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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教「私たち自身を天主の側に置き、栄光ある十字架の御旗の下で、想像できないほどの勝利と、地上のあらゆる富を青ざめさせる報酬があるのを確信しましょう。」

2021年08月09日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「この脅威は、まさにその本質上、最も露骨で壊滅的な敗北の運命にある」

Archbishop Viganò: This Threat, by Its Very Nature, is Destined for the Most Blatant and Devastating Defeat

ETIAMSI OMNES, EGO NON
たとい皆がそうでも
私はちがう

ベネチア会議のための開幕演説
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の演説
2021年7月17日

«Et si omnes scandalizati fuerint in te,
ego numquam scandalizabor».
「たとい、みながあなたについてつまずいても、
私は決してつまずきません」
Mt 26, 33

親愛なる友人の皆さん、

イエズス・キリストに讃美。

この会議は、栄光に満ちた過去を持つ都市ヴェネツィアを拠点とする特権を持っています。ヴェネツィアは過去において、その統治者たちが、すべてのこの世の統治による善政に、知恵を適用することができましたが、そのインスピレーションと情報を与える原理を宗教に見いだしていました。

「セレニッシマ」(Serenissima)【ベネチアの愛称。「晴朗きわまる所」の意味】なる共和国は、宗教の実践、市民の誠実な福祉、芸術や工芸の発展、貿易や文化交流の促進、注意深い公務管理、慎重な司法の運営を促進するために意図され、構想された制度の中で、君主制、貴族制、民主主義のすべての肯定的な面を統合しました。

ベネチアがその崇高な召命を守っていた間は、あらゆる分野で繁栄しました。最後のドージェ(Doge=統治者、元首)がフリーメーソンによって、また啓蒙主義運動の偽りの哲学によって買収されるのを許すや否や、ベネチアは数年のうちに沈み、侵略され、略奪され、財宝を奪われることになりました。

セレニッシマの物語から、私たちは現代への大きな教訓と、私たちの国や国家一般の運命に向けての厳しい教訓を得ることができます。帝国の没落を示すものは、その帝国を偉大にした理想への裏切り、権威の倒錯、権力の腐敗、民衆の諦めです。

全世界の、特に欧州および西洋諸国の運命が、その没落と破滅の前兆となるこれらすべての要素によって、取り返しのつかないことになっていることを、今のこの時代ほど目の当たりにしたことはありませんでした。

理想、文化、文明、知識、芸術への裏切りは、信仰の背教、キリスト教の二千年を拒絶してきたこと、キリスト教の歴史的記憶さえも「キャンセル・カルチャー」で取り除こうと欲していることにその原因があります。

キリスト教の時代に、殉教者の血、証聖者の証し、教会博士たちの教え、教皇の教導権、そして生活のあらゆる分野に浸透した勤勉な慈善活動の全システムから形成されたものが、今日、権力に縛られた人々のいらいらとした狼狽で拒否されています。

権威の倒錯は、世俗的領域と宗教的領域の両方において、支配者がその存在の目的を果たすことをせず、共通善から逸脱していることを意味しています。そのため、主権者の天主の権利を否定し、また、人権と市民権とされるものの名の下に、共和制国家の権力の人民的起源を主張した後で、新しい革命的な政治階級は、最高入札者に自らを売り渡す用意があることを証明し、天主と、自らが代表だと言うその人々に反抗したのです。

民主主義、自由、国民主権という驚くべき約束は、市民道徳や義務感、奉仕の精神がないために破られてしまったのです。フリーメーソンの革命原理の社会的応用として生まれた「近代国家」という概念は、大衆に対するもう一つの巨大な欺瞞であることが証明されており、暴君の行き過ぎた行為を抑制する天主の正義という慰めも奪われています。これは、時を超えて存続する「Crucifige」の邪悪な叫び(「十字架につけよ」というかつてのユダヤ人たちの叫び)です。

【フランス革命の】200年後、私たちは、主が賢明なる作者である自然法や掟にかかわらず、単なる数的多数に基づいて、何が善で何が悪かを決定できると大衆に信じさせるために、どのような詐欺が企てられたかを理解しています。

この不敬なバベルの塔は、それが最も強力で破壊的であると思われる瞬間に、その基礎の崩壊を示しており、これは私たちにとっての希望の源となっています。

平等という偶像も崩壊しつつあります。平等とはつまり平板化の名の下に、すべての人間の個性と独自性を冒涜するものだからです。そこでは、多様性は疑惑の目で見られ、判断の自律性は反社会的なものとして汚名を着せられ、知的能力は過失であり、職業上の卓越性は脅威であり、義務感は憎悪に満ちた障害なのですから。

目に見える鉄格子のないこの灰色の牢獄では、表現の自由は、罪、悪徳、犯罪、無知、醜さに対してのみ認められます。なぜならば、すべての人間に固有のもの、その人を特別な存在にするもの、形のない大衆よりも高めてくれるものは、天主の全能性、天主の創造の無限の知恵、天主の恩寵の力、天主のみわざの無比の美しさ、を示す耐え難いものだからです。

偽りの「科学」という神話も崩壊し、天主の宇宙の調和に反発しています。創造を支配する規則を謙虚に探すことは、ルチフェルの厚かましさに取って代わられ、一方では天主の存在しないこと、人類の救済のために天主が役に立たないことを示し、他方では創造主が定められた永遠の規則に従って世界の守護者になることしかできないのに、自分が世界の支配者であると考える人間の常軌を逸した神格化を示そうとしています。自分の弱さを賢明に認識することで、人類の善のために偉大な発見をすることができましたが、今日では、理性の誇りが、世界の人口を減少させるという代償を払ってでも、権力と金に飢えた怪物を生み出しているのです。

自由主義と共産主義という偽りのイデオロギーは崩壊します。すでに巨大な政治的、社会的、経済的災害に見舞われ、今日では新世界秩序(new world order)という狂気のプロジェクトの中で亡霊のように一体となり、同盟しています。これらの国家の災いに関する教皇の預言的な言葉は、両者が同じコインの裏表であるという観察によって裏付けられています。つまり、平等を装った不平等のコイン、富の公正な分配という名目で人々を貧困化させるというコイン、多くの人々に大きな好機を約束しながら少数の人々を豊かにするというコインです。

