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霊魂の生命なるキリスト 第1講の七 天主の御計画の結果―聖霊において一致し給える聖父と聖子との光栄

2020年07月16日 | カトリックとは

霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画

七 天主の御計画の結果――聖霊において一致し給える聖父と聖子との光栄

すべて光栄を帰すべき御方は、ひとり天主だけである。そして天主の御活動の第一目的も光栄の表われることにある。聖パウロは、我等にこれを示して「これ、最愛なる御子において、我等に賜いし栄光ある恩寵の誉れのためなり」(エフェゾ1:6)と言い、ヴァチカン公会議は議定して「これ、天主が自らの浄福を増すためでもなく、完全を完成するためでもなく、愛と全能の行によって欲し給うままに、無より創造し給える被造物を満たしている善美を通じて、自らの完全を表わさんがためである」と宣言している。また他の会議において「天地万物は天主の光栄のために創造せられたること」を否定する者には破門を宣告している。

この二つの宣言により、天主は自らの光栄のために万物を創造し、また光栄は被造物にあまねく施し給う恩寵とこれを通じて表われる完全とによって揚(あ)がり、しかもその動機は完全な自由意志からの愛によることは明らかである。

故に天主は、我等被造物の幸福を自らの光栄となし給い、我等の幸福はまた天主を讃美し奉るものとなる。しかし、我等の幸福が、そのままに天主の御光栄とも讃美ともなりえるのは、一つに天主と人とが完全に一致している我等の頭、キリスト・イエズスによる。すなわち我等は、キリスト・イエズスの中に充満てる恩寵の流れをいただき、これによって初めて天主との一致に入り、天主の御意に適う者となり、我等のすべては天主の御光栄を揚げるものとなるのだ。天主がこのように聖子イエズスの中に充満てる恩寵をイエズスによって、我等に通じ給うのは、これによって御光栄が高揚、拡張、賞讃されるためである。

聖パウロは、天主のこの御計画を強調して「栄光ある恩寵の誉れのためなり」(エフェゾ1:6)「これ、先んじて、キリストを希望せし我等が、その光栄の誉れとならんためなり」(同1:12)と叫んでいるが、彼が「恩寵の誉れのためなり」とは言わず「栄光ある恩寵の誉れのためなり」と言って、天主が我等を選ばれて永遠の世嗣とならしめ給うたのは我等をして御光栄を讃美する者とならせるためであることを教えていることは注意すべき点である。

すなわち我等が天主の子とされるために罪の結果である障害物が除去されなければならなかったので、キリストはまずこれを除き、しかも不思議な御業――御自分の御血をもってこれを除き、そして罪の子、天主の敵であった我等を天主の恩寵に復活させ給うた。

かくて、天主の神秘の御業は、イエズス・キリストによって人の目にひときわ明らかに輝き知られるものとなった。「感歎すべき天主の御業は改造せられて一層驚嘆すべきものとなった」。

実にすべての聖人は、イエズスの御血と恩寵の働く結果であり、御血によって勝ち得られた勝利の杯である。この故に、聖人はすべてキリスト・イエズスと聖父天主の光輝ある栄誉となり―「我等がその光栄の誉れとならんためなり」(エフェゾ1:12)―その大群は天国において、キリストを頭に戴いて天主の御国を形成し、生前にキリストの恩寵によって戦い抜き、勝ち得た勝利の誉れを高揚し、「自ら犠牲となり給える天主の羔(こひつじ)、御身は十字架上の死をもって我等を贖い、我等に御国の世嗣たる資格を与え御国の光栄に与からしめ給えり」「されば王座に坐し給う者と羔に、祝福と尊貴と、光栄と権能と世々に限りなし」(黙5:13)と、絶えざる賛美を歌って天使群の「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」の讚美に声を合わせているのだ。

天国の光景。かくて天国においては天主の聖の讃美と、キリストの勝利の讃美との交響楽が、昨日も今日も永遠に響き渡っているのである。地上のあくせくした姿かたちより心を離脱して静かに眺めてみよ、聞いてみよ! 贖い主キリスト・イエズスを感謝、讃美し奉る荘厳の極みない諸聖人の讃美の歌!言語に絶する偉大で雄厳なる天国!歓喜の声!想像するだけでも我はその憧憬に熱くなり、その思慕の情に燃えて、わが心は地上にあって天主を観想し、天使聖人の群に入って共に、永遠の讃美を歌い奉る。聖パウロは牢獄にありながら、世に隠されていた天主の奥義すなわち、人がイエズス・キリストによって、天主の子とされる偉大な教義と、キリストが世にもたらし給うた富の量り難さを観想しては、驚歎し恍惚となって、繋がれている牢獄での苦しみも忘れ、ただ讃美と感謝に満ちて「祝すべきかな、わが主イエズス・キリストの天主及び父、これはキリストにおいて諸々の霊的祝福をもって我等を天より祝し給えり」(エフェゾ1:3)と歌うほかなかったのである。

