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2017年9月9日(土) 説教 「ファチマのメッセージはまだ続いている―ファチマの第3の秘密を黙想して」 

2018年01月26日 | お説教・霊的講話
2017年9月9日(土)聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年9月9日、聖母の土曜日のミサをしています。

このミサの後にいつものように公教要理があります。
今日はこの前の続きで、ではイエズス様が生きていた時代には、この重要な施設としてエルサレムの神殿とかあるいは会堂とかがありました。それらはどのようなものだったのかという事を黙想したいと思います。

明日も夕方18時からミサがあります。レネー様がいらしてくださいます、どうぞいらしてください。
東京方面に行かれる方は、明日は東京では10時30分からミサがあります。



「聖母の御取り次ぎによりて、我らがこの現在の悲しみから解放され、永遠の喜びを味わう事ができますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ファチマへの巡礼が終わりましたが、これで私たちは、ファチマがもう100周年は終わってしまって、これでもうこのファチマの事はもう終わったんだから、別の事を考えよう、などと思わないでください。実はファチマにはまだ現代でも、100年前に終わった事ではなくて、そしてまだこれからマリア様の言葉が実現しなければならなくて、マリア様の凱旋を私たちが待たなければならなくて、マリア様の凱旋の為にたくさんお祈りしなければならない。

これから今、実に21世紀の今現代私たちが生きている、最も大事なマリア様の言葉なので、ぜひ今日はそれについて黙想したいと思います。

この前私たちはマリア様の教皇様に対する、「もしも聖母の汚れなき御心への奉献がなされなければ、大きな不幸が起こるだろう」という事を、イエズス様の聖心へのメッセージと、「御心への奉献がなされなければ、フランスの王に起こった事と同じような事が起こるだろう」という事を黙想しました。

今回はぜひ、「ファチマの第3の秘密」という事に関して一緒に黙想したいと思います。これを見ると、私たちがますますファチマのメッセージが現代のものであるという事が分かるからです。

では、ファチマの第3のメッセージというのは一体どのような内容なのだろうか、という事をまず考えてみます。バチカンからの正式な発表や、あるいは教皇様たちや司教様たちの証言がありますから、それを元に、私たちはどんな事が書かれているかという事を見てみます。そしてその第3の秘密についてのその証言から、大体のあらましを想像してみます。

そして第3に、そのそこからどのような事が結論付けられるか、私たちにとってどのような意義があるかを見て、では私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「第3の秘密」というものについては、2000年の、西暦2000年6月26日にバチカンから発表がありました。それによると、シスタールチアの書いた物のコピーが出されて、それが公開されて、それの内容はあるビジョンでした、「白い服を着た司教様が、多くの死体の上を歩いていて、大きな街を、半分崩壊したような街を歩いていて、そして多くの司教や司祭や修道者、多くの信徒の人々が亡くなっていて、その死骸の内を逃げているように歩くと、コルクで出来た木の十字架の近くに来て、打たれて亡くなる。そして天使たちはその殉教者の血を地上に撒いて、天主への罪の償いの為にそれを、その血を取っている」というビジョンでした。

これについて、1つ疑問があるのです。
どんな疑問かというと、「一体なぜこの第3の秘密というものを、ここまで今まで秘密にしておかなければならなかったのか?このビジョンをなぜすぐに公開する事に困難があったのか?」

また、1917年7月13日にマリア様が、第3の秘密と言われるものの中で、「ポルトガルは信仰のドグマを終わりまで保つでしょう。etc等々」と言って、ここに第3の秘密が入るとされるのですけれども、この第3の秘密について、ルチアはそれを聞く事ができました、しかしフランシスコはそれを聞く事ができませんでした。フランシスコはそれを見るだけでした。そこで「フランシスコには話しても良い。でも他の人には言ってはいけない」と言いました。

「もしも第3の秘密がビジョンだけであったのならば、言葉のない、マリア様の言葉のないものであったのならば、なぜフランシスコには話して良いと仰ったのか?第3の秘密はマリア様のメッセージの続きではなかったのか?だから『フランシスコにもそれを話して良い』と言ったのではないか?」

多くのファチマの研究者たちがそれらの疑問を提示しています。そこで、過去教皇様や司教様たちが、第3の秘密についてどんな事を言ったのか、少しだけ見るのを引用するのを許して下さい。

1959年8月17日に、ヨハネ二十三世教皇様は第3の秘密を読みました。なぜかというと、「1960年にはこれを発表しなければならない」とシスタールチアが言っていたからです。「これはマリア様がそう仰ったから。」「これがマリア様がそうお望みだからそうだ」と、何度も繰り返しインタビューで言っています。「あるいは自分が亡くなったら発表するか、あるいは1960年に発表するか、そのどちらか早い方だ」と。「なぜか?」とオッタヴィアーニ枢機卿が聞くと、「マリア様がそれを望んで、なぜならば、そのそうするとよく意味がはっきりするから」と言っていました。

そこでその直前、1959年、ヨハネ二十三世教皇様はメッセージを読むのですけれども、教皇様は、「これは私の教皇職には関係ない事だ」と言って、この事をどうするかについてコメントや、この事をどうするかという事については、「私の後継者が決定する事に任せる」と言いました。

ベネディクト十六世教皇様は、2010年5月13日に、「ファチマの予言の使命がすでに完成した、と考えるのは間違っているだろう」と言っています。("We would be mistaken to think that Fatima’s prophetic mission is complete."

