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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か?(続き)L'Ame de tout apostolat

2018年01月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か? の続きをご紹介いたします。


第七の真理 私はまじめに、恐れおののかねばならぬ。イエズスが私から、強く要求しておいでになる内的生活の度合いに、自分がまだ達していないのを思って。

 (一)――もし私が、イエズスのご生命に生きたいとの渇望を、ますます増大させることをやめるなら、――万事において、天主のみ心にかなうことを望ませ、どんなに小さな事がらにおいても、天主を悲しませることを怖れさせるこの渇望を、心から捨て去るならば、そのとき、私の内的進歩のあゆみは、とまってしまうだろう。
 さて、もし私が、この渇望を増大させるための手段を用いないなら、すなわち、朝の黙想、ミサ聖祭、秘跡および聖務日課、特別糺明および一般糺明、信心読書などを怠るなら、もしくは自分の過失によって、これらを十分に利用しないなら、そのとき私は、イエズスのご生命に生きたい、というこの渇望を、わざと枯らしてしまうのである。

 (二)―― もしも私が最少限の潜心 (recueillement) を持たず、そのために自分の用務にたずさわっている間でも清さのうちに私の心を保ってイエズスの御声を塞いでしまわないほどのかなり大きな寛大さを守らないなら、現れてくる死の要素を私に示し、これらの要素に対して戦うように私を招くイエズスの声を聴くことができなくなってしまう。

 さて、これを確保するための手段である典礼生活、射禱(とりわけ嘆願を含んだ)、霊的聖体拝領、天主の現存を考える修業、などを怠るなら、私はこの最少限の潜心さえ持つことができない。

 潜心がなければ、私の霊的生活に、小罪が、次から次へと、ふえてくる。そして、不幸にも、私はそれに気づかない。このなげかわしい状態を、ひたかくしにかくそうと、霊魂は、自分がその中におちこんでいる妄想さえ利用することを忘れない。信心は、実のいった実行的なものよりも、漠然とした理論的なものになってしまう。事業熱には取りつかれる。……これは、あきらかに、心の盲目である。そして、罪の責任と罰は、当然、私がこうむらねばならぬ。絶対に持っていなければならぬ潜心の不足によって、私はこの罪の原因を、自分で作りだし、それを養い、ながくたくわえていたからである。

第八の真理 私の内的生活は、せんじつめれば、“心の取り締まり”に帰着するだろう。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れでるからである」(格言の書4・23)

 “心の取り締まり”とはほかでもない、私のすべての行動を監視して、それが起きるとすぐ、動機において、成就の過程において、これを毒することのできる不純なものが、いっさいはいりこまないように警戒する、ふだんの、また少なくともひんぱんの、こころづかいをいうのである。このこころづかいは、静かで、そわそわしない。たやすく実行でき、心の平安をみださないものではあるが、天主にたいする子供ごころの信頼にもとづいているから、いたって強固である。

 心の取り締まりは、精神の働きというよりむしろ、心と意志の働きである。おのれの義務をはたすために、心と意志を、いっさいのそくばくから解放し、自由にしてくれるものは、心の取り締まりである。

 心の取り締まりは、私の行動をそくばくしないばかりか、かえってこれを自由にし、完成する。なぜなら、それは、私の行動を、天主の霊にしたがって調整し、これを正しく導いて、身分上の義務に合致させてくれるからである。

