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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖伝のミサ報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年07月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、東京では72名の方々が、大阪では19名の方々がミサに与りました!

大阪では、大雨の為にミサに与ることができなかった方もいらっしゃいました。大雨の影響で新幹線に遅れが出た為に、ミサも30分ほど開始が遅れてしまいました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 14人(内、子供1人)
女: 15人(内、子供2人)
計: 29人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 14人(内、子供2人)
女: 15人(内、子供4人)
計: 29人(内、子供6人)

12:30のミサ
男: 9人(内、子供0人)
女: 11人(内、子供1人)
計: 20人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの6人を除く)
男: 35人(内、子供3人)
女: 37人(内、子供7人)
計: 72人(内、子供10人)

【報告】【大阪】
新幹線が遅れてしまって、ミサは30分程遅れて始まりましたが、今日はロザリオを3環皆で唱える事が出来て良かったです!! 今日はお祈りがもっと必要だったのかもしれません。















「助産婦の手記」7章 『この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの…』

2020年07月26日 | プロライフ
「助産婦の手記」

7章

肉屋のヘルマンの宅では、初めての子が生れるのを待っていた。彼は金持ちであり、しかも腕がよい。そのことは、また誰よりも彼自身がよく知っていた。もっとも、彼の経営方法は、一番評判がよいというわけではなかった。しかし、本当に自由自在に働き廻りたいと思うほどの若者たちは、ヘルマンのところへ行った。業をしていると、時々奇妙なことが起るそうである。とにかく人々は、どんな種類の家畜でも、そう、死んだのでさえも、ヘルマンのところへ持ち込めば、何とかなることは確かであった。その代り、彼はまた、その腸詰商品を遠方の都会へ送るのであった。腸詰の中には何がはいっているか、判ったものではないと、見習の若い衆が言っていた。

しかし、ヘルマンが金持になったのは、右に述べた一切のことによるのではなく、むしろ彼の手広い家畜売買によるのであった。近所のどこかで、一匹の家畜でも売り出されると、彼はそれに手を出した。東はポーランドから、西は西プロシャまでも、彼は剛毛のある動物、特に豚や、そのほか食用の四足動物の取引をする。この大規模な経営による汚い取引によって、彼はこの村の成金王となったのである。

かようなわけで、この肉屋の親方ヘルマンの宅で、初めての誕生が待ち受けられていたのである。すでに三週間前から、私は毎日その奥さんを見に行かねばならなかった。彼女はまだ一人も子がなかったためであろうか、いつ私を必要とするか、その時期がよく判っていなかった。バベット婆さんも毎日訪問に来て、お八つのために、腸詰を一本もらっては喜んだ。彼女が、まだしょっちゅう、妊婦たちのところへ行くのは、私にとっては大へん迷惑な話であった。というのは、彼女が私に害を与えるからではない。すでに婦人たち自身が、その憐れな婆さんは、もはやその職業には全く堪えられなくなったことを認めていたのであった。

もう三度も、ヘルマンは、私を夜分に呼びつけた―― もちろん、無駄であった。奥さんは、少しでも具合が良くないと、早くもマテオ聖福音書の最後の章になった。すなわち、もう終りだ、駄目だと信じるのであった。もし、私の見立てが間違っていないとするならば、まだ四週間も間があったのである。

とうとう有難いことには、万事は、いつかは終りになる。ヘルマン奥さんの妊娠も、そうである。すなわち、とうとう、私が五回も夜訪問し、八週間お每日見に行き、二十四時間もその家に留めて置かれたことが三回もあった後に、やっと男の子が生れた。全く正常なお産だった。初産は大抵そうであるように、やや長くかかった。それは全く大騒ぎであった! ああ実際、もし母親というものが、そのようにして、子供をもうけるのであるなら、私はもう助産婦は止めてしまいたいと思う。そのときの奥さんの有様といったら! ほかの母親なら歯を食いしばって笑うような、少しばかりの陣痛が起ると、もう彼女はわめき散らし――呪った――。彼女が呪いの言葉を発するときには、私は『イエズス・キリストは讃美せられ給え』という祈りを、そんなに早口に唱えることは全くできなかった。