オッタヴィアーニ枢機卿様はこう言っています、1967年に、もはや発表すべき年の7年後に、実際にこのメッセージを読んでこう言うのです。
「マリア様から委託された第3の部分の秘密がある。マリア様からルチアに委託されたこのこれらの事は、ルチアに関するものではないし、今のところこの世に関するものではない。しかしそれはキリストの代理者、つまり教皇様に関する事だ」と証言しています。「そしてこのメッセージは、1960年よりも以前に発表されてはならなかった。なぜならば1960年ならば、それはよりはっきりとするからだ」と言っています。

それからずっと後に、1984年11月に、ラッツィンガー枢機卿様はこう言います。
「第3の秘密に関しては、キリスト教徒が天主様からの啓示によって知るべき事に何ら新しい事を加えない。第3のメッセージに関する事はすなわち、回心への根本的な呼びかけであって、そして歴史の絶対的な荘厳さ、真剣さであって、キリスト教の信仰と生活を危険に脅かす危険について、したがって世界を脅かす危険について、また世の終わりについて、時の終わりについて、また回心や償いが非常に本質的である事、霊魂の救いに対して非常に本質的な条件である、という事を示している」と。

つまり1984年にはラッツインガー枢機卿は、「第3の秘密というのは、信仰に関わるものだ、キリスト教の生活に関わるものだ」と言っています。

同じく1984年9月10日に、ファチマの第3の秘密を読んだ、ファチマの司教であったコスメ・ド・アマラル司教様はこう言っています。
「この第3の秘密は、原子爆弾とかあるいは核爆弾とか、あるいはSS20ミサイルとかについて話すのではない。この内容は、単に私たちの信仰に関わるものであって、もしも全大陸から信仰が無くなってしまうという事は、国が1つ無くなってしまうという事よりも更に酷い事である」と証言しています。
他の証言によると、「この第3の秘密は、特に教皇様に関するものである。オッタヴィアーニ機卿様の言うように、教皇様に関するものである」と言われています。

では私たちはこれらの証言などを見て、それからファチマの7月13日の構造、マリア様がなされた内容を見ると、どのような事を言う事ができるでしょうか?

第2の点で、ではマリア様の第3の秘密というものを想像してみます。信仰に関する事であって、教皇様に関する事であって、そして非常に恐ろしい内容であって、教会がそれを言うのを発表するのを、非常にためらっている。また1960年以降、シスタールチアは、司教様であってもインタビューをする事が禁止されていて、そしてシスターの書いた物が発表する事が禁止されて、またもしもシスターと会いたいのならば、教理聖省あるいは教皇様ご自身から許可を取らなければ、会うことができないほどの、死ぬまでそれが禁止されていた。

またシスタールチアの書いた物は一切まだ公開されていない。聖ジャシンタや聖フランシスコについては知られているけれども、他のシスターの書き物は発表されていないと、いう事を見て、1960年からなぜそのようになったのか、それほどまで秘密を守らなければならないのか、という事を考えて、「信仰に関する事だ。教皇様に関する事だ。1960年」などという事を考えると、次のような事が考えられます。

これは、今からの事は、シュテーリン神父様がつい最近出された、9月に出されたファチマに関する第3巻に書かれた事を読んでの事ですけれども、シュテーリン神父様によると、こう言います。

7月13日には、3つの部分がある。

第1の部分は、「霊魂の破滅」という最も恐ろしい事である。その第1の部分には、「あなたたちは、かわいそうな霊魂たちが落ちる地獄を見ました。」悲惨な結果がまず第1に表れます。

次に、それについての救いの部分があって、どうやったら解決するか、「この霊魂たちを救う為に、天主は汚れなき御心に対する信心を世界に確立する事を望んでいます。もしもそれをすると、」

第3の部分は、「多くの霊魂が救われて世界に平和が起こるでしょう。しかしもしそうしないならば、更に恐ろしい戦争が起こるでしょう。」

これを見ると、「悲惨な状態が今ある」「それに対する解決策がある、薬がある。」「もしも使えば、どのような良い事があるか。またもしも使わなければ、どのような悪い事があるか」という事が示されています。

