Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アメリカの学校で「公会議」が起こったら・・・算数の先生に起こったこと

2020年08月27日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

アメリカの学校で「公会議」が起こったら・・・。

算数の先生に起こったこと。







シスター・ディディ・バーン「私は、単なるプロ・ライフではなく、プロ・イターナル・ライフ(永遠の生命)」です。

2020年08月27日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

シスター・ディディ・バーン「私は、単なるプロ・ライフではなく、プロ・イターナル・ライフ(永遠の生命)」です。(イエズスの聖心の小さき働き手修道会)








日本は聖母マリア様から特別に愛されてきた!日本と聖母マリア様の歴史をお話しします

2020年08月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月23日、聖霊降臨後第12主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


2020年8月30日は、聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年08月27日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年8月30日は、聖霊降臨後第十三主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします。

【ミサ聖祭】信仰と洗礼とによって、われらは、天主の契約にあずかる者となった。しかし、未だにわれらは世間にひきずられ、たえずおびやかされている。天主が、われらをあわれみ、われらを見捨て給わぬようにと祈る。〈入祭文、昇階誦〉天主が、われらのうちに、信望愛の徳をつよめ〈集禱文〉われらをますます天的なものとする天のパンを与え給うように。〈聖体拝領誦〉

本日弥撒的主题宗旨,便是感谢与祈求。
(一)感谢:我们藉着信仰基督而获得救恩,这完全出于天主纯粹的恩惠,并非由我们方面的功绩(书信)。当基督在世时,怎样治疗了患麻风的人,同样在圣洗中,祂涤除了我们灵魂上的麻风病。但是信友中,每主日能想及这个洪恩而知颂谢的,究有几人呢(福音)?
(二)祈求:自从领洗以后,我们依靠必须期待天主的恩惠:因为基督的生命,在领洗时赐给我们的,宛如一个萌芽,在我们生活的中,必须使它成长壮大。这超性生命的成长又必须藉着圣神的助佑。在弥撒中,我们举行救赎圣祭,同时,我们领受使这生命成长的救恩的神粮。这便是说,基督对我们罪的麻风病,完成医治的工作,同时,祂又增加我们的信望爱三德,扩张在我们心中的神生;至于所说的信、望、爱,乃是天主子女生命中的固有德行(集祷经)。耶稣把自己的血肉充为我们奇妙的神粮,一则为适应以信心领祂的人之一切需用(领主咏),二则为赐给他们一种勇力,使朝着天上的道路迈进。

『조찰하여진 자 열사람이 아니냐? 아홉사람은 어디 있느뇨?』(복음) 
무서운 병, 나창병은 집과 도시에서 버림을 받아『멀리』추방됨을 뜻했다. 천주의 생명을 배척한 인류는낙원에서 이 세상에 추방될 때부터 천당에서 버림을 받아 쫓겨난 나창 병자가 되어벼렸었다. 그런데 그때에 천주께서는 인간을 당신과 비슷한자 되게끔 인간과『계약』을 맺었으니 그 얼마나 놀라운 일이랴!(서간경) 이『계약』은 무엇인가? 이 계약에 의하여 천주께서는 예수를『믿는 모든 사람들』에게, 아바람에게 약속하셨던 그리스도 생명의 상속권을 주시되, 모세의『법』만 찾는 자들에게는 주시지 않으신다. 오늘 우리들은『그 아홉 사람』처럼 육체의 건강만으로 만족치 말고,『신덕, 망덕, 애덕이 증가됨』으로써 만족하자.(축문) 나창든자가 한것처럼 우리도 이렇게 기구하자.『주여 네 계약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서』(초입경) 

