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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ファチマの秘密「そのお方だけがあなたたちを助けることが出来る」 最大の悪とはこの地獄の火に落ちること。たとえ全世界をもうけても霊魂を失っては何の利益か?

2020年07月10日 | ファチマ
【再掲】ファチマの秘密 (1)




ファチマの牧童の一人ルシアはこう書いている。「秘密は3つの別々の部分からなっています。私はそのうちの2つをあらわにしましょう。最初の秘密は地獄のヴィジョンでした。・・・第二の秘密はマリアの汚れ無き御心への信心に関するものです。」(第三の手記[回顧録])

残念ながら、まだ私たちには第三の秘密は完全には分かっていない。しかし、シスター・ルシアがその第三の手記の中で最初から最後まで詳細に聖母のメッセージを書いているにもかかわらず、そこには第三の秘密は書かれていない。しかしそれを読むとあたかもこの聖母のメッセージには何らの分断も切れ目も無いかのようだ。

実はファチマの秘密を分析研究するにつれて、それらの3つの部分の秘密が1つのメッセージを形作っていることが分かってくる。そしてこの唯一の秘密は1917年7月13日に聖母によって告げられた。3つの部分は互いに分かち難くつながっている。

もちろんファチマのメッセージを信ずることはカトリック信仰にとって不可欠なことではない。しかし、私たちの母なる教会はこれを「信仰と道徳とに反するものではない」として信じることを認可したのだから、私たちはこれを安心して信じよう。天主の御母のメッセージに耳を傾けてみよう。だから私たちはしばらくの間このメッセージを黙想することにしよう。

まず、シスター・ルシアの手記に忠実に従い、事実関係を把握しよう。時は1917年7月13日金曜日である。私は以下にルシアが書いたポルトガル語の原文に最も忠実だと考えられるフランス語のテキストをもとに、その時何が起こったかを訳出してみよう。私はこの記事を書くために主に次の文献を利用する。
Toute La Verite sur Fatima, Tomes I a III par Frere Michel de la Sainte Trinite, Renaissance Catholique, Contre-Reforme Catholique, F-10260, Saint-Parres-les-Vaudes, France.
この本はルフェーブル大司教様も強く勧めておられた本である。

この本には英語版もあり、The Whole Truth about Fatima, available from: Immaculate Heart Publications, Box 1028, Buffalo, New York 14205 USA. 或いは、Immaculate Heart Publications, 452 Kraft Road, Fort Erie, Ontario, Canada L2A 4M7 CANADA.である。
また、日本語になっている文献として、光明社からの「ファチマの牧童」C.バルタス神父著[Chanoine C. Barthas (+26 aout 1973)]中山利喜太郎訳と、ドンボスコ社から出ている、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」ヴィットリオ・ガバッソ 志村辰弥 共訳編とをも参照した。

以下の訳でアンダーラインが引いてあるところは、ドンボスコ社から出ている、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示-ルチア修女の手記」では省略されているか、別の言葉になってしまっているところである。

「『あなた様は私に何をお望みですか』と私は尋ねました。
『私はあなたがここに来月の13日に来ることを望みます。そしてロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(=ロザリオの聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。』
『私はあなたがどなたでいらっしゃるのか私たちにおっしゃって下さるよう、そして誰もが私たちに御出現なさっているということを信じるように一つ奇跡をなさって下さることをお願いいたします。』
『毎月ここに来続けなさい。10月には私は私が誰か、私が何を望んでいるか、言いましょう。私は皆が見、信じるために一つ奇跡を行いましょう。』・・・
そしてこのお方は続けてこう仰いました。
『罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。"イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです"、と。』
これらの最後の言葉を聖母が話されると、以前2ヶ月の間なさったように、もう一度両手を開かれました。
光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。

この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。(私が「キャ!」という叫びをあげたと私の周りの人が聞いたといいますが、それはこの光景を見たときのことに違いありません。)

悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。

この光景は一瞬間しか続きませんでした。私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。

恐れのあまり、助けを求めるかのように私達は聖母に向かって目を上げました。聖母は優しく悲しそうにこう言いました。
「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。
戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。

あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。

これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。

もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。


最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。

ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]
このことを誰にもいわないで下さい。フランシスコにはそれをいうことが出来ます。
あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。**」

(*ルシアの四つの回想録の内の二つにはこの7月13日のことが記されている。その内容は一字一句同一である。しかし第四回想録では、今日本語に訳出したように「ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]」という文章は最後に書かれている。しかし、この文章は論理的にはここ*印のところに来るべきである。なぜなら次に「最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。」という文章があるからである。

また、ここに第三に秘密に関する記事がなければならない。それは、ファチマの第三の秘密がカトリック信仰に関することだからである。ところで、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」137頁には、ドイツのノイエス・オイローパ紙が発表したいわゆる「第三の秘密」が載せられている。しかしこれは真面目なものではない。またデルコル神父編「ファティマの第三の秘密 教会内の信仰の危機」(ご存じですか?シリーズ87 1995年再版)にもミゲル・アンヘル・ポブレテという青年の受けた「メッセージ」の話が載っている。デルコル師は教会認可を受けていない御出現でもむやみに広めておられたから、多分にこれは教会の認可を受けていないだろう。もし教会認可を受けていたとしても、その内容は、少なくともルシアが受けた第三の秘密ではない。)

(**日本語では同じ祈りが秋田で天使によって次のように教えられた。「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」)

(**日本語では普通こう唱える。「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」)

この後に、沈黙がよぎりました。私はそこで尋ねました。
「あなた様が私に望むことは他にありますか?」
「いいえ、私は今日はあなたにこれ以上何も望みません。」
すると、以前と同じように聖母は東の方向に向けて、天の大きな距離のために見えなくなるまで昇られました。

マリアの汚れ無き御心こそが、この7月13日のメッセージの核心であり中心部である。既に5月13日、6月13日の二回にわたってマリアの汚れ無き御心は啓示され、準備されていた。そして、この7月13日のメッセージこそ、ファチマの全てのメッセージの中心である。

この後の三回の御出現はこのメッセージが本当に天主の御母からのものであるということを示すサイン(署名)であり印鑑であり証明であった。聖母がこの時荘厳に「私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう」と告げ知らされたように、天主様の憐れみの計画を告げるために聖母は更に後になって戻ってくると約束された。

実にポンテベドラで1925年12月10日、聖母はご自分の茨で貫かれた汚れ無き御心をお見せになった。そして聖母はお約束の通り月の最初の土曜日に五回続けて償いのための聖体拝領をすることを要求された。また更にもう一度、またもお約束の通りトゥイで1929年6月13日にもう一度戻られロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献することを要求された。

聖母は「ロシア」をご自分の汚れ無き御心に奉献されることを要求されたのだった。ロシアを?そう、ロシアを。1917年ルシアは「ロシア」という言葉が何を意味するのか知らなかった。しかし彼女は幼いながら常に"a Russia"という言葉を聞いたと断言していた。

光明社からの「ファチマの牧童」セ・バルタス著 中山利喜太郎訳1947年初版発行には、「世界」(89ページ)となっているが、ルシアの回想録には常に"a Russia"(ロシア)と書かれている。同様に、彼女は確かに"no reinado de Pio XI"と聖母が言われるのを聞いた。彼女にはそれが確実だった。ルシアは「次の教皇の時」と聖母が言われるのを聞いたのではなかった。ルシアは1946年にヨンゲン神父にこう言っている。「私達はそれが教皇様なのか王様なのか知りませんでしたが、いとも聖なる童貞母はピオ11世と話されたのです。」
 「ファチマの牧童」の90頁注の17に正しく記載されているように「不思議な光によって照らされた夜」というのは、1938年1月25ー26日の夜に成就した。

聖母はまずこう言われた。「そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来る」と。ここに秘密中の秘密がある。天主はかつて聖母を通して救い主をお与えになったように、今もいつも私達に聖母を通して全てを与えようと望まれている。天主は聖母の汚れ無き御心への信心の報いとして私達に全てを、霊的善のみならず全世界にこの世的な平和さえも与えようと望まれる。

