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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「助産婦の手記」10章『さあ、あっちへ行って仕事をなさい! ここで見物している必要はないんです! お母さんも、あんた方のために一度はこんなことがあったんですよ。行きなさい―― みんなここから! 』

2020年07月29日 | プロライフ
「助産婦の手記」

10章

紡績と織物工場の数本の煙突が、空高くそびえて、黒い煙の雲を盛んに吐き出している。あたかもそれらの煙突は、工場が拡張されたことを知っているかのように、そして自分たちも、それに対して、実際何ものかを寄与しているかのようであった。

繊維製品工場が、最近新たに付設された。いよいよ多数の労働者の群れが、かつては非常に静かだったこの村に移住して来た。近代工業のあらゆる暗い面があらわれて、私たちのかつては非常に透明だった空を暗くしていった。空には、陰気な黒雲が次から次へと作られてゆく。
これに反して、セメント工場は、ひっそりとしている。その製品は、ちっともはけ口がなかった。そして倉庫には貯蔵品がいっぱい詰っていた。とにかく、それは優れた品質のセメントではないという噂である。この村の建築業者でさえ、そのセメントは現場では使わない。この工場を建てる前に、多くの人々が、この企業に反対したため、この村では長い間、議論が戦わされた。反対論者は、埃(ほこり)がいつも立つのは、一般の健康を害すると言ったが、それは確かに誤りではなかった。その工場の周囲は、遠くまで、樹木と灌木、野原と牧場が、いつでも厚い灰色の埃の覆いで被われていた。幾人かの百姓は、よほど以前から、彼等の所有物被害の件について訴訟を起している。しかし、この件では、今日に至るまで、幾つかの家庭の間に、敵意が続いているという以上の結幕は出てはいない。今、この工場は休止している。それが再び操業を開始するかどうかは、まだ誰も知らない。人の話によると、セメント工場は、すべて合同するとのこと、そしてそのときは、全く優秀な工場だけが操業することになる、ということである。それはとにかくとして、もしこの埃工場が、その仕事を中止してくれるなら、私たちはみんな、ほんとに喜ぶことであろう。しかし、問題は、今日ではもはやそんな簡単なものではない。いま、多数の労働者が、その家族を連れてこの村に移住して来ている。彼らは今や路上に坐って、パンもなければ、またこの村でそれにありつく見込みもないのである。他の工場は、一定数の熟練した男女工をもっている。その多くの若い人たちは、当地方のあらゆる地域から出て来ている。従ってセメント工場の労働者は、大部分、どこにも避難所を探すことはできないのである。

種々の工場が建てられてから、この村には根本的な変化が起った。貧しい人々が、やって来た。彼らは、少しばかりの賃銀以外には、何も持っていなかった。この乏しい源泉が、ひとたび塞がってしまえば、彼らは全く無一物であった。彼らは、決して何ものをも蓄えることができなかった。何となれば賃銀は余りにもわずかであったから。

彼等は手から口への生活をせねばならず、 そして子供たちは、獣脂でいためた馬鈴薯や、薄いスープや、乾いたパン以外には、何も与えられることができなかった。やっと一切れの肉を料理鍋に入れるか、または自分で飼った小兎を食べるのは、彼らにとっては祭日以外にはなかった。

最初の二十年間というものは、この労働者のは、私にとっては、よい仕事場であった。そこヘ私はたびたび行った。もっとも支払いという点になると、時々、別問題であった。大抵の女たちは、多少の金は貯めていた。しかし、そうでないこともたびたびあった。すると彼女たちは、折り折り土曜日に二マルクずつの分割払いをした。彼女たちは、少なくとも、みんな善意をもつていた。そこで、私は、料金が全部支払われたかどうかを調べて見たことは決してなかった。むしろ私は、支払いのできない貧しい人々のところで、幼いキリストのために働いているのだと考えていた。なるほど、保健金庫は、数年前から労働者のために作られていた。しかし、お産の費用は、当時はまだそこから出してもらえなかった。それは各家庭で、工面せねばならなかった。