Dominica Decima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第十三の主日 降临后第十三主日 성신 강림 후 제 13 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ps. 73, 20, 19 et 23. 入祭文 詩篇73ノ20、19、23 进台咏(咏73:20,19,23) 초 입 경 (성영 73 20,19,23)
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身をさがし求める者らの声を忘れ給うな。 主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。主啊!求祢起来保护祢的事业,莫要忘记向祢呼求之人的声音。 주여 네 결약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고, 너를 찾는 자들의 기구를 잊지 말으소서.
Ps. ibid., 1. 詩篇73ノ1 进台咏(咏73:1) (성영 7,3,1) 
Ut quid, Deus, reppulísti in finem : irátus est furor tuus super oves páscuæ tuæ ? 天主よ、なにゆえ御身は終わりまで見捨て給うのか。御怒りは、御身の牧場の羊らの上に怒り給うのか。 天主啊!祢为什么永远丢弃了我们?祢为何向祢牧场的群羊发怒如冒烟呢? 천주여 어찌하여 우리를 온전히 버리시며 어찌하여 네 목장의 양에게 진노하시나이까. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와... 
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum, et ánimas páuperum tuórum ne derelínquas in finem : exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam, et ne obliviscáris voces quæréntium te. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身をさがし求める者らの声を忘れ給うな。 主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。主啊!求祢起来保护祢的事业,莫要忘记向祢呼求之人的声音。 주여 네 결약을 돌아보사 가난한 이들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고, 너를 찾는 자들의 기구를 잊지 말으소서.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Omnípotens sempitérne Deus, da nobis fídei, spei et caritátis augméntum : et, ut mereámur asséqui quod promíttis, fac nos amáre quod prǽcipis. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、われらに信・望・愛の徳の増加を与え給え、御身の約束し給うたものをわれらが得るにふさわしくなるために、御身が命じ給うものを、われらをして愛さしめせ給え。天主として、(…)。 全能永在的天主,求祢增加我们的信、望、爱三德;望祢使我们喜爱祢的命令,为能承受祢的应许。因我们主……。 전능하시고 영원하신 천주여 우리 신망애의 덕을 더으시며 또한 우리로 하여금 너 명하신 바를 사랑케 하사 써 네 허락하신 바를 얻게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読 书信 서 간 경
Gal. 3, 16-22. ガラツィア 3ノ16-22 (迦3:16-22) (갈라타서 3․16-22)
Fratres : Abrahæ dictæ sunt promissiónes, et sémini eius. Non dicit : Et semínibus, quasi in multis ; sed quasi in uno : Et sémini tuo, qui est Christus. Hoc autem dico : testaméntum confirmátum a Deo, quæ post quadringéntos et trigínta annos facta est lex, non írritum facit ad evacuándam promissiónem. Nam si ex lege heréditas, iam non ex promissióne. Abrahæ autem per repromissiónem donávit Deus. Quid igitur lex ? Propter transgressiónes pósita est, donec veníret semen, cui promíserat, ordináta per Angelos in manu mediatóris. Mediátor autem uníus non est : Deus autem unus est. Lex ergo advérsus promíssa Dei ? Absit. Si enim data esset lex, quæ posset vivificáre, vere ex lege esset iustítia. Sed conclúsit Scriptúra ómnia sub peccáto, ut promíssio ex fide Iesu Christi darétur credéntibus. 兄弟たちよ、アブラハムとその子孫とに約束がされた。聖書は複数として「子孫たちに」とはいわず、単数の形で「子孫に」といっている。この子孫はキリストである。そこで私はこういう。天主があらかじめ定められた契約は、四百三十年後にできた律法によって廃止されず、したがって約束も無効になることはない。もし遺産が律法によるのなら、約束によるのではない。しかし天主がアブラハムをよみされたのは、約束によってであった。それでは、律法とは何か?それは、違反あるがために加えられたもので、約束された子孫が来るまで、天使たちによって、仲介者の手において布告された。しかし、片一方だけの場合には、仲立ちというものはない。ところが天主は唯一である。従って、律法は天主の約束に悖(もと)るのか?決してそうではない。生かすことができる律法が与えられたならば、実に、義とされるのは、律法によってであろう。しかし聖書は、すべてを罪の下に閉じこめた。それは、信仰をもつ人たちに、イエズス・キリストへの信仰によって約束が与えられるためであった。 弟兄们:恩许是向亚巴郎和他的后裔所赐的。天主并不说:“他的一切后裔”,好像指着多数人说的,却是指着一个人说:“你的后裔”,这个后裔就是基督。所以我说:天主所正式签订的约,四百三十年以后颁布的法律,没有把它废弃,以致使恩许归于消灭。如果继承权是从法律来的,便不是从恩许来的了;但是天主确是用恩许的方法,向亚巴郎施恩的。那么,法律有什么作用呢?法律是为了犯罪的缘故,才加上去的,直到那位作为恩许对象的后裔来临。法律是藉着天使通过中人而传布的。可是只有单方的时候,就没有中人了,而天主是单独的。那么,法律与天主的恩许不是发生矛盾吗?绝对不是。因为假如有了能赋给人生命的一种法律,正义便实在是由法律而来的。但是经书把一切都禁锢于罪恶中,使恩许藉着信耶稣基督才赐给信徒们。 형제들아 아바람과 그 후손에게 허락이 계실때에 저 그 후손들이 많은 것 같이 말씀하지 않으시고, 오직 하나인 것 같ㅇ이 하셨나니 이는 곧 그리스도시니라. 이에 나 말하노니 천주 이미 정하신 계약인즉 그로부터 사백 삼십년 후에 주신 법이 허락하신 바를 헛되이 하기 위하여 폐하지 못하느니라. 대저 법을 인하여 유업을 받으면 이는 벌써 허락을 인함이 아니로다. 그러나 천주 허락을 인하여 아바람에게 주셨으니 그러면 법이 무엇인고. 이는 허락하신 후손이 오실때까지 법칙 때문에 정한바이니 중재자의 손을 거쳐 천신으로 말미암아 된 것이니라. 그런데 중재자는 하나의 것이 아니나 천주는 다만 하나이시니라. 그런즉 법이 천주의 허락을 거슬리느뇨. 아니로다. 대저 사람을 능히 생활케 할 법을 주셨으면 의는 실로 법으로 조차 나올 것이로되, 성경은 모든 것을 죄 아래 포함하였으니 이는 예수․그리스도에게 대한 신앙을 인하여 믿는 자들에게 허락을 주시기 위함이니라. 
Graduale. Ps. 73, 20, 19 et 22. 昇階誦 詩篇 73ノ20,19,22 台阶咏(咏73:20,19,22) 층계경(성영 73․20,19,22)
Réspice, Dómine, in testaméntum tuum : et ánimas páuperum tuórum ne obliviscáris in finem. 主よ、御身の契約を見給え、御身の貧しい者らの霊魂を終わりまで打ち棄て給うな。 上主啊!求祢回视祢的约,不要永远忘却祢穷苦子民的性命。 주여 네 계약을 돌아보사 가난한자들의 영혼을 온전히 버리지 말으소서. 
V/. Exsúrge, Dómine, et iúdica causam tuam : memor esto oppróbrii servórum tuórum. V/. 主よ、起き給え、御身の件を裁き給え、御身のしもべらの辱めを覚え給え。 主,求祢起来保护祢的事业:要记忆祢众仆所受的凌辱。 주여 일어나사 네 송사를 판단하시고 네 종들의 치욕을 기억하소서. 
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 89, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇89ノ1 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏89:1) 알렐루야 알렐루야.(성영 89․1) 
Dómine, refúgium factus es nobis a generatióne et progénie. Allelúia. 主よ、御身は、世々にわれらの為に避難所となり給うた、アレルヤ。 主啊!祢世世代代做了我们的避难所。阿肋路亚。 주여 네 세세에 우리 의탁이 되셨나이다. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。 福音 복음
Luc. 17, 11-19. ルカ17ノ11-19 (路17:11-19) (성루까 17․11-19)
In illo témpore : Dum iret Iesus in Ierúsalem, transíbat per médiam Samaríam et Galilǽam. Et cum ingrederétur quoddam castéllum, occurrérunt ei decem viri leprósi, qui stetérunt a longe ; et levavérunt vocem dicéntes : Iesu præcéptor, miserére nostri. Quos ut vidit, dixit : Ite, osténdite vos sacerdótibus. Et factum est, dum irent, mundáti sunt. Unus autem ex illis, ut vidit quia mundátus est, regréssus est, cum magna voce magníficans Deum, et cecidit in fáciem ante pedes eius, grátias agens : et hic erat Samaritánus. Respóndens autem Iesus, dixit : Nonne decem mundáti sunt ? et novem ubi sunt ? Non est invéntus, qui redíret et daret glóriam Deo, nisi hic alienígena. Et ait illi : Surge, vade ; quia fides tua te salvum fecit. そのとき、イエズスがイエルザレムに行くために、サマリアとガリラヤとの間を通りかかられ、ある村におはいりになったとき、十人のらい病人にであわれた。かれらは、はなれた所に立ちどまり、「イエズス、先生、私たちをあわれんでください!」と大声でいった。かれらを見たイエズスは、「あなたたちを司祭に見せにいけ」とおおせられた。かれらは、そこに行く間になおった。そのうちの一人は、自分がなおったのを見ると、大声で天主をたたえながら引き返してきて、イエズスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリア人であった。イエズスは、「なおったのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この他国人のほかには、天主をたたえるために引き返してきた人はないのか!」といい、そして、その人に向かって、「立っていけ。あなたの信仰が、あなたを救った」とおおせられた。 那时候,耶稣往耶路撒冷去,就从撒马利亚,加黎利中间经过。祂正进入一个村子,有十个癞病人,迎上前来,远远的站下,高声说:“耶稣,师傅!可怜我们吧!”耶稣一见之下,就对他们说:“去,把你们给司祭看吧!”他们就在去的时候,洁净了。其中一个,看见自己洁净了,就回来,大声颂扬天主,又俯伏在耶稣脚前,感谢祂。这人却是撒马利亚人。耶稣于是开口说:“洁净了的不是十个人吗?还有九个在哪里?除了这个外方人,竟没有别人回来,把光荣归于天主吗?”于是对那人说:“起来,走吧,你的信心救了你。” 유시에 예수 예루살렘에로 가실때에 사마리아와 갈릴레아 가운데로 지나시다가 한 동네에 들어가실새 나창든자 열 사람이 예수께 마주 오다가 머리 서서 소리를 높이 이르되,「스승이신 예수여 우리를 불쌍히 여기소서」하거늘 저들을 보시고 이르시되「가서 너희를 제관장들에게 보이라」하신데 저들이 곧 갈때에 조찰하여진지라. 그 중에 하나는 제가 조찰하여진 것을 보고 돌아와 큰 소리로 천주를 찬송하며 예수 발아래 엎디어 사례하니 이는 사마리아 사람이라. 예수 말씀하여 이르시되「조찰하여진 자 열사람이 아니냐. 아홉사람은 어디 있는뇨. 이 외국 사람 하나 외에는 돌아와 천주께 영광을 돌려 보낼자 없도다」하시고 저에게 가라사대「네 신덕이 너를 구하였으니 일어나 가라」하시니라. 
Credo 信経 信经 신경
Ant. ad Offertorium. Ps. 30, 15-16. 奉献文  詩篇、30ノ15-16 奉献咏(咏30:15,16) 제헌경(성영 30․15,16)
In te sperávi, Dómine ; dixi : Tu es Deus meus, in mánibus tuis témpora mea. 主よ、私は主に希望し奉る。私は言った。御身は私の天主である、私の時は御身の手においてある、と。 上主啊!我仍旧投靠祢,我说:祢是我的天主,我的命运在祢手中。 주여 나 네게 바랐사오며 말하기를 너는 내 천주시오 네 손에 내 운명이 있도다 하였나이다. 
Secreta. 密誦 密祷经 묵념 축문
Propitiáre, Dómine, pópulo tuo, propitiáre munéribus : ut, hac oblatióne placátus, et indulgéntiam nobis tríbuas et postuláta concedas. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の民を嘉し給え、贈り物嘉し給え。この捧げ物によって嘉し給い、われらにゆるしを与え、われらの願いを聞き入れ給わんことを。天主として、(…)。 主啊!求祢垂怜祢的子民,惠纳我们的献仪;深望祢由这敬奉而霁威,宽恕我们的罪过,准赐我们的请求。因我们主……。 주여 네 백성을 긍련히 여기시고 그들의 제물을 인자로이 굽어보시며 이 제사로 의노를 풀으사 우리 죄를 사하여 주시고 우리 기구를 너그러이 들어시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Præfatio de sanctissima Trinitate ; 三位一体の序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Sap. 16, 20. 聖体拝領誦 智書16ノ20 领主咏(智16:20) 영성체경(지서 16․20)
Panem de cælo dedísti nobis, Dómine, habéntem omne delectaméntum et omnem sapórem suavitátis. 主よ、御身は天からのパンを、すべての楽しみと全ての甘美な味とを持つパンをわれらに与え給うた。 主啊!祢从天上给我们降下食物,这粮包有各种美味,适合每个人的嗜好。 주여 너 우리에게 온갖  향기와 온갖 단맛이 있는 천상 면병을 주셨나이다. 
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Sumptis, Dómine, cæléstibus sacraméntis : ad redemptiónis ætérnæ, quǽsumus, proficiámus augméntum. Per Dóminum. 主よ、天の秘蹟を拝領し奉ることによって、願わくは、我らが永遠の贖いの増加へと前進せんことを。天主として(…)。 主,我们已领了祢施天恩的圣事,深望我们从此更能丰富地沾得永远的救恩。因我们主……。