 心の取り締まりは、いついかなるときも、実行できる修業である。それは私に、心の目をもって、現在の行動を監視させる。一つの行動でも、そのあらゆる部分を、それが生起するとたんに、しずかに、注意ぶかく眺めさせる。それは“Age quod agis” 「あなたが現在、なしつつあることをなせ」(他のことに気を取られてはならぬ、あなたの現在の仕事に専心せよ)という格言を、きちょうめんに守ることなのである。霊魂は、ちょうど歩哨(ほしょう)のように、自分の心のあらゆる動きに、心奥に生起するすべての現象に――感受する印象、意向、欲情、感情、心の傾きに――一言でいえば、内的、外的のすべての仕業、すべての思い、望み、言葉、行ないに、警戒の目を光らせている。
 心の取り締まりは、ある程度の潜心を要求する。
 注意の散漫な霊魂には、心の取り締まりはない。
 心の取り締まりの修業を、しばしば実行しているうちに、すこしずつ、その習慣が身につぃてくる。
 “Quo vadam et ad quid ? “ 「私はいったいどこへ行くのか? そして何のために?」
 イエズスは、このさい、何をなされるだろうか。イエズスが、私の代わりに、これをなされるとしたら、いったいどんなふうになされるだろうか。どんなお忠告を、私にしてくださるだろうか。ただいま、この瞬間、イエズスは何を、私に求めていらっしゃるのだろうか。――内的生活に飢えている霊魂は、自発的に、このような質問を、心にいだくのである。
 マリアをへてイエズスに行く――ということを知っている霊魂にとって、心の取り締まりは、いっそう容易であり、そのうえ、愛情のこもった修業となる。聖母によりすがることは、かれの心にとって、たえまない必要とさえなってくるからである。

第九の真理 霊魂が、イエズス・キリストを模倣しよう――まじめに、全面的に、そして愛情こめて、模倣しようと、心から烈しく望むとき、そのときイエズス・キリストは、霊魂の内部で、絶対の統治をお行いになる。だが、イエズス・キリストを模倣する過程には、いろいろの段階がある。

 (一)――霊魂は、いっさいの被造物にたいして、無関心となる。その被造物が、自分の気に入ろうと、入るまいと。……霊魂は、イエズスのお手本にならって、万事において、ただ天主のみ旨だけを、自分の行動の唯一の基準にする。「わたしが天からくだってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみ旨を行うためである」(ヨハネ(6・38)

 (二)――「キリストは、ご自身をよろこばせることは、なさらなかった」(ローマ15・3)
 霊魂は、おのれの自然の感情にとって、気に入らないもの、いやなものに、いっそう喜んで近づく。イエズス会の創設者・聖イグナチオが、その有名な『霊操』の一章「キリストのみ国」の中でいっている、“Agendo contra” 「万事において、おのれ自身に逆らって行動せよ」という境地が、このとき実現する。

 これはおのれの自我、おのれの自然的傾向に逆らう行為であって、そのめざすところは、キリストの清貧、その苦しみへの愛、その屈辱への愛を、なにものにもまさって模倣することにある。聖パウロの表現をかりるなら、霊魂は、このとき、「ほんとうにキリストを知る」(エフェゾ4・20)のである。

第十の真理 私が、どんなにみじめな罪びとだろうと、私が祈りたいと望み、また天主の恩寵に忠実でありたいと望みさえすれば、イエズスは私に、内的生活に立ちもどるためのいっさいの手段を、よろこんでお与えになる。そして、この内的生活のおかげで、私はイエズス・キリストの親友となり、私の霊魂のなかにあるかれのご生命を、ますます成長発展させることができる。そうだったら、この苦しい、困難な霊的試練の途上においてさえ、私はたえまなく、内心の喜悦を味わうことができる。かくて、イザヤ預言者の言葉が、私において、みごとに実現するのである。

  そうすれば、あなたの光りが暁のようにあらわれ出て、
  あなたは、すみやかにいやされ、
  あなたの義は、あなたの前に行き、
  主の栄光は、あなたのしんがりとなる。
  また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、
  あなたが叫ぶとき、
  「わたしは、ここにおる」と言われる。
  主は常に、あなたをみちびき、
  よき物をもって、あなたの願いを満ち足らせ、
  あなたの骨を強くされる。
  あなたは、うるおった園のように、
  水の絶えない泉のようになる。(イザヤ58・8~11)