政党も崩壊し、右派と左派の対立とされていたものも崩壊しました。これは、革命の産物であり、どちらも権力の行使の道具でした。20世紀の最後の数十年まで、少なくとも名目上は、まだ動機付けていた理想を放棄した政党は、会社へと姿を変え、政党を必要とする行動計画(アジェンダ)と市民の真のニーズとの間に埋めがたいギャップを生み出す結果となりました。動機を与える原理や譲れない価値観がないため、これらの政党は新たな主人、つまり資金を提供する人々に注意を向け、候補者を決定して行動を指示しその選択を押し付ける主人たちに目を向けています。また、美辞麗句(レトリック)の上では、誰であれ議会で代表する人々を任命する力を主権者である国民のものであるとし、投票に民主主義の最高の表れを認めていたとしても、今日、統治する人々は、投票だけで自分たちを追放し追い出そうとする人々に疑念と苛立ちを抱いているのです。

国家の法律が共通善に由来せず、腐敗した権力の維持と社会的国家の崩壊に由来するような正義などというものがありうるという幻想も瓦解しますし、天主の法が法廷で禁止され、不正がまかり通り、正直者が罰せられ、犯罪や軽犯罪が報われるなどという正義が存在し得るという幻想も、崩壊します。天主の御名の下に正義が行われないならば、裁判官らは善に反して立法することができます。天主が無視されれば、彼らは自分が保護すべき人々の敵となり、断罪すべき人々の共犯者となりうるのです。

情報の自由という欺瞞は崩壊します。党派的な利益の名前において、真実を沈黙し、現実を検閲し、客観的な判断基準を覆す準備ができているしもべやおべっか使い廷臣らの悲しい大群や、彼らの自分たちを豊かにしてつかの間の知名度に酔いしれたい願望を[情報の自由は]示しているのですから。しかし、ジャーナリストや編集者、エッセイストが、彼らにインスピレーションを与える不変の原理を持たなくなるならば、生けるまことの天主において、何がはかないものであるかを理解し解釈するための誤り得ない基準を、見いださせる原理を保持しなくなるなら、自由は放埓となり、権力への従属が規則となり、偽りが普遍的な規範となってしまいます。

二世紀以上にわたり、反人間的、反天主的、反キリスト的なすべてのものを模範として私たちに押し付けてきた、真実ではない世界全体、欺瞞の不誠実な恐怖の醜い世界全体が崩壊します。それは、「Non serviam」(私は仕えない)という敵の永遠の叫びの中で、トランスヒューマニズム(人間改造主義)が天と自然に挑戦する反キリストの国です。しかし、今日、私たちの目の前で起こっていることは、存在論的に失敗が運命づけられた、狂気に満ちた地獄のようなプロジェクトの本質を構成しています。それは、今では時間の灰と瓦礫に埋もれてしまい、歴史の中で多くの帝国に何度も起こったような、単なる衰退ではありません。それは、宇宙の第一原理、物事の本質、人間の究極の目標に反抗してきた時代の終わりなのです。天主に反抗し、天主を覆すことができると思い込み、現在と未来だけでなく、過去からも天主を冒涜し、排除することができると主張し、今日もなお要求している時代です。天主と人類の敵であるフリーメーソン系の諸セクトや悪に従順な権力者たちの手先によって形成されている時代です。

皆さんはこう思われるかもしれません。これは、明らかに、現在および私たちを待ち受けているものについての黙示録的なビジョン、善に忠実であり続ける少数の人々が、私たちの主が迫害され殺されたように、そしてキリスト教時代の初めに数え切れないほどの殉教者たちの群れが迫害され殺されたように、追放され、迫害され、殺される終末の時代のビジョンだ、と。この狂気に直面したとき、超越性を欠いたまなざしで十分ではないのと同じように、人間のイデオロギーによる対応では十分ではないのです。

「否定論者」や「陰謀論者」というレッテルを貼る人々が私たちに向けて言う「黙示録的」という悪口の言葉は、贖いということが多くの選択肢、その中にはマルクス主義や他の哲学もありますが、その中の一つであるというこの世的なビジョンを示しています。しかし、私は司教として、イエズス・キリストと十字架につけられた主ご自身以外のいったい何を説くべきでしょうか?

しかし、この場での私の言葉は、絶望の言葉でもないことを願いますし、私たちに用意されていると思われる未来への恐れを植え付けるものでもないことを望みます。確かに、反抗的なこの世は悪魔の奴隷となっており、特に権力と金でこの世を支配する人々によって、この世は私たちに戦争を仕掛け、激しく冷酷な戦いの準備をしているところです。一方で悪魔は、恐怖や興味から戦いを好まない人々までも含めて、できるだけ多くの同盟者を自分の周りに集めようとしています。彼ら一人一人に報酬を約束し、主義への隷属に見合う、少なくとも悪魔の反対側での戦いを控えることに見合う報酬を保証しています。歴史を通じて常に多くの人々を誘惑し、堕落させてきた成功、富、権力の約束です。

裏切り者には常に銀貨30枚が用意されています。さらに重要なことは、敵が公然と敵意を表明しているにもかかわらず、私たちの同盟者であるべき人々や私たちの将軍たちでさえも、迫り来る脅威に直面してその敵意を無視し、否定し、武器を捨てることに固執していることです。無意味な平和主義の名の下に、彼らは真の平和を損なっているのです。真の平和とは、秩序が安定していることであって、私たちを滅ぼそうと望む人々への臆病で反抗的な降伏ではありません。

先に述べたように、権威の真の倒錯はこの点にあります。いわゆる穏健派の人々や生ぬるい人々の共犯により、定められている目的を達成しなかったことです。私たちの主は、彼らを、その口から吐き出してしまわれるでしょう。

あきらめないでください。また、腐敗し、腐敗しつつあるシステムを存続させるための仲介者とされている自分たちの役割が損なわれるのを見たくないという望みに駆られて、現状の重大さを認識したくないと主張する誘惑や、それを非難する人を「陰謀論者」として非正当化する人々に誘惑にまどわされないでください。