주여 비오니 우리로 하여금 천상 성사를 영함을 인하여 영원한 구원에 진보케 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

 


システィーナ礼拝堂の仮想訪問

2020年08月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様!

システィーナ礼拝堂の仮想訪問をどうぞ。






「助産婦の手記」34章  しかも、二ポンドのバターのために!

2020年08月27日 | プロライフ
「助産婦の手記」

34章

戦争は、あまりにも長くつづく。田畑の中だけでなく、家庭の中でも、すべての秩序はゆるむ。特に一九一六年から一七年にかけての冬は、「かぶ」ばかり食べさせられたが、その飢餓の年は、各種の道徳的な悪習を起させ、かつ拡めるのにあずかって力があった。今や、パンと肉、脂肪とミルク、卵と粉、それから馬鈴薯、豌豆(えんどう)と豆、小麦粉、大麦、燕麦、麦粒、代用コーヒー―その他、何でもが切符制となった。靴下と靴、シャツと上衣、おむつとゴムの乳首の切符。すべてのものが、統制された。一切のものが、 供出されねばならなかった。私たちの村のような社会、すなわち、その半分が農業であり(その一部分は大百姓である)、そしてその半分が工業である(それは、高い戦時賃銀にもかかわらず、赤貧洗うが如き工業であって、パンを一日も予備に持っていない)というような社会においては、困難な時代には、農工間の対立は、特に鋭く現われた。

農民が一切のものを供出しないで、各種の不正手段によって自分自身の需要品を確保したということは、私たちには非常によく判るように思われる。しかし当時は、人々は違った考えと、違った感じとを抱いていた。特に、切符をもっては暮して行けなかった時は、そうであった。そして、ちょうど農民の近くに住んでいた人々は、彼等が切符で手に入れた以上のものがはいっている瓶(かめ)の中をのぞき込んでは、日一日と腹を立てて行った。――

賃銀は、上った。人々は、統制を受けたにもかかわらず、何ものかを獲んがために、互いに高値を吹っかけ合った。そこで値段のうなぎ上りが始まった。それは最初に百姓の方からますます大きな要求を出したのではなかった。そうではなくて、高い戦時賃銀を受取った貧民や、都会の裕福な人たちが、生活物資を獲得するために、ますます高い値段をつけはじめたのであった。もちろん、そういう具合に、ひとたび車輪が回転しだすと、百姓はさらにそれを廻すことに、非常に速く慣れた。そして彼らは、朝には、売ることはできぬと言った。なぜなら晚には、もっと多くの利益が得られたからである。生活必需品のための残忍な戦いが、人間のうちにある各種の良からぬ本能を解放した。その戦いは、そういった範囲内のみに限られていなかった。狡猾、不正直、奸策と詭計、おべっかや、さては、恥ずべき不道徳と不貞に至るまでが生じた。一部分は、目的のための手段として、一部分は道徳的堕落と肉体的疲労の結果として。

