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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会のアジア管区神学生たちの為の特別献金

2020年08月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です!おめでとうございます!

さて明日の主日のミサでは、東京でも大阪でも、アジア管区の方針で、第二特別献金をミサ中にお願いすることになっております。

意向はアジア管区の神学生たちの為です。ご賛同下さる方は是非ご寛大な援助をお願い申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父





「助産婦の手記」30章 今こそ自分で作ったスープを飲みほさねばならぬのだ!

2020年08月22日 | プロライフ
「助産婦の手記」

30章

『世の中に空席が出来るように、一度戦争がなければならないですね! 人があまり多すぎるんです。若い人たちは、もうどこへ行っても職にありつけないんです。若者をどうすればいいんでしょう……』
『でもヘルツォーグ奥さん、もし戦争があると――あなたも、いま、十七と十六のお子さんが二人おありですね……もし、お子さんがそのとき出征して、弾丸にあたって死なれたら……そうなったら、いかがですか?』
『ああ、私の子供たちの番になるまでには、長くかかるでしょう。今日では、戦争は六週間で終ってしまうんですよ……』
『しかし六週間のうちでも、戦死者と傷痍(しょうい)者とは、どうしても沢山できるでしょう。もし、あなたのお子さんがそうおなりにならなくても、ほかのお母さんの子供がそうなるのでしょう。』
『でも、今のままでは、二進(にっち)も三進(さっち)も行きません。人は皆、もっとよい時節が来るように戦争がもう一度なければならないと言っていますよ……』
『ヘルツォーグ奥さん、あなたはもう覚えてはいませんか、一八七〇年の戦争不具者たちが、蔵の市やその他、街角に坐って、物乞いをしていたのを? そんなことを言うだけでも罪ですよ……』
『まあ、これは御免なさい……でも、今度は、そういう人たちの保護のため、何か条件をつけるんですね、そうすれば、きっとよく世話ができるでしょう……』

ヘルツォーグ奥さんは、その長女のお産が近づいたので、世話をしにここに来ているのである。いま彼女は、ちょうどコーヒーを運んで来て、私たちのいる寝室に坐りこみ、そして自分の博識を振りまわしたのであった。というのは、こういうわけだ。旦那さんのヘルツォーグ氏は、工場に勤めていた。彼は、仕事じまいの後とか、特に土曜日や日曜日の朝には、時おり、村人の髭を剃ってやったが、そのとき、彼のベターハーフたる妻は、石鹸の泡を塗る習慣だった。その際、彼女はもちろん、男たちの会話のあらゆる断片をつかまえ、そしてそれを彼女一流の話術で、再び人に話して聞かせるように努めたのであった。

一度、戦争がなければならない!
それは、一九一二年のことでめった。この考えが、どこから来たのか判らない。風に吹き寄せられたように、それは突然やって来た。繰返し繰返しそれは現われた。一つの定見のように、それは人々の頭の中に、しっかりこびりついた。人々は、一体、自分たちが何を言っているのか、全然知らない。その背後には、何十万人にとっての不幸、困苦、死など、およそ何が横たわっているかを考えない。もっとよい時節に対する非合理的な希望が、こういう口癖を作っていた。人が普段、よく『もう、二進も三進も行かない。』と言うように――人々は『また戦争がなければならない。』 という恐ろしい言葉を、語りはじめたのである。

