Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

シュナイダー司教「教会がネオカテクメナート(新求道共同体)をロビー活動の圧力無しに深く客観的に調査する時が来る。その時彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされる。」

2018年01月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。


 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

前回の記事:シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」の続きです。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

シュナイダー司教「これは別の悲劇です。彼らはバチカンにおいて少なくとも30年前に強力なロビーを確立しました。また別の騙しがあります。多くのイベントで、彼らは極めて多くの回心の実りと多くの召命を司教たちに提示します。多くの司教たちは実りによって盲目となり、彼らの誤謬を見なくなってしまい、彼らを吟味しません。彼らは大きな家族らを持っており、多くの子供たちがおり、家庭生活において高い道徳の規準を持っています。これはもちろん良い結果です。しかし、家庭を圧迫して最大限の数の子供たちを得るようにするというオーバーな行動もあります。これは健康的ではありません。彼らは、私たちはフマネ・ヴィテ[28]を受け入れている、と言い、これはもちろん良いことです。しかし、究極的にはこれは幻想です。何故なら現代では世界で多くのプロテスタントのグループも高い道徳の規準をもち、多くの子供たちを産み、ジェンダー・イデオロギーや同性愛に反対して抗議し、フマネ・ヴィテを受け入れているからです。

しかし、私にとって、これは真理の決定的な判断基準ではありません!多くのプロテスタントの共同体も罪人らを、つまりアルコールや麻薬の中毒になっている人々を回心させています。ですから、回心の実りは私にとって決定的な判断基準ではありません。また私は、罪人らを回心させて多くの子供たちを持っているようなプロテスタントのグループを自分の司教区に招いて使徒職をするように頼みません。これは多くの司教たちの抱いている幻想です。彼らはいわゆる「実り」に盲目になっています。

ダニエル・フュレップ「教えのうちで隅の親石は何ですか?」

シュナイダー司教御聖体の教えです。これこそが心臓部です。まず実りを見て教義と典礼を無視するあるいは気にかけないというのは間違っています。教会がこの共同体を、ネオカテクメナート(新求道共同体)のロビー活動の圧力無しに、深く客観的に調査する時が来ると確信しています。その時、彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされるでしょう。

[28] フマネ・ヴィテ(Humanae vitae)は、パウロ六世によって書かれ1968年7月25日に発布された回勅である。副題は「産児調節について」であり、ほとんどの産児制限の形式を拒否している。

聖ピオ十世会司祭 レネー神父様:お説教・霊的講話 【総集篇】

2018年01月20日 | お説教・霊的講話
私たちの敬愛するレネー神父様は、2017年11月22日にフェレー司教様から、2018年の2月付きでオーストラリアのタイノン(Tynong)というところにある聖トマス・アクイナス学校の校長先生として新しく任命を受けました。

私たちは2013年3月から、レネー神父様の素晴らしいお説教を聞く機会に恵まれ、神父様の豊かな知識と経験とから多くの指導やアドバイスをいただくことが出来たことを深く感謝します。

神父様の我が身を忘れるほどの献身的で奉仕的な聖務と祈りは、私たちの模範でした。神父様の勤勉さと責任感と謙遜と愛徳は、私たちにとっての宝でした。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今からちょうど30年前に故郷を離れて聖ピオ十世会の神学校に入学しました。知性においても愛徳においてもその他の徳においても、優れた神学生や司祭たちの中で、共同生活を送るというお恵みを頂いてきました。そのお恵みの偉大さは、天主様にどう感謝したら良いか分からないほどです。

小教区の教会で一人で任命を受けて働いておられる司祭がおられます。そのお仕事はどれほど大変でありましょうか! 同じ兄弟である司祭とともに喜びと責任とを分かち合って司祭生活ができると言うことは、どれほど偉大な善でしょうか!Ecce quam bonum et quam jucundum habitare fratres in unum!