もし、個人と人類の救いに対する具体的な脅威があるならば、もし、この明確に組織化されたプロジェクトの背後に心があるならば、もし、このプロジェクトを実行に移す人々の行動が明らかに悪を行うことを目的としているならば、理性と信仰は私たちに、その作者を発見し、その目的を非難し、その実行を阻止するよう促します。なぜなら、もし、この脅威に直面して、私たちが無為に過ごし、実際にそれを否定しようとするならば、私たちは悪の共犯者、協力者となり、兄弟に対する真実と愛徳の義務を果たせなくなるからです。

たしかに、善良で誠実な人々、私たちの主に忠実であり続ける人々の上に、この脅威があることに議論の余地がないのはその通りです。ところが、この脅威が、まさにその本質上、最も露骨で壊滅的な敗北の運命にあるのも、その通りです。なぜなら、この脅威は、人間だけでなく、天主ご自身、天上の宮廷全体、天使と聖人の群れ、そしてすべての被造物を疑問視させるからです。

はい、そうです、天主の驚異的な作品である自然でさえ、この暴力に反抗しています。最も確実である最終的な善の勝利と、この現在の暗黒との間のどちらかを、私たちは自分の選択を選ばなければなりません。そして、天主に善きしもべたちのことを考慮していただきましょう。

この歴史に残る衝突の間、私たちがただ人間的な手段でしか自らを組織化できないと考えないでください。また、敵の見事な力は、私たちを敗北させ消滅させるのに十分な理由だと確信しないでください。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちは一人ではありません。これはまさに天主の御稜威に反対する戦争だからです。天主は、全能なる天主、戦列を整えし万軍の主、その御名に宇宙の基礎でさえも震えあがるそのお方ご自身に、恐れ多くも敢えて挑もうとする敵に反して戦うために、私たちの陣地で共に戦場に立つことを拒んで私たちを一人に打ち捨てるようなことはなさらないからです。

むしろ、私たち自身を天主の側に置き、栄光ある十字架の御旗の下で、想像できないほどの勝利と、地上のあらゆる富を青ざめさせる報酬があるのを確信しましょう。なぜなら、私たちに権利として与えられる報酬とは、不滅にして永遠のものであり、天国の栄光、永遠の至福、終わりなき命、そして三位一体の現存であるからです。天主に栄光を帰するという、私たちが創造された目的を実現する際に、贖いの経綸における罪による無秩序を立て直す報酬です。

不気味に迫り来る戦いに備えるために私たちがこの時代に研ぎ澄まさなければならない武器は、天主の恩寵の中で生きること、秘跡を頻繁に受けること、不変の「信仰の遺産」(depositum fidei)に忠実であること、祈り、特に聖なるロザリオ、聖徳を絶え間なく実践すること、償いと断食を実践すること、体と霊による愛徳行為であり、それらは、遠ざかっている、あるいは生ぬるい兄弟たちを天主のために獲得するためです。

使徒の戒めに耳を傾けてみましょう。「天主の武具をすべてつけよ。悪の日に抵抗し、すべてを果たしたのちなお立つためである。では真理を帯にし、正義を胸当てにして立て。平和の福音への熱意を足に履き、信仰の盾を取れ。それによって悪者の火矢をすべて消すことができるだろう。さらに、救いのかぶとと、天主のみことばである聖霊の剣をも取れ」【エフェゾ6章13-17節】。

この言葉は、聖パウロがエフェゾの町の信徒に向けて述べたものですが、私たちの戦いは、血肉でできた被造物【人間】に対するものではなく、権勢と能力、この世の闇の支配者、天界の悪霊に対するものであることを理解しなければならない現代の私たちにとっても、何よりも有効な言葉です。【エフェゾ6章12節参照】

このベネチアでのイベントは、主催者側が、考察の機会として、また、霊的かつ社会的な再生の運動設立行為として、望んだものです。互いに頼り合って、知り合うための、そして何よりも、それだけが愛する祖国の平和と繁栄のために必要かつ不可欠な前提であるその信仰を、勇気を持って証しするための、いわば霊的な戦闘準備への呼びかけです。

私はそう言いましたし、今もそう言っており、そう繰り返します、「Pax Christi in Regno Christi」(キリストの統治におけるキリストの平和)と。

トルコ人に対するレパントの勝利を祝う際に、ベネチアの議会・元老院が、キリスト教の敵を打ち破ったことへの功績を認めて、勝利の元后なる童貞に公的な栄誉をお捧げしたように、今日、私たちは、成功を目指し、天主の祝福を受けようとする個人的、集団的、社会的、教会的なすべての行動の基礎となる要素を、キリストの福音の中に、そしてその掟への忠実さの中に再発見する勇気を持たなければなりません。

過去数世紀の歴史を汚した反人間的かつ反キリスト的な社会が廃墟となったのは、主のご保護の下に置くことなく家を建てられると思い違いをした人々への厳しい警告です。

“Nisi Dominus ædificaverit domum, in vanum laboraverunt qui ædificant eam. Nisi Dominus custodierit civitatem, frustra vigilat qui custodit eam” (Psalm 126:1).「主が家を建てられないなら、それを造る者の働きはむなしい。主が町を守られないなら、番人の警戒はむなしい」(詩篇126篇1節)。

かの天主なる王と全能の元后が恩寵によってそこに君臨されるならば、この家、この都市は生まれ変わり、復活することができます。お二方は、栄光あるベネチア共和国の真の主権者であられたのであり、その御前にドージェ(元首)とマジストラーティ(Magistrati=司法官たち)が跪いて描かれ、キリスト教の宗教的・社会的秩序についての信心深い証しとなっています。

皆さんがこれを知ることが、皆さんと私たちの将来のすべての行動の原動力となりますように。

皆さん全員に、そしてキリストと童貞聖マリアの記章の下に集う方法を知っているすべての人々に、私は心を込めて、父としての祝福を送ります。

In nomine + Patris, et + Filii, et Spiritus + Sancti. Amen.
+聖父と+聖子と+聖霊との御名によりて。アーメン。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

La prolusione di Mons. Carlo Maria Viganò all’evento di Venezia

La prolusione di Mons. Carlo Maria Viganò all'evento di Venezia: ...