この村ばかりではない。先週、私たちは年次助産婦大会を州の首府で開いた。この折りにも、またこう言われた。人々が到るところで、戦争のことを、そして戦後のもっとよい時節のことを語っているのは、非常に注目すべきことだと。今日となっては、こう言いたい。大きな事件は、その影をあらかじめ投げるものである、と。しかし、当時においては、人々はその意味を解く術(すべ)を知らなかった。一体、私たち助産婦というものは、新しい子供が生れて来ようとしているときに、非常にしばしば心配に満ちて、人生の入口のところで、辛抱づよくそれを待ち受け、そしていかなる母の悩みが、子供の誕生と結びつけられているかということを、每日見、かつ聞いているのであるが、この私たち助産婦にとっては、いかに人が根拠も理由もなしに戦争のことを、破壊のことを云々することができるかということは、二重に理解できないのである……
『弾丸は、全部あたるものじゃありませんよ。それに、人によっては、一度暫らくの間、性根(しょうね)をすえて白刃の下に身をさらすことも、為めにならないことはないでしょうと、ヘルツォーグ奥さんは、三杯目のコーヒーを飲みながら、しっかりと言った。『大酒飲みの習慣が、なくなるかも知れませんね……』
話がこの具体的な事柄に向って、そんなに急転換をしたので、私はそれを外らすことができなかった。私は驚いて、若い母の方を見た。しかし、彼女は、それを全く冷静に受け取った。恐らくきょうは、母親と同じ意見なのであろう。有名な酒飲みの夫との三年の結婚生活は、どんな薔薇色な雲でも、どんな黄金色の希望でも、恐らく黴(か)びさせることができるであろう。

さて彼女は、結婚してから三年になり、そして四番目の子供を生もうとしている。十ヶ月每に一人できたわけである。しかし、それは不幸な憐れな子供たちで、数週間ずつ早く生れた。一番上のが、まだ独りで自分の脚で立っていることができないのに、もう四番目のが生れるのである。ここに困難があり、粗末な取扱いが生じるわけであるが、こんなひどいのは、私も見たのは稀れであった。どこも、かしこも、汚物とぼろばかり――そして、その外には何もない。たぶん最も必要な家具があるだけで、他のすべてのものは、すでに飲みつぶされていた。三人の子供は、一つのベッドに寝ているが、その布団は、いつも濡れているのに、ちっとも乾されないから、もう半分腐っている。一番上の子供にしても、まだ実に不潔だから、年下のは、全くお話の外である。ベッドの敷布も、ぼろで出来ている。お祖母さんは、もう余程以前から、子供たちを少なくとも一時、自分の手許に引き取ってやりたいと思ったのであるが、お祖父さんは、それを許さなかった。彼は、かつては、あらゆる手段をつくして、その娘の結婚に反対したのであるから、今さら娘を助ける気にはなり得なかった。今こそ娘は、自分で作ったスープを飲みほさねばならぬのだ!

彼女の夫は、評判の酒飲みであった。しかし非常に狡猾で意地悪かったので、誰も彼に近づくすべを知らなかった。彼は工場の技師で、職場では不思議にも自分の職務をよく果した。しかし每晚、泥醉して帰宅し、妻を虐待した。それも、彼女が私に語ったところによれば、夜だけではないようだ。もし彼女が逆らおうとでもするなら、恐ろしい場面となって、彼女は、結局、暴力に屈服したのであった。彼女は小柄で弱々しい女だったのに、彼は逞しく頑丈な奴であった。そこで彼女は、結婚して数年たつうちに、抵抗を全く放棄したのである。それに、その家では、実社会で非常にその例が多いように、妻は夫に依存していた、何だかんだといっても。次ぎのことは、私の解き得ない一つの謎であるが、しかし一つの事実である。というのは、妻が夫から最も人格を無視した取扱いを受けていながら、よくも夫を簡単に放棄し、捨て去ることのできぬぐらい、そんなに強く夫に結びつけられていると感じておれるものだ、ということである。この話の場合には、さらになお、一つの道徳的要素が加えられている。