人が戦争中、そんなに無反省に送っていた人間生活は、家庭にも及び、もはや何らの価値をも持たなかった。

私たちの職業も、戦争の影響を受けた。出産は、自然に非常に減退した。出征した男たちが、賜暇(かし)で帰ることは、稀れであった。戦争の初めに、急いで結婚した若夫婦で、まだ自分の家庭を持たないものが少なからずあり、そして彼らは子宝を予防するか、または妊娠しても、母親は、分娩のために入院した。それからまた、人々が以前にはあまり多く知らなかったいろいろな事柄が起った。

女たちは、捕虜や、その他の男たちと関係した――そして、その因果の種は、取り下ろされた。目立って多くの流産、早産が起った。確かに、一部の女たちは、以前、男たちがやっていた非常な重労働をせねばならなかった。それは、彼女たちのために、よくなかった。多くの若い生命が、そのために破滅したようである。もっとも、それは十分な説明ではなく、ほかのもろもろの力のなせる業であった……
『あの助産婦のウッツ奧さんは、何か様子が変ですよ。』と、隣り村のその同僚が、繰り返し私に訴えた。『あの人は、お得意が沢山ある――それなのに出産は一つもないのです。每日、年配の人も、若い人も、そこへ行きます――時々は遠方からも。そしてウッツさんは、悪い暮しはしていません。もっとも、旦那さんは仕事をせず、奥さんもあまり大して働いている様子はないんですが。』

私は、そのことを、初めには悲劇的なことには取らなかった。ちょっとした競争上の嫉妬だろうと私は考えた。小さな村に助産婦が二人いるということは、いつの場合にも、よくない事柄である。双方のどちらも、十分な仕事と儲けが得られない。なるほど、二人とも結婚はしているが、それにも拘らず。その上、ウッツは、以前から私たちすべてのものの好感を得ていなかった。というのは、彼女は分娩料金を引き下げたり、そのほか馬鹿なことをしたからである。それゆえ、この場合、判決を下すには、特に注意深くなければならない。私たち人間は、同情するにしても、嫌悪するにしても、不公平になり易い。私は、みだりに判決を下したくない――
ある日、一人の非常に身なりの立派な、一見金持らしい紳士が私のところへ来て、こう言った。自分は、ドイツ系アメリカ人で、戦争がすむまで、新しい故郷に帰ることができないのだ、と……
『で、あなたは、免許を受けた助産婦さんですし、また私の聞くところでは、御専門には非常に堪能なんだそうですね。』
リスベートよ、気をつけなさい、と私は自分自身に言った。お世辞が使われる場合には、何かを獲ようとたくまれているのだ――恐らく禁ぜられた何ものかを。
『私は長年、助産婦をしています。で、御用は何でしょうか?』
『ハー、実は、僕の家内が、身重なんです。このことは、ホテル住いだと、もちろん非常に厄介な事柄なんです……』
『この村の病院の中に、新規に分娩部が、来週、開設されるんです。というのは、今日では皆さんが自宅でお産ができないことが、たびたびあるからです。もし、あなたが、そこに申し込んでおこうとされるのでしたら……』
『いえいえ。あなたは、考え違いをしていますよ。僕たちは、束縛を受けちゃ堪まらないんです。子供というのは、実に恐ろしく邪魔なんです……僕たちは、故郷に帰るまでは、自由でなくちゃならないんです…』
『それでは、あなたは多分、育児所が欲しいんでしょう? その子をどこへやればよいか、私、思いつきました!』
『いや、子供が生れちゃいけないんです。僕たちは今のところ、子供は全くいらないんです。このことは、ぜひ判って下さい。僕たちの事情では……』
『あなたは、そのことをお嫁さんと、もっと早く、よくお考えにならなければいけなかったんです。何としても、新しい生命が出来ている以上、人は何事もしてはならないんですよ……』。
『もちろん、人は何事もすることはできません。ところで、あなたは助産婦さんですから、流産の方法を全くよく御存知のことと思います。お礼は、うんと出します。三百マルクでも、私は問題ではありませんよ……』
『それでは、あなたは、罪のない、防ぐ力のない子供を殺す契約をしようと思っているんですね。そうだとすると、あなたは、お門ちがいをなさったんです! どうか帰って下さい!』