 第十一の真理 天主が、もし私に、私の活動を、ただ私一個人の成聖のためばかりでなく、さらに使徒的事業のためにも活用することをお求めになるなら、そのときは、万事に先んじて、心の中に、次のような強い信念をかたち造らねばならぬ。
 「イエズスこそは、私のこの事業の生命でなければならぬ。イエズスはそれをお望みになるのだ!」と。
 私の努力だけでは、ダメである。絶対ダメである。
 「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
 私の努力が、りっぱな実を結ぶための、また天主に祝福されるための、唯一の条件は、それが、ほんとうの内的生活によって、イエズス・キリストの万物を生かす天主的ご活動に、たえまなく一致していることである。そうすれば、私のつたない努力でも、じつに全能のちからをおびるのだ。「わたしは、わたしを強くしてくださるかたによって、何ごとでもすることができる」(フィリッピ4・13)
 だから、もし私の努力が、高慢な自負心から生まれているなら、もしそれが、各自身の才能と力量にたいする過度の自信から、または成功だけをこいねがう功名心の一念から出ているなら、それは天主から排せきされるにきまっている。
 天主の栄光から、その幾分かを奪い取り、これをもって、おのれをかざろうとするのは、私にとって、ゆるすべからざる汚聖の罪ではないだろうか。
 「キリストを離れては、自分は何もできないのだ!」この信念が、霊魂の活動を、よわよわしく消極的にすると思ったら、大まちがいだ。かえって、これを強壮にし、男性的にする。
 この信念こそは、私の“力”である。この信念があればこそ、謙遜を修得するためのに、どんなにか、祈りの必要を、痛感することだろう。
 謙遜こそは、霊魂の宝である。天主のお助けの確証である。事業成功への保証である。

 この点、最も大切な根本原理である。このことを、身にしみてさとった上は、心霊修業のあいだに、次の諸事項を、まじめに検討して、自己反省をしなければならぬ。
 私の活動は、単独では超自然的にゼロである。だがしかし、それがイエズス・キリストの天主的ご活動に合流されるときは、全能のちからをおびる――というこの信念が、私のうちに、よわくなってはいないか、どうか。

 はたして、私は、いっさいの自己満足と虚栄を、――わが使徒的活動において、その成功をおのれに帰せようとするいっさいのウヌぼれを、私の心から、なさけ容赦もなく、追放しているか、どうか。

 はたして、私は、自分自身にたいして、絶対の不信用をおいているか、どうか。

 自分の事業を生かしてくださるように、また、天主のお助けにとって第一の、そして根本的障害となる高慢から、自分を救ってくださるようにと、はたして私は、天主に祈っているか、どうか。
 上の事がらを、まじめに反省してみることだ。

 これこそは、内的生活の“信条”なのだ。これが、霊魂にとって、その存在の土台となるとき、霊魂はすでにこの世ながら、天国の幸福にあずかるだろう。

 内的生活こそは、天国の永遠の幸福に予定された人びとの生活である。

 内的生活こそは、天主が人類を創造するにあたっていだいておられた、人間の終局の目的に、ピッタリ即応する生活なのである。
 それはまた、天主の御ひとり子のご托身の目的にも、りっぱにそっている。「天主が、その御ひとり子を、世におつかわしになったのは、わたしたちを、かれによって、生きさせるためである」(ヨハネⅠ 4・9)

 内的生活こそは、人間が心のそこから願いもとめる、最高の幸福の状態なのである。
 「人間の終局の目的は、天主と一致することである。ここにこそ、人間の幸福は存するのだ」
 聖トマス・アクィナスが、こう言っている。
 内的生活のよろこびは、地上の歓楽とはちがって、たとえ外部にはイバラのとげがあっても、内部にはいつも、幸福のバラが咲きみだれている。
 「この世の歓楽をのみ追及する人びとは、あわれである。その姿は痛ましい……」アルスの聖司祭が、こういっている。「かれらは、裏にイバラのとげのあるオーバーを着ている。すこしでも身を動かせば、肩がチクチク痛む。これに反して、まことのキリスト信者は、やわらかい毛皮のついたオーバーを着ている」
 世人は、「十字架だけを見つめて、その背後にかくされている、なぐさめと喜びを見ない」(聖ベルナルド)