その中でも、日本と韓国のミッションを一緒に分かち合って協力して働いてくださったレネー神父様には、心からの感謝で一杯です。
レネー神父様の新しいミッションのために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱烈な祈りをお願いいたします。

2013年3月~2017年12月までの、レネー神父様の素晴らしい「お説教と霊的講話」をリンク集にしてまとめました。
どうぞお読みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2013 年
「共贖者である聖母について」 2013年3月23日大阪

「二つの復活」 2013年3月31日復活祭 大阪

「生命の目的についての真理」 2013年8月11日大阪

「無原罪の御宿りについて~いけにえの条件」 2013年12月15日大阪


2014 年
「聖母の七つの悲しみ:共贖」 2014年4月11日大阪

「キリストの偉大さについて」 2014年4月12日大阪 13日枝の主日東京

「復活祭 説教」 2014年4月20日大阪

「天主が罪びとを本当に癒やす恩寵」 2014年7月13日大阪

「被昇天の説教」 2014年8月15日大阪 17日東京

「聖ピオ十世の生涯」 2014年8月31日大阪

「聖母マリアへの信心」 2014年9月12日大阪

「十字架の神秘」 2014年9月14日大阪

「天主のお与えになる報酬」 2014年11月1日大阪

「死に関する真理」 2014年11月9日大阪

「洗者聖ヨハネの使命」 2014年12月7日大阪

「無原罪の御宿りについて~天主の傑作」 2014年12月5日大阪

「クリスマス 説教~天主は御独り子与え給うたほどこの世を愛された」 2014年12月25日大阪


2015 年
「聖家族の祝日の説教~家族の善について」 2015年1月11日大阪

「聖パウロの道徳~キリストに倣う」 2015年3月16日大阪

「五旬節の主日の説教~霊戦における3つの武器」 2015年2月15日五旬節の主日 大阪

「共同受難の聖母」 2015年3月27日 大阪

「枝の主日の説教~キリストの統治」 2015年3月29日枝の主日 東京

「復活祭の説教~現代の教会の受難 イエズス・キリストの権威」 2015年4月5日復活祭 大阪

「復活祭の霊的講話~良い麦と毒麦の神秘」 2015年4月5日復活祭 大阪

「主の御昇天後の主日~御昇天の有益性」 2015年5月17日 大阪

「主の御昇天後の主日~聖霊を待ち望む」 2015年5月17日 大阪

「イエズスのご聖体、聖心がいかに天主的であるか」 2015年6月14日 大阪

「恩寵が律法を守るということ」 2015年7月12日 大阪

「マリアの聖なる御名~謙遜の徳」 2015年9月13日 大阪

「創造の歌と贖いの歌」 2015年9月13日 大阪

「王たるキリスト~天国への道における二重の助け」 2015年10月25日 大阪

「カトリックの黙想と仏教の黙想の大きな違い~前編」 2015年10月25日 大阪

「煉獄の霊魂について」 2015年11月15日 大阪

「アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説」 2015年11月15日 大阪

「待降節第三主日~洗者聖ヨハネ」 2015年12月13日 大阪

「無原罪の御宿り~原罪について」 2015年12月13日 大阪



2016 年
「十戒について~私達の究極の幸せとは何であるか」 2016年1月10日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第一部)命の掟、十戒」 2016年1月11日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第二部)「礼拝」について」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第一戒』(の最後)と 『第二戒』」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第三戒』 ー私たちは日曜日に何をする義務がありますか?」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第四戒』 ー隣人に対する掟の中で、第一の掟ー」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第五戒』ー汝殺すなかれー人間の命は天主のみわざである」 2016年5月20日大阪

「天主の十戒『第六戒』ー汝姦淫するなかれー命の伝達を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第七戒』ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第八戒』ー汝偽証するなかれー心から真実を語り、舌でそしらぬ人となれ」 2016年6月12日大阪

「天主の十戒『第九戒』ー汝、人の妻を恋うるなかれー私たちが罪と闘わなければならないのは、そのまさに根っこ、心の中においてである。」 2016年7月17日大阪

「天主の十戒『第十戒』ー汝、人の持ち物をみだりに望むなかれーこの世に愛着するな、至高の善、いと高き天主、永遠の救いを無視するな。」 2016年7月17日大阪

「聖霊は「主であり命の与え主」であるー聖霊降臨の大祝日お説教」 2016年5月15日大阪


「三つの福音的勧告」 2016年8月14日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(前半)」 2016年5月22日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(後半)」 2016年5月22日大阪