聖母はこう言われる。「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界に平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」

つまり、私達にとって聖母を通さなくては世界に平和を得戦争を止めることが出来ない、と言われたのだ。聖母だけが私達を助けることが出来るのだ。聖母を通さなくては何も得られないのだ。この連載を通じて私は、聖母の汚れ無き御心だけが、世界の平和のためのみならず、私達の救いのため、全キリスト教世界と、カトリック教会の救いのために残された最後の手段であると出来る限り明らかにするつもりである。

ファチマの秘密はここにある。ファチマはマリア様の汚れ無き御心のいわば「啓示」だ。

マリアの汚れ無き御心だけが全ての悪に対する最高の薬であり、私達の霊魂の救い、私達の愛する祖国、世界中の国々、全キリスト教世界、そしてローマ・カトリック教会の救いのための最終の唯一の手段であるということの啓示である。これが、全知全能の聖三位一体がその無限の憐れみの計画によって、私達に聖母マリアのいとも優れて聖なる、汚れ無き御心の母としての取り次ぎによって、私達に全てを与えようと言う啓示なのだ。

だから私達はまずロザリオを唱えなければならない。毎日ロザリオの聖母を崇敬してロザリオを愛を込めて唱えねばならない。毎日唱え続けなければならない。これが天主の御母聖マリアのお望みだ。

このメッセージの終わりに聖母は子どもたちにこう言われた。「あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。

『ああイエズスよ、我らを赦し給え。
我らを地獄の火より救い給え。
全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを
天国に導き給え』」と。


+「ああイエズスよ」と、聖母は御子への祈りを教え給う。イエズスとは「救い主」という意味である。ファチマのメッセージはきわめてキリスト中心的である。聖母の教えた別の祈りもこの救い主への呼びかけで始まっている。「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさん、特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。"イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです"と。」

ロザリオの祈りとは、天主なる救い主、約束されたメシアであるイエズス・キリストが教えられた主の祈りを唱え、天にまします我らの父に祈ることであり、天主から使わされた大天使ガブリエルと、天主からの特別の啓示を受けた聖エリザベトの言葉「めでたし」の祈りで、天にまします我らの母に祈り、聖三位一体なる唯一の天主に栄光を祈る。そして聖母はその後に救い主イエズスに対する祈りを付け加えることを望まれた。

+「我らを赦し給え。」ファチマのメッセージの全体に染み通っているのがこの「罪」という現実である。私達は罪人であり、罪が私達の奥深く根を張っている。罪は私達の永遠の生命を脅かし、私達を地獄に追いやる唯一のものである。聖母の御出現の中でも天使の出現でも「罪」に言及しなかったものは一つもない。ロザリオで、私達は主祷文をこう唱える。「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え!」天使祝詞ではこう唱える。「罪人なる我らのために・・・祈り給え!」私達はこのいわば「連祷」の後に「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え!」と願うのである。ああ救い主よ、我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え、天主の御母にして我らの御母よ、罪人なる我らのために、我らの罪が赦されるように祈り給え!と。

+「我らを地獄の火より救い給え。」"Livrai nos do fogo do inferno!"聖母はこの最も緊急な祈りをすることを望まれた。

聖母は地獄という現実を私達がいつも思い出すことを望まれた。聖母は地獄には本当に永遠の火がありそれを避けなければならないことを私達に教えようとされたのだ。恐ろしい、しかしそれが現実なのだ。聖母は地獄の火から「救われる」ことを祈れと言われた。「我らを悪より救い給え」と主祷分でも同じことを祈る。ラテン語ではSed libera nos a maloと言うが、「libera nos 我らを救い給え」と言う動詞と、ポルトガル語の「livrai nos 我らを救い給え」とは同じ語源の動詞である。私達にとって最大の悪とはこの地獄の火に落ちることである。たとえ全世界をもうけても、霊魂を失っては何の利益になるだろうか?