それにも拘らず、今日、私たちが非常にたびたび出くわすような、そんなに何もかも使い果たしてしまったような家庭は、まずなかった。大抵、世帯は非常に整頓されていた。お互いに、小さく狭くはあったが。しかし、私たちは、過ぎ去った世代の善い精神をその中に今なお認めた。女たちは世帯ということについて、なお何ものかを理解しており、そして彼女たちが持っているわずかなものを、正しく維持し管理することを心得ていた。ベッドは、たとえ青と赤の弁慶縞の布で被われ、そして繕われてはいたが、清潔で完全であった。たとえ、二三人の子供が、一つのベッドに寝ていても(一緒に寝ることは、私たちの地方では、かつては大体、普通であった)、 ベッドはよく整頓されていた。
私は、時々不思議に思った。どうしてそこの女たちが、大抵は織物工場へ行っていながら、よくこのことをやり通していたかということを。というのは、当時は、労働時間は十時間にも達していたからである。

ある水曜日の朝、私は、繊維製品工場へ呼ばれた。これは珍しいことと驚いて、私は出かけた。
大きな裁縫室の片隅に、人々が寄りたかっている。もちろん、前の方には、まだ十分に成長しない若者たちがいた。彼等は、この部屋には何の関係もなく、休憩時間に、他の職場から馳せ集って来た連中である。彼等は手をポケットにつっこんで、物珍しげな大きな目で見つめながら、傍らでクスクス笑いながら首を伸ばして見ている娘たちに向って、嘲笑的な言葉を弄していた。見ると、一人の憐れな女が、地面に横たわって、陣痛のため、身をもんでいた。機械に崩れかかって、もはや家に帰ることもできなかった。子供が、もう生れかかっていた。
  
ここに、一人の母親が身をもみながら、一つの新しい生命のために闘っている。その生命は、母親の心臓の一部分を取って、この世に生れて来るのである――それに反して、その周囲には、愚かなおしゃべりたちが、叱声を発したり、からかったりし、そしてその不純な眼には、官能的な焔が燃えかがやいているのである……しかも、そこで、そんなに恥も知らずに、ぐるりと立ち並んでいるすべての人々のためにも、かつて一度は、母親がこのように苦しみ、かつ血を流したのであった……

初めて私は、押し寄せて来る新世代に対立している自分自身を見いだした。戦慄と同時に怒りが、私をとらえた……
『馬鹿な人たち、さあ、あっちへ行って仕事をなさい! ここで見物している必要はないんです! あんた方のお母さんのことを思い出しなさい。お母さんも、あんた方のために一度はこんなことがあったんですよ。行きなさい―― みんなここから! 誰も口をあけて立っている必要はないんです!』
私は、強い一衝(つ)きをくれて、一番手近に立っている奴を後ろへ押しやった。唸りと怒声が起った――しかし人垣は、後ろへ退いた。幾たりかは、本当に恥じて立ち去った。ほかの人たちは、よほどそこに残っていたかったのであるが、今はもうあえてそうしようとはしなかった。遂に職工長と工場監督たちが私に加勢をして、その部屋から彼等を一掃してくれた。女工たちは、機械に取りかからねばならなかった。調革(ベルト)と歯車の音が、やかましく鳴った。その母親は、一言も語らなかった。お産が終ると私たちは、赤ちゃんを一枚の作業用前掛の中に包みこんだ。すでに工場災害救護班から、二人の男が担架を持って来ていたので、母子を急いでその家へ運んだ。

