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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2020年7月26日は聖霊降臨後第八主日です。
一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。
私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。
死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。
その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。
「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第八主日の説教」の動画をご紹介いたします。
7月は毎日「いと尊き御血の連祷」を唱えましょう。今日の主日を聖として良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
▼全文はこちら▼
Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい
Give an account of thy stewardship.
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2020年7月26日、聖霊降臨後第八主日です。一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。
天主は愛です。愛の天主は、私たちを愛するがゆえに、全能の力をもって私たちを無から創造しました。善意と信頼をこめて自然の全ての良いものと超自然の恵みとを私たちに委ねました。生まれ、生命(いのち)、健康、時間、家族、言葉、才能、教育、財産、自由、可能性、境遇、環境、全てです。
私たちは天主から全てを受けましたが、かといって受けたものを自分の思い通りに処分することはできません。私たちは主人ではないからです。私たちは天主から委託された、支配人、管理人、運用人にすぎません。私たちは天主の財産を自分勝手に使い込むことはできません。天主の御旨に従って使わなければなりません。
【1:私たちの会計の報告:死の瞬間】
私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。
私たちの死は、天主の愛と知恵がお定めになった時と場所において定められています。
私の死は、いつなのか、どこでなのか、どのようになのか、今は分かりません。しかし、私は必ず一度死ぬ、ということだけは、誰にも変えられない荘厳な現実です。私は、死によって、この世界から永遠の世界に入ります。死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
その時、私たちは、裁判官であるイエズス・キリストに、人生の厳格な報告を提出しなければなりません。聖パウロはこう言います。「私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体でおこなったことの善悪にしたがって、報いを受ける。」(コリント後5:10)と。
つまり、私たち一人ひとりは、人生の終わりの瞬間に会計報告を提出して、一生の間に天主から受けた全ての恵みと機会と祝福と、それを私たちがどのように使ったか、どのように責任を果たしたかについて厳格な監査と審判をうけるのです。その審判に従って、天主には永遠の至福の褒章か、あるいは、永遠の嘆きと苦悩の罰を受けるかが決定されます。これはたった一度きりで、二度と繰り返されることはありません。
【2:会計の報告の厳しさ】
多くの聖人聖女は、天主から受けた数々の御恩、愛の天主に対して私たちが過去に犯した多くの罪、天主の裁きの厳しさ、永遠の救いの不確実さ、などを思い、審判の日のことを恐れました。より多く受けたものは、より多くの責任を負い、より厳しく天主から追及されるからです。
裁かれなければならないという時の恐怖はどれほど大きいものでしょうか!韓国のソウル市長は、大統領に次ぐ重職だと考えられています。2011年からソウル市長に就任して今期で3期目の、韓国の次期大統領最有力候補であると考えられていた評価の高かった或るソウル市長が、元秘書女性から「セクハラの被害を受けてきた」と告訴されました。すると告訴されたソウル市長は、その翌日の公務を突然すべてキャンセルし、翌々日に失踪して自殺してしまいました!これはつい最近あった事件です。
もしも、中立の裁判官の前に立つことがそれほど恐ろしいことであるなら、自分の犯した罪のために怒る裁判官や君主や父親の前に出頭しなければならない人民や家臣や子供の恐怖はどれほどでしょうか?
葬儀ミサの時に歌うことで有名なDies irae という続誦(Sequentia)には次のような節があります。
Judex ergo cum sedébit, quidquid latet apparébit, nihil inúltum remanébit.
Quid sum miser tunc dictúrus ? Quem patrónum rogatúrus, cum vix justus sit secúrus ?