カトリック信者はだからいつもこの最大の悪から避けられるように天主の憐れみを乞うてきた。典礼でも、カトリック祈祷書でもそうだった。

イエズスの御名の連祷では「A morte perpetua, libera nos, Jesu! 永遠の死より、イエズス、我らを守り給え!」
諸聖人の連祷でも「A morte perpetua, liber nos Domine! 永遠の死より、主よ我らを救い給え!」また「Ut animas nostras ...ab aeterna damnatione eripias, te rogamus audi nos! 我らの霊魂を永遠の滅びより救い出し給え、我らの祈りを聞き入れ給え!」と言う。

更に、ミサのローマ・カノンの中では「ab aeterna damnatione nos eripi!永遠の滅びより我らを救い出し給え!」と祈っている。これこそ最も緊急の祈りだ。これに私達の全生涯がかかっている。永遠のたすかりを全うするか否かにこそ、全人生の意義がかかっている。私達が地獄の火から救われるためにこそ天主は人となり、御苦難を受け十字架で死を甘んじ受けられたのだ。天主の本性上の御子イエズスのこの世に来られた目的はそこにあった。イエズスの苦しみ、受難、十字架、流された御血潮と汗、それら全ては私達が地獄の火から救われるためだった。イエズスなしでは、イエズスのご受難とそのいとも貴き御血なしには私達は永遠に地獄の火に焼かれるべきものであった。私達はイエズスに私達の救いの恩義がある。だからこそ、聖母は私達にこう祈りなさいと教える。「ああイエズスよ、我らを地獄の火より救い給え!」と。そして、これは同時に大きな希望に満ちた祈りだ。「私を通らずに御父のもとに誰も行けない」と主は仰せられたが、私達の全希望はイエズスの御名にある。私達は主の十字架に全てを期待する。Ave Crux, spes unica! 私達は救い主イエズスによって罪の赦しを与えられることを確信している。聖ペトロはこう言った。「天上天下イエズスの御名以外に人の救われる名はない」と。だから、地獄の火から救われ、天国へ行けることを主の憐れみによって期待しているのだ。

+「全ての霊魂・・・を天国に導き給え。」私達の熱烈な望み、私達の最大の善、それは私達が、私達の愛する者たちが皆救われることだ。天の御父も皆が救われることを望まれる。キリストも皆が救われるためにご自分の生命を捨てて十字架で死なれた。だから、私達も「全ての霊魂」が救われるようにと祈るように聖母は望まれた。そうだas almas todas全ての霊魂だ。或いはシスター・ルシアがよく唱えるように、as alminhas todas全ての哀れな霊魂だ。Alminhasという単語は「霊魂たちalmas」の指小語であり、愛情と憐れみの感情を含む言葉だ。煉獄の霊魂のことだけとは限らない、いやむしろ、バルタス師がいみじくも指摘するように(91ページ注20)この祈りは罪人のため、かわいそうな罪人の霊魂のため、天主様を侮辱し続けるがために地獄の火に落ちていこうとする罪人に関することである。

ルシアはこう書いている。「ある人は、子どもたちを恐れさせたくないために地獄については話しません。ところが天主は私達三人に、一人は六才だったのに、恐ろしい地獄を見ることを許されました。ヤシンタはたびたび考え込んで地面とか岩の上に座りこう叫びました。『ああ、地獄!地獄!地獄に行く霊魂が本当にかわいそう!下のあそこでは人々は生きたまま火の中の薪のように燃えているの!」そして震えながら跪いて合掌し聖母が私達に教えて下さった祈りを唱えました。『ああイエズスよ、私達を赦し給え。私達を地獄の火から救い給え。全ての霊魂、特に最も必要とする霊魂たちを、天国へ導き給え!』司教様、司教様は私が受けた印象によればこの祈りの最後の言葉は永遠の滅びの非常に大きな危険にある霊魂、或いはそれに非常に近い霊魂たちのことを指しているのだと言うことをもう理解されることでしょう」と。(第三手記による。「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」p140参照)

