私たちの主イエズスのエルザレムへの涙についての説教
ドモルネ神父
はじめに
聖霊降臨後第九主日の福音は、枝の主日に、私たちの主イエズスが、エルザレムの町のために流された涙についてのものでした。私たちの主イエズスが、エルザレムのために涙を流された理由を考えて、それを、現在のカトリック教会の状況と比較してみましょう。
1.イエズスのエルザレムのための涙
私たちの主イエズスは、まことの天主にして、まことの人間です。主は、まことの人間であるため、人間的な感性を持っておられます。ですから、主は、うれしい出来事や悲しい出来事に、感情を揺り動かされることがあります。私たちの主は、エルザレムのために涙を流されました。私たちと同じように、イエズスにとっても、涙は、悲しみや苦しみを表すものです。
私たちの主は、その天主としての知識によって、エルザレムと神殿が完全に破壊されることを、前もって見ておられたため、悲しまれたのです。西暦70年に、ローマ軍がエルザレムを包囲した際、何十万人ものユダヤ人が苦しみ、殺されるのを、見ておられたのです。最も愛すべき、甘美なるイエズスの聖心は、そのような光景を見て、無関心でおられることができず、主は、御あわれみから涙を流されたのです。
エルザレムの破壊の原因は何だったのでしょうか? エルザレムの破壊は、その指導者たちと、指導者たちに従った人々の、罪深い盲目さに対する天主の罰だったのです。ユダヤ人の指導者たちのほとんどは、私たちの主イエズスを、天主が約束された救世主であると認めることを拒否しました。彼らは、救世主に関する聖書の様々な預言をよく知っていたにもかかわらず、その預言が、イエズス・キリストにおいて成就したと認めることを拒否しました。彼らは、イエズスの教えの持つ真理と聖性を目撃したにもかかわらず、その教えを信じるのを拒否しました。彼らは、イエズスがなさった多くの奇跡を目撃したにもかかわらず、イエズスの御神性を認めるのを拒否しました。ユダヤ人の指導者たちは、イエズスが教えられた真理を拒絶し、それに反対しましたが、それは、高慢や野心、貪欲のためでした。
彼らは、聖霊に対する六つの罪のうちの一つ、すなわち、知られている真理に反対する、という罪を犯したのです。私たちの主イエズスは、聖霊に対する罪には赦しがない、と言われました。なぜでしょうか? なぜなら、これらの罪を犯した人々は、自分の霊魂における聖霊の働きに反対し、自分を回心に導く恩寵を拒絶するからです。彼らは、悔い改めることを望まないため、赦されることができないのです。
ユダヤ人の指導者たちは、霊的に盲目になったため、その罰を受けました。彼らは、自分たちの罪の重さが分からなかったのです。私たちの主イエズスに対する自分たちの罪の醜悪さが分からなかったのです。自分たちに降りかかる恐ろしい罰に、気付くことができなかったのです。そして、この罰から逃れるための手段が分からなかったのです。主はこう言われました。「もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら…。だが、不幸にも、それはおまえの目に隠されている」(ルカ19章42節)。この盲目さのために、ユダヤ人の指導者たちや多くの人々が、恐ろしい状況のもとで滅びてしまいました。
2.教会の現状
エルザレムの町は、カトリック教会のしるしです。しかし、私たちの主イエズスがそのために涙を流されたこのエルザレムは、現在のカトリック教会のしるしです。ユダヤ人の指導者たちがイエズスの教えに反対したように、第二バチカン公会議以降の教会の指導者たちは、カトリックの聖伝を通して伝えられてきたイエズスの教えに反対してきました。
また、ユダヤ人の指導者たちが霊的な盲目さに陥って、彼らに懲罰が降りかかるまで悪行を続けたように、教会の指導者たちも同じように霊的な盲目さに陥り、教会が崩壊しているにもかかわらず、悪行を続けているのです。私たちの主イエズスは、「地獄の門も教会に勝てぬ」(マテオ16章18節)、そして、「勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)と言われました。もし私たちに、私たちの主ご自身によるこれらの約束がなかったとすれば、エルザレムの神殿のように、カトリック教会も破壊されてしまうことが、間違いなく予測されたことでしょう。
教会の現状は痛ましいものです。すでに1972年、教皇パウロ六世は、「どこかの亀裂から、サタンの煙が教会に入ってきた」と発言しています。2005年、教皇ベネディクトは、教会を、「今にも沈みそうな船、四方から水をかぶる船」に例えました。現在、カトリック教徒の間では、三位一体、イエズス・キリストの御神性、カトリック教会の唯一性、罪、地獄、秘跡、聖なるミサといった、基本的な真理に関する信仰が、劇的に悪化しています。結婚、中絶、避妊、安楽死、主日のミサにあずかること、秘跡を受けることなどに関する道徳が、著しく悪化しています。司祭や修道者の召命が、極端に不足しています。典礼の濫用は、教皇のミサの時も含め、数え切れません。
カトリック教会におけるこのような危機は、何によって引き起こされたのでしょうか? 歴史と神学は、この危機の主な原因が、第二バチカン公会議とそれに続く改革にあったことを、明確に示しています。しかし、第二バチカン公会議以降、教皇たちやほとんどの司教たちは、そのことを認めるのを拒否しています。彼らは霊的に盲目になっているのです。第二バチカン公会議の教えや、新しいミサや、その他の改革によって、明らかに悲惨な結果がもたらされたにもかかわらず、彼らはいまだに、それらの教えや改革を、あらゆるところで押し付けようとしているのです。
聖伝のラテン語ミサが、明らかに良い実りをもたらしているにもかかわらず、彼らはそのミサを完全に廃止することを望んでいます。数日前、教皇フランシスコは、聖伝のミサを行う可能性を大幅に制限しました。なぜでしょうか? それは、このミサが、第二バチカン公会議のエキュメニカルな教えと合致しないからです。
結論
私たちの主イエズスは、ユダヤ人の指導者たちの盲目さとエルザレムの破壊のために、涙を流されました。現代において、私たちの主イエズスは、教会の指導者たちの盲目さや、教会の恐ろしいほどの劣化、そして、そのために霊的に死につつあるすべての霊魂のために、涙を流しておられるに違いありません。
私たちの主イエズスと一緒に、教会のために、主と共に霊的な涙を流しましょう。落胆や憤りからではなく、キリストと教会への愛からです。このような愛とあわれみの涙は、天主を最もお喜ばせするものです。
では、そのあと、私たちには何ができるのでしょうか? キリストの例に倣いましょう。私たちの主イエズスが神殿に行って、不正を行う者たちを追い払われたように、私たちも、教会をむしばんでいる近代主義の異端を糾弾し続けましょう。私たちの主イエズスが神殿に行って、人々に真理を教えられたように、私たちも、善意の人々に、カトリックの信仰を余すところなく告白し続けましょう。
良き希望の聖母が私たちを支え、導いてくださいますように。