二度、ヘルマンは、医者のところへ走って行った。私は、この夫婦が、家庭医学叢書の中で、一体何を読んだことがあるのか知らない。出産のときの麻酔のこととか、産科鉗子の助けのこととか……? ウイレ先生が見えた。容態を見て――そして帰られた。『自然の成行きを待たないで、必要もないのに手出しをしないことですね』と先生は言われた。『万事好調ですよ。全く結構な正常な状態です! よい具合にゆくよう、お祈りします!』

とうとうお産を終えることができた。その幸福が果して誰にとってか、母親にか、私にか、そのどちらにとって、より大きかったか、私は知らない。父親は嫡男が生れたので、すっかり、はめを外して喜んだ。彼の店の前を通って行った子供たちは、みんな腸詰を一本ずつもらった。王子様がお生れになったのだ! 人々は、カイゼルの誕生日と同じように、それを祝わなければならなかった。――

しかし、この小さな息子は、前に母親がそうだったと全く同じように、泣きわめいた。私は、そんなに良くない子供を取り上げたことは稀であった。あたかも、父母の我儘と憤りとが、全部その子供の中で出会ったかのように思われた。始めからその子は、家庭の暴君であった。日中、その子は寝ようとした。そして夜分には、その子を泣きわめかさないために、女中が抱いて家中をグルグル歩き廻らねばならなかった。私は、それに対して抗議した。

『子供は、合理的に育てるものですよ。この赤ちゃんは、生れながらに、善くない或るものを持っているのですから、早めに従順と自制と秩序の習慣をつけるようになさいよ。』
『とんでもない、子供には我儘をさせなくちゃいけませんよ。以前、人々がやったように、子供の意志を抑えつけるのは、全く誤っていますね。』
『確かに子供は、正しい意志を持たねばなりませんわ。それを、私たちは保護し、伸ばしてやるべきです。でも、我儘と、怒りは、理性的な意志とは、別なものですよ。子供の希望と熱望を、全部無制限に叶えさせていると、ゆくゆくは、子供を刑務所に入れるようなことになりますよ。』
『子供が物心つきさえすれば、自分の不行儀をなおすでしょうよ。私は、子供に教育の自由を与えてやらねばならないんです。子供の人格的個性を保護してやらねばならない……』

こういうような有樣で、理性をもってしては、彼等を説得することはできなかった。彼等は、当世新流行の誤った考え方に陥っているので、私の勧めはすべて無駄であった。ところで、子供の教育ということは、結局、私の仕事ではなく、私にその責任はない。善意の忠告を受け入れようとしない人は、自分自身で後々のことを見なければならない。たぶん私たちは、そんな判りきった愚かしさに対しては、完全に黙っていることができないだけだ――子供たちのために。子供たちは、私たち助産婦にとっては、常に幾分かは、自分の本当の子である。

私の骨折りの報酬として、肉屋の親方は、豚を半分、送ってよこした。私たちは、この脂肪の匂いのする慣れないお礼の品物を、どう処分してよいか殆んど判らなかった。親方は、けちけちしようとしなかった。