Livrai para o Ceu! 天国に導き給え!私達は、心からこう祈る。「彼らを天国へと連れて行き給え、天国へと持ち上げ給え、天国へと引き寄せ、引き上げ給え!イエズスよ、御身は「私が上に上げられたとき全てを私のもとに引き寄せようOmnia traham ad meipsum.」と仰せられました。御身を仰ぎ見る者たちを、全ての霊魂たちを、御身のもとへ引き寄せ給え、御身の天国へと引き寄せ給え。御身を知り愛する恵み、聖徳を実践する恵みで御身のもとに導き給え!私達の祈りは受け入れられる価値のないものです。私達は何の権利もありません。しかしただ御身の無限の憐れみによって、御身の愛と同情によって、全ての霊魂を救い給え。もちろん、私達は全ての霊魂が、罪を犯すのを止め、御身の聖心を悲しませるのを止め、天主に立ち戻りそして救われることを望みます。出来れば、彼らが全て回心し、御身を信じ、愛し、救われることを望みます。・・・でも、私達の要求が全て聞き入られるほど私達には功徳がありません。私達はだから、要求をもっと明確にします。どうぞ、全ての霊魂が無理でしたなら、出来るだけ多くの霊魂のために、特に優先的に今地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある霊魂たちのため、今一番地獄に落ちる危険のある霊魂たちのため、祈ります。」これが聖人達の論理、愛の論理だった。だから、「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」と祈りなさいと聖母は教えるのだ。

+「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」「めでたし」の祈りの中で聖なる私達の母公教会は、「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!」という祈りを付け加えた。「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!アーメン」天主の御母よ、今もいつも我ら罪人たちのために祈り給え。そして特に地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある臨終の時に、最も必要とするその時に、我らのために祈り給え!と言うのだ。

今地獄に落ちる間際にいる霊魂たちは聖母に祈らない。聖母を侮辱する。だから、聖母は彼らに代わって私達に祈れと頼まれたのだ。おお、良き牧者なるイエズスよ、御身は失われた罪人を捜し回り、それが救われることを、うみも病みもされない。イエズスの聖心よ!

幼いイエズスのテレジアは、その当時マスコミを騒がせて居た大悪党、三人を殺して悔悛の心を何一つ見せなかった殺人犯Pranziniのために祈った。彼女は霊魂の救いに飢え、大きな罪人たちの霊魂が地獄の火に落ちないようとりとめようと言う燃える愛の望みを持っていた。そして、彼女の祈りと犠牲でイエズスといとも貴き御血から救いの「天からの露」を勝ち得たのだった。それと同じく、私達もファチマの聖母に教えられ、罪人たちのために、最も必要とする霊魂たちのために祈るのだ。

ルシアはまたこう書いている。「ヤシンタはこのように跪いたままで、長い間同じ祈りを何度も何度も繰り返して唱えました。ときどき誰かが眠りから目を覚ましたように、お兄さんか私を呼んでこう言うのです。『フランシスコ、フランシスコ、私と一緒に祈ってる?私達は地獄から霊魂たちを救うためにほんとにたくさん祈らなきゃダメ!あんなに多くの霊魂がそこに行くのだから!あんなに多くの!』

(この項続く)文責トマス小野田神父

「マニラのそよ風」より

【再掲】ファティマの聖母マリアの1917年7月13日のメッセージ

2020年07月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月13日はファティマの聖母マリア様の御出現の記念日です。そこで、特に重要な1917年7月13日のメッセージをご紹介します。日本語の後にポルトガル語をつけました。

【参考文献】
Livro: "As Memórias da Irmã Lúcia" (download)




1917年7月13日
13 de Julho de 1917

ルチア『あなた様は私に何をお望みですか?』
Lúcia: - Vossemecê que me quer?

聖母『私はあなたがここに来月の13日に来ることを望みます。そしてロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。
Nossa Senhora: - Quero que venhais aqui no dia 13 do mês que vem, que continuem a rezar o terço todos os dias, em honra de Nossa Senhora do Rosário para obter a paz do mundo e o fim da guerra, porque só Ela lhes poderá valer.