 内的生活こそは、天国の生活である。霊魂は、生ける天国となるのだ[1]。
 聖女マルガリタ・マリアのように、かれもまた、こう歌うことができよう――
  
われは、いつでも所有する、われは、いずこにも持ち運ぶ、
わが心の天主を、わが天主の聖心を。

Je possède en tout temps et je porte en tout lieu
Et le Dieu de mon coeur et le Coeur de mon Dieu.

 これこそは、聖トマス・アクィナスが言っているように[2]“永遠の幸福の開始”“Inchoatio quaedam beatitudinis” でなくて、なんであろう。
 まことに、成聖の恩寵こそは、地上における天国の芽ばえなのだ。

[1] Semper memineris Dei, et coelum mens tua evadit (St. Ephrem). Mens animae paradisum est, in qua, dum coelesitia meditatur, quasi in paradiso voluptatis delectatur (Hug. a Sancto Victore).
[2] 2a 2ae, qu. 180. art. 4.

聖ピオ十世会 2018年1月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX JAPAN report of Traditional Mass

2018年01月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、天主様に感謝します。今月は、毎年恒例の「踏み絵への償いの式」をすることができました。

絵踏みは1628年長崎で始まりました。長崎奉行を勤めた元外様大名竹中采女が発案したものです。

竹中采女は残酷な男で、信者の墓あばきや女・子供に至るまでに拷問をし、信徒をことごとく検挙して棄教を強要しました。従わない者は、雲仙で熱湯による責苦が与えられ、西坂では逆吊しによる拷問を受けました。

悪魔は、竹中に非常に恐ろしい事を思いつかせました。悪魔はマリア様の踵によって踏まれたので「マリア様を踏んでやろう」と。そこでピエタとか、マリア様の御像、あるいは御メダイを、毎年信者に踏ませました。230年の間、1858年に締結した日米修好通商条約によって踏絵制度が廃止されるまで、キリシタンと一緒に、マリア様も迫害を受けて苦しまれました。隠れキリシタンたちは、まず「サンタ・マリア様」を探しました。1866年にプチジャン神父様が大浦天主堂で信徒発見できたのは、マリア様のおかげです。

絵踏みの儀式は、毎年一月に行われました。そこで、私たちも毎年一月に償いの儀式を行っています。レプリカの踏み絵に映っている悲しみのマリア様をお慰めするために、ことしも接吻を捧げました。私たちを愛しているにもかかわらず、子供たちからつらい拒絶を受けておられるマリア様に、すくなくとも私たちの愛をお捧げしました。

マリア様は涙を流しておられます。日本の救霊の為に苦しむ涙です。悲しみのマリア様は、1975年の初土曜日から1月の初土曜日から、1981年の9月15日の悲しみの聖母の日まで、101回の涙を流しています。日本をこんなにも愛しているにもかかわらず、無視されて、冷淡で、無関心で、マリア様の愛は足蹴にされている事を嘆いている涙でした。

天使はある時言います。「日本はマリア様に捧げられたという事を喜んでいるけれども、この信心は全く無視されている。非常に悲しんでおられる」と。

愛する兄弟姉妹の皆様も、どうぞご自宅で絵踏みの償いとしてマリア様の御影にあるいは御像に接吻をお捧げください。

マリア様は「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えてくれます。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、偽りの教えである、と。

聖母よ、私たちを憐れんでください!