『リスベートさん、もし私が離婚して、ここを去ってしまうと、あの人はどうなるでしょうか? 完全に破滅してしまわないでしょうか? なおもっと、ほかの娘たちを不幸にしないでしょうか? 私は一度あの人と結婚したんです。あの人は、いつかは、このことが判るでしょう。もし私が、もう一度、そうせねばならぬのでしたら、すると……でも、それはもう出来てしまったことなんです……』
彼女は結婚する前に、いろいろ忠告を受けたのであった。主任司祭、教頭、医者のウイレ先生、それに私も極力、その男との結婚を彼女に思いとどまらしめようとした。というのは、彼は結婚前からすでに、本当の酒飲みだったから。彼女の父は、あらゆる手段を尽して反対した。私たちは、彼女に来たるべき不幸を、極彩色で描いて見せた――ところが、実際の状態は、いま現に示されているように、それとは全然ちがった遙かにひどいものであった!
『ああ、それでも、もし私が結婚してあの人についていれば、あの人は変わって来るでしょう。私のために、人が変わるでしょう。あの人は、正しい家庭を持っていないために、酒を飲むに過ぎないんです。私は、あの人の酒飲みの習慣を直せるでしょう……愛は、どんなことでもできるのです……』と彼女は、結婚前に、あらゆる道理のある忠言に対して耳を籍(か)さなかった。酒飲みというものは、周知のように、美しい約束や、うまい弁解を、非常に物惜しみせずに、するものである。彼女は、全く彼のために欺かれたのであった。結婚してから二三週間は、何のこともなかった。それから不幸が起り、そして、それは子供が出来るたびに、ますます大きくなった。彼は生計のために、すでによほど以前から妻に心配をかけた。そこで彼女は、結婚前と同様に、また勤めに出た。彼女は、彼を決して拒んだことはなかったのに、夫は妻に対して忠実を守らなかった。それは、すでに三番目の子供が膿漏痲のため、殆んど目くらになったことで判る。私は、なおも四番目のが生れるということが不思議なのである、そして、その子はどういう状態なのであろうか……?
私たちは、今年、硝酸銀の滴剤を手に入れたが、それは、あらゆる新生児に対して予防薬として使用するようにという指示を受けた。それも指示であって、服務規則ではなかった。村会は、その薬剤を私が使うのを承認しなかった。この村では、その必要はないということだった。しかし、私はそれを用意して置いて適用した。この一年間に、それがこの村でも、必要であったことが、すでに六回も起った。もつとも、私はそれを黙っていなければならぬのであるが――
終に、子供が生れた。憐れな赤児! どんどん拡がる水泡疹のような著しい水泡で、被われていた。しかし、その子が生後一時間で死んだのは、その子の状態から考えれば、最もいいことであった。私は、非常洗礼を間に合うように授けた。
ぼろぼろに破れたベッドの中では、三人の憐れな子供たちが、はい廻って泣きわめいていた。一人は盲目であり、他の二人は、せむし病で、栄養不良な、精神薄弱のように見える子だった。母親は、生れた子供が死んだので、泣いた。もっとも、早くも数日間のうちには、五番目の子が宿っていることが認められるであろう――もしも性病が、その間に不妊症を引き起させなければ。そのような子供たちの道徳上の性質は、どうなるのであろうか? 彼等の遺伝的素質は、どういう状態なのであろうか? そのような場合に、最も悲惨な生命でも、無いよりは増しだと主張するのは、まことに超人間的な信仰である……
私は、その母親に言っておいた。あなたは病気なのだから、手当てを受けにウイレ先生のところへお出でなさいと。残念ながら、彼女は、私のあらゆる期待に反して、五番目の子供をはらんだとき、やっとマルクスのところへ行った。彼が、どういう具合に彼女を説き伏せたのか、私は知らない。とにかく、彼は手術を施した――そして、その憐れな母親は、そのために出血して死んだ。マルクスは、その同じ日の夜、スイスに向けて出発した。彼が良心の上に疾(やま)しく感じているのは、あえてこの村だけのことではない。多くの婦人が、他国から彼のところへ来た。