だが天主は我等までも、御自分の子としてくださり、御自分の生命と至福に与からせるために、永遠の彼方より我等を召し出し、キリストにおいて御自分のすべての富も宝も与え、もって我等がキリストにおいてどんな恩寵にも欠ける所のないようにさせ給うたのである。ああ、祝し奉るべきかな、永遠の聖父!

我等の成聖。これが天主自ら我等を救い、聖とさせようとするために立て給うた叡智と愛の御計画である。だから成聖は、信仰の光に導かれつつ、隠されたる秘蹟とも言うべき天主の御構想の中に深く入り、その御計画をわが上に実現することにある。実際には、成聖は天主の思召に従ってキリスト・イエズスと一致して活きることであり、これによって実現され完成させられ、これ以外に道もなく、その「天主の御意に適う」ことこそが成聖の根本義であることがわかる。別な言葉で言えば、成聖とは聖父天主が聖子の像(すがた)を我等の中に認め給うこと、すなわち我等がキリストになることにある。されば我等は天主の聖寵の御助と自らの努力と修徳によって、聖父天主が我等を実子と見違い給う程に、キリスト化され、また地上に生活し給う聖子キリストを観給うごとく御旨に適いたるものとならねばならない。

実にキリストは、ひとり聖父の御意に適い、聖父の愛してやみ給わぬ聖子にて在し、我等に天国の至福に入る恩寵をいただかせ給う唯一の御方である。真理の光に照らされてこれほどにも崇高で慈愛深き天主の御計画を見るとき、我等は感謝と歓喜に満ち、心から天主を拝礼し奉る。――「天に在す聖なる父よ、御身は我等に父と呼ばせ給えば、我等は御身の子なり。願わくは、我等の父の聖名と完徳は聖子イエズス・キリストの聖名と共に、世に崇められ、讚美せられ、御国は栄え、拡張せられ、聖子は御国の頭、人類の王たり給え。我等は聖子に倣い、すべてにおいて、彼に似た者となり、彼によって御身の御旨を行い、愛の子となりて、御身に一致させられて、そうして我等の上に立て給える永遠の御計画が完成されることを希い奉る。我等の幸福、歓喜これに過ぎたるはなし。聖父、聖子、聖霊なる至聖三位にして御隣み限りなき唯一の天主、我等の願いを聴き入れ給え」。









ヴィガノ大司教「教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営を代理者に委任するだけだ。教会をそうではないものに変えることは、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪だ。」

2020年07月16日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

イタリア人司祭であるモルセリ神父(Fr. Alfredo Morselli)は、ヴィガノー大司教を支持し、尊敬する一方で、第二バチカン公会議を破壊的な出来事と表現していますが、第二バチカン公会議だけに原因があったのではなく、実は公会議の前からすでにこのような展開を可能にした腐敗があったに違いなく、商業的な言葉で言えば「市場の準備ができていなければ、製品(第二バチカン公会議)は発売されなかっただろう」と言います。マンゾーニの有名なイタリアの小説『婚約者』に出てくる司祭ドン・アボンディオのように臆病者であり、悪に妥協する聖職者らでいっぱいだったからだ、と。
最後にモルセリ神父は、今、カトリック教会は末期患者のようにホスピスにいて、キリストの約束である「地獄の門も打ち勝たない non praevalebunt」と言う言葉と、聖母の汚れなき御心が最後に凱旋するというファティマの約束の二重の糸にぶら下がり、また、秘密の第三部にある大量の血が流されるという預言にもつながって、ようやく息を続けている状態だ、と分析しています。

これにヴィガノ大司教は返事をして、商業的な比喩を使って「破産」状態を分析しています。ヴィガノ大司教の手紙をイタリア語で書き、英語の訳が存在します。ここではこの返事の日本語訳をご紹介いたします。

Father Alfredo Morselli agrees with Archbishop Viganò over problems with Vatican II, but suggests ‘reset’ is not possible