その憐れな女がベッドに身を横たえたかと思う間もなく、小さな足音が、階段をちょこちょこと上がって来た。五人の子供が、学校から帰って来たのだ。一番小さなのは保育園から。子供たちは、浴用の手桶の中に、お母さんが工場から連れて帰った赤ちゃんが、またもや手足を動かしているのを見たとき、少なからず驚いた。しかし、一番年上の八つになる男の子は、泣き出した。
『パンを食べるのが、また一人増えちゃったよう……』
すると、その母のこわばっていた表情もまた融けた。そして可哀想な女は、むせび泣いた。パンを食べるのがまた一人……しかも、彼女は家の中には全く一切れのパンもないのである。夫は、三週間前から失業している。セメント工場から解雇されたのだ。わずかな退職金は、もうとっくに使い果してしまった。彼等は、もはやこれ以上、身を支えることはできない。しかも、雇い主は、労働者が今後どうして生活して行けるかということについては、ちっとも心配してくれないのである。『あの人たちの鍋の中は、一杯なのです――それなのに私たちは? 三週間この方、うちの人は一銭も賃金をもらって帰りません。そこで私は立ち上って、工場にまた勤めたのです。実は、私は六週間前までは、そこで働いていたのですが、機械と取っ組んでいると、体が段々ひどく衰えるので、仕事を止めねばなりませんでした……そして今では、私も失業です……この子は、四週間も早すぎるんです……』
私が赤ちゃんをきちんと整えて母親にそれを渡したとき、子供たちはベッドに走り寄った。『また女の子なのね』と非常に優しく彼女は、その小さな子供を胸に抱いた。『お前が男の子であってくれたならねえ。もっとたやすく世を渡って行けるだろうに、可哀想な女の子……』そして母親の涙が小さいものの上に降りかかった。
子供たちの手がおどおどとこっそり、ベッドの掛蒲団の上に伸びた。『パン、お母さん。』『お父さんが帰るまで待っておいで。お父さんはきょうお城の百姓さんのところへ穀物打ちのお仕事に行ってるのだよ。だから多分パンを持って帰って下さるでしょう。ヨゼフ、お前もあすこへ行って、お父さんに女の子が生れたと言いなさい。』

失業! ――その経験のない人は、それがどんなものであるかは知らない。ところが、この村の百姓たちは、自分たちが、いかによい暮しをしているかということは全く知らない。パンは、いつでも家にある。誰もパンがなくなる心配をする必要はない。それなのに、ほかの人々は、朝、何もはいっていない戸棚の前に坐り、そして手も足もあって、働きたいのは山々なのであるが――誰も仕事を与えてくれない。子供はパンを求めて泣くが、親は彼等に何もしてやることができない。失業はしているが、乞食に出ることは恥かしい。そして、赤ちゃんは母の乳房にすがって泣く、なぜなら、その乳房からは乳が出ないから。母はまた母で、何も食べるものがない。

失業――今に冬が来たら、どうなることだろうか――あすは――あさっては。長い冷たい日々――燃やす木もなく――石炭もなく――職業もなく……
その頃というものは、私は、その前年中にお産をさせたすべての婦人たちのところへ出かけて、失業中の母親たちのために、物乞いをした。彼女たちの困窮を、これ以上、傍觀することができなかった。しかし、私も独りでは、彼女たちを助けてやることはできない。たとえ、朝、一瓶のコーヒーとパンを、そして晚にスープを持って行ってやっても――彼女たちの数は、私にとっては多すぎた。そこで、殆んどすべての婦人たちが、起ち上ってくれた。ある婦人は、一籠(かご)の馬鈴薯を送った。ヘルマンは、一瓶の豚油を。他の人々は、一塊のパン、卵、ヘット、穀粉といったような、田舎の人たちが持ちあわせているものを。最近、数年間は、貨幣は少なくなっていた。しかし、村では生活物資は高く評価されてはおらず、そして今度の場合のように、まさに何ものかが人々の心に触れるときには、彼等は喜んでこれを与えた。そして百姓たちは、次第に、失業中の家族の父親に対して、農場や田畑で日雇仕事を与えるようになって行った。今では、百姓と工場の人たちを分離していた塀が、少し打ちこわされた。なるほど、農家では、これらの日雇労務者に対し、大抵、金銭ではなく、収穫物をもって支払ったが、しかし、それは全く同じことであった。たぶん家族が空腹で苦しみさえしなければ、それでよかったのである。




アメリカのテキサス州のジョセフ・ストリクランド司教は、今年の御聖体の祝日に生まれて最初の聖伝のミサを捧げつつ、深い感動を受けたとインタビューに答えています。

2020年07月29日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アメリカのテキサス州のジョセフ・ストリクランド司教は、今年の御聖体の祝日に生まれて最初の聖伝のミサを捧げつつ、深い感動を受けたとインタビューに答えています。

「そこには畏敬の念以外の何物もありません。ただコルポラーレ(御聖体を置く特別の聖布)の美しさと、御聖体とカリス(聖杯)がどのように扱り扱われているかには、私は…[長い沈黙]、私はほとんど聖変化の言葉を発声することができませんでした。私は感動に包まれ、その聖変化の言葉に心を打たれてしまったからです」とテキサス州タイラー司教区の司教は、Catholic Register紙の長いインタビューに答えました。

「私が司教として体験した後では、ミサの特別形式の美しさのうちに、素晴らしくも、イエズスと会いに行くように全ての人を励まさざるを得ません。」

“There’s nothing but awe. Just the beauty of the corporal and how the Host and the chalice are treated — and I have to say [long pause] I could hardly say the words of consecration because I became so filled with emotion, so deeply struck by those words,” the bishop of Tyler, Texas, told the Catholic Register’s Bree Dail in a lengthy interview.