「裁判官なるキリストが審判席に座す時、隠されているいかなることも明らかになり、何一つそのまま残ることはない。その時、哀れな私は何を言うべきか?どんな保護者に懇願すべきか?義人でさえほとんど安全でないのに?」
もしも生涯イエズス・キリストを侮辱した霊魂が、その屈辱を受けた義憤するイエズス・キリストによって裁かれる厳かな法廷に立たなければならないとすると、どれほど恐れと赤面に覆われることでしょうか?ただでは済まないからです。
聖バジリオは「恐ろしさのあまり、地獄の火の苦しみのほうがまだましだと思うだろう」(Horridior quam ignis, erit pudor)と言っています。
ファラオのもとでエジプトの宰相となった旧約のヨゼフが、自分を売り飛ばした兄弟たちに自分が誰かを明らかにして「私はヨゼフだ!」と言った時、「兄弟たちは、かれの面前で恐れのあまり返事さえできなかった」(創世45:3)と聖書にはあります。
私たちの主イエズス・キリストが、裁きの法廷に立つ私にこう言われるとき、罪人の私はどう答えたらよいでしょうか?「私は、おまえの贖い主であり、おまえの裁き主イエズス・キリストだ。おまえを愛するあまりに天主でありながら人間となり、おまえの代わりに十字架の苦しみを受けた。おまえに数えきれないほどの恵みと祝福を与えて満たし、愛の激流を与え続けてきた。私のできることでおまえのためにやらなかったことがあるか?私はおまえに愛と憐みで全てを与え続けてきた。しかし、私の愛と恩と憐れみに対して、おまえは軽蔑と無関心、怠慢と放埓、不信と冷淡、忘恩と侮辱、責任逃避、無数の罪と思い上がりで返答した。」と。
私はその時、言われてみれば、振り返って考えてみると、生きている間にどれほどのお恵みと憐みをを受けたことかがいやというほどわかることでしょう。何という恩知らずだったことか!
しかし、いままで生きている間、主の憐みを馬鹿にして足蹴にし、無駄にして溝(どぶ)に捨て続け、思い高ぶってきたくせに、死んだら突然態度を変えて、馬鹿にしてきたその主に憐みを乞い願うことがどうやってできるのでしょうか?今までの数えきれないほどの憐みを足蹴にしてきた生涯をまず「会計報告」しなければならないのに、どの面下げて?
私の人生は、主の愛に満ちた度重なる憐みを今まで何度も何度も嘲弄してきたことをまず裁かれなければならないのに、死後、一体どうやって主の憐みを更に願うことができるでしょうか? 私が主のお恵みを受けて生きている間、天主の救いをずーっといらないと馬鹿にしてきたくせに、私が息を引き取ったら、その天主が私を救ってくれると期待するのでしょうか? 優しい天主は私を友、子供として考え、ご自分を私の父親、保護者として愛してくれ続けてくれましたが、私は生きている間、この天主を父と認めず、保護者とみなさず、敵として取り扱っておきながら、死後、天主は私を敵ではなく友として取り扱うと期待できるのでしょうか?
【3:全人生についての会計報告】
聖パウロは、永遠の栄光にふさわしくなるためには、イエズス・キリストの生涯にかたどった者とならなければならないと言います。「天主はあらかじめ知っている人々をみ子の姿にかたどらせようと予定された。それはみ子を、多くの兄弟の長子とするためである。また、予定された人々を召し出し、召し出した人々を義とし、義とした人々に光栄をお与えになった。」(ローマ8:29)
聖ペトロも言います。天主の掟に敬虔に従い、敵を赦し、聖人を崇敬し、貞潔を守り、慎み深く、柔和、謙遜、親切の聖徳をつんだ義人でも、かろうじて救われるにすぎない、復讐を企てる人々、不貞操、冒涜、嘘つき、讒言、残酷、暴力、酩酊などを行う人々は、いったいどうなってしまうのか?生涯のあいだ、イエズス・キリストの御生涯に反対してきた人びとは、いったいどうなるのか?と。「義人がかろうじて救われるのなら、不敬虔な人、罪人はどうなるであろうか?」(ペトロ前4:18)
裁判者なるイエズス・キリストは、ご自分が私に下さった全ての祝福や恵みを私がまったく無駄にしたことについて、会計報告を求めるでしょう。
愛の天主なるイエズス・キリストは、私が天主に使え天主を愛することができるように与えてくださった年月を、私が天主に罪を犯すために使っていたことについて、会計報告を求めるでしょう。
私たちは、主から戴いた才能や財産をどのように使ったでしょうか? 面白おかしく娯楽で時を過ごすために乱費した?見せびらかすために使った?それとも、多くの霊魂の救いのために賢明に主のために使ったでしょうか?
聖なる天主イエズス・キリストは、私たちが犯しても痛悔もせずにケロリと忘れている邪悪な罪を忘れずに全てを覚えておられます。私の犯した全ての罪の詳しい会計報告を求めるでしょう。その時、私たち一人ひとりは、全ての思い、言葉、行い、怠り、その他の詳細についてさばかれます。
聖マテオはこう書いています。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう。あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって罪とされるであろう」(マテオ12:36)と。聖アンセルモは、全ての視線の会計報告も求められるといいます。Exigitur usque ad ictum oculi.
