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【再掲】2015年7月31日 聖イグナチオ・デ・ロヨラの聖伝のミサ SSPX Latin Traditional Mass

2020年07月31日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5年前の記事ですが、再掲いたします。






 2015年7月31日に大阪での聖伝のミサの時の説教をご紹介します。日本に聖フランシスコ・ザベリオを派遣してくださった大恩人である聖イグナチオ・デ・ロヨラについてお話ししました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年7月31日 証聖者聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日



  小野田神父 説教

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月31日、聖イグナチオのミサを行っています。

 このミサは特に、今週の月曜日に亡くなられた、マリアさんの、信徒会長様のお母様の霊魂の為に捧げられています。会長のお母様は、会長の手によって、緊急の洗礼を受けたい、という事で洗礼を受けて、そしてマリアという霊名で、そして私の訪問をお待ちだったのです。本来なら、今回日本に来た時に、お母様にお目にかかって、できれば終油の秘跡とか、或いは必要な祝福を、病者の祝福を、本当は授ける予定でしたが、一足先に主に召されてしまいました。どうぞ、お母様の為にお祈り下さい。

 
 「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は聖イグナチオの祝日ですので、聖イグナチオの人生について、黙想してみましょう。

 聖イグナチオは、どういう人生を辿って、そして一体何がきっかけで大聖人になって、どんな事業をイエズス様の為になさったのか、そしてそれを見て、私たちがどんな点で、聖イグナチオを真似しなければならないのか、或いは、聖イグナチオの人生を黙想した、何か、私たちに与える教訓は何かを、見てみる事にします。

 聖イグナチオは、1491年にスペインのロヨラ城で、お父さんの名前は、ベルトラン・デ・オナス・イ・ロヨラ、そしてお母さんは、マリナ・デ・リコナ・イ・バルダ、というお父さんとお母さんを持った、夫婦の一番最後の末っ子として生まれて来ました。そして幼い頃は、イニゴという名前で、そのオナ地方にあった、ベネディクト会の修道者の聖人の大修道院長の名前を取ったのですが、後にローマ時代の、イグナチオと名前を変える事になります。

 子供の頃は、その当時の流行に従って、スペインでは非常に流行っていた、『騎士の物語』、エル・シードとか騎士が、イスラム教の、キリスト教に反対する人たちからの戦いに、都市を守って、そして貴婦人を助けて、そして英雄的な生涯を送る、騎士道の精神を守る、そして騎士としての栄光を高める、という本をたくさん読んで、それに憧れていました。

 そして、ちょうどその機会がやってきました、というのは、1517年に、ナヘラという伯爵の騎士として、兵士として仕える事ができるようになったからです。そしてその当時、その上流社会に出入りして、貴婦人を見て、「あぁ、この貴婦人が良いなぁ、好きだなぁ。」とか、或いは、この世の楽しみ、この世の栄華、この世の楽しみなどに非常に大きな憧れを持っていました。そしてそれを追及する為に、「騎士道の道を、ますます歩こう。」と、思っていました。そして彼は、イニゴには、それなりの体力と、勇気と力もありました。

 そのようなイニゴにとって、大きな転換期がやってきました。それは、1521年、フランスのアンドレ・ド・フォアという、ナバラ地方にいたフランス人が、それは力のある貴族だったのですけれども、それをスペインの、そこのイニゴが仕えていた上司に対して攻撃をかけます。そしてそのパンペルーナ城に対する攻撃に対して、イニゴが皆と力を合わせて、それに対抗します。上司はすぐに退却するのですけれども、イニゴたちだけは残って、一生懸命それに反撃するのです。結局5月20日、それは聖霊降臨後の月曜日、大砲の弾がイニゴの足に当たって、足の間で避けて、そして負傷を負って、もう歩く事ができなくなります。骨を折って、そしてイニゴが倒れたのを見て、他の仲間たちは皆、これで降参してしまいます。スペインのパンペルーナ城は負けてしまうのです。一生懸命、敵ながらにあっぱれに戦っていたイニゴを見て、フランス人たちも彼を助けて、治療して、家に帰させるのです。