“After what I have experienced, as bishop, I cannot help but encourage everyone towards meeting Jesus in wonder, within the beauty of the extraordinary form of the Mass,” Strickland said.

 

A US Bishop Discovers the Traditional Latin Mass

Bishop Joseph Strickland discusses what inspired him to celebrate the ...

National Catholic Register

 

 


2020年8月2日は、聖霊降臨後第九主日(二級祝日 緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年07月29日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月2日は、聖霊降臨後第九主日(二級祝日 緑)です。

【ミサ聖祭】本日の<密誦>では、すべてのミサにおいてわれらの救いが新たにされていることを記憶させる。神秘的秘蹟的に新たにされるこの事実は祈りの家なる聖堂で行われる。<聖福音>は、主イエズスが、いかに熱心にこの聖所を守り給うかを教える。聖堂においては、常に信心深いうやうやしい態度を持し、世俗的なわずらいを遠ざける潜心を有しなければならぬ。

我们为得救,单独领受洗礼,仍嫌不足。人生是一个长期的试探;在这试探中,我们该显示我们的热爱与我们的忠实。在梅瑟的时代,全体的犹太人从埃及解放出来而经过红海;然而他们中凡不忠于主的,结果都死于旷野中而未到预许的福地。同样的凡放任私欲的基督徒,也必遭主摒弃,而不能进入天上的家乡(书信)。我们不该失望,也不该妄望,却要具有一种敬畏,为策动我们日益增长的信心,以依靠天主圣宠的助佑(进台咏、阿肋路亚)。天主的这个圣宠,在不断重行基督圣祭的弥撒中,我们可任意沾得。在每日弥撒中,我们汲取一种重振精神的勇力,为能坚持于试探之中,直至最后的胜利(密祷经)。今天我们该向基督呼求:望祂以极坚强而任何暴力所不能粉碎的团结,保持我们常与祂联合(领主咏);同时,望祂也保持我们已由罪恶中所提净出的灵魂,宛如献给主圣神的宫殿(福音)。

성신 강림 후 제9주일 『성전에 들어가서 거기서 매매하는 자들을…쫓아 내시며 이르시되「나의 집은 기구하는 집이라」…허나 너희는 강도의 굴을 만들었노라』(복음)예수의 눈물! 당신의 의분의 채찍질! 왜 예수께서는 아직도 우시는가? 왜 예수께서는 아직도『쫓아내셔야』하는가? 우리 가운데는 성화된 것―성세받고 그리스도화된 그들의 영혼을 더럽히는 자들이 있기 때문이다. 천주께 선택함을 받은 예루살렘이 그리스도를 배척한 것처럼.(복음) 역사의 가장 큰 교훈은 무엇인가? 그것은 인류는 그 교훈의 뜻을 보지 못한다는 사실이다. 천주를 배척하는『우상 숭배자』와, 다만『먹고 마시고 놀기』위해서 산다고 하는 유물론자에게 어떠한 일이 일어났던가를 생각해 볼 것이다. 전쟁, 병고, 기아, 억압은 그 천벌이었다.『하루에 이만 삼천명이 주었느니라』(서간경)그렇지만 우리들은 두려움 속에서 살아 가서는 안된다.『천주께서는…너희 힘에 넘치는 유감을 당하지 않게 하시느니라』천주께서는『나를 호위하시기』(층계경) 위해서 내 안에 계신다.(영성체경) 