Il Corriere delle Regioni

 

 

 


【参考資料】陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」について:なぜ"存在しない問題"を見ても、"今起きている実在する問題"を見ないのか?

2021年08月09日 | カトリック・ニュースなど

陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」への感想

【参考資料】香港の引退司教である陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」への感想の日本語訳をご紹介いたします。陳日君枢機卿によれば、教皇が解決しなければならない本当の問題は「旧典礼に多くの人が与っていること」というよりは、「なぜ人々はミサに与らないのか」「なぜ人々はカトリック信仰を失っているのか」ということだと主張しています。


なぜ彼らは、"存在しない問題"を見ても、"今起きている実在する問題"を見ないのでしょうか?

2021年6月12日の私のブログで『トリエント・ミサに「反対」する文書が来るそうです』と言いましたが、その不安は現実のものとなり、早くから予期してもその影響は軽減されてはいません。この文書の中の偏った記述の多くが関係者に引き起こした傷は、予想した以上に重いのです。トリエント・ミサを愛したこれらの善良な人々は、公会議の典礼改革を受け入れていない、ましてや公会議全体を受け入れていないとは、少しも人に疑がわれることはありませんでした。なおかつ、彼らは皆、小教区の活発な構成員です。

枢機卿かつ典礼秘跡省の元構成員である私が、この「広範な」諮問の参加に招かれなかったことは、本当に苦しくもあり、驚きでもありました。さらに、2007年から2009年にかけて、私はまだ香港の司教として、教皇ベネディクト16世の自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の実施を推進する責任を負っていましたし、今でも【香港】司教区内の「トリエント・ミサ」グループの支援者でもあります。

諮問のアンケートとその結果を見たことがなく、判断する方法がありませんが、その過程で多くの誤解(ひいてはおそらく誤解を招く要素)があったのではないかと疑うばかりです。

この2つの文書を読むと、(1)古い典礼(vetus ritus)の使用と新しい典礼(novus ritus)の拒絶を結びつける傾向があること、(2)典礼改革の拒絶(そして、多くの場合、新しい典礼方式の実施における重大な欠陥のいくつかの拒絶)を、公会議の全般かつ徹底的な拒絶として誤って伝えていることがわかります(実際、公会議を拒絶した人々にとって、ミサ典礼の選択は小さな問題に過ぎず、この問題で聖座が譲歩しても今度の教会の分裂は逆転しません)。

バチカンの指導層は、なぜ第二バチカン公会議の拒絶する現象が持続して存在し、(最近では)悪化しているかもしれないのかを自問すべきです(おそらく徹底的な調査を行うべきです)。

問題は、「どのような典礼が好まれるか」ではなく、「なぜミサに参加しなくなったのか」ということです。

ある世論調査によると、ヨーロッパのキリスト教徒の半数は、もはや聖体におけるイエズスの実在を信じておらず、永遠の命を信じていません。私たちは当然ながら、このような結果を典礼改革のせいにすることはできません。問題はもっと複雑で、「信仰の養成が不足しているのではないか」、「公会議の偉大な働きは無駄になったのか?」という疑問を避けることはできません。「現在はすべてを変えられると思うこと」が悪の根源ではないでしょうか?誰かが、公会議はすべての伝統を凌駕することができ、トリエント公会議はシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』の汚れのようなものだと考えているのではないでしょうか(私たちの教区の「典礼専門家」の一人が述べているように)?

この文書では、自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の実施上の誤りを非難するだけでなく、2つの典礼の共存を悪とみなしています。 第3条の第5項と第6項、文書の第4条と第5条は、明らかにこれらのグループの死を願っているのではないでしょうか? 

しかし、たとえそうであっても、ラッツィンガーに反対する方は、由緒ある名誉教皇をこのように辱めるのではなく、ベネディクト16世の死と一緒にトリエント・ミサが死ぬのを辛抱強く待つことはできなかったのでしょうか?

為什麼他們見到不存在的問題,卻見不到實在的問題,且也是他們有份造成的? 

我在2021年6月12日的博文說:『聽說有一份「反對」脫利騰彌撒的文件即將來臨』,這擔憂已成真,而且其所帶來的衝擊並沒有因為早已預期而減輕,文件中許多帶有偏見的論述對相關的人造成的傷痛比預料的更沉重。這些愛好脫利騰彌撒的善良的人,從不曾讓人有半點懷疑他們不接受大公會議的禮儀改革,更從未不接受整個大公會議。此外,他們都是堂區的活躍成員。 

我這位樞機及禮儀聖事部前成員竟沒有被邀請參加是次「廣泛」諮詢,實在既感苦澀又驚愕。而且於2007-2009年我仍是香港主教,負責推動執行當時教宗本篤十六世的宗座牧函《歷任教宗》,至今,我仍是本教區內脫利騰彌撒群組的支持者。 

由於未見過該份諮詢問卷及其結果,我無從判斷,我祇能懷疑過程中有很多誤解(甚至可能帶有誤導擺佈的成份)。 
在閱讀這兩份文件時,我注意到它們 (1) 帶有傾向性地將沿用舊有禮儀(vetus ritus)與不接受新禮儀(novus ritus)兩件事聯繫起來,及(2) 將不接受禮儀改革(其實更多情形是不接受執行新禮儀方式時一些嚴重的弊病)錯誤引導為對大公會議的全盤且徹底的拒絕(其實為那些拒絕大公會議的人,彌撒儀式的選擇只是附屬小問題,教廷在這問題上的讓步也並沒有逆轉這次教會的分裂)。 
梵蒂岡高層應該問自己(甚至可能需要進行徹底調查)為什麼拒絕梵二的現象會持續存在,且可能(最近)越見惡化。 
問題不在於「人們喜歡什麼儀式」,而是「他們為何不再參與感恩祭」?一些民意調查顯示,歐洲一半基督徒不再相信耶穌在聖體聖事中的實際存在,不再相信永生!我們當然不會將這些結果歸咎於禮儀改革,問題其實更複雜,我們不能迴避的問題是:「是不是缺少了信仰培育?」「大公會議的偉大工作是不是被浪費了?」「以為現在一切都可以改變」難道不就是邪惡的根源?有人不是認為大公會議可以凌駕所有傳統,且認為脫利騰大公會議就像西斯汀教堂那幅《最後的審判》上面的污垢(正如我們教區一位「禮儀專家」所形容)一樣? 
該文件不僅指責在執行《歷任教宗》宗座牧函時有人犯了錯誤,更將兩種禮儀的並存視為邪惡。文件第3條的第5及6段及第4、5條不是明顯希望這些小組的死亡嗎?但即使如此,反對拉辛格的教廷權貴難道不可以耐心地等待脫利騰彌撒隨著本篤十六世的去世而告終,而一定要這樣羞辱可敬的榮休教宗呢? 