 療養中、自分の家でいつも読んでいた、ロマンの本を、騎士道の本を、「ないかなぁ。」と、探すのです。しかし、そこにあった本は、『キリストの生涯』と、『聖人伝』だけでした。そこで、その時間に任せて、『聖人伝』、『キリストの生涯』を読んで、時を過ごしましたが、『聖人伝』を読めば読むほど、『キリストの生涯』を読めば読むほど、「自分にはもっと、仕えるべきもっと高貴な王がいる。」と、いう事が分かりました。今まで知らなかった、超自然の、天の王国についての事に目が覚めたのです。

 そこでイニゴは、「あぁ、私はもっと偉大な王に仕えなければならない。私の仕えるべき王は、イエズス・キリストだ。そして、もしもこの聖人たちが、これほどキリストの為に仕えたのならば、私も真似をして、彼らのようになりたい。断食をして、苦行をして、そしてイエズス・キリストに仕えたい。」という望みを多く持つようになりました。そしてイニゴは、「これからは、罪の償いと、悔悛と、苦行の生活を送りたい。」という願いに燃えて、「そして聖人たちに倣って、自分もエルサレムに巡礼に行きたい。そしてキリストの、イエズス様の生涯の色々な場所を訪問して、そこで黙想して、そこで一生を送りたい。そして巡礼者の霊魂の助けをしたい。」という決心を立てるようになります。

 そしてここでイニゴは、この大砲が当たって大怪我をしたおかげで、大回心をする事になります。今まで世俗の事だけに、世俗の栄光だけを夢見たのが、キリストの為に仕える痛悔者となったのです。

 そこでイニゴは、歩けるようになると、すぐにエルサレムの方に巡礼に行く事にします。しかし、そのエルサレムにすぐに行くのではなく、その前に、近くにあったモンセラトというマリア様の巡礼地があって、「そこでまず総告解をしよう。」という事で、そこに巡礼に行って、3日間良心の糾明をして、そして総告解をします。

 そしてその告解をした後に、ちょうどその当時の習慣では、騎士道では、人が青年が騎士になる時には、御聖堂に行って、一晩中寝ずのお祈りをします。そしてその夜通しのお祈りをした後に、特別の儀式があって、騎士に叙任されて、そして騎士の服を受けて、そして正式な騎士とするのですけれども、イニゴは、総告解をした後に、一晩中、モンセラトのマリア様の前でお祈りをして、寝ずのお祈りをして、そしてその翌日、今まで着ていた貴族の服を乞食に与えて、乞食に、「交換しよう。」と、言うのです。そしてこれからは、袋の汚い服を着て、そしてそのマリア様の所の聖堂に、自分の付けていた刀や、短剣を置いて、そして、「これからは、生涯、新しい一生を送るのだ。」という事でミサに与って、ちょうどその日は、1522年3月25日、聖体拝領をして、そして至聖所を、モンセラトの至聖所を出発します。

 かといって、どこに行くという当てもなく、「とにかく主の導きのままに。」と、言って出るのです。ところで、イグナチオと服を交換した乞食は後で逮捕されて、「お前、どっかで盗んで来たんじゃないか。」と。イグナチオがそれを説明するまで、泥棒の疑いをかけられたそうです。

 話は戻りますが、イグナチオがそこのモンセラトの至聖所を出ると、たまたま、非常に心の良いカトリックの婦人がいて、イニエス・パスカルという女性に会います。そしてその方がイグナチオをそこに泊める事をするように招いてくれます。そしてこのような乞食のみそぼらしい彼を、彼女がそれを受け入れて、その間、イグナチオは彼女のところに留まりながら、祈りと黙想に耽ります。マンレサ洞窟に行っては、お祈りをし、そして断食をし、特にイエズス様についての御受難を読んで、黙想し、ミサに与り、そして祈りと償いと苦行の生活を送ります。

 そうしてそういう時に、色々な傷心の問題や、或いは誘惑の問題や、色々な霊的な闘いがあるのですけれども、その時に色々な光を受けて、ある時には一週間、8日間続けて脱魂状態にあった、という記録が残っています、そしてそのような、特に霊的な修練に於いて、メモを取って出来たのが、『霊操』といわれるもので、そのノートが元になって、将来、『黙想をする30日の霊操』というものが成立します。