そして彼は、思いも設けぬうちに突き出されて、階段をよろめき下りた。私は、帽子を後から投げてやった。その人は、私のところへ忍んでやって来たのだった! 私は直ぐ村役場へ行って、胎児を保護するために、その男と嫁とを監視するようにと通告した。しかし、もちろん、何の処置も取られなかった。二三日後、セメント工場の女通信係――花嫁さんが、私たちの病院に運びこまれたが、それはひどい内部傷害による流産のためであった。そして彼女は、そのため死亡した。まだ二十にならない若い娘であった……
そしてその翌日、ウッツ夫人は、その亭主と共に逮捕された。彼らには、子供が四人あって、一番上のは十二だった。誰も、その子供たちを構ってやらない。ウイレ先生を通じて、私は、その両親がどうなろうとしているかを知っていたので、二三の同僚と事の成行きを見るまで、子供を一人ずつ引き取ることに取り極めた。しかし、私は四人の子供を全部、病院へ連れて行って、彼らをよその地方へ送る機会が来るのを待つこととした。
数日後に、私はウッツが未決拘留を受けている区裁判所のある町へ行った。彼女は、私を見るや否や、ののしりはじめた。
『私、なんて馬鹿だったんでしょう……三百マルク! あいつは、三十マルク呉れただけだった。いつも、そういうことになるんですよ……みんな大層な約束をするんですが、後ではそれをちっとも守らないんです。ある人は、百ポンドの小麦と言いながら、十ポンドしか持って来ない……かと思うと、ほかの人は卵百個と言いながら、十五個しかよこさない……そんなもののために、私たちが危険を冒して仕事をするなんて……』
『そう、あなたは、一体、もうたびたびそんなことをなさったの?』
『生きて行かねばならぬとすれば、人は一体、何をやらないでいましょうか! 助産婦の職業では、一ヶ月に実際五マルクも稼げないんです。お産は、もう一つもないんです。もし私があることをやらねば、若い男たちが自分でやるんです。そうすると、飛んだ間違いが起るんです。だから、もうどうしようもないんですよ。』
『しかし、ウッツさん、あなたは助産婦として、そのような手術は、生命に危険を及ぼすものであること、それはうまく行かないことがあるということ、そしてその時には、あなたは監獄にはいらねばならぬことを、よく御存知のはずですが……』
『その外、まだ何か言うことがありますかね? 私は、全く適当に手術したのでしたよ。それは、マルクス先生に習ったのです。ただ今度は、あの馬鹿娘が、もし静かにしていてくれたら、何も起らなかったでしたろうに……』
『では、 あなたは、 もう長い間、そのことをしていらっしゃるのですか――マルクスさんが来てから?』
『一度、ひとに知られると、もう止めることはできないものでね。噂が広がるんです。そして、もし一人の女にしてやると、その人は、逆に訴訟人になることができるんですよ。婦人を助けてはいけないという、あの呪わしい法律がある限りはね。そしてそのことは、みんなが知っており、そしてそれゆえ、後で支払いもしないんです。あの淫らな女たちは。』
『ウッツさん、それでは、あなたは、私たちが助産婦学校で教わったことを全部忘れてしまったのですか。そう、受胎した日から、それは一人の人間の生命で、私たちはそれを、ちょうど母親が、生れた赤ちゃんを保護すると全く同じように、よく保護し育て上げねばならないということを?』
『え、何ですって、人間の生命! そんなものは、もう世の中には有り余っているんですよ! どれだけ多くの人が、戦場で殺されていることでしょう! 大きな強い男たちが。それなのに、それは、まだ、まともな生命ではなく、ロシヤ人どもが、生みつけた毒虫なんですよ。そして、それらは、みんな劣等児で、後々には、一般の人々の負担になってしまうんですよ。この生命は、やっと四ヶ月になったばかりでしたよ……』
『そんなことが喋べれるようだと、ウッツさん、あなたは、悪い感化を受けたに違いないですね! どうか真実になって下さい。少なくとも自分自身に対して。あなたは、自分が殺したのは、人間の生命だということを確かに知っていらっしゃったのです――それも利益を得るために。――やはり、マルクスさんと同じように。なぜあなたは、三百マルクをあなたに約束したあのやくざ者を追っかけて、森の中で殺して金を取らなかったのですか?』
『そんなことは、してはいけません――人を殺すなんて……すると監獄へ入れられますよ……』
『今あなたは、自分自身を裁いたのです。あなたは、あのことをした方がよかったと思いますか? あなたは幾度も、可哀想な防ぐ力のない赤児を殺したんじゃないですか――二、三ポンドのバターや粉のために! 恐らくあなたは、そのとき、未来の学者を殺したか、または私たちを不幸から救うことのできる人物を殺したかも知れませんね? 誰がそれを知っているでしょうか? しかし、その赤児たちは、人間だったし、そしてその霊魂は天主の御前に立って、あなたが流したその血に対する復讐を要求するのです。どのようにして、あなたは、その償いをしようと思っているのですか?――
そして、あなたのお子さんたちは、いま家にいて、パンがなく、村中から軽蔑されているんですよ――あなたの子供だというので。それでいいですか?』
『それでは、私は何をしたらよかったでしょうか? 収入もなしに? 私の村区では、私を雇ってくれなかったから、半俸もくれていないのです……』 彼女は、突然泣き出した。 それはしかし、そのような種類の人間にあっては、残念ながら、全く真面目に取ることはできない。
『自分の生活費を稼ぐために、人を殺すようなことをしてはいけないということは、あなたは御存知でした。現に私たちの同僚も、助産婦の職業ではいま殆んど仕事がなく、しかも家族は養わねばならぬので、工場で働いているじゃありませんか? あなたは十分健康ですから、やはり、そういうようにして、自分で何とかやって行くことができたはずです。ねえ、それに御主人は……』
『あの碌(ろく)でなしが、私を不幸につき落したんです。自分では働こうともしないくせに、居酒屋へ飲みに行き、そして勘定は私のところへ取り立てに来させたんです。いつも人々は、こう言うんです。御主人は、あんたは工面がつくんだと言いましたよって……』

私は、彼女の子供たちを私たちが引き取ったということは、告げないでおいた。三週間の後、彼女が子供の成行きを真剣になって心配し、そして自分の正しくなかったことを認めたとき、はじめてそれを知らせた。――三十七件の堕胎を、彼女がやったことが証拠立てられた。実際は、幾件あるか判らない。裁判所では、彼女に七年の懲役を言い渡した。――
自分に四人も子供のある母親が、無情にも、かつ計画的な考慮の下に、人間の生命を殺すことがあり得るとは――しかも、二ポンドのバターのために! 誰が人間の心の奥底を測り知ることができようか!





総務省などによる2019年の調査によると、「いずれ」または「10年以内」に無居住化の恐れがあると自治体が答えた集落は全国で3197に上った

2020年08月27日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

【参考情報】
集落で最後の1人、浮かぶ「消滅」 もう目指さぬ人口増

菅原普、上田学、宮沢崇志 編集委員・真鍋弘樹

 1億2427万1318人。総務省が8月5日に発表した今年1月1日時点の日本人の数である。

 前年から50万5046人減り、減少幅は1968年の調査開始以来、最大となった。中核市規模の都市が丸々消えた勘定になる。社会の中軸となる15~64歳のいわゆる「生産年齢人口」は日本人全体の6割を切り、過去最低を更新した。

 東京、神奈川、沖縄以外の道府県がすべて人口減少の坂道を下っているなか、地図から消えようとしている地区は全国にある。

 そんな里の一つ、徳島県つるぎ町の旧一宇(いちう)村にある十家(といえ)集落を昨冬、訪ねた。最後の3キロは車が通れず、山道を歩くしかない。

 老いた両親から畑を引き継ぐため集落に戻ってきた上家(かみけ)敏一さん(62)は、数年前からここに1人で住んでいる。父は亡くなり、足を痛めた母親が弟とともにふもとに下り、高齢住民たちも次々と去った。

 コロナ禍を経た最近の様子を電話で尋ねると、こう話した。「1カ月間、誰とも話さず、寂しい時もあるが、コロナに感染する心配はない。こういう状況だと1人がええでよ」

 一宇村は15年前、2町と合併してつるぎ町になった。戦後の最盛期には8千人近い住民がいたが、現在は700人余。現在残る32集落のうち、半数以上の19集落で、いずれ住民がゼロになるとみられている。

 総務省などによる昨年の調査によると、「いずれ」または「10年以内」に無居住化の恐れがあると自治体が答えた集落は全国で3197に上った。徳島県だけで267集落が消える。

 6年前、「消滅」という言葉が列島を揺さぶった。



過疎地域にあり、65歳以上の高齢者が住民の半数以上を占める「限界集落」は、2019年4月時点で2万349になったことが20日、総務、国土交通両省の調査で分かった。15年4月から約6千増えた。生活利便性の低さなどから若い世代の流入が進まないのが主な要因。一部は、住民がいなくなって消滅する恐れが出ている。

 過疎法の指定地域がある814市町村にアンケートを実施し、状況を調べた。集落の総数は6万3156。限界集落が占める割合は32.2%となり、前回の22.1%から約10ポイント上昇した。