約一年後、私がその家の前を通って行ったとき、ヘルマン奥さんは、私にまあお入りなさいと呼びかけた。彼女は、またもや妊娠したと信じこんでいた、そしてまた、その通りであった。そこに、ちょうど、坊やのハインツが部屋のテーブルの真中に坐っていた。母親の大きな鋏(はさみ)を手に持って、自分の玉座の上を、窓に取りすがって、あちこちと歩きながら、花の咲いた草木から葉と花をつみ切っていた。
『まあ、後で皆さんは、そこで昼御飯をお上りになるのに』と私は言わざるを得なかった。
『私、どうしましょう? あの子は窓のところへ行くことができねば、ほかの場所にはどうしても座っていないんですよ……』
私は、その腕白の手から鋏を取り去った。『ヘルマンの奥さん、もしも坊ちゃんがこれで自分の眼を突いたらどうなさるの……』
すると、そのお馬鹿さんは、顔を真赤にし、両手で拳を握り、手足をバタバタさせて泣きわめいたので、全く大騒ぎであった。
『そうだ』と父親は笑った。『この坊主の体の中には、何か潜んでいるんだね。この子は刃物のほかは、何も気に入らないんだ。大きくなれば、きっと……』そして母親は、言い訳をした。『この子は、欲しいものを何でも与えられない限りは、いつまでも泣き叫んでいるんです。どうすることもできません……泣き止めさせるために、何でもやるんです。……この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの……』
私は、その腕白を、なにも言わずに、少し強くおむつの上からつかんで、その玉座もろとも地上に引き下ろした。『静かにして遊べないの……』そして、その子をジッと見つめた。身動きもせずに、黙ってその子はそこにうずくまり……ホッと深い溜息をし、……このような慣れない取扱いに対して、もはや不平をよう言いもせずに……助けを求めるように、父母の方を見まわした。しかし、彼らもその子と全く同じように、非常に圧せられていたので、どういう処置をとっていいか判らなかった。そしてただ顔を見合せていた。それが驚きであったか、怒りであったか、私は今日になってもまだ判らない。そして、その腕白がやっと立ち直って、静かに母親のスカートにすがりついたとき、彼女は言った。『あなたは、お子さんがないですからね。そうでなければ、子供をあんな風には取扱えないでしょう。この子は、まだとても小っちゃくて、物事がよく判らないのですよ……』
私はよほど、それでは、そのお子さんは、あなたにお似合いですよ、と言いたかったのであるが、黙って立ち去った。馬鹿につける薬はない。

後に、その腕白の小さな妹が生れたとき、家族たちは、ほかの居間の食卓に坐っていた。『食べたくない!』とハインツが叫んで、スープのはいった皿を高く振り上げて、床へ投げつけた。
父親は笑った。『いつも元気だね、お前! 今じゃお前は、この家ではもう独りではないんだから、男の子の権利を護らねばいけないよ。』ハインツは、椅子から滑りおりた。父親がその子をつかまえようとすると、子供は出て行って、ドアをバタンと閉めて叫んだ。『つかめるかい……』そこで、父親は身をゆすぶって笑った。彼は、寝室にいる私たちのところに来た。『あれが聞えたかね? あのハインツは、全くどえらい奴だ……』
ああ、実にハインツは、どえらい子であった。そして日増しにひどくなった。彼が街路に現われると、ほかの子供たちは、みんな走り逃げた。あるときは、彼は山羊の車に乗って、小さな動物を殴りまわった。あるときは、一匹の子羊を縄で引きずり殺したため、とうとう憲兵から注意を受けた。
そうかと思うと、彼は、鶏の雛の脚と羽を引き抜いた。『ああ、そんなものは、たかが家畜だ! なぜ子供を喜ばせてやってはいけないのかね?』と老ヘルマンが言った。すべてこれらのことは、最も憎むべき動物虐待であることを、彼の荒んだ感情は、理解できなかった。

ハインツの後から生れて来た二人の妹は、非常に利巧ではあったが、二三年のうちに死んだ。そのために、医者のマルクスが、この家に出入りした。ヘルマンのお宅には、私としては、もはや何の仕事もなかった。『子供が一人しかないということは、いいことだ、面倒なことがなくてよい。』と、ヘルマンは今や言った。

ハインツは、学校へ入学した。彼は強情な、狡猾な校友であって、そのずるい策略の前には、誰も安全ではなかった。もっとも学校では、彼は無法ぶりを公然と発揮するわけには行かなかったので、陰ではそれだけますます狡猾になった。教師は、その子を感化教育に附することを繰り返し提言した。しかして、誰も敢えてヘルマンの御機嫌を損じようとするものはなかった。そのため、それも沙汰止みとなった。ある献堂記念日の日曜日に、その父親と息子が喧嘩をした。というのは、この十三歳の乱暴な子は、すでに午前中に店の銭箱の有り金をすべて使ってしまったので、彼はお昼に金庫の鍵に手を出した。このことは、流石の老ヘルマンにとっても、あまりにもひどいことに思われた。『この金庫は、わしがこの家の主人である限り、わしのものだ。判ったか!』そこで、その若者は怒って用の斧をつかんで、父に打ちかかった。仕損んじた。しかし、ヘルマンは、電光に撃たれたように茫然と立っていた。そのとき、彼の眼は一度に開けた。そして同時にまた、抑え難い怒りが、彼をとらえた。始めて彼は、息子をつかまえて殴りつけた。もちろん、我を忘れ、止めどもなく。もしも、母親や職人や下女たちが仲にはいらなかったなら、彼は恐らく息子を殴り殺したであろう。ヘルマンは、青と黒の打撲傷をつけて、家中を走りまわった。ハインツは、何週間も床に就いた。
父親は、思い切った仕打ちをした。しかし、それは遅すぎた。父親のこの突然の変化は、その若者の中に眠っていた復讐心、詭計および粗暴といったようなものを、すべて表面に呼び出したに過ぎなかった。