 最初は、罪の償い、改悛、という事だけしか頭になく、キリストに仕えたい、聖人に倣いたい、という事で巡礼の旅に出た聖イグナチオは、このお祈りの後に、霊的な師となって、大変化をする事になります。

 そしてその後にイグナチオは、そのイニエス・パスカルさんたちの家を出て、いつも黙想していた洞窟、マンレサの洞窟を離れて、とうとうエルサレムに旅立ちます。イグナチオが旅立つ時には、そのイニエス・パスカルさんと家族たちは、「私たちは、天使であり、私たちの聖人である、大きな友人を失ってしまった。」と、非常に悲しんだそうです。

 1523年の2月に聖地に向かって、そして聖地に到着して、聖地の色々な所を訪問して、非常に霊的な大きな慰めを受けます。が、フランシスコ会の管理者の方が、「お前は家に帰れ。お前のような者がいると、誘拐されたり、大きな問題が起こるから、すぐ帰ってもらいたい。」と、言われて、イグナチオはそれに従って、せっかく何年もかけてようやく辿り着いたエルサレムを離れて、スペインに戻ります。かといって、一体何をするべきなのか分からなくて、「とにかく霊魂の為になりたい、イエズス・キリストに倣いたい。」という思いで、その巡礼の地から離れなければなりませんでした。もしもそのような命令が無ければ、イグナチオは一生涯、聖地に骨を埋めていた事だったのです。

 しかし、イグナチオはスペインに戻って、「霊魂を救う為には、霊魂たちの役に立つ為には、キリストについての話をするには、そして自分の見出した、この『霊操』の指導をするには、霊的な話をするには、自分もちょっと学をつけなければならない。」という事で、33歳だったにもかかわらず、学校の小さな子供たちに混ざって、学校で勉強しだします。そして2年間、子供たちと一緒に勉強して、そしてアルカラという所の大学に行き、そこで何か、異端の疑いをかけられたので、次にはサラマンカの大学に行き、そしてそこでもまた、疑いがかけられて、牢獄に入れられ、今度はパリに行きます。

 そしてパリで神学を勉強して、そして多くの良い友人たちと会います。ペトロ・ファベル、聖フランシスコ・ザヴェリオ、ライネス、サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・バディラ、などという6人の同志がいて、そして彼らと一緒に、「イエズス様の為に何かをしよう。」そして話しが合って、そして1534年8月15日、パリのモンマルトルのチャペルで、清貧と、貞潔と、そしてエルサレムに巡礼に行く、という3つの約束をして、それから、「これから自分たちは一緒に、自己聖化の道を捧げよう。」という風になります。

 そして、その約束の通り、自分たちの立てた誓願の通り、エルサレムに行こうとするのですけれども、その当時トルコと、戦っていたトルコ軍が海を、地中海を占領していた為に、舟は、エルサレムに行くような舟はありませんでした。幾度、何度も待っても待っても待っても、舟はない、という事で、「もしも天主様の聖旨がそうであるならば、エルサレムに行く代わりに、教皇様に、私たちの奉仕を捧げよう。」という事で、ローマに行きます。

 そして、「私たちは、イエズス様の為に戦う騎士であり、イエズス様の為に戦う小さな軍隊だから、この軍隊を教皇様は使って下さい。」そして、イエズス様の軍隊という事で、『イエズス会』という名前を付け出します。

 しかし、このイエズス会も、最初は修道会という明確なものはなかったのですけれども、しかしその当時、カトリック教会全体をみると、イスラム教徒からの危険、或いはプロテスタントによって、多くのカトリックの国々が影響を受けてしまって、教会を離れてしまっている。イギリスはヘンリー8世が、教会を離教状態にしてしまった。或いはフランスとスペインは、互いにバルワ家とハプスブルク家が戦っている。そして残念ながら、ルネッサンスの影響で道徳もゆるんでしまっている。そして多くの人々は、キリスト教について何も知らない、無知がはびこっている。という事で、「私たちは何か、永続的なものをしなければならない。」という事で、「1つの修道会として、従順の誓願を立てる。」という事を決意しました。