実際それが使われなかったらどうなるかという事は、第2の秘密に示されました。第2の秘密は、「ピオ十一世の時代に、もしも人々がそのマリア様のメッセージを聞かないならば、注意を払わないならば、罪を犯し続けるならば、ピオ十一世の時代に恐ろしい戦争が、更に恐ろしい戦争が起こるでしょう。不思議な光が世界を照らすならば、それが始まったのだと思いなさい。」まず、「戦争」という、「全世界の戦争」という恐ろしい状況がある。「ロシアが、戦争と教会に対する迫害とを挑発するでしょう。」「ロシアが挑発する。」

そしてこれに対して、マリア様はどのような解決策を提案するかというと、それはロシアへの、「教皇様がロシアを奉献する」という事。そして「初土の償いの信心をする」という事。そうすると、「そうするならばロシアは回心し、世界に平和が来るでしょう。さもなければ多くの人々が殉教して、無くなってしまう国々もあるでしょう。教皇様はたくさん苦しまなければなりません。」

もしもそれができなければどうなるかというと、おそらくそれは第3の秘密に関わる事だろうと、第3の秘密はマリア様のメッセージから構成されていて、その第3のメッセージは始めはこの言葉で始まります。第1のメッセージが「霊魂の永遠の滅び」に関し、第2のメッセージが「この世の戦争」に関する事であれば、第3のメッセージは「信仰」に関わる事、「ポルトガルは信仰のドグマを保つでしょう。」

「もしも、」おそらく、ここからは推定ですけれども、「もしも私のメッセージがよく聞かれるならば。しかしもしもそうでないならば、全世界において信仰が失われてしまうでしょう。特に教皇様の司牧の義務は非常に重要であって、この教会の一番上からもその方針の間違いが起こるでしょう。1960年からそれが始まるでしょう。」

もちろんこれは推定ですから、この言葉通りではないかもしれません。しかしそのような内容があると思われます。「そして多くの霊魂が地獄に落ちてしまうでしょう。」

ジャシンタの言葉によれば、「ほぼ多くの霊魂、ほぼ皆が地獄に落ちてしまうだろう。非常に多くの霊魂が失われてしまう。そしてその為に教皇様はこの結果、非常に苦しまなければならない。」

ところでこれに対して、どのような救いの手段があるか。マリア様はそこに何か仰ったに違いない。

その救いの手段というのはおそらく、「私たちに2つの最後の手段が与えられた。1つは『ロザリオ』であって、そして『聖マリアの汚れなき御心に対する信心』である。」

おそらく教皇様に、「ロザリオを教会の最も大切な祈りとして、公式なものとして認めるように」マリア様はお願いしているかもしれません。あるいは「汚れなき御心への信心」あるいは「この祝日を教会のもっとも重要な祝日として制定するように」お願いしているのかもしれません。また「ロシアの奉献」もお願いしているかもしれません。

「そうする事によって、多くの霊魂は救われ、教会はまた元の栄光ある地位に繁栄を取り戻すでしょう。そして最後に私の汚れなき御心は勝利を収め、凱旋するでしょう」と言われているのではないかと想像します。

「シスタールチアは、」これもシュテーリン神父様のコメントですが、シスタールチアは、「このマリア様の仰った事は黙示録に書かれている。黙示録の13章だ。黙示録によると、3つのビジョンがある。」

「1つは、『竜が現れて来て、霊魂を滅ぼそうと婦人を襲う。天に壮大なしるしが現れた。太陽をまとった婦人だ。しかし竜はそれに対して戦いを挑む。』これは第1の秘密、つまり霊魂の滅び、多くの霊魂を地獄に落としている事を意味しているのではないか。」

「第2には、『その竜に仕える為に海から獣がやって来る。獣は七つの角と十の首を持ったもので、この竜に仕えていた。』これは政治的なものであって、おそらく、ロシアがこの世界中に誤謬を広げて、戦争や教会に対する迫害を示しているというものではないか。」

「第3に出て来るのは、別の獣で、やはり竜に仕えるものですが、『これは陸から出て来る。これは見るからにちょうど羊のようだけれども、しかし言葉は、話す言葉は竜のように話している。』そこで、これが第3の秘密に関わる事ではないか。つまり『悪魔的な方針の間違い』について、教会の指導者たちが盲目的になってしまう、多くの人々が信仰を失ってしまう、という事にあるのではないか。」

シュテーリン神父様は言葉を続けますが、「だからと言って私たちは、これらの責任を全て教皇様一人にする事はできない。なぜかというと、シスタールチアやあるいはジャシンタが言うには、『教皇様が多くの人々と一緒に泣きながら、手でこう頭を抱えながらお祈りをしているのを見た。』つまり、もしも教皇様が何かそのような苦しむとしたら、やはりそれは多くのキリスト教信者の無関心や、あるいは背教や、その他にも責任がある。なぜならば、私たちは全て神秘体を作っているから。だから『教皇様が一人悪くて、私たちは全く関係ない』とは言えない」と言います。