Dominica Nona post Pentecosten 聖霊降臨後第九の主日 降临后第九主日 성신 강림 후 제9주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ps. 53, 6-7. 入祭文 詩篇  53ノ6,7 进台咏(咏53:6-7) 초입경(성영 53․6,7)
Ecce, Deus adiuvat me, et Dóminus suscéptor est ánimæ meæ : avérte mala inimícis meis, et in veritáte tua dispérde illos, protéctor meus, Dómine. 見よ、天主は私を助け給う、主は、私の霊魂の保護者なり。私の敵どもによる悪を取り除き給え。御身の真理において彼らを散らし給え、私の守護者なる主よ。 看哪!天主是我的扶持者,吾主是我生命的卫护者。主、我的保护者啊!求祢使灾祸反归我的仇敌,求祢凭祢的忠信消灭他们。 보라 천주는 나의 도움이시오. 주는 내 영혼의 보호자시니 나의 보호자이신 천주여 흉악을 내 원수들에게 돌이키시며 또한 네 진실하심을 인하여 저들을 격멸하소서. 
Ps. ibid., 3. 詩篇53ノ3 咏53:3 (성영 53․3) 
Deus, in nómine tuo salvum me fac : et in virtúte tua libera me. 天主よ、御名において、私を救い給え、御力によって私を解放し給え。 天主啊!求祢因祢的名拯救我,凭祢的威能解救我。 천주여 네 이름을 인하여 나를 해방하소서. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦) 关荣归于父……。 영광이 부와 자와... 
Ecce, Deus adiuvat me, et Dóminus suscéptor est ánimæ meæ : avérte mala inimícis meis, et in veritáte tua dispérde illos, protéctor meus, Dómine. 見よ、天主は私を助け給う、主は、私の霊魂の保護者なり。私の敵どもによる悪を取り除き給え。御身の真理において彼らを散らし給え、私の守護者なる主よ。 看哪!天主是我的扶持者,吾主是我生命的卫护者。主、我的保护者啊!求祢使灾祸反归我的仇敌,求祢凭祢的忠信消灭他们。 보라 천주는 나의 도움이시오. 주는 내 영혼의 보호자시니 나의 보호자이신 천주여 흉악을 내 원수들에게 돌이키시며 또한 네 진실하심을 인하여 저들을 격멸하소서. 
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Páteant aures misericórdiæ tuæ, Dómine, précibus supplicántium : et, ut peténtibus desideráta concédas ; fac eos quæ tibi sunt plácita, postuláre. Per Dóminum. 主よ、御身の憐みの耳を、乞い願う者らの祈りに開き給え。主に乞う者らに、欲したものを与え給わんがために、彼らをして御身の嘉し給うことを願わしめ給え。天主として、(…)。 主,求祢开张慈耳,俯听我们恳求的祷声;并且,为能邀祢垂允我们的所求,望祢使我们单求合乎祢圣意的事。因我们主……。 주여 네 인자하신 귀를 열으사 네게 간구하는 자들의 빎을 들으소서. 너 그 기구를 들어 허락하시기 위하여 저들로 하여금 네 성의에 흡합한 바를 기도케 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Corinthios. 使徒聖パウロのコリント人への書簡の朗読。 书信 서간경
1. Cor. 10, 6-13. コリント前書  10ノ6-13 (格前10:6-13) (고린도전서 10․6-13)
Fratres : Non simus concupiscéntes malórum, sicut et illi concupiérunt. Neque idolólatræ efficiámini, sicut quidam ex ipsis : quemádmodum scriptum est : Sedit pópulus manducáre et bíbere, et surrexérunt lúdere. Neque fornicémur, sicut quidam ex ipsis fornicáti sunt, et cecidérunt una die vigínti tria mília. Neque tentémus Christum, sicut quidam eórum tentavérunt, et a serpéntibus periérunt. Neque murmuravéritis, sicut quidam eórum murmuravérunt, et periérunt ab exterminatóre. Hæc autem ómnia in figúra contingébant illis : scripta sunt autem ad correptiónem nostram, in quos fines sæculórum devenérunt. Itaque qui se exístimat stare, vídeat ne cadat. Tentátio vos non apprehéndat, nisi humána : fidélis autem Deus est, qui non patiétur vos tentári supra id, quod potéstis, sed fáciet étiam cum tentatióne provéntum, ut póssitis sustinére. 兄弟たちよ、これらのことは、私たちへの戒めとして起こったのであって、かれらがむさぼったように、私たちが悪をむさぼることをしないためである。