ソウル大司教区長アンドレア・ヨム枢機卿は、2020年8月15日明洞大聖堂で、平壌教区をファチマの聖母に奉献し、ファチマの聖母像に王冠を捧げました

2020年08月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

平壌教区長を兼任しているソウル大司教区長アンドレア・ヨム枢機卿は、2020年8月15日明洞大聖堂で、平壌教区をファチマの聖母に奉献し、ファチマの聖母像に王冠を捧げました。












【再掲】2017年8月27日(主) 聖霊降臨後第12主日のミサ 「新約の素晴らしさ」

2020年08月22日 | お説教・霊的講話
2017年8月27日(主日)聖霊降臨後第12主日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年8月27日、聖霊降臨後第12主日のミサです。

愛する兄弟の皆さん、そして巡礼者の皆さん、
今日第12主日のミサで一体教会は何を言おうとしているのでしょうか?
今日のミサは特に、「新約の素晴らしさ」という事を強調しています。

そこで私たちは新約について、まず教会がイエズス様がなす導入文、福音に従って黙想致しましょう。

第2に、聖パウロと奉献誦が話すモーゼについて、黙想しましょう。

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は、実は今週の主日は、先週の主日の続きだったのです。先週の主日にはイエズス様が御言葉、口から出る言葉、空気の振動の御言葉による真理のみならず、口から出る御唾をもって、人の耳を開け、舌を正しくして、聞いたり、話したりする事ができるようにさせた、その続きで、「あぁ、新約のお前たちはどれほど幸せか、ただ天主の言葉を聞いたり話したり、天主を讃美するのみならず、天主の現実を見る事ができる、そういう事を聞く事ができる、何と幸せな者か!」

一体どこにその幸せがあるかという事を、どうして新約の時代がこれほど素晴らしいかという事を、イエズス様は話そうとされるのです。どういう話をされるかというと、ちょうど人類という巡礼者についての話があります、「エルサレムからイエリコに行く人がいた。」

実はこれは、人類の話なのです。なぜかというと、人類は地上の楽園にいながらも、罪を犯して地上の楽園から追放されて、天国へと歩かなければならない巡礼者となったからです。私たちは特に、盗難に遭ったり、スリに遭ったり、強盗に遭ったり、半死半生でお金も全く失ってしまって、暴力を受けて着のみ着のまま打ち捨てられて、そして旅券もなくパスポートもなく、そして独りぼっちで道端に、「あぁ」もういつ死ぬか死なないか、傷付いて倒れているのです。

これはちょうど悪魔にそそのかされて、罪を犯し、そして天主の聖寵を全て奪われ、天主の御恵みを奪われ、天国への権利を奪われ、天国へのパスポートとビザを失い、もう何も功徳というお金もなく、もうこのまま息果てて、地獄へと落ちるしかない人類を表わしています。

そんな時に、旧約の司祭がやって来ます。しかし旧約の司祭にはこの憐れな人類を見る事すらせずに、横をつたってそのまま通り過ぎて行きます。レヴィ族も、旧約の司祭職に属する人たちもやって来ますけれども、何もする事ができずに通り過ぎるだけです。

そこでやって来たのが、サマリア人、良きサマリア人。これはまさに、イエズス・キリスト御自身の事です。そのような傷付いている人類を見て憐れに思い、同情の念を起こして、その傷付いた人類に近寄って来て、そして油を注ぎ、ブドウ酒で洗い、傷を癒やそうとします。

この「油」というのは、「天主の聖寵」の、聖霊の御恵みのシンボルです。また主の優しい御教えの、憐れみの御教えのシンボルです。次に、「ブドウ酒を注いだ」というのは、これはもしも油が天主の聖寵のシンボルであり、秘跡のシンボルであったとしたら、ブドウ酒を注いだというのは、「御聖体」のシンボルであります。この人類に御自分の御体、御血を与えた、ブドウ酒を与えた、という事です。そして癒そうとしたという事です。