数ヶ月の後、その息子は、父親を本当に用の斧をもってたたき殺した。狡猾にも、待伏せていた隠れ場から出て来て……
村中は、恐ろしい大騒ぎであった。こんなことは、前代未聞の出来事であった。しかし……しかし……すべての人々は、その父母が自らその禍(わざわい)を呼び起し、そして今その禍が、彼らを打ち砕いたのであるということを見、かつ感じたのであった。近頃は、多くの親たちは、次のように考えるようになった。すなわち、子供の教育は、一つの重要な課題であるということ、そしてそれゆえ親たちは『子供がまあ物心がつくまで……』待っていてはいけないということである。

親たちが、子供に対する誤った教育により、または全く教育しないために、子供を不幸にするのみでなく、自分自身の上にも不幸を招いたという、親の愚かさについて、私などは本を幾冊も書くことができる。以前には、家庭には、まだ或る種の習慣があって、それに従って教育が行われていた。子供たちは、この慣習を見、そしてそれを親から引き継いで来た。今日では、この教育上の伝統は、その他の多くのものと一緒に、家庭から消え去った、それは一部分は、変化した経済上の事情にも因るのである。今や新しい母親たちは、自分の子供たちをどう取り扱ってよいのか、全く判らぬことがしばしばある。そして彼らの頭の中は、新しい流行語で一杯にはなっているが、何かを始めようとする場合には、この新しいものによるべきか、または、まだ保存されているところの――しかし、彼等のもとからは、消えてしまったところの――旧(ふる)いものによるべきかを知らないのである。結婚する前に、子供の教育に必要な知識を持っているという証明書を要求することは、痛切に必要なことであろう。





「会計の報告を出しなさい」 これはあなたにも私にも必ず起こることです。死の瞬間のイエズス・キリストの審判の厳しさとはどのようなものか?

2020年07月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年7月26日は聖霊降臨後第八主日です。

一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。

私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。

死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。

その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。

「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。

ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

7月は毎日「いと尊き御血の連祷を唱えましょう。今日の主日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

▼全文はこちら▼

Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい

Give an account of thy stewardship.

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年7月26日、聖霊降臨後第八主日です。一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。

天主は愛です。愛の天主は、私たちを愛するがゆえに、全能の力をもって私たちを無から創造しました。善意と信頼をこめて自然の全ての良いものと超自然の恵みとを私たちに委ねました。生まれ、生命(いのち)、健康、時間、家族、言葉、才能、教育、財産、自由、可能性、境遇、環境、全てです。

私たちは天主から全てを受けましたが、かといって受けたものを自分の思い通りに処分することはできません。私たちは主人ではないからです。私たちは天主から委託された、支配人、管理人、運用人にすぎません。私たちは天主の財産を自分勝手に使い込むことはできません。天主の御旨に従って使わなければなりません。

【1:私たちの会計の報告:死の瞬間】

私たちは死を迎えるとき、天主から委託されたものをよく管理したか否かについて裁きを受けます。

私たちの死は、天主の愛と知恵がお定めになった時と場所において定められています。

私の死は、いつなのか、どこでなのか、どのようになのか、今は分かりません。しかし、私は必ず一度死ぬ、ということだけは、誰にも変えられない荘厳な現実です。私は、死によって、この世界から永遠の世界に入ります。死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。その時、愛する兄弟姉妹の皆様も私も、私たちを愛する主イエズス・キリストから、同じくこう言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。

その時、私たちは、裁判官であるイエズス・キリストに、人生の厳格な報告を提出しなければなりません。聖パウロはこう言います。「私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体でおこなったことの善悪にしたがって、報いを受ける。」(コリント後5:10)と。