だからこそシスタールチアもジャシンタもフランシスコも、教皇様の為にたくさん祈るという事をしていました、「教皇様がかわいそう。苦しまなければならないから」と。

この事を聞くと、秋田でのマリア様のメッセージも思い出します。
「あなたは教皇、司教、司祭の為にたくさん祈って下さいましたね。これからもたくさん祈って下さい、ロザリオをたくさん祈ってください。あなた方を来たるべき災害から救う事ができるのは私だけです、ロザリオの聖母だけです。司教、司祭の為にたくさんロザリオを祈ってください。この来たるべき災害から救う事ができるのは、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです」と。

では私たちは、この第3のメッセージであると思われるものを少し垣間見た後に、どんな遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

第1に、ファチマのメッセージはまだ続いているという事です。マリア様の汚れなき御心の凱旋を、私たちはまだその為に、祈りと犠牲をたくさん捧げなければならないという事です。教皇様の為にたくさんお祈りしなければなりません。シスタールチアやジャシンタ、フランシスコにならって、たくさんのお祈りを捧げなければなりません。ロザリオの祈りと、聖母の汚れなき御心に対する信心をますます実践しなければなりません。

第2には、たとえ教会が、あるいはこの世の中でどのような苦しみがあって、たとえ教会の指導者が私たちを捨て去るように見えた事があったとしても、マリア様は決して私たちを見捨てる事はありません。マリア様は仰いました、「私はあなたを決して見捨てません。私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導く確かな道です。」ですから私たちはますます、マリア様の汚れなき御心へと行かなければなりません。

ではミサを捧げながら、このファチマのメッセージをますます実践して、それをマリア様の御心に適うものとなりますように、お祈り致しましょう。

「聖母マリアの御取り次ぎによりて、現在の悲しみから逃れしめ、永遠の喜びを得しめ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2月2日 童貞聖マリアの御潔めの祝日 ろうそくの祝別式と行列の部分の式次第(1962年版の典礼法規)

2018年01月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る2月2日には大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で童貞聖マリアの御潔めの祝日を祝います。ミサの前に、ろうそくの祝別式と行列があります。

 そこで、ろうそくの祝別式と行列の部分の式次第をご紹介いたします。1962年版の典礼法規によります。

1.ろうそくの祝別

司祭は、白のカッパで、あるいはカズラを付けず、ろうそくの祝別を行う。祭壇に向かって手を合わせ、次の祈りを唱える。

℣. Dóminus vobíscum.

℞. Et cum spíritu tuo.

℣. 主は、あなたたちとともに、

℞. また、あなたの霊とともに。

 第一の祈りFIRST PRAYER

ORÉMUS – Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus, qui ómnia ex níhilo creásti, ut jussu tuo per ópera apum, hunc liquórem ad perfectiónem cérei veníre fecísti: et qui hodiérna die petitiónem justi Simeónis implésti: te humilíter deprecámur; ut has candélas ad usus hóminum, et sanitátem córporum et animárum, sive in terra, sive in aquis, per invocatiónem tui sanctíssimi nóminis, et per intercessiónem beátæ Maríæ semper Vírginis, cujus hódie festa devóte celebrántur, et per preces ómnium Sanctórum tuórum, bene✠dícere, et sancti✠fi- cáre dignéris: et hujus plebis tuæ, quæ illas honorífice in mánibus desíderat portáre, teque cantándo laudáre, exáudias voces de cœlo sancto tuo, et de sede majestátis tuæ: et propítius sis ómnibus clamántibus ad te, quos redemísti pretióso sánguine Fílii tui: Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主よ、聖なる父、全能永遠の天主よ、御身は万物を無より創り出し、蜜蜂の働きによってろうそくができるようにと思し召し給うた。御身が、義人シメオンの望みを満たし給うたこの日、われらは、いと聖なる御名にこいねがい、敬虔に祝い奉る終生童貞なる聖マリアの取り次ぎと、諸聖人の祈りとにより、へりくだってこいねがい奉る。陸上でも海上でも、身体と霊魂との健康のために人間の用いるこのろうそくを、✠祝し✠聖別し給わんことを。御光栄のために、このろうそくを手にして主を讃美するを望む御民の叫びを、主の神殿なる天より、みいずの王座より、聞き入れ給わんことを。主に向かって叫ぶ、御子の尊き御血をもってあがない給うた人々に、御慈悲を示し給え。御身とともに、天主として、聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う主よ。