Why do they see problem where there is none and

close their eyes to the problem, for which they are also responsible?

Concerns about a ventilated document “against” the Tridentine Mass (see my blog June 12, 2021) have come true, and the blow has been no less severe because it was foreseen, many tendentious generalizations in the documents hurt more than expected the hearts of many good people, who never gave the slightest cause to be suspected of not accepting the liturgical reform of the Council, much less not accepting the Council “Tout court”. Moreover they remain active members in their parishes.
It came as a bitter surprise to me personally that the “widespread” consultation did not reach me, a cardinal and once a member of the Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments. During the years 2007-2009, moreover, I was bishop of Hong Kong and therefore responsible for the implementation of “Summorum Pontificum”, and until now, a well-known supporter of the group.
Not having known either the questionnaire or the responses to the questionnaire, I cannot judge, but only suspect that there was much misunderstanding (or perhaps even manipulation) in the process.
As I read the two documents I note (1) an incredible ease (or tendentiousness) in linking the desire to use the vetus ritus to the non-acceptance of the ritus novus and (2) in associating the non-acceptance of the liturgical reform (which often concerns mainly the way in which it was carried out with its many serious abuses) with a total and profound rejection of the Council itself (as matter of fact for those who reject the Council the diversity of the rite of the Mass is only a small corollary, so much so that the concession regarding the rite did not reverse the schism).
The Vatican authorities should ask themselves (and perhaps even make a thorough investigation) why the second phenomenon has persisted and perhaps (recently) even worsened.
The problem is not “which rite do people prefer?” but is “why don’t they go to Mass anymore?” Certain surveys show that half of the Christian population in Europe no longer believes in the real presence of Jesus in the Eucharist, no longer believes in eternal life! Certainly we do not blame all this on the liturgical reform, but we just want to say that the problem is much deeper, we cannot evade the question: “Has not the formation of faith been lacking?” “Has not the great work of the Council been wasted?” Isn’t the root of evil that attitude of believing that everything can now be changed? Is it not that attitude of believing that this Council erases all previous ones and that the Tridentine Council is like the dirt accumulated on the “last judgement” of the Sistine Chapel (as a “liturgist” in our diocese put it)?
The Document obviously sees not only irregularities in the execution of Summorum Pontificum, but considers the very existence of a parallel rite to be an evil. Don’t paragraphs § 5 and § 6 of Art 3, Art 4 and 5 clearly wish for the death of the groups? But, even in that case, can’t the anti-Ratzinger gentlemen of the Vatican be patient to allow the Tridentine Mass to die only after the death of Benedict XVI instead of inflicting such humiliation on the venerable Pope Emeritus?


ルフェーブル大司教 1976年8月22日 私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

2021年08月09日 | ルフェーブル大司教の言葉

ルフェーブル大司教の説教 1976年8月22日 エコンの神学校にて

愛する兄弟たちよ、

今日、教会が祝っている聖マリアの汚れなき御心の祝日は、比較的に新しい祝日です。そして、この祝日こそ、現代に相応しく適応させるために、近年に教会がすることが出来、教会がしてきたことの証です。なぜなら、これは、私たちが今必要としている真理、私たちが黙想する際に霊魂に適応させようと望む真理、を思い出させてくれる祝日だからです。これを聖マリアの汚れなき御心の祝日が、私たちに思い起こさせてくれるのです。

この祝日は、特にファチマの聖母の御出現と特別な関係があります。そして、教皇ピオ12世がお望みになって、今後、聖母の被昇天の第8日目すなわちオクターヴァが、聖母の汚れなき御心の祝日となるように定められました。はい、おそらくそれ以前から、17世紀から聖母の汚れなき御心に対する信心があったでしょう。例えば、私たちは、ついこの前、聖ヨハネ・ユードの祝日を祝ったばかりですが、この聖人は「イエズスとマリアの聖心」という名前を持つ修道会を創立したのです。

ところで、私たちの聖なる聖父である教皇ピオ12世が、特別な方法で聖母の汚れなき御心を敬おうと望まれたのは、現代こそこれが必要だからです。実に、私たちの生きているこの厳しい時代、昔のキリスト信者が持っていたもの、つまり、今日のように私たちの主イエズス・キリストの愛の現れを私たちから奪い去ってしまう時代には、本当に聖母の汚れなき御心が必要です。

キリスト教世界の数世紀の間は、私たちの主イエズス・キリストの愛の現れが言わなくても明らかでした。なぜなら、全キリスト教世界のどこにでも修道院があり、修道生活は栄え、観想的修道院、活動的修道院、修道院運営の病院、あらゆるタイプの修道院が、数多く私たちの村や町、地方にも都市にも増加していたからです。それは、その時代に生きていた人が、いわばイエズス・キリストの愛と祝福の中に浸かっていると言うような印象を持つほどであった、と思います。なぜなら、主の愛が私たちの住む小さな路地にも、十字架の像、聖母像、愛徳の家があり、貧困者や巡礼者、苦しんでいる人々を受け入れる修道院運営の収容施設などにおいて、どこにでも明らかに現れていたからです。私たちの主の愛がどこにでも現れていました。