 そして、教皇様パウロ3世が、1540年9月27日に勅令を出して、そのイエズス会を公式に認可する事になります。

 すると、もしも従順であるならば、長上を決めなければなりません。そして、「長上を誰か、これから投票をして決めよう。」という事になります。

 ところで、その当時ポルトガルは、とても海洋的に力のある国でした。そしてアメリカにはブラジル、そしてアフリカにはエチオピア、そしてアジアにはインドがあって、その当時ポルトガル人は種子島にもやって来て、そして「日本と是非、そのポルトガルに、その色々な外国の所に、ポルトガルの領地に司祭を派遣して欲しい。」という事で、ポルトガルの王ヨハネ3世が、イグナチオにお願いするので、イグナチオはそこで、「さあ、すぐに是非派遣して欲しい。」という事で、すぐ近くにいた聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事にします。本当は、別のロドリゲスを送る予定だったのですけれども、病気で、ザヴェリオがそこのすぐ近くにいたので、「お前、行け。」という事で、「はい。」と、行く事になります。
 イグナチオは、聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事になります。

 聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオを非常に敬愛していて、イグナチオに手紙を書くには、いつも跪いて手紙を書いていたそうです。そしてイグナチオのサインをいつも胸に置いて、イグナチオの事を慕っていた。その「聖フランシスコ・ザヴェリオとイグナチオは本当に一番の弟子であった。」と、言われています。

 聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオができなかったような事を、インドや、或いは日本や、という所でして、そして多くの霊魂たちを回心させます。

 聖フランシスコ・ザヴェリオがインドに旅立つ前に、総長を選ぶ投票を、名前を書いていくのですけれども、そこにはイグナチオの名前が載っていました。総長の投票の時には、全員一致で、イグナチオ以外を除いて、皆がイグナチオが総長をやるように。イグナチオはそれを受けて皆に話をします、自分がやるには相応しくない、という理由をたくさん述べて。「だから3日間もう一度お祈りをして、もう一度投票しよう。」と。皆が同意して、3日間お祈りして、もう一度投票すると、皆がイグナチオを投票します。するとイグナチオはそれを受けて、霊的指導司祭に話をして、「彼に相談する。」そして彼に罪を告白して、その全てを打ち明けて、そして、「私はあなたの指導に従う。」すると、その神父様は手紙を書いて、「皆の前で読むように。」と。その手紙には、「イグナチオに命じて、総長の職を受けるように。」と言われ、そして聖イグナチオは総長になる事になります。

 すると、これからはローマに留まって、イエズス会を監督、指導しなければなりません。全く新しい生活が始まります。戦争の時に受けた足の傷や、断食や苦行で弱っていた体で、非常に健康には恵まれなったのですけれども、しかし総長として、非常に素晴らしい仕事をします。イエズス会は世界中に多くの会員を広め、日本、インド、イギリス、そしてプロテスタントのドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、或いはアメリカ大陸にも広がって、そしてそのイエズス会の基礎を作ります。

 イエズス会は、非常に天主様の聖旨に適った修道会であった、という事は、その実りを見ると分かります。瞬く間に全世界に広まって、多くの人々が、イエズス会の手を通して、カトリックに回心します。そしてプロテスタントによって失われてしまった者よりもはるかに多くの者が、イエズス会の手を通して、イエズス様の元にもたらされました。

 後の時代には、学校教育を通して、宣教を通して、多くの霊魂がイエズス会の宣教師の手を通して、お恵みを受けます。多くの王たちや貴族たちも、イエズス会の素晴らしい知性を通して、霊的な指導を受けたり、そして教皇様は、イエズス会の素晴らしい神学者によって、トリエント公会議を進めたり、或いは、学校教育を通して、多くの子供たちが無料で、非常に高い水準の教育を受ける事ができました。

 「もしも、フランス革命が起こってしまったのは、それは残念ながら、イエズス会が廃止されて、そしてイエズス会によって教育を受ける事ができなかった人々が多くあったからだ。」とも言われます。