℞. アメン

 第二の祈りSECOND PRAYER

ORÉMUS – Omnípotens, sempi- térne Deus, qui hodiérna die Unigénitum tuum ulnis sancti Simeónis in templo sancto tuo suscipiéndum præsentásti tuam súpplices deprecámur cleméntiam; ut has candélas, quas nos fámuli tui, in tui nóminis magnificéntiam suscipiéntes, gestáre cúpimus luce accénsas, bene✠dícere et sancti✠ficáre, atque lúmine supérnæ benedictiónis accéndere dignéris: quátenus eas tibi Dómino Deo nostro offeréndo digni, et sancto igne dulcíssimæ caritátis tuæ succénsi, in templo sancto glóriæ tuæ repræsentári mereámur. Per eúmdem Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。全能永遠の天主よ、御身は今日、御独り子を、聖なる神殿で、義人シメオンの腕に抱かせるようにと思し召し給うた。われらは本日、へりくだって御慈悲をこいねがい奉る。主のしもべなるわれらが、御名の光栄のために、手に取って運ぼうとするこのろうそくを、✠祝し✠聖別し、天の祝福の火をもって、火を点し給わんことを。ふさわしい心を持ち、主のいと甘美な愛の火に燃えて、最高の主なる御身にこのろうそくを捧げるわれらを、御光栄の聖なる神殿に奉献し給わんことを。その同じわれらの主イエズス・キリスト、天主として、聖霊との一致において、御身と共に、世々に生き且つ治め給う聖子によりて。

℞.アメン。

 第三の祈りTHIRD PRAYER

ORÉMUS – Dómine Jesu Christe, lux vera, quæ illúminas omnem hóminem veniéntem in hunc mundum: effúnde bene✠dictiónem tuam super hos céreos, et sanctí✠fica eos lúmine grátiæ tuæ, et concéde propítius; ut, sicut hæc luminária igne visíbili accénsa noctúrnas depéllunt ténebras; ita corda nostra invisíbili igne, id est, Sancti Spíritus splendóre illustráta, ómnium vitiórum cæcitáte cáreant: ut, purgáto mentis óculo, ea cérnere possímus, quæ tibi sunt plácita, et nostræ salúti utília; quátenus post hujus sǽculi caliginósa discrímina, ad lucem, indeficiéntem perveníre mereámur. Per te Christe Jesu, Salvátor mundi, qui in Trinitáte perfécta vivis et regnas Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主イエズス・キリスト、この世に来るすべての人を照らすまことの光にまします主よ、願わくは、✠祝福をこのろうそくに注ぎ、聖寵の光によって、これを✠聖別し給え。この明かりが、見える火の輝きによって夜の闇を払うごとく、慈悲なる天主よ、見えざる火、すなわち聖霊の輝きによって、われらの心を照らし、悪の闇を払い給え。そして、われらの心の目を開き、御身に嘉せられることと、われらの救いに役立つこととをわきまえさえ、いつか、この世の危険な闇を去って、消えることなき光明に達せしめ給わんことを、世の救い主、イエズス・キリスト、御身は天主であり、完全な三位一体において世々に生き且つ治め給う。

℞.アメン。

 第四の祈りFOURTH PRAYER

ORÉMUS – Omnípotens, sempi- térne Deus, qui per Móysen fámulum tuum puríssimum ólei liquórem ad luminaria ante conspéctum tuum júgiter concinnánda præparáti jussísti: bene✠dictiónis tuæ grátiam super hos céreos benígnus infúnde; quátenus sic adminístrent lumen extérius, ut, te donánte, lumen Spíritus tui nostris non desit méntibus intérius. Per Dóminum nostrum Jesum Christum Fílium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti, Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。全能永遠の天主よ、御身は、しもべなるモーゼに、清い油の入るともしびを備え御前でそれを燃やすようにと命じ給うた。願わくは、このろうそくに、✠祝福の恩寵を注ぎ給い、この火が、外に光を与えるとともに、恩寵によって、霊魂の中にも主の霊の光を照らし給わんことを。その同じ聖霊との一致において、天主として、御身と共に、世々に生き且つ治め給うわれらの主、聖子イエズス・キリストによりて。

℞.アメン。

第五の祈りFIFTH PRAYER

ORÉMUS – Dómine Jesu Christe, qui hodiérna die in nostræ carnis substántia inter hómines appárens, a paréntibus in templo es præsentátus: quem Símeon venerábilis senex, lúmine Spíritus tui irradiátus, agnóvit, suscépit, et benedíxit: præsta propítius; ut ejúsdem Spíritus Sancti grátia illumináti, atque edócti, te veráciter agnoscámus et fidéliter diligámus: Qui cum Deo Patre in unitáte ejúsdem Spíritus Sancti vivis et regnas Deus, per ómnia sǽcula sæculórum.

℞. Amen.