しかし、現代は、今世紀は、どれほど厳しい時代となったことでしょうか。私たちの住む都市にも、田舎にも私たちの主の愛を見つけることがもはや出来なくなってしまっています。ああ、勿論、私たちの主のために献身的に働いている霊魂たちもまだいます、しかし、一体幾人いるというのでしょうか。人口比にして、一体どれほどになると言うのでしょうか。そして、まだ主の愛を知らない国々、中国のようにあるいはアフリカのように大きな国々においては、どれほど多くのやらなければならない仕事があることでしょうか。そして、これらの国々は、主の愛からどれほど遠くにあることでしょうか。

ですから、現代、私たちには聖母マリア様が必要であると思われます。私たちには、私たちを助けて下さる、私たちが信仰を維持するようにと助けて下さる聖母マリアの御心が必要です。それは、いわば私たちの主がどれほど私たちを愛して下さっているかと言うことを感じることが出来るためです。私たちは、主の愛をこの眼で見ることがますます少なくなってしまっています。私たちには、聖母の愛を直ぐそばで感じる必要があるのです。そのために、聖母はファチマでご自分の汚れなき御心に祈るようにとお望みになったのだと思います。私たちにはこの天主の愛情が必要です。童貞女聖マリアの御心に広がった天主の愛情が。私たちには、聖母の汚れなき、そう汚れなき御心が必要です。汚れなき、つまり、染みも汚れも罪もない、と言うことです。

天主は知っています。まさに、現代世界において私たちの周りには、私たちの主に全生涯を捧げ尽くした聖母の御生涯の模範がもはやないことを、私たちの主の掟、愛の掟の実現に尽くした模範がないことを。天主の掟は天主への愛と隣人への愛にまとめられるからです。

ところで、現在社会で何が起こっているかは、皆さんがその証人です。子供は殺され、人は自殺し、ここスイスでは自動車事故で死ぬ人よりも自殺によって死ぬ人の方が多いのです。このことについて最近新聞が報道したばかりです。1800人の自殺が去年ありました。しかし、昨年自動車事故で死んだ人は1600人でした。1800人の自殺。そして、一般的にこれらの自殺は若者の自殺です。これは何を意味しているのでしょうか。これは、これらの霊魂たちは、自分の周りにもはや私たちの主の愛を感じていなかった、と言うことです。彼らは自分の生を嫌悪し辟易していたのです。だから自殺してしまったのです。もし、他の国々での事情を公表したとしたら、私たちはきっと胸悪く思うことでしょう。

離婚する人のことを考えると、どこに行ったらよいのかわからない、自分のお父さんが誰で、お母さんが誰かも知らない見捨てられた子供たちのことを考えると、悲しくなります。

私たちは、今、険悪な時代、辛い時代に生きています。愛徳を実践しない時代に生きています。

以前30年の間派遣されていたアフリカ諸国にいたときに個人的に感じたことですが、そして、私が一番びっくりしたことは、それは憎しみです。彼らはしばしば村ごとに憎しみを抱いていました。そして同じ村でさえも、家族ごとに憎しみがありました。その結果として、毒を盛ったり、殺人が頻繁でした。これは、憎しみのためでした。私たちの主の愛が君臨していないのです。

私たちの聖父にイエズス・キリストが、私たちの母に聖母マリア様がいると言うことが、どれほど幸せであるかと言うことを私たちはよくわかっていません。そこにこそ、天主様のために、私たちは愛と模範を汲み取らなければなりません。

何故かと言えば、聖母が愛の心を持っていたとすれば、それは私たちの主イエズス・キリストを愛するため、イエズス・キリストに属するものを愛するため、全ての霊魂をイエズス・キリストに導くためだけだったからです。聖母はこの愛を生きていたのです。そして、聖母は私たちの主を愛したがためにこそ、聖母は天主に罪を犯して主を侮辱しなかった、そんなことをすることが出来なかったのです。聖母は御受胎の瞬間から汚れなくましまし、ご誕生の時も汚れなく、御生涯の間、終生汚れなくましましたのです。聖母は私たちにとって、純粋さの、心の純粋さの模範です。私たちの主イエズス・キリストの掟に従順であることの模範です。

聖母は、私たちの主を愛したがために、主と共に苦しむことを、主の苦しみを分かち合うことを望みました。苦しみを分かち合うこと、これこそ愛の印です。聖母はその聖子イエズスが苦しむのをご覧になり、ご自分の主と共に苦しむことを望まれたのです。私たちの主イエズスの聖心が槍で貫かれたときに、聖母の御心も貫かれました。天主様の栄光のために、イエズス・キリストのために、イエズス・キリストの御国のために美しく調和しつつ生きた2つの聖心が貫かれたのです。この二人は、そのために戦ったのです。

だから、私たちも苦しむ覚悟が出来ていなければなりません。私たちの主イエズス・キリストが君臨し給うように。私たちの社会で、もはや、私たちの主は君臨していません。私たちの家庭で、もはや私たちの主は君臨していません。私たち自身において、もはや私たちの主は君臨していません。

私たちには、このイエズス・キリストの君臨が、イエズス・キリストの御国が必要です。なぜなら、これこそが私たちの霊魂と肉体、この地上にある全人類と全被造物の唯一の存在理由だからです。このために私たちは、生きているからです。イエズス・キリストが君臨するようにと。願わくは、主がその生命と救いと愛と栄光を霊魂たちに与え給うように。

私たちはよくわかっています。まさしく、ここ15年の間、聖なる教会で起こったことは、本当の革命でした。この革命はイエズス・キリストの王国を攻撃しています。この革命は、イエズス・キリストの君臨を崩壊させてしまおうと望んでいます。それは、全く明らかです。目を開かせましょう。確認できます。人々はイエズス・キリストの掟にもう従おうとはしません。不幸なことに、私たちに主の掟に従順であるようにと教えなければならない人々が、不従順であるようにと勧めているのです。

何故かというと、

国家の無宗教性をのぞむと言うことは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を破壊させることだからです。

婚姻が聖なるものであるという現実を疑うことは、そして婚姻に関する掟を疑うことは、家庭における私たちの主イエズス・キリストの愛を崩壊させてしまうことだからです。

もし、私たちが強く、公に、堕胎に反対しないと言わなかったとしたら、私たちの主が君臨しないようにすることです。

私たちの主イエズス・キリストの王国に対する信心を崩壊させることは、私たちの主が霊魂において君臨することを破壊させることです。

愛する兄弟たちよ、ミサ聖祭とは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を宣言すること以外の何ものでもありません。私たちの主は一体何によって君臨したのでしょうか?Regnavit a ligno Deus! 主は、十字架の木によって君臨しました。十字架の木によってこそ、主は悪魔に打ち勝ち、罪に打ち勝ちました。