そればかりではありません。ちょうど私たちがカタコンベで見た、良き牧者がこの迷った羊を自分の肩に乗せて、群れに戻すように、この憐れな道に倒れて半死半生の傷だらけの男を動物に乗せて、そして宿屋まで運ぶのです。宿屋まで運んだら、「どうぞこの男の人の面倒を看て欲しい。もしもお金が必要なら、私が帰ったら全て払おう。」

この「宿屋」というのは「カトリック教会」の事であって、「宿屋の主人」というのは「聖職者」たちの事です。

「イエズス・キリスト様は、私たちの半死半生の人類を救う」という事を望んだ、「旧約の時代にはできなかった事を、イエズス・キリストは良きサマリア人としてする、している」という事を意味します。

巡礼を特に経験した私たちにとって、どうやって行ったら正しい道に着くのか、「あぁ、本当にガイドがいなければ案内者がいなければ、本当にどの道を行ったら良いか、どうやったら良いのか」という事が、「右も左も分からない」という事がありますけれども、そしていつスリがやって来るか、どんなアドバイスがあれば良いのか、という事が分かりませんが、しかしその私たちにとって旅の危険や、あるいは宿屋やその世話をしてくれる人の重要さ、という事をよく分かっている私たちにとって、確かにカトリック教会が私たちを、天国への巡礼の為に私たちを癒やして導いて下さり、そしてイエズス様はそれを全て背後で支払って下さる、支配して下さる、という事がしみじみとありがたく分かります。

そこで奉献とそこの福音を囲むように、包むように、奉献文と書簡がモーゼの話をするのです。この2つの話の2つの事を読まれるテキストの核心は何かというと、「新約のイエズス・キリスト、栄光を受けた本当の第2のモーゼこそ、旧約のモーゼをはるかに勝る者である」という事です。「旧約においては文字しかなかった、しかし新約においては文字を生かす精神がある。」「命を殺すような律法よりも、命を生かす精神が新約にはある。」

そのところで、パウロが言うのは、「モーゼは、そのような旧約の力の無かったモーゼであってさえも、その旧約にはものすごい栄光があった。」例えばモーゼは 天主を見て、その天主を見た栄光を自分が受けて、その見た後には御顔は天主の栄光でいっぱいであって、いつもモーゼは自分の前にベールを被っていなければならないほどであった。なぜかというと、主を見たモーゼの輝きがあまりにも素晴らしかったので、人々は直接見る事ができなかったから。

奉献文では、「モーゼが祈るとそれは聞き入れられて、そして主はそれによって怒りを鎮められた。」

「もしもモーゼがそうであれば、新約の本当のモーゼ、律法をただ私たちに伝えただけのモーゼでなく、律法そのものである、律法を作ったイエズス・キリスト、御恵みそのものであるイエズス・キリストの、本当のモーゼであるイエズス・キリストの栄光は、どれほどであろうか。イエズス・キリストが御ミサの中で、御血と御体を御傷を天主御父に見せて、私たちの為に取り次いで下さっている。それの取り次ぎの力は、旧約のモーゼに比べてはるかに大きなものであって、私たちはそのものすごい憐れみと栄光を受けているのだ」という事を教えています。

そればかりではありません。皆さんの私たちの目はどれほど幸せな事でしょうか、耳はどれほど幸せな事でしょうか。モーゼは主のただ御顔を見ただけで、自分の顔が燦然と輝いて、そしてもうそのあまりの輝きの為にベールを被らなければならないほどでしたが、私たちはモーゼよりも更に幸せだと言えるからです。

なぜかというと、私たちはこのミサにおいて、イエズス様の御体を受け、御聖体を受け、私たちの胸にモーゼがする事ができなかった事さえもしているからです。ミサを受けた後、御聖体拝領を受けた後に、私たちはどれほど燦然と輝かなければならないでしょうか。モーゼよりも光に満ちていなければならない事でしょうか。