つまり、私たち一人ひとりは、人生の終わりの瞬間に会計報告を提出して、一生の間に天主から受けた全ての恵みと機会と祝福と、それを私たちがどのように使ったか、どのように責任を果たしたかについて厳格な監査と審判をうけるのです。その審判に従って、天主には永遠の至福の褒章か、あるいは、永遠の嘆きと苦悩の罰を受けるかが決定されます。これはたった一度きりで、二度と繰り返されることはありません。

【2:会計の報告の厳しさ】

多くの聖人聖女は、天主から受けた数々の御恩、愛の天主に対して私たちが過去に犯した多くの罪、天主の裁きの厳しさ、永遠の救いの不確実さ、などを思い、審判の日のことを恐れました。より多く受けたものは、より多くの責任を負い、より厳しく天主から追及されるからです。

裁かれなければならないという時の恐怖はどれほど大きいものでしょうか!韓国のソウル市長は、大統領に次ぐ重職だと考えられています。2011年からソウル市長に就任して今期で3期目の、韓国の次期大統領最有力候補であると考えられていた評価の高かった或るソウル市長が、元秘書女性から「セクハラの被害を受けてきた」と告訴されました。すると告訴されたソウル市長は、その翌日の公務を突然すべてキャンセルし、翌々日に失踪して自殺してしまいました!これはつい最近あった事件です。

もしも、中立の裁判官の前に立つことがそれほど恐ろしいことであるなら、自分の犯した罪のために怒る裁判官や君主や父親の前に出頭しなければならない人民や家臣や子供の恐怖はどれほどでしょうか?

葬儀ミサの時に歌うことで有名なDies irae という続誦(Sequentia)には次のような節があります。

Judex ergo cum sedébit, quidquid latet apparébit, nihil inúltum remanébit.

Quid sum miser tunc dictúrus ? Quem patrónum rogatúrus, cum vix justus sit secúrus ?

「裁判官なるキリストが審判席に座す時、隠されているいかなることも明らかになり、何一つそのまま残ることはない。その時、哀れな私は何を言うべきか?どんな保護者に懇願すべきか?義人でさえほとんど安全でないのに?」

もしも生涯イエズス・キリストを侮辱した霊魂が、その屈辱を受けた義憤するイエズス・キリストによって裁かれる厳かな法廷に立たなければならないとすると、どれほど恐れと赤面に覆われることでしょうか?ただでは済まないからです。

聖バジリオは「恐ろしさのあまり、地獄の火の苦しみのほうがまだましだと思うだろう」(Horridior quam ignis, erit pudor)と言っています。

ファラオのもとでエジプトの宰相となった旧約のヨゼフが、自分を売り飛ばした兄弟たちに自分が誰かを明らかにして「私はヨゼフだ!」と言った時、「兄弟たちは、かれの面前で恐れのあまり返事さえできなかった」(創世45:3)と聖書にはあります。

私たちの主イエズス・キリストが、裁きの法廷に立つ私にこう言われるとき、罪人の私はどう答えたらよいでしょうか?「私は、おまえの贖い主であり、おまえの裁き主イエズス・キリストだ。おまえを愛するあまりに天主でありながら人間となり、おまえの代わりに十字架の苦しみを受けた。おまえに数えきれないほどの恵みと祝福を与えて満たし、愛の激流を与え続けてきた。私のできることでおまえのためにやらなかったことがあるか?私はおまえに愛と憐みで全てを与え続けてきた。しかし、私の愛と恩と憐れみに対して、おまえは軽蔑と無関心、怠慢と放埓、不信と冷淡、忘恩と侮辱、責任逃避、無数の罪と思い上がりで返答した。」と。

私はその時、言われてみれば、振り返って考えてみると、生きている間にどれほどのお恵みと憐みをを受けたことかがいやというほどわかることでしょう。何という恩知らずだったことか!

しかし、いままで生きている間、主の憐みを馬鹿にして足蹴にし、無駄にして溝(どぶ)に捨て続け、思い高ぶってきたくせに、死んだら突然態度を変えて、馬鹿にしてきたその主に憐みを乞い願うことがどうやってできるのでしょうか?今までの数えきれないほどの憐みを足蹴にしてきた生涯をまず「会計報告」しなければならないのに、どの面下げて? 