祈願。主イエズス・キリスト、われらと同じ肉体を持って、御身は本日人間の中に現れ、両親の手にいだかれて、神殿に奉献され給うた。そして、尊き老人シメオンは、主の霊に照らされて、御身を認め、いだき祝福した。この同じ聖霊の恩寵に照らされ、教えられて、われらにも、主を知り、主を忠実に愛しうるように、御慈悲を下し給え。聖父なる天主とともに、同じ聖霊との一致において、世々に生き且つ治め給う天主よ。

℞.アメン。

 

祈願を終えて、司祭は香炉に香を入れ、聖水でろうそくを三回祝別し、低声で詩篇なしで「主よ、ピソポで…」を唱える。そしてろうそくに三度撒香する。

 2.ろうそくの配布

 次に祭壇中央に立ち、ろうそくを侍者、聖職者、信者の順に配る。その間、聖歌隊が次の交誦を唱える。

 交誦Antiphon ルカLuke 2:32

LUMEN * ad revelatiónem géntium: et glóriam plebis tuæ Israël.

異邦人を照らす光、御民イスラエルの光栄。

シメオンの讃歌の一区切れごとに、この交誦を繰り返す。

シメオンの讃歌The Canticle of Simeon ルカLuke 2:29-32

℣. Nunc dimíttis servum tuum, Dómine: * secúndum verbum tuum in pace.

Lumen

℣. Quia vidérunt óculi mei: * salutáre tuum.

Lumen

℣. Quod parásti * ante fáciem ómnium populórum.

Lumen

℣. Glória Patri et Fílio * et Spirítui Sancto.

Lumen

℣. Sicut erat in princípio, et nunc, et semper, * et in sǽcula sæculórum. Amen.

Lumen

℣. 御言葉のままに、主よ、今こそ御身のしもべを安らかに逝かせ給え。

 

異邦人を

℣. 私の目は、もはや主の救いを見たゆえに。

異邦人を

℣. これは、万民の前に備え給うた御者である。

異邦人を

℣. 願わくは、聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。

異邦人を

℣. はじめと同じく、今もいつも、世々に、アメン。

異邦人を

 

℣. Dóminus vobíscum.

℞. Et cum spíritu tuo.

℣. 主は、あなたたちとともに、

℞. また、あなたの霊とともに。

ORÉMUS – Exáudi, quǽsumus, Dómine, plebem tuam: et, quæ extrínsecus ánnua tríbuis devotióne venerári, intérius ássequi grátiæ tuæ luce concéde. Per Christum Dóminum nostrum.

℞. Amen.

祈願。主よ、願わくは、御民の祈りを聞き入れ、聖寵の光によって、年ごとに外部的に行うこの式を、内部的にもあずからせ給え。われらの主キリストによりて。

℞. アメン

3.行列

次に行列が行われる。司祭は香を入れ、助祭が参列者の方を向いて唱える。

℣. Procedámus in pace.

℞. In nómine Christi. Amen.

℣. 平安に進もう。

℞. キリストの御名によって、アメン

行列の間、火を点じたろうそくを持って、次の交誦を歌う。

第一交誦First Antiphon

ADÓRNA thalámum tuum, Sion, et súscipe Regem Christum:

ampléctere Maríam, quae est cœléstis porta:

ipsa enim portat Regem glóriæ novi lúminis:

Subsístit Virgo addúcens mánibus Fílium ante lucíferum génitum:

quem accípiens Símeon in ulnas suas prædicávit pópulis Dóminum eum, esse vitæ et mortis, et Salvatórem múndi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:

天の門なるマリアを抱擁せよ。

マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、

明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。

その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、

この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

第二交誦Second Antiphon ルカLuke 2:26,27,28-29

RESPÓNSUM accépit Símeon a Spíritu Sancto, non visúrum se mortem, nisi vidéret Christum Dómini: et cum indúcerent Púerum templum, accépit eum in ulnas suas, et benedíxit Deum, et dixit: Nunc dimíttis, servum tuum, Dómine, in pace.

Cum indúcerent púerum Jesum paréntes ejus, ut fácerent secúndum consuetúdinem legis pro eo, ipse accépit eum in ulnas suas.

シメオンは、聖霊によって、主のキリストを見るまでは死なないと示されていた。両親がその子を連れて神殿に来ると、シメオンは幼児(おさなご)を抱き、天主を讃美して言った。「御言葉のままに、主よ、今こそ御身のしもべを安らかに逝かせ給え」と。

両親がその子イエズスを連れ、律法の習わし通り行おうとして来たとき、シメオンは幼児を抱いた。

行列は聖堂に入る。

答誦Responsory ルカLuke 2:22-24

℣. OBTULÉRUNT pro eo Dómino par túrturum, aut duos pullos columbárum:

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. Postquam impléti sunt dies purgatiónis Maríæ, secúndum legem Móysi, tulérunt Jesum in Jerúsalem, ut sísterent eum Dómino.

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. Glória Patri et Fílio et Spirítui Sancto.

℞. Sicut scriptum est in lege Dómini.