あなたたちは、かれらのうちのある人のような偶像崇拝者になるな。「民はすわって飲食し、立ってたわむれた」とかきしるされている。私たちは、かれらのうちのある人々が淫行したように、淫行にふけるな。かれらは、一日で二万三千人死んだ。私たちは、かれらのうちのある人々がこころみたように、主をこころみるな。かれらは蛇に亡ぼされた。あなたたちは、かれらのうちのある人々がいったように不平をいうな。かれらは亡ぼすものによって亡ぼされた。かれらに起ったこれらのことは前兆であって、かきしるされたのは、世の末にあった私たちへの戒めのためであった。したがって、立っているとみずからおもう人は、倒れないように注意せよ。あなたたちは、人の力をこえる試みにはあわなかった。天主は真実であるから、あなたたちの力以上の試みにはおあわせにならない。あなたたちが試みに耐え、それにうちかつ方法を、ともに備えてくださるであろう。 弟兄们:我们不要贪恋恶事,如同我们的祖先一样。我们不要崇拜偶像,如同他们中间的几个人一样,就如经上所记载的:“民众坐下吃喝,起来嬉戏。”我们不要淫乱,如同他们中间的几个人一样,他们犯了奸淫,在一天内就死了二万三千人。我们也不可试探基督,如同他们中间的几个人一样,试探了主被蛇咬死。你们也不可抱怨,就如他们中间的几个人一样,抱怨了主被歼灭的天使歼灭了。这些事实都是我们的前鉴,他们记载在圣经中,为了警戒我们这些生于时代结束阶段的人。所以,以为自己站稳的人要小心,免得跌倒。愿除了不超越人的力量的诱惑以外,你们不遇到任何诱惑。天主是忠诚的,祂决不许你们受到超过你们力量的诱惑。遇到了诱惑,祂给你们布置出路,使你们能够抵抗。 형제들아 저들이 탐함과 같이 우리는 악을 탐하지 말지니라. 또한 너희는 저들중 어떤이와 같이 사신숭배자가 되지 말지니 대저 기록하였으되 먹고 마시려고 앚았다가 장난하려고 일어났다 함과 같도다. 또 저들중에 사음을 범한자 있어 하루에 2만3천명이 죽었으니 우리는 그들과 같이 사음을 범하지 말지며 저들중에(천주를) 시험하여 배암에게 망한자 있었으니 우리는 그들과 같이 그리스도를 시험하지 말지로다. 또 저들 중에 원망하여 박멸자(撲滅者)에게 멸망한자 있었으니 너희는 그들과 같이 원망하지 말지어다. 이런 모든 일은 저들에게 전조(前兆)로 나타난 것이로되 그 기록된 바는 마지막 시대에 사는 우리들을 훈계하기 위함이로다. 그러므로 스스로 서 있다고 생각하는 자는 넘어지지 않기 위하여 조심할지니라. 너희는 인성에 합한 유감만 당할지니 천주는 성실한지라, 너희 힘에 넘치는 유감을 당할지니 천주는 성실하신지라, 너희 힘에 넘치는 유감을 당하지 않게 하시고 오히려 그를 감당케 하기 위하여 유감과 한가지로 그를 이길 방법을 주시느니라. 
Graduale. Ps. 8, 2. 昇階誦 詩篇  8ノ2 台阶咏(咏8:2) 층계경(성영 8․2)
Dómine, Dóminus noster, quam admirábile est nomen tuum in universa terra ! 主よ、我らの主よ、御身の名は全地において何と感嘆すべきであるか! 上主、我们主!祢的名在普天下何其美哉! 주 우리 주여 네 이름이 온 세상에 어떻게 기묘한고, 
V/. Quóniam eleváta est magnificéntia tua super cælos. V/. 御身の偉大さは、天の上まで高められたからなり。 祢在高天彰显了祢的庄严。 대저 네 위엄이 모든 하늘에 높으시나이다. 
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 58, 2. アレルヤ、アレルヤ。  詩篇  58ノ2 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏58:2) 알렐루야 알렐루야.(성영 58․2) 
Eripe me de inimícis meis, Deus meus : et ab insurgéntibus in me líbera me. Allelúia. わが天主よ、私を敵どもより私を救い出し、私に逆らい立つ人々より私を解放し給え、アレルヤ。 我的天主啊!求祢救我于仇敌;求祢救我得脱免起而攻击我的人。阿肋路亚。 우리 천주여 나를 내 원수들에게 구원하시며 나를 거슬려 일어나는 자들에게서 호위하소서. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。 福音 복음
Luc. 19, 41-47. ルカ 19ノ41-47 (路19:41-47) (성루까 19․41-47)
In illo témpore : Cum appropinquáret Iesus Ierúsalem, videns civitátem, flevit super illam, dicens : Quia si cognovísses et tu, et quidem in hac die tua, quæ ad pacem tibi, nunc autem abscóndita sunt ab óculis tuis. Quia vénient dies in te : et circúmdabunt te inimíci tui vallo, et circúmdabunt te : et coangustábunt te úndique : et ad terram prostérnent te, et fílios tuos, qui in te sunt, et non relínquent in te lápidem super lápidem : eo quod non cognóveris tempus visitatiónis tuæ. Et ingréssus in templum, cœpit eícere vendéntes in illo et eméntes, dicens illis : Scriptum est : Quia domus mea domus oratiónis est. Vos autem fecístis illam speluncam latrónum. Et erat docens cotídie in templo. そのとき、町に近づくと、それをながめて泣かれたイエズスは、「ああ、イエルザレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら・・・。