私の人生は、主の愛に満ちた度重なる憐みを今まで何度も何度も嘲弄してきたことをまず裁かれなければならないのに、死後、一体どうやって主の憐みを更に願うことができるでしょうか? 私が主のお恵みを受けて生きている間、天主の救いをずーっといらないと馬鹿にしてきたくせに、私が息を引き取ったら、その天主が私を救ってくれると期待するのでしょうか? 優しい天主は私を友、子供として考え、ご自分を私の父親、保護者として愛してくれ続けてくれましたが、私は生きている間、この天主を父と認めず、保護者とみなさず、敵として取り扱っておきながら、死後、天主は私を敵ではなく友として取り扱うと期待できるのでしょうか?

【3:全人生についての会計報告】

聖パウロは、永遠の栄光にふさわしくなるためには、イエズス・キリストの生涯にかたどった者とならなければならないと言います。「天主はあらかじめ知っている人々をみ子の姿にかたどらせようと予定された。それはみ子を、多くの兄弟の長子とするためである。また、予定された人々を召し出し、召し出した人々を義とし、義とした人々に光栄をお与えになった。」(ローマ8:29)

聖ペトロも言います。天主の掟に敬虔に従い、敵を赦し、聖人を崇敬し、貞潔を守り、慎み深く、柔和、謙遜、親切の聖徳をつんだ義人でも、かろうじて救われるにすぎない、復讐を企てる人々、不貞操、冒涜、嘘つき、讒言、残酷、暴力、酩酊などを行う人々は、いったいどうなってしまうのか?生涯のあいだ、イエズス・キリストの御生涯に反対してきた人びとは、いったいどうなるのか?と。「義人がかろうじて救われるのなら、不敬虔な人、罪人はどうなるであろうか?」(ペトロ前4:18)

裁判者なるイエズス・キリストは、ご自分が私に下さった全ての祝福や恵みを私がまったく無駄にしたことについて、会計報告を求めるでしょう。

愛の天主なるイエズス・キリストは、私が天主に使え天主を愛することができるように与えてくださった年月を、私が天主に罪を犯すために使っていたことについて、会計報告を求めるでしょう。

私たちは、主から戴いた才能や財産をどのように使ったでしょうか? 面白おかしく娯楽で時を過ごすために乱費した?見せびらかすために使った?それとも、多くの霊魂の救いのために賢明に主のために使ったでしょうか?

聖なる天主イエズス・キリストは、私たちが犯しても痛悔もせずにケロリと忘れている邪悪な罪を忘れずに全てを覚えておられます。私の犯した全ての罪の詳しい会計報告を求めるでしょう。その時、私たち一人ひとりは、全ての思い、言葉、行い、怠り、その他の詳細についてさばかれます。

聖マテオはこう書いています。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう。あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって罪とされるであろう」(マテオ12:36)と。聖アンセルモは、全ての視線の会計報告も求められるといいます。Exigitur usque ad ictum oculi.

黄金も浄められるように、私たちの行った黄金のような善行でさえも会計報告が求められるでしょう。善行、告解、聖体拝領、祈り、などもそうです。

もしも、私たちの視線、私たちの言葉、私たちの善行でさえも裁かれるのであれば、慎みのない言葉遣いや、わいせつな言葉遣い、不潔、冒涜、悪口、讒言、盗み、冒涜など、どれほどの厳しさで裁かれることでしょうか!

その時、私は自分のした全ての悪を、邪悪を、罪を、赤面しながら、はっきりと見ることでしょう。

その時、私たちの主の裁判の御前で価値があるのは、私の聖なる生活と善行です。私の生まれ、家系、血筋、富、権勢、地位、知識、才能などは、まったく価値がありません。何故なら与えられたものだからです。その時、私が王であろうが、教皇であろうが、大統領であろうが、世界で最高の資産家であろうが、ノーベル賞受賞者であろうが、主の裁判において何の価値もありません。それどころか、責任があればあるほど、受けたものが多ければ多いほど、より多くが請求されます。

【4:私の会計報告】

愛する兄弟姉妹の皆様、会計報告つまり審判、これは皆さまと私とに必ず起こることです。これは「私」の会計報告です。ですから、毎日、その会計報告のための準備をしましょう。私たちは黒字でしょうか、それとも赤字でしょうか?