 住民全員が65歳以上の集落も956あり、うち339は全員75歳以上だった。









【再掲】兄第愛について : ピーター・フォルティン神父様 2019年9月12日聖霊降臨後第十二主日の説教 

2020年08月27日 | お説教・霊的講話
2019年9月12日(主)聖霊降臨後第十二主日の説教 
聖ピオ十世会司祭  ピーター・フォルティン神父様


典礼年全体にわたって、福音には兄弟愛に関して述べられている箇所がたくさんありますが、本日の福音は、私たちの主のこの非常に重要な掟を扱うのに良い機会となっています。

この主日の福音は、良きサマリア人という美しいたとえを採り上げ、兄弟愛という聖徳を、キリスト教の独特のしるしとして提示しています。これから、このたとえをその文字どおりの意味で見て、あわれみと愛についての非常に深い教えを学んでいきましょう。良き母としての教会は、その子どもたちに、最も重要であることをいつも思い起こさせます。年間を通じて、兄弟愛は何度も出てきます。ある霊的な書き手によれば、兄弟愛こそが、キリストの愛する弟子である使徒聖ヨハネがその使徒職においていつも信者たちに思い起こさせていたことであった、ということを、教会が常に私たちに思い起こさせているのです。聖伝によれば、聖ヨハネはいつも聴衆に対して「小さな子どもたちよ、互いに愛し合いなさい」と言って、互いに愛し合うように勧めていました。その後、彼は信者たちに対して、「これは主の掟である。これが成就されるならば、それで十分である」ということを思い起こさせていました。教会は年間を通じて同じことを行い、飽くことなく信者に兄弟愛を思い起こさせています。私たちは、これら思い起こさせてくれるものを不必要で、当たり前のことだとは思うことはできません。その反対に、教会が特定の点を強調すればするほど、私たちはそれをもっと重要視しなければならないのです。

私たちの主は、私たちがこの兄弟愛という掟の重大さを理解することができるように、美しく力強い方法で兄弟愛について黙想させてくださいます。第一に、天主の国についての基本的教えを含んでいる山上の垂訓があります。真福八端には、特別に兄弟愛を扱った二つの幸いがあります。それは、「あわれみのある人は幸いである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)と「平和のために励む人は幸いである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ5章9節)です。私たちの主が天主の律法の成就あるいは完成についてお話しになるときはいつでも、それは兄弟愛、隣人愛に関係しています。聖パウロは、これについて、「愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)と書いています。

山上の垂訓で、私たちの主は、旧約の掟は新約においてさらに完全で、さらに大きな義務となることをお教えになっています。私たちの主は、旧約においては、第五戒が「汝、殺すなかれ」とされているのに対して、新約においては、この掟は「兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受ける」(マテオ5章22節)であることさえ指摘なさいます。この掟は、殺すことについてさえ言及してないばかりか、人は兄弟を憎んだり、軽蔑したり不作法な扱いをすることも許されていないということです。聖ヨハネの書簡には、「兄弟を憎む者は人殺しである」(ヨハネ第一3章15節)と書かれており、人殺しは天国にあずかることはできません。山上の垂訓において、イエズスは次のようにまで言われるのです。「知ってのとおり、『目には目を、歯には歯を』と教えられた。だが私は言う、悪人に逆らってはならぬ。人があなたの右の頬を打てばほかの頬も向けよ」(マテオ5章38-39節)。私たちの主によるこの垂訓は、兄弟愛が私たちの主の教えの中で非常に特別な位置を占めているということを証明しています。

聖ヨハネの福音では、私たちの主は私たちに対して、「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい。あなたたちが互いに愛し合うならば、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるであろう」(ヨハネ13章34-35節)とお教えになっています。ファリザイ人たちは、私たちの主がラザロをよみがえらせられる前に、墓の前でラザロに対して示された愛に注目しました。「本当に、どんなに彼を愛しておられたことだろう」(ヨハネ11章36節)。

私たちの主が、深い印象を私たちの霊魂に与えることを望まれるもう一つのものは最後の審判の場面で、私たちは自分がどのように裁かれることになるかについて教えられます。主は、さまざまな悪徳、うそ、盗み、殺人、姦淫などを挙げることをされず、むしろ人がどれほど兄弟愛を実践するのかを重視されます。主は、私たちが隣人の中にキリストを見ることができたかどうか、私たちがキリストへの愛のゆえに隣人を愛し、隣人に対してあわれみのわざを行うことができたかどうかで、私たちを裁かれるのです。私たちの主は、「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな者の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)ということを、私たちに思い起こさせてくださいます。

私たちは、主が罪びとたちに、また貧しく苦しんでいる人たちに対してどれほど大きな愛を持っておられたかという、私たちの主の完全な模範を見ます。それは、「私は良い牧者で、私は羊のために自分のいのちを捨てる」(ヨハネ10章11節)とか、「友人のためにいのちを与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)というものです。そのあと、十字架上で私たちの主は、処刑人たちのためにこう祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。自分の処刑の瞬間に、まさにその処刑人たちのために赦しを願うとは、信じられないことです。最後の晩餐において、主は奴隷の仕事をされ、弟子たちの足をお洗いになります。私たちの主が死の前に弟子たちにお与えになる最後の遺言は、「私があなたたちにしたことをあなたたちがするようにと、私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)というものです。兄弟愛に関するこれらの美しい言葉を聞き、そのあと、隣人を自分のように愛せよという天主のこの掟に従うカトリック信者にとってのまことの理想を実際に見ることは、胸を打たれることです。




【英語原文】
12th Pent 2019 Korea Osaka
Fr Peter Fortin, SSPX


There are many mentions throughout the liturgical year concerning fraternal charity, but today’s gospel allows an opportunity to treat of this very important commandment of Our Lord.

This Sunday marks the beautiful parable of the Good Samaritan and presents the virtue of fraternal charity as a distinctive sign of the Christian religion. We will look the parable in its literal meaning and learn from the very deep lesson of mercy and love. The Church as a good mother always reminds her children of those things that are of most importance. During the year, fraternal charity comes up many times. One spiritual writer remarks that the Church is constantly reminding us that fraternal charity is what St. John the Apostle, the beloved disciple of Christ, would always remind during his Apostolate. By tradition, he would always exhort his hearers to love one another by saying often “Little children, love one another”. And then he would remind the faithful that “It is the command of the Lord, if it is fulfilled, it is enough”. The Church does the same throughout the year, never tiring to remind the faithful about fraternal charity. We can not take these reminders for granted thinking that it is not necessary. On the contrary the more that the Church stresses a particular point then the more importance must be given.