もしもローマの聖ペトロ大聖堂の巨大な建物と、ローマの各地にあるものすごい豪華爛漫な教会の数々が、イエズス・キリストの使徒のために捧げられたとしたら、イエズス・キリストの本当の栄光はどれほどのものでしょうか。これらの教会は実に、ミサを捧げる為に捧げられたもので、造られたものであるからです。

では、私たちは遷善の決心として、この天主様に感謝をお捧げ致しましょう。新約の時代に生き、イエズス・キリストの御言葉を知り、そしてイエズス様の御体を受ける事ができるその特別の恵みを感謝致しましょう。

そしてイエズス様の御助けによって遂には、教会の導きに従って、遂に巡礼の最後の目的地である天国にまで辿り着く事ができますように、その為に私たちは日々、栄光のモーゼイエズス・キリストの体に常に養われて、その良きサマリア人イエズス・キリストに従って天国にまで辿り着く事ができますように、養われて癒やしを受ける事ができますように、最後にマリア様に、私たちがそのイエズス様のその恵みの偉大さを深く理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





【再掲】2018年8月22日 聖マリアの汚れ無き御心の大祝日のミサ御説教 聖ピオ十世会 デ・ガラレタ司教様 「聖主が全世界にもたらす愛の火とは」

2020年08月22日 | お説教・霊的講話
2018年8月22日(水)聖マリアの汚れ無き御心の大祝日のミサ
デ・ガラレタ司教様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

とても親愛なる兄弟の皆さん、私たちは今日、マリア様の汚れなき御心の祝日を祝っています。日本の守護者、そしてこの御聖堂の守護の聖人です。

マリア様の御心は、その最も高貴で、最も完全で、最も崇高なものを意味しています。つまり、マリア様のその霊魂とその御人柄、その人格の最も高貴なものです。それをこそ私たちは今日、お祝いしています。

まず第1に、マリア様のその罪の無さ、その完璧な清らかさ、純潔さ。そして罪の存在していない事。聖寵に充ち満ちておられる事。天主の聖寵が充ち満ちておられる事。そして今では天主の栄光に満ちておられる事。

マリア様の御心は同時に、命の充満であって、私たちの主イエズス・キリストの現存が溢れています。聖霊の現存も溢れています。ですから私たちはマリア様の事を、「聖霊の御聖櫃」とも言います。三位一体がそこにで住んでおられる、その御聖櫃。そしてその住居、住処です。

また今日私たちは、マリア様の完璧な燃える愛徳を祝っています。それは天主に対する愛であり、御子イエズス・キリストに対する愛であると同時に、全ての人々、私たちに対する愛であって、母の愛、憐れみ深い愛を持っておられます。そして今日、私たちはこの憐れみ深い愛を崇敬し、そして祝っているのです。

私たちの主イエズス・キリストは、その福音においてこう仰っています、「私はこの世に、火をもたらす為に来た。そしてこの火によって世界中が燃えている事を見るのを望む」(ルカ12章49節)と。

現代において私たちの主は、この火が燃えているのを見る事を望んでいます。特にマリア様の汚れなき御心の愛の火が燃える事を見るのを望んでいます。世界中において燃えている事を望んでいます。全ての人において。これは、私たちがマリア様の汚れなき御心に対して持つ愛の火です。私たちの主はこの火を点ける為に特別な事をされました。私たちはですから心において、霊魂において、この火が具体的に、マリア様に対する、子供の、忠孝の心として、子供の孝愛の心として、実現化されなければなりません。つまり子供としての、息子が持つ母に対する愛です。「子供の心を以て、マリア様の汚れなき御心を愛する」という火の事です。