私たちの身分上の務めを、天主に対してどのように果たしているでしょうか?家庭の父親として、母親として、子供として、自分に与えられた責務をどう果たしているでしょうか?夫として、妻として、上司として、部下として、国民として、学生として、教師として、カトリック信徒として、どうでしょうか?

もしも私が天主に対しては不従順でも、世間体や人の目に従った場合、天主は私が世間の考えに従ったかどうかに基づいて、私を裁くと思いますか? 子供の数が多いと、みんなから何と言われるだろうか? ミニスカートでへそ出しルックが今の流行だから。みんなと一緒にいかがわしい場所に行かないと。これは悪いことだけれども、することが決まっているから。みんなで決めたことだから。

元駐米教皇大使のヴィガノ大司教は言います。「もし私たちの信仰が、従順のみに基づいていたとしたら、殉教者たちは国家の法が定めた苦しみに直面する必要はなかっただろう。ただ従順に、皇帝の像の前で一粒の香を焚くだけで十分だったことでしょう。」

私たちのミサに与る態度はいかがでしょうか?私たちの御聖体拝領はどうでしょうか?主日をどのように聖化しているでしょうか?ミサの時、聖体拝領の時、私たちを愛するがあまり御聖体の内に黙ってしかし真にましまし給うイエズス・キリストをふさわしく礼拝しているでしょうか?聖パウロはイエズス・キリストの前で天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、膝をかがめる、と言います。カトリック教会の1500年以上の伝統と規律は、跪いて口による聖体拝領です。手による聖体拝領はパウロ六世の出した特別の例外的許可にすぎません。イエズス・キリストは、私たちがどのように愛をこめて御聖体を礼拝したかについて会計報告を求めるでしょう。

皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体を冒涜することができるのでしょうか?

また韓国での例を挙げるのを許してください。7月には22歳の女子選手が自殺しました。この女子選手は、監督やドクターや先輩選手から激しいいじめを受け続けていたそうです。ところでまわりが虐めていれば、私も彼女を虐めていいのでしょうか?私は大人のくせに「コーチや先輩からやれと言われたからいじめただけで、私には責任がない」などと小学生のようなことを言うことはできません。刑事責任を取らねばなりません。

皆がそうしているからと言って、私たちは主の御体に不敬をなすことが許されるのでしょうか?

カトリック教会の教える信仰の真理を、首尾一貫し、妥協せず、日和見主義に陥らず、信じて証しすべきです。従順とは真理と善に秩序づけられたものです。そうでなければ、従順ではなく"へつらい"です。

ヴィガノ大司教はこう言います。「信仰と愛徳における一致は霊魂の救いに基づいているのであって、霊魂への害に基づいているのではありません。真理を宣言することは必然的に「分裂を招く」ものであり、それは光が闇と対立するように真理が誤謬に対立するからです。ですから、主は私たちにこうおっしゃっています。「私が地上に平和を与えるために来たと思うのか。私は言う。そうではない、むしろ分裂のために来た」(ルカ12:51)と。」

【5:遷善の決心】

死の時、私たちの主からこの言葉を聞くとき、私たちはどれほどの喜びと慰めに満たされることでしょうか。「よしよし、善良な忠義なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをあなたにまかせよう。あなたの主人の喜びに加われ!」(マテオ25:21)

それに引き換え、怒り心頭の主から次の宣告を聞くとき、どれほど悲しみと絶望にとらわれることでしょうか?「のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ。」(マテオ25:41)

【準備その一:改悛の秘蹟】

もしかしたら、今まで、私の会計報告、自分の会計報告について、ほとんど関心がなかったかもしれません。こんなこと私にだけは起こらないよ、大丈夫だよ、と。しかし、まだ私たちが笑いながら罪にどっぷりつかって眠りこけている時、突然、死が襲ってくるかもしれません。