洗礼者聖ヨハネの降誕の祝日
2020年6月24日

親愛なるモルセリ神父様

あなたのメールに感謝します。
その中で、母にして聖なる教会を悩ませている出来事について、神父様が超自然的なビジョンを確認しているのを私は見てとりました。

私は、第二バチカン公会議を、それ自体で自分の意志を持つある種の主体とみなすことはできないという事実について、あなたと同意見です。権威あるさまざまな研究は、検邪聖省が準備した公会議草案が、岩のように堅固な教会のイメージを確認することになっていたこと、しかし、現実には、特にローマから遠く離れたところでは、教会は危険な崩壊の兆しを見せていたことを明らかにしています。
そして、もしもドイツ、フランス、スイス、オランダの革新者たちの徒党の中ですでに準備された新しい草案に公式の草案とを置き換えることがとても簡単だったとしたら、明らかに、司教職にある多くのメンバーたち(独自のスタイルを持つ神学者らの取り巻きがあり、これら神学者らの大部分はすでに教会法による懲戒の対象となっていた)は、知性と意志の両方で堕落していたのです。

あなたが最も一般的なマーケティング戦略と同一視すること、そして、公会議で実現されたとあなたが正しく見ていることは、実際には不正な操作であり、信者と聖職者に対して行われた詐欺でした:ビジネスを拡大するために、製品と企業イメージを変更し、宣伝キャンペーンや割引で製品を宣伝しました。「倉庫の残り物」は清算されたり、パルプ工場【リサイクル工場】に送られたりしました。しかし、キリストの教会は企業ではありません。教会には商業目的もないし、聖職者も経営者ではありません。このセンセーショナルな誤り、というか、この本当の固有の意味での詐欺は、霊的なものに対してこの人間的で商業的な視野を持った人々によって考え出されたものであり、彼らは、自分たちが持つ役割に不適合であるばかりか、その価値もないことを証明しました。聖伝との決別を公式に示したのは、まさにそのメンタリティだったのです。つまり、教会を企業に変えるということは、教会を競合する宗派や偽りの宗教とのばかげた競争の中に置くということ、顧客の主張するニーズを満たすために「製品」の適応を押し付け、同時に、潜在的な購入者が必要性さえ感じていない新しい代替的な「商品やサービス」の必要性を喚起する必要性を押し付けることを意味しました。こうして私たちには、典礼が共同体的であることが強調され、聖書への「自分でやる do-it-yourself」アプローチ、教義と道徳への「投げ捨て・在庫処分」アプローチ、スタッフの新しい制服などが与えられたのです。

私は、もしあなたが提案した比較を私たちが続けようと思うなら、正しく、多くの競争相手を持たない製品の存在を排除するためには、それをより少なく独占的なものにするだけでなく、遅かれ早かれ、それを生産している会社をより強力で広範な会社によって吸収するという点に到達する必要があったことは否定できないと考えています。【注:これはカトリック教会の外に救いなしというドグマを希薄して、カトリック教会を「国連」(あるいは世界統一政府)の一部に吸収させてしまうということを暗示している。】

最初は、最高の製品がより厳しい顧客のための「第一級品 first line」として維持されますが、次には生産から外され、最後にはブランド自体が消滅してしまいます。この滑りやすく、不幸で、破壊的な道を進んでいき、「憐みの教会」社を新世界秩序の手にいつでも引き渡す準備ができているアルゼンチン人の清算人の手で、ついに私たちは会社の破産に到達しました。ベルゴリオ氏はおそらく、この新しい構造の中で、少なくとも自分が成し遂げた仕事が認められて、何らかの管理職的な役割を与えられると確信しているのでしょう。

この商業的なビジョンがカトリック的ではないと理解できない人はいないでしょう。とりわけ、教会はキリストに属しており、キリストは教会の運営をご自分の代理者に委任するだけだからです。教会を、そうではないものにしかも決してそうであり得ないものに変えることは、天主に反する、また天主が非常に明確に定められ牧草地で草を食み、裂け目や茂みに散らされないように命じた羊の群れに反する、非常に重大な罪しかも前代未聞の犯罪を構成します。

そして、もしこの巨大な破滅の責任者らが、法令や貸借対照表を偽造し、顧客を騙し取った不誠実な管理者であるならば、彼らは説明を求められなければなりません。Redde rationem villicationis tuae [おまえの会計の報告を出しなさい] (ルカ16:2)。

Cum benedictione [祝福をこめて]

+ カルロ・マリア・ヴィガノ大司教


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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