 或いは、「もしも、イエズス会が非常にカトリック教会の敵から攻撃を受けたのは、実はイエズス会こそが、カトリック教会を守る、非常に固い砦だったからだ。」

 特に日本は、最初のイエズス会の最も誇る聖人、最も高貴な聖フランシスコ・ザヴェリオをすぐに私たちの宣教師として受けた、特別のゆかりのある地ですから、聖イグナチオには深い恩義があります。

 私たちは、聖イグナチオの生涯をみて、どのような事を考えなければならないのでしょうか。
 イエズス様は、罪人であっても、それを使う事を良しとされる、という事です。聖パウロもそうでした。教会を迫害していたサウロはパウロとなって、教会の為に働く大使徒となりました。
 野心と、この世の栄華と、快楽を追及していた様なイニゴも、回心して、キリストの騎士となって、イエズス・キリストを真似る者となって、そして、全世界をカトリックに戻す為のイエズス会を創立する者となりました。

 聖イグナチオが元々思っていた、「エルサレムの巡礼」とか、「エルサレムに居てその巡礼者の奉仕をする」というのは全く打ち砕かれてしまいましたけれども、それよりも更に素晴らしい計画を、イエズス様は聖イグナチオを通して実現されました。多くの霊魂が、聖イグナチオと、その創るイエズス会を通して、果たされました。

 私たちも是非、聖イグナチオの御取り次ぎによって、例え私たちが罪人であっても、イエズス様の良き道具となる事によって、多くの霊魂を救う事を、イエズス様が望まれる、という事を記憶する事に致しましょう。

 そしてイグナチオの様に、厳しい苦行と、お祈りと、脱魂のお恵みは頂けないかもしれませんが、しかし、罪の償いの精神は、少なくとも真似る事に致しましょう。特にイグナチオは、マリア様の元で回心をしました、お祈りと回心と、そして霊操を受けました。ですから、マリア様の御取り次ぎをもって、私たちもイグナチオの精神を受けるように、キリストに従う精神を受けるように致しましょう。

 私たちはこの夏、霊操を、黙想会をする事ができそうです。ですから、聖イグナチオの御取り次ぎによって、私たちの黙想会を祝福して下さって、そして良い黙想会ができるようにお祈り致しましょう。

 「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



「助産婦の手記」12章 『もうまた』

2020年07月31日 | プロライフ
「助産婦の手記」

12章

『もうまた』と婦人たちが言った、『踏切番のお上さんが、また赤ちゃんを生んだ! 全く恐ろしいことですね。今度のは、四番目ですよ。一番上のが、やっと復活祭に入学するというのに。それもまあ何とかよくなって行くでしょう。でも、こんなことは、非常な早婚の結果ですね……』
『もうまた』と男たちも、ビールのテーブルを囲んで話し合った、『踏切番さんは、実際、気が狂っているよ。そんなに子供を作るなんて。』そこに坐っていた連中のうち、幾人かは、自分もそれに劣らぬぐらい子供を持っていた。ほかの幾人かは、次のことをよく知っていた、すなわち、自分たちに子供がそんなに多くないのは、ただ偶然であるに過ぎぬということ、そして自分たちの生活のやり方では、恐らく十ヶ月每に一人子供が生れ得るということである。当時は、まだ大抵の人々が、自然を欺く試みをしようとするまでには立ち至っていなかった。しかし、二三の人たちが『もうまた!』と叫んだ以上、みんな黙ってしまい、そして何か違った意見を敢えて述べようとする者はなかった。ただ一人言ったのは、最初問題となったその本人であった。
『もうまただって、全くそうだ。私のうちでは、いつも直ぐそうなんだ。だが、どうすることができようか。我々だって、ほかの人たちよりも、放埓な生活をしているわけじゃないですよ。』
『そうだ、君、だが人間は、まさに自らを助けなくちゃならないんだよ!』と、一人しか子供のない太った行商人が叫んだ。『君は、いかに男たちが遊興や浮気をしながら、その厄介な結果の起るのを避けているかということを知らないほど馬鹿じゃないだろう。』
『私は、そんなことなんか知りたくもない。私は家にはれっきとした家内がある、淫売婦じゃないですよ。分ったかね!』
『君、軍隊では、そんなことは、みんな知っていたんだ。しかもその後、技術は一層進歩したんだよ……』
『軍隊ではお前さんは策略を使って公娼のところへ行っていたっけ。だから、私には構わないで、きょうでも、やはりその手を使ったらいいだろうね。私は、家庭を清らかにして置きたいんだ。私は、自然のありのままに妻と一体なんだよ。だからそれ以外のことは真平だね』踏切番は、怒り出した。