℣. 彼らは、幼児のために、山鳩一つがいか、鳩のひな二羽かを、主に捧げた。

 

℞. 天主の律法に記されている通り。

℣. モーゼの律法に従って、マリアの潔めの日数が満ちたとき、両親は、主に捧げるために、幼児を、エルザレムに連れて行った。

℞. 天主の律法に記されている通り。

℣. 願わくは聖父と聖子と聖霊とに光栄あれ。

℞. 天主の律法に記されている通り。

 


ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか

2018年01月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

 六、反対論に答える(つづき)
(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか


 内的生活が、無為閑散の静寂を楽しむことに存する、と考えている人は、精神的に怠け者である。
 内的生活に、なぐさめの天主よりも、天主のなぐさめをさがしている人は、精神的にどん欲である。
 双方とも、まちがった信心におちこんでいる。かれらについては、なにもいうまい。
 だが、ここに、だれかがいて、軽率にもせよ、わざとにもせよ、内的生活は利己主義である、というなら、この人は、前のふたりにもまして、内的生活を誤解しているのである。
 内的生活こそは、隣人への最も寛大な、最も没我的な愛の事業を霊感する、きよい豊かな源泉である。涙の谷に泣きさけぶ人の子らの苦悩を軽減する隣人愛は、その源流を、内的生活に発している。このことは、前にもすこしいっておいた。で、こんどは、他の視点からながめた内的生活の利益を、考察してみよう。

 聖母マリアと聖ヨゼフは、内的生活の典型だといっても、さしつかえなかろう。それなのに、この偉大なおふたりの内的生活が、利己主義である、不毛である、といったら、いったい、どういうことになるのか。
 それは、なんと冒涜、バカバカしいことか。なるほど、おふたりは、はなばなしい外面的事業には全然、手をつけられなかった。それでいて、、聖母マリアは「使徒の元后」に、聖ヨゼフは「全教会の保護者」に、それぞれまつりあげられている。どうしておふたりは、このような栄位を、かちえられたのだろうか。
 ――かれらの深い内的生活の熱と光が、おのずから外面の世界に照射し、流露したからである。かれらのかくれた祈りと犠牲の功徳が、救世の恩恵を、あまねく世の人びとにほどこすうえにおいて、大きな寄与をしたからである。
 「わたしの妹は、わたしだけに接待をさせている」(ルカ10・40)

 おのれの外的事業とその成果のほかは、なにも眼中にない、愚かな、ウヌぼれの強い活動家たちは、マルタの右の言葉を引き合いにだして、おのれ自身の不信心を弁護しようとする。だが、かれらがどんなに愚かで、また、天主のやりかたについての認識にどれほど欠けてはいても、それでもまだ、天主は自分たちをさしおいて、単独では何もできぬ、と信じこむほど、のぼせてはいまい。すくなくとも、善意にそう解釈したい。
 しかし残念なことに、マリア・マグダラの観想の優越性を高く評価できなかったマルタの口ぶりをまねて、かれらはよくいいたがるものだ。「わたしの手伝いをするように、妹におっしゃってください」(ルカ10・40)と。あるいはまた、救世主を銀貨三十枚で、敵どもに売りとばしたユダのように、「なんのために、こんなむだづかいをするのか」(マテオ26・8)と……。

 かれらは、同じ使徒職にたずさわっている、自分たちよりも内的な同僚たちが、天主との親しい一致の生活を確保するために、しばしば仕事の手を休めて、祈りにあてる数刻を、時間つぶしだと、といって非難する。
 「わたしは、かれらが真理によって聖別されるように、かれらのため、わたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17・19)
 聖主のこの祈りの意味を、よくさとっている内的な同僚たちは、こういって、かれらの非難に答えるだろう。――われわれは、われわれの事業の対象となっている人びとを、聖ならしめるためにこそ、まずわれわれ自身が聖となるように、努力するのである。そのためにこそ、あなたがたのおっしゃる“時間つぶし”をするのである、と。
 じじつ、この人たちこそは、祈りのねうちを、犠牲のねうちを、最もよくさとっているのだ。自分たちの涙を、救世主のお涙に、自分たちの日ましに浄化されていく心のくるしみをの血を、救世主の尊い御血にあわせるすべを、すなわち、救世事業の秘訣を、よく心得ているのだ。

 内的な魂は、イエズスとともに、全世界のおびただしい罪が天に向かってあげている烈しい怒号を、心の耳できいている。それは、罪びとのうえに、天主の復讐をよびくだす怒号である。だが、天主の宣告は、内的な霊魂の全能の嘆願によって、猶予されるのだ。天主は、罪びとらに、復讐の矢を放とうとしている。内的な霊魂だけが、天主のこの怒れるみ手を、制止することができるのだ。

 著名な政治家であったドノソ・コルテス(Donoso Cortès)は、その回心の後、こんなことをいった。

 「祈る人は、戦う人よりも、世界に、はるかに多く寄与している。もし世界が、さらに悪化の一途をたどるなら、それは祈りよりも、戦いが多いからだ……」
Ceux qui prient font plus pour le monde que ceux qui combattent, et si le monde va de mal en pis, c’est qu’il y a plus de batailles que de prières.


