い」(ヒュパパンテー「聖シメオンと私たちの主イエズス・キリストとの出会い」)という名前で祝われました。
七世紀にはローマでも祝われるようになりました。次のように記録があります。
Ypapanti Domini, id est obviatio seu appresentatio Domini nostri Iesu Christi secundum carnem.

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christumの歌は、
ギリシア語の典礼で歌われていたものです。

Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών, καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν, ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην· αὕτη γὰρ θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη, αὕτη βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου, ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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