そこで行商人は、自分の考え通りの正しいドイツ語で話した。
『我々もまた紳士的な人間です――ただし、まさに理性的な人間です。もしもあんたが、子供たちを養育することができなければ、子供を沢山持っていても、どうするのですか? むしろ、一人だけ持っていて、その世話を正しくやって行く方が、より善くはないですかね?』
『私の子供たちの世話をするものは、我々以外には誰もいないんだ、だから誰にも関係のないことですよ。で私は、も一度言っておきますがね、我々はきちんと生活しているんですよ、それなのに、ほかの人たちと来たら……それに、私の子供たちの母親は、私にとっては善すぎるんだ――そしてほかの女たちは、どれも悪すぎるんだ、左様なら。』

彼は立ち上り、自分のビール代を払って、忠実な妻と、笑っている子供たちのいる自分の家に帰って行った。 しかし、不快なものが、彼の心の奥底に横たわっていた。彼が妻を見たとき、『もうまた』という言葉がまたもや耳にひびいて来た。きょうは、彼は非常に無口だった、全くいつもの習慣に反して。もしそうでなければ、彼はいつもその日に出くわしたいろいろのことを話して聞かせるのだった。二三週間前から、彼は最寄りの停車場を管理していた。そして、そこに常勤したいと考えていた。そこの社宅は、より大きく、庭もそうだった。しかも、その庭は、非常に綺麗な明き地であったから、何か小さい家畜を飼うこともできる。給料も少し高い。上級監督官は、彼にけさ約束した、『もうまた』子供が出来たのだから、あんたを真っ先きに推薦して上げましょうと。だから最初、この希望の光が、彼の気持を非常に嬉しくさせていたので、彼はいつもの習慣に反して、帰り道でビールを一杯引っかけたわけであったが、今やこの『もうまた』という言葉が、彼を腹立たせた。彼の妻は、さぐるように彼を眺めた。何事があったのだろうか? 彼女はそれを見いだすことができなかった。夕食後、子供たちをベッドへ連れて行った後で、妻は、きょう着いた彼の母親の手紙を渡した。読んでゆくと、『お前さんたちが、もうまた赤ちゃんを授かったことは……』とあった。『止せやい! もうまたなんて!』踏切番は、拳で食卓をたたいたので、お上さんがちょうど片づけようと思っていた皿が、跳ねとんだ。『おふくろまでが「もうまた」と書いてる! そのくせ、おれたちは、郷里では十一人きょうだいだったんだ!』
『でも悪い意味でじゃないでしょう、ペーター。』
『どこでも「もうまた」と言っている。今に私がどこに姿を現わしても、人から小突かれ、嘲けられないですますことはできないだろう。だが、きょう、私は、一体それがどうしたというんだと、あの連中に言ってやった。徹底的に言ってやったんだ。これからは、あの連中は私を煩らわさないでいてくれるだろう……』
ハハ―、そこが気に障ったのだな、と彼の妻は思った。私がいつも、自分の悩みを胸にたたみこんで、それを夫に知らせなかったのは、ほんとによかった。『もうまた』―― 何度、人は私にそう言ったことだろう。私の夫は、もっと賢くはないのか?
『いいですか、ペーター、男たちがどんなに馬鹿かってことは、あんた、よく知っているでしょう。勝手にしゃべらせて置きなさい。ビールの席で、ある一人が大きな口を開けて物を言うと、それが真面目なことに関係のあるときには、誰も違った考えを述べようとするものはないのですね。たとえ、どんなに反対意見を持っていても。ただ政治のことが問題になると、みんな互いに相手をどなり伏せようとするんです。ところが、もし道德問題か宗教問題について自分の考えを述べねばならぬ段になると、あの人たちはテーブルの下にもぐりこんでしまうんです。そんなことを気にやまなくてもいいですよ。私たち二人は、上の方に向って、光へ、天へ、進んで行こうと約束し合ったんです。そしてどんな困難、どんな不幸のときも、またどんな希望についても助け合うことを。そして自然に属する事柄についても。そして私たちは、お互いに助け合うために、夫であり妻なんです。他人には何のかかわりもないんです。そして結婚して子供が出来るなら―――それは、天主様から与えられるんです。そして、子供に歯を与えて下さる御方は、また食事の心配もして下さるでしょう。このようにして私たちは、直きにまた子供を育て上げることになるでしょう。』