聖アウグスチヌスはこういいます。「多くの人びとは自分だけは地獄に堕ちないと信じていて、地獄に堕ちた。終わりが来て、暗闇に落とされた」と。

洗者聖ヨハネはこういいます。「まむし族のものよ、近くくるおんいかりをのがれることを、だれがあなたたちに教えたのか。くいあらためにふさわしい実を結べ。… 斧はもう木の根におかれている。よい実を結ばない木は、みな切りとられて、火に投げいれられるだろう。」(マテオ3:8, 10)

今、まだ時があるうちに、会計報告の準備をしておきましょう。生活を天主の御旨に合わせましょう。まだ時があるうちに天主の憐みを乞い求めましょう。裁きの前には、裁き主に憐みを祈ることができます。しかし、裁きの最中にはできません。

最善の準備は、すでに告解の秘蹟で「清算」しておくことです。きれいに赦されておくことです。

【準備その二:聖母に祈る】

幼きイエズスの聖テレジアは諸聖人と声を合わせて言います。私たちは人生の夕べに愛について裁かれる、と。人の目から見ると価値のないように思われる小さなことも、天主への愛をこめて行うならそれには永遠の価値が生じます。聖母マリア様のご生活がまさにこれでした。

死の直後の私審判の時に、私は本来なら一人で被告人として裁かれます。しかし、もしも私たちが生きている間、聖母にお願いしておくならば、裁判官の愛する母であり私たちの母であるマリア様が私たちの弁護者となって最高裁判官に強力な弁護をしてくださいます。会計報告の成功の秘訣は、マリア様によく取次を願うことです。

来る土曜日は8月の初土曜日(8月1日)です。ファチマの聖母は初土曜日の信心を行うなら聖母の汚れなき御心は私たちの避難所となると約束されました。どんな大洪水や火山の噴火のような霊的危険からも守られる避難所です。8月15日は聖母被昇天の聖母の大祝日です。私たちは8月13日から15日まで秋田の聖母のところに巡礼を行います。8月22日は日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。私たちの愛を見て、聖母は私たちの赤字を帳消しにしてくださるようにイエズス様に願うに違いありません。愛する兄弟姉妹の皆様をこれらの行事とミサに招待いたします。

【準備その三:隣人のために祈る】

最後に、隣人のためにも祈りましょう。秋田の聖母はカトリック司祭、司教、枢機卿、教皇様のために祈れと私たちに依頼されました。地位が高くなればなるほど、多くを受ければ受ける程、それだけより厳しい会計監査を受けます。与えられた権威をどのように用いて、天主の栄光のために、カトリック教会の名誉のために、信徒たちの永遠の救いのために使ったのか?と。

与えられた権威を、主を信じ、礼拝し、希望し、愛するために正しく使った聖職者たちには、より大いなる永遠の喜びが与えられることでしょう。しかし、与えられた権威を乱用して、カトリックの教えを歪曲させるなら、主に対する信仰と礼拝と希望と愛を減少させるなら、どれほど厳しい裁きと罰を受けることでしょうか?

ヴィガノ大司教はこう言います。「教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営をご自分の代理者に委任するだけです。教会を、そうではないものにしかも決してそうであり得ないものに変えることは、天主に反する、また天主が非常に明確に定められ牧草地で草を食み、裂け目や茂みに散らされないように命じた羊の群れに反する、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪を構成します。もしこの巨大な破滅の責任者らが、法令や貸借対照表を偽造し、顧客を騙し取った不誠実な管理者であるならば、彼らは説明を求められなければなりません。Redde rationem villicationis tuae [おまえの会計の報告を出しなさい] (ルカ16:2)。」

ルフェーブル大司教は「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ」という公開書簡の中の最後で、次のように言葉を結んでいます。

「今日この瞬間は、まだ口を閉ざしているとしても、これらの司教のうちの誰かが、聖霊の導きによって立ち上がる勇気を与えられることでしょう。私のこの仕事が天主様のものであるならば、その道は主によって守られ、教会にとっての善となるように用いてくださるはずだからです。

私たちの主は、地獄の門が教会を打ち負かすことはないと約束してくださっているからです。ここに、私が主張し続ける理由があります。もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主様が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか」と。」

Redde ratiónem villicatiónis tuæ. 会計の報告を出しなさい Give an account of thy stewardship.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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