ですから、私たちの主の犠牲、祭壇におけるカルワリオを更新することによって、私たちは、私たちの主イエズス・キリストの王国を肯定し宣言するのです。私たちは、主が天主であることを肯定し宣言するのです。

私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

だからこそ、現代では、御聖体礼拝はこれほどまでに少なくなってしまったのです。そうでなければ、涜聖が数限りなく増加しています。これは、はっきり言わなければなりません、公会議以後のことです。これは明らかです。人々は御聖体にまします私たちの主を祭壇の外に追放しました。もはや私たちの主を礼拝しません。御聖体の前で跪きもしません。私たちの主の君臨とは、主をまことの天主と認めることなのです。主を私たちの王と承認することなのです。

従って、私たちは私たちの主イエズス・キリストの愛を、その御神性を表さなければなりません。

私は、事実だけを申します。これは公表されたことです。合衆国のフィラデルフィアで開かれた聖体大会で、御聖体行列があったでしょうか?いいえ。ありませんでした。私は4年前にメルボルンの聖体大会に参加しましたが、そこでもなかったと同じです。何故、御聖体行列がないのでしょうか?なぜなら、この聖体大会をエキュメニカル大会にしたかったからです。エキュメニカル大会とは、プロテスタントやユダヤ教と、又イエズス・キリストが天主であると言うことを信じない人々、イエズス・キリストを崇拝しようとしない人々、イエズス・キリストの君臨を望まない人々と共にする大会のことです。私たちの信仰に反対する人たち、私たちの信仰を認めようとしない人々と一体どうやって祈ることが出来るというのでしょうか?だから、彼らは、参加の条件として、こう言ったのです。「私たちは聖体大会に参加したいが条件がある。それは聖体行列をしないと言うことである。」つまり、私たちの王、私たちの聖父、私たちの創造主、私たちの救いのためにご自分の全ての御血を流された贖い主である方に誉れを捧げてはいけないと言うことだったのです。主を礼拝することを彼らは拒んだのです。そこで、この条件を受け入れました。それは、プロテスタントやユダヤ教とたちが聖体大会に参加するためには、聖体行列をしてはいけなかったからでした。しかも、プロテスタントの牧師と一種の共同司式をやったのです。更に、この共同司式の座長はプロテスタントの牧師だったのです。

これは、みな天の復讐を呼び求めています。復讐を。私たちの主は、もはや敬われていません。私たちの主は、もはや私たちの王ではなくなってしまっています。このようなことは、主を屈辱することなのです。

ある日、軍隊が、共産軍が私たちの国を侵略するとしたら、私たちはそれに値するだけのことをしたと言うことです。涜聖をそのままほったらかしにし、公認し、私たちの主イエズス・キリストに誉れを捧げず、イエズス・キリストを王として望まず、悪魔が私たちの王として玉座に着くことでしょう。その日が来るでしょう。

私たちは、「自由」によってそうなのです。「自由」を望んだ人たちのこの「自由」とは、単に天主と教会の掟から自由になるということでした。彼らは私たちの主から自由になろうとしました。彼らに別の君主が君臨することでしょう。この闇の君主が「自由」とは何かを教えに来るでしょう。

私たちは幸福にも、これらのことが理解できます。これら私たちの主の王国を信じることが出来ます。私たちは主の愛を表さなければなりません。私たちは、家庭で、私たちのいるところがどこででも、主の王国を宣言しなければなりません。まだ私たちの主の御神性と御国を信じているキリスト者がいるところで、又、聖母が聖子に対して持っていたのと同じ愛を持つ人々がいるところで、私たちは、どこでも一致して、宣言しなければなりません。彼らが、躊躇うことなく、一致し、その愛を堅く保つように。このような彼らこそ教会です。私たちの主の君臨を崩壊させている人々ではありません。

はっきり言わなければなりません。これはスーネンス枢機卿が言ったことで、私が造った言葉ではありません。曰く、「公会議は教会におけるフランス革命であった」と。はい、私は、確かに、公会議は教会におけるフランス革命であったと思います。スーネンス枢機卿はそれを喜びました。私たちはそれを悲しみます。私たちは嘆きます。なぜなら、教会における革命とは、人間の理性を礼拝する理性神の君臨だからです。人間理性は1789年の先駆者によって礼拝されました。神となった人間理性は修道士や修道女を死刑に処しました。私たちのカテドラルを崩壊し、私たちの神聖な聖堂を犯しました。

今私たちが目の当たりにしている革命は、1789年のフランス革命よりもひどいものです。公会議以降、教会で、又私たちの家庭で、學校で、大学で、神学校で、修道会で、何が起こったかということを一覧表にまとめてみると、結果は1789年の時に起こったことよりも、更にひどいことがおこっています。なぜなら、1789年には、少なくとも修道士や修道女たちは死刑台に昇りました。それは自分たちの血を私たちの主イエズス・キリストに捧げるためでした。私は、ここにいる皆さんもイエズス・キリストのために自分の血潮を捧げる覚悟が出来ていると思います。しかし、現代の教会における革命においては、そうではありません。何という恥ずべきことでしょうか。司祭職を捨ててしまった司祭、毎月、まだまだ、多くの司祭たちがその申請のためにローマに行くのです。叙階式の時にわたしたちの主に一生仕えるという誓いをうち捨てて、結婚するために。そして、3ヶ月後には、結婚の許可が下りています。

これは、あまりにもひどいではありませんか。私たちの主を捨てるよりも主に対する信仰を宣言するために死刑台に昇るほうがまだましです。

公会議の後に起こったことは、フランス革命の数倍悪い結果をもたらしています。公然の敵がいた方がよっぽどましです。教会と私たちの主は、戦争宣言をするからです。

しかし、私たちの主を敬い、礼拝し、私たちの主に対する信仰を明らかに表明しなければならないはずの人が、私たちの目の前で冒涜を行い、私たちの主を捨て去り、ある意味で屈辱を与えているように思えます。私たちは、これを受け入れることが出来ません。