 ボスエ司教も、同じことをいっている。
 「祈る人の、天に向かってあげられた二本の腕は、剣をとって戦う人びとの、幾万本の腕にもまして、はるかに多くの敵をたおす!」

 テバイデの苦業者たちは、人跡絶えたサハラ砂漠の秘境にいても、東洋の大使徒聖フランシスコ・ザベリオの心にもえさかっていた布教熱の炎を、同じように持っていた。聖アウグスチノがいっているとおり、「かれらは、必要以上に、世間を捨てたように思われる」。だが、聖人がいそいで、つけ加えていっているように、「かれらの祈りは、この徹底した世間からの離脱によって、いっそう純粋になり、これあるがためにこそ、当時の腐敗しきった社会にたいしては、いっそう大きな感化をおよぼし、世人の教化にとっては、いっそう切実な必要とさえなっていったのである。残念なことに、世の人びとは、この事実に、あまり気をとめないでいる……」

 みじかくて、熱心な祈りのほうが、長い議論や美しい説教にもまして、罪びとの回心を促進するものだ。 
 祈る人は、第一原因者と直接に、交渉する者である。
 祈る人は、直接に、天主に働きかける。
 祈る人は、このようにして、あらゆる第二原因(被造物)の運命を、自分の手の中に、おさめている。第二原因は、第一原因の天主からそれをもらわなければ、おのが運命をアレンジするうえにおいて、いかなる権限も持っていないからである。
 そんなわけで、祈る人は、自分の望んでいることはなんでも、いっそう確実に、いっそう迅速に、なしとげることができるのである。

 信頼できる黙示によれば、大聖テレジアの、タッタ一回の、もえるような祈りによって、何万人もの異端者が回心している。聖女の霊魂は、キリストへの愛にもえさかっていたので、人びとの霊魂を救おうとの、救い主の火のようなご熱情に無感覚な人たちの内的生活・観想的生活なるものを、ほんものとして受け取ることができなかった。聖女はいっている。
 「わたしは、タッタひとりの霊魂でも、煉獄から救いだすことができますなら、よろこんで世の終わりまで、煉獄の火の苦しみを、あまんじて受けましょう。苦しみの長さがなんでしょう。もしこの苦しみのおかげで、天主さまのご光栄のために、タッタひとりの霊魂でも、救いだすことができましたら!まして、たくさんの霊魂が救いだせるのでしたら……」

 そして、その娘たちに、こうおっしゃるのだった。
 「娘たちよ、この一点に――純然たる使徒的事業であるこの一点に、あなたがたのすべてのお仕事を、集中させなさい。すべてのお仕事を――念禱も、ムチうちも、大斉も、ねがいごとも……」

 じじつ、これが、カルメル会修道女の仕事なのだ。これが、トラピスト会修道女の、クララ会修道女の仕事なのだ。彼女たちこそは、あるく宣教師たちの足あとをたどる者だ。彼女たちこそはまた、自分らの念禱と苦行のあふれから、宣教師たちの霊生をはぐくみ育てる、尊い母性なのだ。

 彼女らの祈りの声は、いまだかつて宣教師らが、十字架の木をうちたてることもなく、福音の光りをかがやかせたこともない、未開の国々にまでこだまして、救世主のとうとい獲物なる、異教のやみにとざされた人びとの心に達する。もっと適切にいえば、彼女らの心奥に秘められている神愛のたえなる調べこそは、いかなる大使徒の雄弁にもまさって力づよく、全世界いたるところで、天主のご慈悲のみこえを、罪びとらの耳につたえている。

 なぜ、とおい異教の国々で、やみの子らがくびすを接して、まことの宗教に立ちかえるのか。なぜ。信仰の迫害のきびしい国々で、信者たちが、初代教会の殉教者たちに劣らず、英雄的忍耐を示しているのか。なぜ、殉教の責苦にもひとしい、ひどい苦しみのさなかにあって、宣教師たちがいつも、天上のよろこびに酔いしれているのか。
 その理由を知っているものは、そうたくさんはいまい。――修道院の奥ふかく身をかくし、人に知られず、世にうずもれて、天主にささげる彼女らの謙遜な祈りと犠牲にこそ、この霊界のすべての奇跡はつながっているのである。
 彼女らの祈りの指は、天主の恩寵の鍵盤の上を、玉あられのように乱舞し、罪のゆるしと永遠の光明のたえなる交響楽をかなでながら、人類の救済と教会の征服事業を、みごとに指揮する。――こころ静かに、そして孤独のうちに!
   (この章 続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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