「ロザリオについて―聖なるロザリオの神秘と黙想」 2016年10月9日大阪

「罪の結果、恩寵の必要性」 2016年10月9日大阪

「恩寵はどのように働くのか」 2016年10月9日大阪

「聖母の連祷についての解説」 2016年8月15日ソウル

「秘蹟について 『洗礼の秘蹟』」 2016年11月13日大阪

「秘蹟について 『幼児洗礼』そして『堅振』について」 2016年11月13日大阪

「ルターの誤謬と異端思想について」 2016年11月13日大阪

「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」 2016年12月11日大阪

「無原罪の御宿りについて」 2016年12月11日大阪


2017 年
「秘蹟について 『ご聖体』 その2)犠牲」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『ご聖体』 その3)聖体拝領」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『悔悛』 」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『悔悛』(続き)」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『終油』 」 2017年3月12日大阪

「秘蹟について 『聖なる叙階』」 2017年5月14日大阪

「秘蹟について 『結婚』 」 2017年7月9日大阪

「御変容について」 2017年3月12日大阪

「リベラリズムについて」 2017年4月9日大阪

「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」 2017年5月14日大阪

「いとも聖なる三位一体の祝日の説教」 2017年6月11日大阪

「聖霊について」 2017年6月11日大阪

「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」 2017年7月9日大阪

「霊的戦い(霊戦)について」 2017年9月10日大阪

「聖ピオ十世について」 2017年9月10日大阪


「ファチマ100周年」 2017年10月15日大阪

「聖ピオ十世会は離教状態にあらず」 2017年10月15日大阪

「ルターの誤謬について」 2017年11月12日大阪

「聖マルティノと祈りの諸段階」 2017年11月12日大阪

「無原罪の御宿りと結婚について」 2017年12月10日大阪

「唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト」 2017年12月17日大阪・東京

「聖骸布についての講話」 2017年12月4日東京

「2017年のクリスマスの説教」 2017年12月25日大阪・東京

「使徒職の秘訣」第一部 二 イエズスこそが使徒的活動の生命――これが天主のお望みである

2018年01月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の 第二 イエズスこそが使徒的活動の生命 をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