『私はあなたがどなたでいらっしゃるのか私たちにおっしゃって下さるよう、そして誰もが私たちに御出現なさっているということを信じるように一つ奇跡をなさって下さることをお願いいたします。』
- Queria pedir-lhe para nos dizer quem é; para fazer um milagre com que todos acreditem que Vossemeçê nos aparece.

『毎月ここに来続けなさい。10月には私は私が誰か、私が何を望んでいるか、言いましょう。私は皆が見、信じるために一つ奇跡を行いましょう。』・・・
- Continuem a vir aqui todos os meses. Em Outubro direi quem sou, o que quero e farei um milagre que todos hão-de ver para acreditarem.


そしてこのお方は続けてこう仰いました。
『罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。』
Depois prosseguiu:
- Sacrificai-vos pelos pecadores e dizei muitas vezes e em especial quando fizerdes algum sacrifício: "ó Jesus, é por vosso amor, pela conversão dos pecadores e em reparação pelos pecados cometidos contra o Imaculado Coração de Maria."

これらの最後の言葉を聖母が話されると、以前2ヶ月の間なさったように、もう一度両手を開かれました。
Ao dizer estas últimas palavras, abriu de novo as mãos, como nos dois meses passados.


光線が大地を貫いたように見えました。そして私たちはあたかも火の海の様なものを見ました。
この火の中に浸かり込んでいるのは悪魔たちと人間の形をした霊魂たちでした。霊魂たちは透き通った燃える炭火のようで、皆真っ黒か褐色のようでした。彼らは雲のような煙と共に自分自身からわき出る炎によって持ち上げられ、この大火事の中に漂っていました。彼らは、恐ろしくまた恐怖のあまり震えおののかせる苦悩と絶望の叫びとうめきのまっただ中で重さも平衡感覚もなく、大火災の火の粉のようにあちこちに、また下に落ちていました。(私が「キャ!」という叫びをあげたと私の周りの人が聞いたといいますが、それはこの光景を見たときのことに違いありません。)
O reflexo de luz que delas expediam pareceu penetrar a terra e mostrou-nos um grande mar de fogo que parecia estar debaixo da terra. Mergulhados nesse fogo os demônios e as almas, como se fossem brasas transparentes e negras, ou bronzeadas com forma humana, que flutuavam no incêndio levadas pelas chamas que d'elas mesmas saíam, juntamente com nuvens de fumo, caindo para todos os lados, semelhante ao cair das fagulhas em os grandes incêndios sem peso nem equilíbrio, entre gritos e gemidos de dôr e desespero que horrorizava e fazia estremecer de pavor.

 悪魔は燃えさかる黒い炭のように透き通ってはいましたが、汚らしい見たこともない動物の恐ろしい厭な形をしていたので地獄に落ちた霊魂たちとは区別されました。
 この光景は一瞬間しか続きませんでした。私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。
Os demónios distinguiam-se por formas horríveis e asquerosas de animais espantosos e desconhecidos, mas transparentes e negros. Esta vista foi um momento, e graças à nossa boa Mãe do Céu que antes nos tinha prevenido com a promessa de nos levar para o Céu, se assim não fosse, creio que teríamos morrido de susto e pavor.


 恐れのあまり、助けを求めるかのように私達は聖母に向かって目を上げました。聖母は優しく悲しそうにこう言いました。
Em seguida, levantamos os olhos para Nossa Senhora que nos disse com bondade e tristeza:


【霊魂が地獄に堕ちないのため、聖母マリアの汚れ無き御心に対する信心】
「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。

【もしも実行するなら】
 もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。
 戦争は終わるでしょう。

【もしも実行しないなら】
 しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。

 あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。

- Vistes o Inferno, para onde vão as almas dos pobres pecadores. Para as salvar, Deus quer estabelecer no mundo a devoção a meu Imaculado Coração.