黄金も浄められるように、私たちの行った黄金のような善行でさえも会計報告が求められるでしょう。善行、告解、聖体拝領、祈り、などもそうです。
もしも、私たちの視線、私たちの言葉、私たちの善行でさえも裁かれるのであれば、慎みのない言葉遣いや、わいせつな言葉遣い、不潔、冒涜、悪口、讒言、盗み、冒涜など、どれほどの厳しさで裁かれることでしょうか!
その時、私は自分のした全ての悪を、邪悪を、罪を、赤面しながら、はっきりと見ることでしょう。
その時、私たちの主の裁判の御前で価値があるのは、私の聖なる生活と善行です。私の生まれ、家系、血筋、富、権勢、地位、知識、才能などは、まったく価値がありません。何故なら与えられたものだからです。その時、私が王であろうが、教皇であろうが、大統領であろうが、世界で最高の資産家であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、主の裁判において何の価値もありません。それどころか、責任があればあるほど、受けたものが多ければ多いほど、より多くが請求されます。
【4:私の会計報告】
愛する兄弟姉妹の皆様、会計報告つまり審判、これは皆さまと私とに必ず起こることです。これは「私」の会計報告です。ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。私たちは黒字でしょうか、それとも赤字でしょうか?
私たちの身分上の務めを、天主に対してどのように果たしているでしょうか?家庭の父親として、母親として、子供として、自分に与えられた責務をどう果たしているでしょうか?夫として、妻として、上司として、部下として、国民として、学生として、教師として、カトリック信徒として、どうでしょうか?
もしも私が天主に対しては不従順でも、世間体や人の目に従った場合、天主は私が世間の考えに従ったかどうかに基づいて、私を裁くと思いますか? 子供の数が多いと、みんなから何と言われるだろうか? ミニスカートでへそ出しルックが今の流行だから。みんなと一緒にいかがわしい場所に行かないと。これは悪いことだけれども、することが決まっているから。みんなで決めたことだから。
元駐米教皇大使のヴィガノ大司教は言います。「もし私たちの信仰が、従順のみに基づいていたとしたら、殉教者たちは国家の法が定めた苦しみに直面する必要はなかっただろう。ただ従順に、皇帝の像の前で一粒の香を焚くだけで十分だったことでしょう。」
私たちのミサに与る態度はいかがでしょうか?私たちの御聖体拝領はどうでしょうか?主日をどのように聖化しているでしょうか?ミサの時、聖体拝領の時、私たちを愛するがあまり御聖体の内に黙ってしかし真にましまし給うイエズス・キリストをふさわしく礼拝しているでしょうか?聖パウロはイエズス・キリストの前で天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、膝をかがめる、と言います。カトリック教会の1500年以上の伝統と規律は、跪いて口による聖体拝領です。手による聖体拝領はパウロ六世の出した特別の例外的許可にすぎません。イエズス・キリストは、私たちがどのように愛をこめて御聖体を礼拝したかについて会計報告を求めるでしょう。
皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体を冒涜することができるのでしょうか?
また韓国での例を挙げるのを許してください。7月には22歳の女子選手が自殺しました。この女子選手は、監督やドクターや先輩選手から激しいいじめを受け続けていたそうです。ところでまわりが虐めていれば、私も彼女を虐めていいのでしょうか?私は大人のくせに「コーチや先輩からやれと言われたからいじめただけで、私には責任がない」などと小学生のようなことを言うことはできません。刑事責任を取らねばなりません。
皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体に不敬をなすことが許されるのでしょうか?