  二、イエズスこそが使徒的活動の生命 ――これが天主のお望みである

 なるほど、科学は、その数おおい、そして花々しい成功を、ほこることができよう。
 しかもそれは、ただしいほこりである。
 だが、科学に、どうしてもできないことが、ひとつある。今日まで、そうだったが、いつまでたっても、同じことだろう。
 科学に、どうしてもできないひとつのこととは、化学者の実験室から、生命をつくりだすことである。
 麦のひと粒を、サナギの一匹を、つくりだすことである。
 自然発生説の主張者たちが味わった、痛ましい敗北は、右の真理を、われわれに教えてくれた。
 生命をつくりだす機能は、ひとり天主のみが持っておられる。
 植物界・動物界において、いわゆる活魂をもっているものは、自身で生長し、自身で繁殖することができる。だが、それでも、かれらの生長や繁殖は、造物主から規定された条件下においてのみ、可能である。
 ところが、理知をそなえた生命の創造にかんするかぎり、天主はこれを他人まかせにしないで、ただご自分お一人だけの権限内に留保される。理性をそなえた霊魂は、天主から直接につくられる。さらに、“超自然的生命”の創造にかんしては、天主はいっそう大きな嫉妬の念をもって、これをただご自分お一人だけの権限内に留保される。なぜなら、超自然的生命とは、三位一体の天主的生命がまず、人となられた天主の聖言のご人性にそそぎ入れられたもの、―― 次に、この同じ天主的生命の流れが、被造物に、いわば“放出”されたものに外ならないからである。
 聖言の受肉と人類救済――この二大事実が、イエズスを、この天主的“生命”の源泉、しかも“唯一の”源泉にした。そして、すべての人は、この天主的生命に参与すべく、天主から召されている。そのために要求される条件は、「われらの主イエズス・キリストによりて」「Per Dominum Nistrum Jesum christum」である。「かれによりて、かれとともに、かれにおいて」「Per Ipsum, cum Ipso, et in Ipso」である。天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、教会が使用する実質的手段は、秘跡であり、祈りであり、伝道であり、その他、これにかかわりのある一切の使徒的事業である。
 天主は、その御ひとり子の仲介なしには、いかなるものも、おつくりにならない。「万物は、かれによって造られた。造られた物のなかに、ひとつとして、かれによらずに造られたものはない」(ヨハネ1:3)
 自然界において、すでにそうであるのなら、なおさら超自然界においては、そうなのである。すなわち、天主がご自分の内的生命を人びとにわかちあたえ、人びとをご自分の本性にあずからせて、これを“天主の子ども”となされる、超自然のわざにおいては、なおさらのことである。
 「聖言に、生命があった」(ヨハネ10:10 )
 「わたしは、生命である」(ヨハネ14:7 )
 「わたしがこの世に来たのは、人びとに、生命を得させ、いっそうゆたかに得させるためである。」(ヨハネ10:10 )
 なんとハッキリとしたお言葉だろう。右の真理を、主ご自身お説きあかしになった、「ぶどうの樹とその枝」のたとえ(ヨハネ15章参照)は、なんと光明にみちたものだろう。
 「かれだけが、イエズスだけが、生命である。したがって、この天主的生命のいとなみにあずかるためには、さらにまた、これを他の人にあたえるためには、どうしても、まず自分が、天主の人イエズス・キリストに、つながっていなければならぬ」
 この根本真理を、使徒たちに十分納得させるために、イエズスはどれほどの熱情をかたむけつくされたことだろう。
 それゆえ、この天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、救い主に協力する栄光に召されている人たちは、自分自身にかんしては、どうしても謙遜して、次のように考えていなければならぬ。――すなわち、自分は天主の恩寵を人びとの霊魂に通じるための、運河にすぎないのである。したがってそこを流れる恩寵の水は、始終これを、その唯一の源泉なるイエズスから、引いてこなければならないのだ、と。
 使徒職にたずさわる人びとの中に、右の原理を知らないで、キリストのお助けがなくても、自分の力だけで、超自然的生命を生みだすことができる、と少しでも考えている者があれば、そういう人は、神学を知らないか、それともうぬぼれが強いか、どっちかである。
 また、こんな人もいる。すなわち、キリストが、天主的生命の唯一の源泉であることは、理論的には百も承知である。だが、事実上、この真理を全く忘れ去っているかのように行動する。キリストにたいして失礼になる、愚かなうぬぼれのために、心の目がくらんで、自分自身の力だけを頼りにしている。これは、前者にくらべて、罪は軽いが、そのやりかたは、無軌道であり、天主の御眼には、がまんできない代物(しろもの)である。
 右の真理を、頭から排せきする。もしくは、理論的には、りっぱに承認していても、行動面では、それを念頭におかない。――どちらも、「知的無軌道」である。理論からいっても、実際からいっても、無軌道である。
 それは、われわれの行動の土台であり、指導原理であるべき根本真理を、頭から否定することである。そして、この真理が、使徒職専従者の心に、罪と故意の冷淡の結果、いっさいの光りの源なる天主に背を向けることにより、もはや光りを放たないようになると、右にいった無軌道はますます増長する。これは、明白な事実だ。
 さて、使徒的事業を遂行するにあたり、実行面で、あたかもイエズス・キリストが、超自然的生命の唯一の源泉でないかのように行動するなら、それはメルミヨ枢機卿が、いみじくも言明しているとおり、あきらかに“事業の異端”である。