踏切番のお上さんは、気丈夫な女であった。村中で最も気丈夫な人たちの一人だった。私はもうすでに、彼女の子供が三人生れるのを手助けした。しかし、四番目の子が生れたとき、彼女の結婚した若い妹が、何も知らずにたまたまその家にやって来て、そして全く驚いて『もうまた!』と叫んだときには、さすがのお上さんも、わっとばかりに泣き出した。もう数ヶ月前から、夫の親戚たちは、彼女が、もうまたそういうような有様で、夫にそんなに沢山の子供の重荷を背負わすという非難を彼女に浴びせかけたのであった! また、この村の上層の官吏や実業家の奥さんたちも、子宝ということを嘲笑した。その多くの人々の考えでは、それは愚かなことであり、他の人々にとっては、それは冗談であり、二三の人々にとっては、それはまた現代ばなれした精神であった。しかし、この「もうまた」という言葉は、その都度、針で刺すように、この母親の心にこたえた、それがますます繰り返されるほど、ますます深く。そして最後に、お産の苦痛のために、体力がもはや衰えてからは、今まで堰き止められ、彼女ひとりで辛抱して来た悲しみが、一度にほとばしり出たのであった。

私が彼女をなだめることに成功したとき、彼女は私に物語った。
『私は、あるお医者さんのところで、私として最後の勤めをしました。先生は、大変よいお得意がありました。財産もあって、いわゆる素封家です。で、一人お子さんが生れました。お姑さんが洗礼にお出でになったとき、その若い奥さんに申されました、「ですが、あんた、もうまた子供が出来ないように注意して下さい。私たち婦人は、もっともっと強くなければなりませんよ」と。そのお医者さんの奥さんは、 この忠告をよく肝に銘じました――そして御主人を拒みました。 ところが二年後に、そのお医者さんは、ある町の郊外で私生児を作ったのでした。――このことは、私をこのような問題について、篤(とく)と考えるようにさせました。そのお医者さんは当時、自分で言っていました、妻が私を拒んだから、そういうことになったんだと……そして私が結婚したとき、先生は、も一度私に言いました、「あんたの御主人にあまり禁欲を要求しないようになさい、そして御主人と仲よくなりなさい。男というものは、大抵、普通の女よりも欲望が強いものです。それは、自然にそうなっているもので、このことは、よく理解しておかねばなりません。私は、放縦な生活をすべきだというのではありません――断じてそうではない。しかし、すべてのことは、結局、限界があるんです。そして結婚した人の場合と、独身の人の場合とは違うのですよ……」
このことを私はたびたび熟考しました。聖パウロも言っているじゃありませんか、人、焦心するよりも結婚するを可とすと。お互いに助け合うこと、特にこのむずかしい問題についても、そうすることは、実に婚姻の目的ですね……
リスベートさん、私たちは、ほかの人たちよりも悪い生活はしてはいません。私たちは、力を鍛え、増すために、いつもある期間は禁慾しています。最初の子の産れた後は、三ヶ月でした。その次は、六ヶ月。最後のときは、殆んど一ヶ年でした。しかし、私の夫が、もはや昼も夜も落付きがなくなったということ、それを抑える力が殆んど足りなくなったということ――つまり、夫が誘惑に負けて婚姻を汚すかも知れないという危険が生じた(男たちは、このことを、いともたやすく、やってのけたものでした!)ということに、私が気がつくときには、私は彼の妻にならねばなりません。妻は夫に従うべしという天主の掟を別としても、私はこうせねばなりません。なぜなら、私は夫を愛し、そして助けたいと思っているからです。
いつも直ぐ子供が出来るということは、私の宿命でしょう。でも、生活のすべてが、天主の御手の中にあるのでしたら、このことも、また全く同様です。そして私は、私の小さな十字架を担うのです――しかも、私は喜んでそれを担います。子供たちは、実際、とても可愛いいものです。特に、全く小っちゃなのは、そしてそんな黄金のような小さなものを持っている家の中には、祝福があるわけですね……』