Our Lord makes us reflect on fraternal charity in a beautiful and forceful manner so that we can grasp the seriousness of the commandment. First, there is the Sermon on the Mount which contains the basic precepts for the Kingdom of God. In the Eight Beatitudes there are two beatitudes treating specifically of fraternal charity. “Blessed are the merciful for they shall obtain mercy,” and “Blessed are the peacemakers, for they shall be called the children of God.” Whenever Our Lord speaks about the fulfillment or perfection of the God’s law, it is concerned with fraternal charity, love of neighbor. St. Paul writes concerning this: “Love is the fulfillment of the law”.

In the Sermon on the Mount, Our Lord shows that the commandments of the Old Law are more perfect and binding in the New Law. Our Lord even points out that in the Old Covenant, the fifth commandment reads: Thou shalt not kill.” In the new covenant this commandment says; “Whosoever is angry with his brother shall be in danger of the judgement”. It does not even mention killing, one cannot hate his brother, nor despise nor to treat in ill manner. In St. John’s Epistle, is written “Whoever hates his brother is a murderer” and no murderer can have part in Heaven. In the Sermon on the Mount, Jesus goes on to say: “You have heard it said ‘An eye for an eye and a tooth for a tooth.’ But I say to you to resist evil; but if one strike on thy right cheek, turn to him also the other.” This sermon by Our Lord proves that fraternal charity has a very special place in the teachings of Our Lord.

In the Gospel of St. John Our Lord instructs us “A new commandment I give unto you, that you love one another, as I have loved you, that you also love one another. By this shall all men know that you are my disciples, if you have love for another.” (John 13:34) The Pharisees had marked the love that Our Lord had for Lazarus outside the tomb before He raised him “See how He love him.”

Another deep impression that Our Lord wishes to leave on our souls is the scene of the Last Judgement, by being instructed on how we will be judged. He does not enumerate the different vices, lying, theft murder or adultery but on how one practices fraternal charity. He will judge us on whether we were able to see Christ in our neighbor, whether we were able to love our neighbor and to perform acts of mercy for our neighbor but out of love for Christ. Our Lord reminds us “Whatsoever you have done to the least of my brethren, you have done to me.”

We see the perfect example of Our Lord, How He had a great love for sinners for those who are poor and afflicted. “I am the Good Shepherd and I lay my life down for my sheep” and “Greater love than this no man has than to lay down his life for His friends.” Then on the cross, Our Lord prays for executioners: “Father, forgive them for they know not what they do.” Incredible, asking pardon for the very executioners at the moment of execution. At the Last Supper, He performs the work of a slave and washes the feet of the disciples. The last testament that Our Lord gives to His disciples before His death, “I have given an example that you may do what I have done to you.” It is striking to hear these beautiful statements on fraternal charity and then to really see the true ideal of a Catholic to follow this commandment of God to love our neighbor as ourselves.





【再掲】2018年8月12日 聖霊降臨後第12主日のミサ 「イエリコにくだるユダヤ人」

2020年08月27日 | お説教・霊的講話
2018年8月12日(主日)聖霊降臨後第12主日のミサ(東京)
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年8月12日、聖霊降臨後第12主日のミサをしています。

“Homo quidam descendebat ab Jerusalem in Jericho.”
「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音の中で、「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行って、そして強盗の被害にあって、半死半生で、全く全財産を失って、生きるか死ぬか、グッタリ倒れているところを助けられた」という話があります。

実はこの被害者は、このユダヤ人は、エルサレムからイエリコに下るこの被害者は、私たちです。人類です。私たち一人ひとりです。

そこで今日、この福音のこのミサのテキストに従って、

⑴ 私たちに一体、何が起こったのか?

⑵ 一体、誰が助けてくれたのか?

⑶ 私たちは今日、どうしなければならないのか?

という事を黙想しましょう。


⑴ エルサレムとイエリコの間は、現代では37㎞の距離があります。でも昔は今の迂回の道路がなかったので、もう少し短かったと考えられています、35㎞とか。1日で、朝早くから起きれば歩き通す事ができる距離です。
しかし、今でも昔も変わらずそこに、非常に人気の少ない、寂しい、そして強盗や盗賊や追い剥ぎがいっぱい住み着いていた危険な場所でした。
エルサレムは高い山の上にあったので、イエリコまでは1000mの標高の違いがあります。ですから、非常にイエリコまで行くのは簡単で、ただ道をダラダラと下っていけば良いのです。

これは何を意味しているかというと、聖なる都市エルサレムから、簡単な道を下って、道を外して、人生を間違えてしまった、誘惑に流されて、あるいは世間の言う通りに流されて、あるいは悪魔の誘惑に流されて、あるいは肉欲に負けて、ダラダラと行った私たちです。

この強盗とは盗賊とは、カトリックの教える3つの敵です。私たちの救霊の敵です。
「世俗」と「悪魔」と「私たち自身の肉欲」です。

そして、この3つに襲われなかった、という人は、一体世界に誰がいるでしょうか?マリア様とイエズス様を除いて、洗者聖ヨハネを除いて一体誰がいるでしょうか?
私たちは多かれ少なかれ、攻撃を受けて、そして原罪の傾きを、原罪の傷を負いながら、そして私たち自身の罪の傷を負いながら、多かれ少なかれ、半死半生のもうグッタリとして、悪魔に、あるいはこの世俗の考えに染まって、道端に倒れて、身ぐるみ剥がされて、そして息絶え絶えに、殴られ、蹴られ、そして自分の力では起き上がる事もできずに、「誰か助けを、早く助けてほしい。」

今日ちょうど入祭誦で歌ったように、“Deus, in adjutorium meum intende. Domine, ad adjuvandum me festina.”「早く主よ、助けに来て下さい」と言っている、口でブツブツ言っているかのようです。

もしかしたら私たちは、その自分が半死半生だという事にさえも、身ぐるみ剥がされたという事さえも、気絶して気が付いていなかったのかもしれません。「全身が痛い、もうどうなっているか分からない。目の前も真っ暗だ。どうしたら良いか分からない」という事だけでなっているかもしれません。

その私たちの目の前に、旧約の司祭が通り過ぎます。レビ人が、祭壇に仕える人たちが通りますが、彼らはチラリと横目で見て、そのまま何もせずに行ってしまいました。何もする事が、する力が無かったからです、する事ができなかったからです。

しかしユダヤ人にとって、傷付いた私たちにとって、異国人であったはずの、呪われた人であったはずのサマリア人が、そこの道を通りすがります。すると私たちを見て、哀れに思って近付いて、「大丈夫か。しっかりしろ」と言って、自分の持っていたブドウ酒をドクドクドクと注いでくれて、そして傷口を洗ってくれます。

これは、この良きサマリア人とは、天から私たちを探して、私たちの、傷付いた私たちを救おうと、赦そうと、聖化しようと、浄めようと人となられた、イエズス・キリスト、まさに良きサマリア人、イエズス・キリストです。