ですから、私たちの主イエズス・キリストが教えて下さった、「霊的幼児」の道を生きる、私たちの小ささを、全くの信頼と委託の霊性を生きる、という事です。

「私たちがこの愛の火に燃えている」という事はつまり、「霊的な内的な生活に燃えている」という事です。なぜかというと、マリア様の御心は私たちの心に、内部に、霊的な命を思い出させてくれるからです。ですから私たちは、黙想、観想を愛さなければなりません。マリア様をお慰めし、そしてマリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償い、私たちがマリア様の心を愛さなければなりません。

もしも私たちが本当にマリア様に対する信心を行おうとするならば、天主様の御旨を果たします。なぜかというと、ファチマで天主は、「この地上に、マリア様の汚れなき御心の信心を確立する事を望んでいる」と仰ったからです。

この「信心」というのは、“devotion(信心)”というのは、「私たちがすぐに、喜んで、マリア様の奉仕の為に熱心になる」という、宗教という徳の重要な行為です。

そしてこの信心、マリア様の御心に対する信心というのは特に、「聖別」に、「私たちがマリア様の心に奉献される事」によって完成されます。

「奉献する」という事は、「自分を与え尽くす」「自分自身をマリア様のものとする」という事です。これを完全に、そして永久に、常に、取り戻す事なくする、という事です。そうする事によって私たちの心には、マリア様に対する火が燃え尽くす事になります。なぜかというと、自分を全く与え尽くす事だからです。

私たちの主が全世界に点けようとされたこの火は、私たちもその火が広がる為に協力しなければなりません。全ての人たちがこの火に燃えるようにしなければなりません。その為に私たちは何をしたら良いのでしょうか?

まず、マリア様の汚れなき御心に対する信心を、あるいは公の崇敬を、公の信心をする、という事です。公にマリア様の汚れなき御心を崇敬する、という事です。

第2に、私たちが、家族たちや、あるいはあるグループ、あるいはある団体たちが、あるいは色んな人々の集まりが、国家が、地域が、マリア様の汚れなき御心に対して奉献するように、とそれを促進する、その為にそれを勧める、出来る限りの事を尽くす、という事です。

また第3に、私たちは罪人の回心、霊魂の回心の為に償いをする、という事です。そうする事によって、火がますます燃え盛るようになります。ファチマでもマリア様は、「祈り、犠牲を捧げなさい。」「罪人の回心の為に、祈り、犠牲を捧げなさい」と仰いました。私たちがそのように回心の為にそうする事は、愛の火を外側へともたらす事であって、それが愛徳の実践となる事です。

第4番目には、私たちがそのマリア様の御心がよく知られ、よく愛される事ができるように、使徒とならなければなりません。つまり、私たちのできる範囲において、私たちの周りにいる霊魂たちがマリア様の事を知り、マリア様の事を愛する事ができるように、と助ける事です。

そうする事によって、このイエズス様が点けようと御望みになったマリア様の御心に対する愛の火は、世界中の色々な所に各地に点いて、ますます燃え広がります。このこれこそが、天主がファチマで私たちに明らかにされた御計画であって、私たちに対する望みです。

今日、マリア様の汚れなき御心の大祝日において、この聖寵の玉座に、信頼を持って近づく事に致しましょう。ちょうど入祭誦でもこう歌いました“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”と。

そしてこのマリア様の汚れなき御心は、聖寵の玉座であり、御恵みの聖寵の源であり、泉であり、私たちがそこに於て天主を見出す事ができる、特別の場所です。私たちの主イエズス・キリスト、天主聖三位一体のように私たちがなる事ができる、特別の鋳型です。私たちがそこの中に入る事によって、御恵みを受けるのみならず、イエズス様とますます似通った者になります。私たちが天主を見出す事ができる神秘的な街であって、国であって、そして私たちの保護を受ける避難所であり、私たちの慰めの場所です。

私たちはこのマリア様の御心の中に入る事によって、天主の凱旋の為に、私たちの主イエズス・キリストの凱旋の為に、そしてマリア様の汚れなき御心の凱旋の為に、天主の最後の勝利の為に、働く事ができるのです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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