子供が生れたちょうどその日に、踏切番は、よりよい地位を与えられた。それは、赤ちゃんへの贈物ですよと、上級監督官は言ったが、彼自身も、実は五人も子供があった。さて、この出来事は、またビールの席で議論された。しかし、今度はウイレ老先生も同席しておられたので、いつもと違って鋭い反対票が存在したわけである。このときは、一人が演説をすると、他の人々もおのおの意見を持ち出すことを憚(はば)からなかった。
『実に旧式な人だね、』 と太った行商人が不平を鳴らした。『我々は、おっぴらに、そういう人の味方をするわけには行かぬだろう。』
『もし人が生活するなら――今のような生活の仕方では、』と老医師は言った。『男というものは、事の結果を自分で引受ける勇気も持たねばいけませんね。そうでなければ、その人は憐れむべきものですよ。』 先生は、まだ旧式な人であった。
『しかし、それは今日では、実際、変ってしまっているんですよ……』
『自然の法則は、決して変わるものではありません。成程、これまで自身自身を抑制することを学ばなかったか、または全く自制することを欲しない意志の弱い人々が、そのような手段をとることは理解できます……しかし、それは決して正しいことではありません。しかも、そうすることを人々に勧めようとすることは、実に、まさしく犯罪です。もしそういうことになれば、夫婦間の最も密接な関係は全く明るみに曝されることになるから、その神聖さは、ことごとく失われてしまうでしょう。相互の喜びであるべきものが、相互に対する嫌悪となります。自然に反してなされるものは、常にその報いを受けます。それは根本的には、人間にとって、貧困化をもたらすものであり、掠奪であり、傷害です……』
『しかし、人間は、自然を支配することを学ばねばならないですよ……』
『確かに、自分自身の中にある自然をですね。しかし、あんたの考えているものは、 自然の支配というものじゃありません。支配というものは、自分の衝動を抑制し、その満足を棄てることでしょう。これに反し、それ自身の目的から離れて、ただ享楽しようとする欲望は、自然を濫用することであり、あざむくことです。一つの暴行であって、それは罰せられずには置かれません。私は、互いに全く身を滅ぼし合った夫婦者を一組以上、あなた方にお目にかけることができます。また、まさしくそのために、もはや調和して行くことができない結婚生活を一つ以上、挙げることができます。この年老いた医者の言うことを信じて下さい。人間は、勝ったように見えるときに、却って破滅してゆくということを。そういう人たちは、子供を育てる代りに、金を節約しようと欲する。ところが、それから金を医者と薬剤師のもとへ、そしてまた病院の中に運ぶのです。彼等は、情欲を享楽しようと欲する――そして心の奥底では、お互いに忌みきらうのです。そして相変らず、満足を得られず、救われることもなく、そしてかようにして情欲の適正を得た真の不安に達することは決してできないのです。人は、もはや、自分自身にいや気がさすのです――その理由が判りもせずに。私はあなた方に特に警告しますがね。どうか現在、ドイツに氾濫しようとしているこの流れの中に、身をさらわれないようにして下さい……』
そこに居合わせた男たちのうち、踏切番の家に出産のお祝いに行った一人が、そのことをそこで話したのであった。

産児制限の問題が、当時初めて私の視野にはいって来た。確かに、いつまでも独身でいて機会を避けることのほうが、結婚していて、互いに相手に対して権利を持ち、そして昼も夜も機会がありながら自らを抑制することよりも、むしろたやすい。結婚していて、長い間、禁慾生活をおくるためには、大きな勇気が必要である。しかし、そうしようと思えば、できるのである。








--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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