Se fizerem o que eu disser salvar-se-ão muitas almas e terão paz.
A guerra vai acabar,

mas se não deixarem de ofender a Deus, no reinado de Pio XI começará outra pior.

Quando virdes uma noite, alumiada por uma luz desconhecida, sabei que é o grande sinal que Deus vos dá de que vai a punir o mundo de seus crimes, por meio da guerra, da fome e de perseguições à Igreja e ao Santo Padre.


【この世が地獄にならないのため、聖母マリアの汚れ無き御心に対する信心】
 これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。

【もしも実行するなら】
 もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。

【もしも実行しないなら】
 さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。


【聖母マリアの汚れ無き御心の凱旋の約束】
 最後には、私の汚れ無き御心が凱旋するでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。

 ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]

 このことを誰にもいわないで下さい。フランシスコにはそれをいうことが出来ます。

- Para a impedir virei pedir a consagração da Rússia a meu Imaculado Coração e a comunhão reparadora nos primeiros sábados.

Se atenderem aos meus pedidos, a Rússia se converterá e terão paz,

se não, espalhará seus erros pelo mundo, promovendo guerras e perseguições à Igreja, os bons serão martirizados, o Santo Padre terá muito que sofrer, várias nações serão aniquiladas.

Por fim o meu Imaculado Coração triunfará. O Santo Padre consagrar-me-á a Rússia, que se converterá, e será concedido ao mundo algum tempo de paz.

Em Portugal se conservará sempre o dogma da fé. etc.

- Isto não o digais a ninguém. Ao Francisco sim, podeis dizê-lo.


あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。
ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。

Quando rezardes o terço, dizei depois de cada mistério:
"Ó meu Jesus! Perdoai-nos e livrai-nos do fogo do Inferno, levai as almas todas para o Céu, principalmente aquelas que mais precisarem."


ルチア「あなた様は、私にもっとお望みのことはありませんか?
- Vossemecê não me quer mais nada?

聖母「ありません。」
- Não.

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ファティマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




霊魂の生命なるキリスト 第1講の二 天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与らしめ給う

2020年07月10日 | カトリックとは
霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

二 天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与らしめ給う。

これより使徒聖パウロのテキストに従って話を進めて行くが、中には重複する所があるかも知れない。しかし問題は我等の永遠の生死に関することなので、極めて重要、深遠である。また深い沈思、観想によらなければ、よく会得できない偉大、崇高なる教義であるので、幾度繰返されようとも無益ではないだろう。さればわが霊的生命を深め、これに豊かなる果を結ばせたいと望む人は、ここに充分な時間と智と意とを用いて教義の観想に深く入り行く必要がある。

基礎的知識の必要なること。何の研究にしてもまずぜひ持たなければならないものは、それに関する原理と基礎的知識である。それはある事物に関して原理と基礎的知識を持たないでは、どのような研究も健全なる成果は挙げられないからである。しかして基礎は、これが上に築かれこれによって実現されるべき結果が重大深遠なものであればあるほど、それだけ深い精密なる考究と注意を必要とする。しかるに純理論や基礎的な学問、観察、研究は一般に無味乾燥なために敬遠され易い。しかし、これを持つ者でなければ――たとえ外観上の進歩はあろうとも――真の確実な進歩はありえない。またたとえなんらかの結果は挙げえようとも、それには確固たる安定なく、危かしさは免れない。これがここで再び霊的生活の基礎的原理を取上げて述べるゆえんである。また実際について観るに、霊的な生命、実り、歓喜は真の教義(ドグマ)の基礎を持ち、これに固められた霊魂にこそ恵まれるものである。

天主の御計画の実現はイエズス・キリストによる。さて冒頭に引用した聖パウロの考によれば天主の御計画は、
(1)天主御自らの聖徳を我等に通ずるにある。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4)。
(2)この聖德は恩寵を原理とし超自然的性質とする養子の生活より成立っている。
(3)また特に天主の御計画は、人の言には表わしがたき深い教義であり、すなわちキリスト・イエズスによらなければ実現されがたい。