だが、不幸にも、それはおまえの目にかくされている。敵がおまえのまわりに塁を築き、とりかこみ、四方からせまり、おまえと、その内に住む人々を地にたおし、石の上に一つの石さえのこさないような、ある日が来るだろう。それは、おまえが、訪れの時を知らなかったからである」とおおせられた。それから、神殿におはいりになったイエズスは、商人をそこから追い出し、「"私の家は祈りの家である"と書かれているのに、あなたたちはそれを盗人の巣にした!」とおおせられた。こうしてイエズスは、毎日神殿で教えておられた。 那时候,耶稣走近了耶路撒冷,一望见城,就哭吊它,说:“假使你也认识了给你的平安的报告……无奈现在那些事瞒着你的眼。将有日子要临到你:你的仇敌要用土垒包围你,困住你,四面压榨你,并要把你和你里面的儿女粉碎;在你里面,一块石头不留在一块石头上。因为你没有识得眷顾你的时候。”——耶稣进了圣殿,驱逐商人,对他们说:“经上写着:‘我的殿宇应称为祈祷之殿’,而你们却把它做‘贼窝’。”一于是,耶稣天天在圣殿里教训人。 유시에 예수 예루살렘에 가까이 오사 도엇을 바라보시고 울으시며 이르시되「슬프다 네게 평화함을 주시는 사정을 너 과연 오늘이라도 깨달으면 다행하련마는 지금 다 네 눈앞에 가리웠도다. 대저 때가 장차 네게 이르매 네 원수들이 너를 에워 진을 치고 가두며 사방에로 너를 핍박하며 너와 및 네게 있는 자녀들을 따에 거꾸러치며 돌 하니이라도 돌위에 남겨두지 아니하리니」이는 다 너를 돌아보시는 때를 깨닫지 아니함이니라 하시고 성전에 들어가사 거기서 매매하는 자들을 비로서 쫓아내시며 이르시되「나의 집은 기구하는 집이라. 기록하였거든 너희는 강도의 굴을 만들었도다」하시고 날마다 성전에서 교훈하시더라. 
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Ps. 18, 9, 10, 11 et 12. 奉献文 詩篇  18ノ9-12 奉献咏(咏18:9-12) 제헌경(성영 18․9-12)
Iustítiæ Dómini rectæ, lætificántes corda, et iudícia eius dulcióra super mel et favum : nam et servus tuus custódit ea. 主の正しい正義は心を喜ばせ、主の裁きは蜂蜜やハニーコム(蜂の巣)よりも甘い。御身の下僕もこれらを守る。 上主的命令是正直的,能快乐人的心胸。祂的判断比蜜甘美,比蜂巢滴下的汁更香甜。我主啊!祢的仆人把那些细心恪守。 주의 의덕은 옳은지라, 마음을 기쁘게 하며 저의 도리는 꿀과 꿀송이 보다 달으니 대저 네 종이 그를 지키는도다. 
Secreta. 密誦 密祷经 묵념  축문
Concéde nobis, quǽsumus, Dómine, hæc digne frequentáre mystéria : quia, quóties huius hóstiæ commemorátio celebrátur, opus nostræ redemptiónis exercétur. Per Dóminum. 主よ、願わくは、われらに、ふさわしく、しばしばこの秘蹟を受けさせ給え。このいけにえの記念が祝われる度ごとに、われらの贖いの御業が果たされるが故なり。天主として、(…)。 主,求祢使我们常能适当地参与神圣的奥迹:因为每次举行基督大祭的纪念,就是在我们身上实行救赎的工作。因我们主……。 주여 이 희생을 기념할 때마다 우리 구속의 사업을 행케 되오니 이 비사를 항상 합당히 거행하게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Praefatio de sanctissima Trinitate ; 序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ioann. 6, 57. 聖体拝領誦  ヨハネ  6ノ57 领主咏(若6:57) 영성체경(성요왕 6․57)
Qui mandúcat meam carnem et bibit meum sánguinem, in me manet et ego in eo, dicit Dóminus. 私の肉を食し、私の血を飲む者は、私にとどまり、私もまた彼に留まる、と主は言い給う。 主说:“谁吃我的肉,喝我的血,他在我内,我在他内。” 주 가라사대 내 산을 먹고 내 피를 마시는 자는 내게 거하고 나도 저에게 거하노라 하시니라. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체 후 축문
Tui nobis, quǽsumus, Dómine, commúnio sacraménti, et purificatiónem cónferat, et tríbuat unitátem. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の秘蹟の拝領が、われらに、浄めを与え、一致を授与せんことを。天主として、(…)。 主,伏望我们所领的圣事,净化我们,并使我们精诚团结。因我们主……。 주여 비오니 우리가 네 성사와 결합함을 인하여 우리를 조찰케 하시고 또한 우리를 합일케 하시되, 네 아들 우리 주 예수 ․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