私たちこそカトリック教会です。彼らこそカトリック教会から離れていくものです。私たちが離教をするのではありません。私たちは、主の君臨を望んでいるからです。私たちは、それを高らかに宣言し、主に従う覚悟が出来ています。願わくは、私たちの牧者がどこででも「私たちは唯一の天主イエズス・キリスト以外何ものも望まない、私たちには唯一の王、イエズス・キリスト以外だれもない」と言いますように。そうしたら、私たちはこれに従います。

しかし、彼らは私たちの祭壇から主の十字架を取り除き、主の君臨を破壊しています。

私たちは、この点を確固と保持しなければなりません。私は、不従順だといわれました。きっともうすぐ離教的だと言われることでしょう。全く違います。私は、不従順でも、離教的でもありません。私は教会に、私たちの主イエズス・キリストに従っています。

「おまえは教皇に不従順だ」といわれます。私はこう言います。教皇様が公会議の最中また公会議後になされた革命と一致する限りにおいて私は教皇様に不従順です。なぜなら、公会議の革命は教会におけるフランス革命だからです。私は教会内のフランス革命に従順であることが出来ません。私は理性神に従順であることが出来ません。私は、理性神の前に膝を屈めることが出来ません。しかし、皆が私に求めているのはまさしくこのことなのです。この神学校を廃校するようにと要求するのは、皆がそろって理性神を礼拝するようになるためなのです。

人間。人間への礼拝。人間を礼拝する。ダメです。こんなことは決して出来ません。これを受け入れることが絶対に出来ません。私たちは天主に従順たりたいのです。イエズス・キリストに従いたいのです。私たちに信仰を与えなければならない人々が信仰に従っている限り、彼らに私たちは従うでしょう。彼らは信仰に挑戦する権利がありません。信仰は彼らのものではありません。信仰は教皇様のものではありません。信仰は教会のもの、天主のもの、私たちの主イエズス・キリストのもので、教皇様も司教様もこの信仰を伝えるためにいるのです。彼らが、この信仰を伝える限りにおいて私たちは跪いて従い、すぐさまに従うつもりです。しかし、彼らが信仰を破壊する限りにおいて、もはや従うことが出来ないのです。

私たちは、信仰が破壊されるままそれを許すことが出来ません。私たちの信仰は、心に深く死ぬまで掛けられている、と言わなければなりません。それを宣言しなければなりません。

私たちは、不従順ではなく、従順なのです。イエズス・キリストに従順なのです。これこそが常に教会がその信者に要求してきたことです。

「おまえは裁いている、教皇を裁いている、司教たちを裁いている」ともいわれます。私たちが裁くのではありません。信仰です。聖伝です。昔からの小さな公教要理の本です。もし司教様が5才になる子供に「三位一体の中に3つの位格があるというのは嘘だ」といったとしたら、5歳の子供でさえ司教様に、「公教要理に書いてあることは、司教様のいっていることと違っています、司教様が間違っていて、私の方が正しい」ということが出来ます。この子供は、正しいのです。なぜなら、この子供には教会の全聖伝がついているからです、教会の全信仰がついているからです。そして、私たちのやっていることは、この子供のしていることと同じなのです。

「おまえは、断罪する」といわれます。違います。「聖伝が、あなたの今していることを断罪しているのです。」と私は言いましょう。私たちには教会の2000年の聖伝がついています。10年やそこらの新しい「公会議後の教会」ではありません。「公会議後の教会」とは、ベネリ司教が私たちに言ったことです。ベネリ司教は私たちに「公会議後の教会に従え」と要求しました。私は「公会議後の教会」など知りません。私の知っているのはカトリック教会だけです。

私たちは、この立場をしっかりと保たなければなりません。私たちの信仰のためであれば、何でも甘受しなければなりません。全ての苦しみを。あざけられ、破門され、叩かれ、迫害を受ける覚悟をして下さい。もしかしたら将来、政府が私たちを迫害するかもしれません。この可能性さえもあります。なぜなら、教会を崩壊させるのはフリーメーソンの業だからです。フリーメーソンはありとあらゆるところで命令を下しています。ですから、もし彼らが私たちにフリーメーソンの計画を危うくするほどの力があると見れば、政府が迫害を始めるでしょう。

そうなれば、私たちはカタコンブの中に入りましょう。私たちはどこにでも行きましょう。しかし、私たちは信じ続けます。私たちは、私たちの信仰を捨てるつもりはありません。私たちは迫害を受けるでしょう。私たち以前にも、信仰のために多くの人々が迫害を受けました。私たちが1番最初だというわけではありません。しかし、少なくとも、私たちは、イエズス・キリストの信者であるということの名誉を、誉れをイエズス・キリストに捧げることが出来ます。主を捨てず、主を裏切らず、忠実であったという名誉です。これが私たちのしなければならないことです。確固としていることができるように祈りましょう。

この聖母の祝日に、聖母に祈りましょう。聖母のように、私たちの心にも一つの愛が、私たちの主イエズス・キリストに対する唯一の愛のみがありますように。私たちの心に深く刻まれている名前は、イエズス・キリスト以外ないことを。イエズス・キリストこそが天主であり、救い主であり、永遠の司祭、全てのものの王にして、主は今、天にましまし、この天では主のみ王なのです。天においてイエズス・キリスト以外王はいません。イエズス・キリストこそが、全ての天使、聖母、聖ヨゼフ、全ての選ばれたものの至福であり、私たちもこの至福、この誉れ、この栄光、この私たちの主の愛に参与することを望みます。私たちの知っているのは、イエズス・キリストのみであり、私たちは、私たちの主イエズス・キリスト以外誰をも知ることを望みません。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン

(ルフェーブル大司教の説教のカセットテープ集HOMEC 第8巻から、直接日本語に訳しました。)

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Homélie à Écône, 22 août 76, Cœur Immaculé de Marie

Homélies prononcées par Mgr Marcel Lefebvre, fondateur de la Fraternit...

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