以上の三点に要約される。天主は我等が聖であることを望み給う。これ天主の永遠の御意志であり、このためにこそ我等を選み給うたのだ。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4) 「天主の御旨は汝等の聖たらんことに在り」(テサロニケ4:3)。これを我等に望み給うのは、御自ら聖に在しこれを我等にも通じて我等を望ならしめ、もって我等を御自分の御光栄に与からしめ、またこれをもって御自分の御喜びとも御光栄ともしようと欲し給うからである。「わが父の拠りてもって光栄を得給うは汝等がわが弟子とならんこと〔聖ならんこと〕これなり」(ヨハネ15:8)。

さらば聖とはどんなことであろう? 聖とは本性より完全無欠の状態を言う。しかるに本性より完全無欠なる者は天主以外にはない。故に聖は独り天主に在すのみである。「汝独りが聖に在す」。 天主の聖はこれを人間的に言えば、次の二つの要素、すなわち一つは、天主と被造物との間に横たわる無限距離と、他の一つは、天主は永遠に現在にして不変不動なる意欲的行いによって御自らの無限なる完全なる善に固着し給うことより成立っていると思われる。

御自らを完全に識り給う天主の叡智は、本性そのものがすべての行動の最上規範であって、天主はこれに適合することでなければ、望みも承認も行動もあえて起し給わない。この最上の規範である本性への意志の合致は――天主にあっては本性と意志とは本質的に一つなるが故に――完全にして、人間の想像などの及ぶ所ではない。言いかえれば、天主の聖とは天主が無限、不変不動の完全なる愛をもって自らを愛し給うことに帰着する。しかして天主の叡智は独り天主のみが必然的なる唯一の存在、全善に在し、他の万物、万事は天主御自身に帰着してその光栄を表わすものなることを我等に教える。

天主の聖すなわち完全無欠の状態こそは、天国における天使聖人等の永遠観想の的であるが、地上の人にして天国の光栄を見た者は極めて少ない。聖書によると地上の人にして天国を垣間見たのは旧約のイザヤ預言者と新約の聖ヨハネの二人である。彼等は無数の天使聖人が天主の玉座をとりかこみ永遠の讃美を歌い捧げている光景を見たのであるが、天国での讚美の的は天主の完全な美でもなく愛でも隣みでもなく正義、御威光でもなくただ聖のみである、と伝えている。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、全地はその光栄に充ち満てり(イザヤ6:3・黙4:8)。

これはあたかも「天主よ、御身は非常に高く聖に在し最上の叡智をあって相応しくも完全に自らを讃美し給うなり」とでも歌っているかのようであるが、またそれは被造物が天主に捧げることのできる当然の讃美と言わなければならない。それは、天主の聖は被造物の成聖の基礎、唯一の源泉、普遍的規範であり、無限完全なる愛をもって自らを愛し給う天主は、作品なる被造物もまた各々その分にとどまり、創造主への依存、法則の規範に合致して、天主が自らの中に見いだし給う御光栄と、創造の目的並びにこれを実現しようとするために立て給う御計画を表わすのを望み給い、被造物は創造主、天主が立て給える法則を離れては一瞬時たりとも生存出来ないものだからである。されば我等人間が自由意志をもって天主の創造目的に合致した生活、行をなすのは、これ天主に依存することをあらわし、御光栄を揚げ、天主を愛し奉るゆえんである。従って天主への依存、愛、我等の本来の目的(天主の御光栄を発揚すること) に自由意志をもって合致したいとの念が深ければ深い程、それだけ我等は被造物から離脱してただ天主に親密に固着する者となり、成聖はそれだけ高いものとなるわけである。

聖トマは成聖の要素として純潔(即ちすべての罪や不完全の汚れなく、すべての被造物よりの完全な離脱)と天主への確固不動の固着の二つを挙げて、この二要素は天主における無限、超絶、存在の全き完全と、その御意志が永遠に変りなく御自身に固着し給う不動性に相通ずるものであると述べている。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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