 


黙示録的なバチカンの異常事態は、天主が好まれない3つの理由のためです。罪の償いのための国際十字軍が始動されました。

2020年07月29日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年7月26日、聖霊降臨後第八主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

天主を侮辱するこれらの罪の償いのため、シュナイダー司教様によって国際十字軍が始動されました。皆様、ぜひ参加してください!

ご復活祭でさえローマであっても皆のためにミサが捧げられなかったというこの黙示録的な異常事態は、御聖体に対する冒涜のための御父からの警告だとヴィガノ大司教は警告しています。

新しいミサや手による御聖体拝領を天主が好まれないと思われる理由は3つあります。
(1)手による御聖体拝領が横行しているが、これは1969年にパウロ六世が与えた特別許可にすぎない。一般規定によれば私たちは口による聖体拝領をすべきである。しかし現実には、法に反して、口による聖体拝領は事実上「禁止」され、手による聖体拝領が強制させられている。
(2)第二バチカン公会議の文書は、ラテン語とグレゴリオ聖歌を続けるべきことが言われているが、しかし現実にはラテン語やグレゴリオ聖歌の禁止や、祭壇を信徒の方に向ける、などという革命的な変化が強制させられている。
(3)聖ピオ5世の大勅令により聖伝のミサが義務となっている。パウロ六世は新しいミサを許可したに過ぎなかった。しかし現実には、法に反して、聖伝のミサが禁止され、新しいミサが強制させられている。

シュナイダー司教様は、天主を侮辱するこれらの罪の償いのため、ファチマの天使の祈りを祈ることを呼び掛けておられます。

Bp. Schneider: Join me in crusade of reparation for sins against Jesus in Holy Eucharist

 

Bp. Schneider: Join me in crusade of reparation for sins against Jesus in Holy Eucharist

In the current so-called COVID-19 Pandemic Emergency, horrible abuses ...

LifeSiteNews

 

 

聖ピオ十世会では聖伝のミサの後の感謝の祈りとしてファチマの天使の祈りを唱え続けます - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、恵みにあふれた2017年もあと一日を残すところとなりました。いかがお過ごしでしょうか。...

聖ピオ十世会では聖伝のミサの後の感謝の祈りとしてファチマの天使の祈りを唱え続けます - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 

 

 

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