 事業の異端! 自分は天主のみ手に使われている、ただ第二義的な、しかも従属的な道具にすぎないのに、このぶんざいを忘れて、自分の使徒的事業の成功を、専らおのれ自身の活動と、才能にだけ期待している使徒の感覚を非難して、枢機卿はそういっているのである。これは、あきらかに、「天主の恩寵がなければ、人間は超自然的には何もできない」という、カトリック教会の伝統的恩寵論を、事実上、根本から否定し去ったやりかたではないか。
 ――いや、そうではない、そういう結論はでてこない、とあなたはおっしゃるかも知れないが、しかし、ちょっと考えてみれば、筆者のこの断定は、深く真実をうがっていることが、おわかりになろう。
 事業の異端!よく言ったものである。
 熱に浮かされたような、落着きのない人間的活動が、天主のお働きに取ってかわる。天主の恩寵なんて、こっちの知ったことではない。――人間の高慢が、イエズスの王座に肉迫する。超自然の生命も持たない。祈りの効果も信じない。霊魂の救いのために、せっかく天主から定められた方法を排除して、採用しない。理論的にはともかく、すくなくとも実行的には、それらを、ゆるがせにして、かえりみない。――こういうケースは、われわれの想像の程度をはるかに超えて、世間にはざらにあるものだ。使徒職にたずさわっている人びとの霊魂を解ぼうしてみれば、各自、程度の差はあっても、この悪弊があまりに暴威をふるっているのに、驚かされるくらいである。
 現代は、天主を無視した自然主義、人間万能主義の横行する時代である。人びとは、とりわけその外観によって、事物の価値を判断する。使徒的事業の成功が、主として、人知の巧妙な事業組織によって獲得されるもののごとくに信じこんで、そのように行動している。
 生まれつき、すばらしい素質や才能にめぐまれた人が、ここにいる。
 だが、かれは、おのれのうちに他人がみとめる、これらの驚嘆すべき才能が、天主の賜ものであること、わざと否認する。こういう人にたいして、われわれはあわれみの念を禁じえない。あながち、超自然の光りに照らされるまでもなく、健全な良識さえ持っておれば、こういう人が、きのどくな人間だということは、すぐにわかる。
 いわんや、ここにひとりの使徒がいて、天主のお助けを全然無視し、自分だけの力で、天主的生命のごくわずかでも、人びとの霊魂にそそぎ入れることができるとうぬぼれているなら、たとえ口にだしてそういわなくても、心でそう考えているなら、こういう使徒をみて、いやしくもひとかどの宗教的教養をもっている信者ならば、なさけない思いがしないだろうか。
 福音の伝道に従事する人で、こんなことを言っている者があるとする。
 「天主よ、わたしの使徒的事業に、いかなる障害もおいてくださいますな。げんにある障害はすべて、取りのぞいてください。そうしましたら、わたしは責任をもって、この事業をみごとに成功させて、お目にかけましょう・・・」
 こんな言葉を耳にするなら、われわれは、「ああ、なんてバカな人間だろう!」と、冷笑せざるをえないだろう。
 それもそのはず、こんな人を冷笑するこの考えは、実は天主から来ているからである。
 天主は、このような秩序の逆転、このような無軌道ぶりをごらんになるとき、怒りにたえない。高慢のあばれ馬にムチうつとき、人間はどこまで暴走するか。――かれは、ただ自分ひとりの力で、人びとに超自然の生命を与えたいのだ。人びとの霊魂に、信仰を生みだしたいのだ。罪をおかすのをやめさせ、善徳を実行させ、熱心な信者にしたいのだ。――ただ自分ひとりの力で。
 このようなすばらしい超自然的成果を、天主の恩寵に帰したくないのである。いっさいの恩寵と、いっさいの超自然的生命の代価であり、存在理由であり、手段であるイエズス・キリストの尊い御血の、直接な、たえまない、普遍的な、無限に強いお働きに、それを帰したくないのである。こんなにうぬぼれのつよい使徒をごらんになっては、さすがに忍耐づよい天主も、とうていがまんできないのである。
 そんなわけで、天主は御子のご人性のメンツにかけても、これらの偽キリストを、なさけ容赦もなく、処分せねばならぬ。で、高慢が生みだすかれらの事業を、天主はめちゃくちゃにし、かれらの事業が、砂漠の蜃気楼のように、はかない幻影におわることを、お許しになるのだ。
 Ex opre operato (行なわれる業そのものによって効力を生ずるもの)に、霊魂に働きかけるもの、たとえば秘跡のようなものは、これを執行する聖職者の個人的聖性のいかんにかかわりなく、確実に、恩寵を霊魂にほどこす。
 で、これは、ここでは問題にならないが、事ひとたび、業をおこなう者の個人的価値いかんによって(Ex opre operantis)、その効果が左右される事業にかんするかぎり、天主は救世主イエズス・キリストの名誉回復のために、自己満悦にひたっている使徒には、その最上の祝福をこばみ、代わりに、イエズスという天主的ぶどうの樹からだけ、恩寵の樹液を吸収することを知っている謙虚な枝に、それをお与えになるのである。
 そうでなく、もし天主が、“事業の異端”と呼ばれるこの病毒に虫ばまれた活動に、りっぱな、そして長続きのする効果をお与えになることによって、このような活動を祝福されるようなことでもあれば、それはいったい、どういうことになるのか。――この無軌道を助長するのは、天主ご自身である、この病毒の感染を平気で放任しているのは、天主ご自身である――といわれても、仕方なかろう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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