天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
この度は、御ミサに、終課、絵踏みの償いとしての踏絵への接吻式、御公現のチョークの祝別、御浄めのローソク行列の聖歌練習と、
盛りだくさんのスケジュールでとても濃い二日間となりました。
ハードなご聖務の中きっとお疲れになっておられたと思いますが、日本の信徒のために目いっぱい働いて下さる神父様に、どれ程感謝しなければならないかとつくづく思いました。本当にありがとうございました。

御公現のチョークで 20+C+M+B+18 と、家の玄関ドアの上に書くカトリックの習慣については前から知っていましたが、どうして三人の博士の頭文字を書くのか知りませんでした。
C.M.B.が、Chrisutus mansionem benedicat .「キリストがこの家を祝福して下さいますように」という言葉の頭文字と同じだからというご説明を聞いて、この習慣の意味もわかり、人に尋ねられてもお答えできるようになりました。

19日金曜には13名の方々が、20日土曜日には16名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のミサの聖福音ではカナの婚礼の部分が朗読されました。神父様のお説教で、聖福音についてよく黙想させて頂くことができました。
私達はミサに与るたびにキリストの花嫁として教会の一員としてキリストと霊的一致という結婚を再現している。そう黙想しながらミサに与り、御聖体を拝領しました。

また、私の水がめにはただの水、いえそれ以下のものしか入れることができなくでも、マリア様が仰るとおりにイエズス様のみ摂理に従えば、たとえそのみ摂理が自分に理解できないような無駄なようなことに思えても、イエズス様は最高の葡萄酒に変えて下さるという訓示には感動して嬉しくなりました!

また、カナの新郎新婦がマリア様を一番に婚礼にご招待した事に倣う事も決して忘れてはいけない、簡単で大事な事だと痛感しました。
自分の水がめを、マリア様のみ心への信心でいっぱいにすることを頑張ろうと思います。

土曜日のお説教で聖ファビアノ教皇様と、聖セバスチアノの生涯について黙想させて頂きました。
今年の8月、ローマへ巡礼に行くお恵みをいただき、まさにこの聖セバスチアノの聖堂、ご遺骸が安置されているすぐそばへ行った事を思い出しました。
セバスチアノが治癒の取次ぎをして下さる聖人だとは知らなかったのでお祈りしそこねた事があってちょっと残念ですが、大阪のマリア様の御心の中から、聖セバスチアノ様にお祈りしてお取次ぎを願う事にします。

また、聖歌練習 ではローソク行列の説明をして頂き、長い間救い主を待ちわび、やっとマリア様の御浄めの日に救い主を見、抱くことができたシメオンに倣い、御浄めのロウソクの行列には、私達一人一人がシメオンになって、光であるイエズス様をあらわすローソクに接吻して、抱き、最後まで命つきて天国に入るまでこの火を胸にもっていなければならない教会の意向があったのだと初めて知りました。当日は力が入りそうです!聖歌練習をがんばらねば・・・。

この度も本当にたくさんのお恵みに感謝致します。
天主様からどれほど多くのお恵みを頂いているかを知らない人々のためにもたくさんお祈りしなければいけないと思う出来事もあった日でした。
いつも神父様から頂くお言葉ですが、小野田神父様の上にも天主様の大きな祝福とお恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 28人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 55人(内、子供6人)


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「『主よ、主よ』と口で言う者が天の国に入るのではない。私の聖父の御旨を果たす者が、天国に入る。」 聖父の聖旨とは何か?(2017年1月22日 御公現後の第3主日のミサ フルーガー神父様御説教)

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マルレ司教様来日)2016年9月8-12日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 「堅振式の訓話では、ディオクレティアヌス帝の治世、ローマの殉教者である聖セバスチアノの話をしていたただきました。聖セバスチアのは皇帝の近衛兵で、妻子もありました。当時のローマは皇帝を神のように崇拝していましたが、しかし、セバスチアノはイエズス・キリストを信じ皇帝の前で公にカトリック教徒であることを宣言し、ついに殺されることになりました。・・・」


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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