自分の御血をブドウ酒であるかのように注いで、私たちの傷を癒して下さいます。罪を赦そうと浄めて下さいます。そればかりか、油を私たちの傷口に塗って、聖霊の力で私たちを強めようとして下さいます。弱ってグッタリしている私たちを、自分の腕で受けて、そして持っていたロバに乗せて、あるいは動物に乗せて、そのまま近くの旅籠屋に旅館に連れて行きます。そして御自分自身で、この弱っている私たちを介護してくれます。「しっかりしろ。」「美味しい、力あるものを食べろ。」「その布団で寝ろ。」

そしてその翌日、「自分は天に帰らなければならないから」と言って、この旅籠屋の主人に、「さぁ、この人を看護を頼む」と言って、2デナリオを与えます。1デナリオは1日の肉体労働のその値ですが、この介護の為に2デナリオは十分すぎるほどでした。「もしもこれで足りなかったら、私が帰ってきたら、また再び世にやって来る時に、報いを与えよう。さぁ、この彼を癒す為に、健康になる為に、世話をしなさい。」

これは、この旅籠屋はこの旅館は、カトリック教会でなくて一体何でしょうか。この主人は、その聖職者じゃなくて何でしょうか。イエズス様はこの霊魂の世話を、彼らに任せます。イエズスの聖心は彼らに、全ての力を与えます。十字架の贖いのその値を全て委ねて、「さぁ、ここに必要なものがある。これを使って、彼らを世話をせよ。」

私たちは今日、こうやって旅籠屋にやって来ました。傷付いた私たちは、イエズス・キリストによって連れられてきて、そして今日また、ブドウ酒とそして油を注がれます。そしてますます強められて、ますます癒されて、ますます浄められて、ますます聖化されて、聖なるものとなって、天国への旅路を辿る事ができるように世話を受けます。


⑵ 第2のポイントは、一体ではなぜ、旧約の司祭たちは、私たちを見て見ぬふりをして行ってしまったのだろうか?何故なのだろう?

旧約の司祭たちは、特にモーゼに代表される司祭たちは、栄光あるものでした。今日の福音書の直後にある奉献誦を見て下さい、聖歌隊が素晴らしくそれを歌います、使徒信経の後に。モーゼが祈ると、「アブラハムの天主、イザアクの天主、ヤコブの天主、どうぞこの民を御憐れみ下さい」とモーゼが祈ると、その罪の為に非常に怒っていた、天主の正義を傷付けられて、罰を与えようとしていたその天主が、宥められて、そして彼らを赦そうとする力を持っていました。

モーゼは天主と、シナイ山で十戒を受ける時に、顔と顔を合わせて、お話をして対話をして、そしてその結果、顔は光に光栄に満ちていて、イスラエルの民はモーゼの顔を直視する事ができないほど、栄光に満ちた司祭職でした。

しかしそれでさえも、その真のヤーウェに仕えていた旧約の司祭でさえも、私たちを癒す事はできなかったのです。

その為には、真の良きサマリア人、イエズス・キリストが、天から私たちの為に、私たちを探して、御自分の御血のブドウ酒を、そして聖霊の油を注いで下さらなければなりませんでした。そして私たちを、その御自分の立てたカトリック教会に世話を任せなければなりませんでした。そうしてこそ初めて、私たちが健康に力を付けて、悪魔からの受けた傷を癒されて、天国への道を再び歩む事ができるように、ようやくなる事ができたのです。

そして今日ミサの時に、典礼学者によると、私たちはもう一度、良きサマリア人であるイエズス様から、ブドウ酒と、そして油を受けます。ですから今日、聖体拝領誦を聖歌隊が歌う時には、「地は、主の御業の実りによって満たされている、満足している。なぜかというと、御身は地から、大地から御聖体を、私たちを養うパンを下さり、そしてブドウ酒は私たちを喜ばせるから。」

これは御聖体の事でなくて何でしょうか。イエズス様の下さる、私たちに下さるブドウ酒でなくて何でしょうか。ブドウ酒は私たちの霊魂を、人の心を喜ばせてくれます。

それと同時に、更に聖体拝領誦では言います、「主は、私たちの顔をその油において喜ばせてくれる。」なぜかというと、聖霊の油がまた注がれるからです。そして私たちを強めるからです。

「聖霊の油が注がれて、パンが人の心を強める」というのは、何か堅振の話をしているかのように、私には聞こえました。

一体、旧約の司祭たちは力が無かったのみならず、もしかしたらその真の宗教の核心が、ただ石によって刻まれた十戒だけであったので、人の心に刻まれなかったのかもしれません。人の心に刻まれる為には、聖霊が私たちの心に染み通らせなければならなかったのかもしれません。

今日イエズス様は、この例えを話す前に質問されます、「永遠の命の道を行く為には、歩き通す為には、どうしたら良いのですか?先生。」
「聖書には何て書いてあるのか?」
「全ての力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。そして天主を愛するが為に、隣人を我が身の如く愛せよ。」

まさに宗教の核心とは、この「天主への愛」にあるのではないでしょうか。

そしてそのカトリックの教えのその核心というのは、イエズス様が私たちに教えようとしているこの核心というのは、「天主は愛であって、私たちの父として、私たちを御自分の子供として、父親が子供を愛しているかのように、その愛を超えた愛を以て愛している。」
「宗教の関係というのは、天主と人間との関係というのは、愛の関係であって、親子の関係であって、そして私たちが天主から無限に愛されている、憐れみを以て愛されている、という事を知り、そしてその聖父に、愛を愛で以て返す。ここにあるのだ」という事を教えています。
そして「聖父を愛するが為に。隣人を我が身の如く愛する。なぜかというと、同じ父を持つ兄弟だから。同じ家庭の家族の兄弟だから」という事を私たちに教えています。

「しかしこの核心が忘れられてしまうと、天主を全てに超えて愛するという事が、単なる石に書かれた冷たい文字だけになると、形式的だけになると、外見だけの話になると、宗教というのも、単なる外見の形だけのものになってしまって、本当の隣人愛というものを実践する事ができなくなってしまう」という事を教えているのかもしれません。


⑶ では今日、この御ミサのイエズス様が教えて下さるこの天主の愛について、天主が私たちを憐れんで愛して下さっている事について、私たちが多くのものを受けた、という事について、ますます理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

先週私たちは、「エフェタ」と言われました。耳が開いて、目が開いて、そして心が開いて、眼が開いて、天主の憐れみをますます分かる事ができるように、お祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、私たちがどれほど愛されているか、という事を御存知です。今日、この特に御聖体拝領の時に、傷付けられたこのユダヤ人が、良きサマリア人から多くの御恵みを受ける事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。


“Homo quidam descendebat ab Jerusalem in Jericho.”
「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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