カトリック教会の教える信仰の真理を、首尾一貫し、妥協せず、日和見主義に陥らず、信じて証しすべきです。従順とは真理と善に秩序づけられたものです。そうでなければ、従順ではなく"へつらい"です。
ヴィガノ大司教はこう言います。「信仰と愛徳における一致は霊魂の救いに基づいているのであって、霊魂への害に基づいているのではありません。真理を宣言することは必然的に「分裂を招く」ものであり、それは光が闇と対立するように真理が誤謬に対立するからです。ですから、主は私たちにこうおっしゃっています。「私が地上に平和を与えるために来たと思うのか。私は言う。そうではない、むしろ分裂のために来た」(ルカ12:51)と。」
【5:遷善の決心】
死の時、私たちの主からこの言葉を聞くとき、私たちはどれほどの喜びと慰めに満たされることでしょうか。「よしよし、善良な忠義なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをあなたにまかせよう。あなたの主人の喜びに加われ!」(マテオ25:21)
それに引き換え、怒り心頭の主から次の宣告を聞くとき、どれほど悲しみと絶望にとらわれることでしょうか?「のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ。」(マテオ25:41)
【準備その一:改悛の秘蹟】
もしかしたら、今まで、私の会計報告、自分の会計報告について、ほとんど関心がなかったかもしれません。こんなこと私にだけは起こらないよ、大丈夫だよ、と。しかし、まだ私たちが笑いながら罪にどっぷりつかって眠りこけている時、突然、死が襲ってくるかもしれません。
聖アウグスチヌスはこういいます。「多くの人びとは自分だけは地獄に堕ちないと信じていて、地獄に堕ちた。終わりが来て、暗闇に落とされた」と。
洗者聖ヨハネはこういいます。「まむし族のものよ、近くくるおんいかりをのがれることを、だれがあなたたちに教えたのか。くいあらためにふさわしい実を結べ。… 斧はもう木の根におかれている。よい実を結ばない木は、みな切りとられて、火に投げいれられるだろう。」(マテオ3:8, 10)
今、まだ時があるうちに、会計報告の準備をしておきましょう。生活を天主の御旨に合わせましょう。まだ時があるうちに天主の憐みを乞い求めましょう。裁きの前には、裁き主に憐みを祈ることができます。しかし、裁きの最中にはできません。
最善の準備は、すでに告解の秘蹟で「清算」しておくことです。きれいに赦されておくことです。
【準備その二:聖母に祈る】
幼きイエズスの聖テレジアは諸聖人と声を合わせて言います。私たちは人生の夕べに愛について裁かれる、と。人の目から見ると価値のないように思われる小さなことも、天主への愛をこめて行うならそれには永遠の価値が生じます。聖母マリア様のご生活がまさにこれでした。
死の直後の私審判の時に、私は本来なら一人で被告人として裁かれます。しかし、もしも私たちが生きている間、聖母にお願いしておくならば、裁判官の愛する母であり私たちの母であるマリア様が私たちの弁護者となって最高裁判官に強力な弁護をしてくださいます。会計報告の成功の秘訣は、マリア様によく取次を願うことです。
来る土曜日は8月の初土曜日(8月1日)です。ファチマの聖母は初土曜日の信心を行うなら聖母の汚れなき御心は私たちの避難所となると約束されました。どんな大洪水や火山の噴火のような霊的危険からも守られる避難所です。8月15日は聖母被昇天の聖母の大祝日です。私たちは8月13日から15日まで秋田の聖母のところに巡礼を行います。8月22日は日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。私たちの愛を見て、聖母は私たちの赤字を帳消しにしてくださるようにイエズス様に願うに違いありません。愛する兄弟姉妹の皆様をこれらの行事とミサに招待いたします。
【準備その三:隣人のために祈る】
最後に、隣人のためにも祈りましょう。秋田の聖母はカトリック司祭、司教、枢機卿、教皇様のために祈れと私たちに依頼されました。地位が高くなればなるほど、多くを受ければ受ける程、それだけより厳しい会計監査を受けます。与えられた権威をどのように用いて、天主の栄光のために、カトリック教会の名誉のために、信徒たちの永遠の救いのために使ったのか?と。
与えられた権威を、主を信じ、礼拝し、希望し、愛するために正しく使った聖職者たちには、より大いなる永遠の喜びが与えられることでしょう。しかし、与えられた権威を乱用して、カトリックの教えを歪曲させるなら、主に対する信仰と礼拝と希望と愛を減少させるなら、どれほど厳しい裁きと罰を受けることでしょうか?
ヴィガノ大司教はこう言います。「教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営をご自分の代理者に委任するだけです。教会を、そうではないものにしかも決してそうであり得ないものに変えることは、天主に反する、また天主が非常に明確に定められ牧草地で草を食み、裂け目や茂みに散らされないように命じた羊の群れに反する、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪を構成します。もしこの巨大な破滅の責任者らが、法令や貸借対照表を偽造し、顧客を騙し取った不誠実な管理者であるならば、彼らは説明を求められなければなりません。Redde rationem villicationis tuae [おまえの会計の報告を出しなさい] (ルカ16:2)。」
ルフェーブル大司教は「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」という公開書簡の中の最後で、次のように言葉を結んでいます。
「今日この瞬間は、まだ口を閉ざしているとしても、これらの司教のうちの誰かが、聖霊の導きによって立ち上がる勇気を与えられることでしょう。私のこの仕事が天主様のものであるならば、その道は主によって守られ、教会にとっての善となるように用いてくださるはずだからです。
私たちの主は、地獄の門が教会を打ち負かすことはないと約束してくださっているからです。ここに、私が主張し続ける理由があります。もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主様が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか」と。」
Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい Give an account of thy stewardship.