Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖アントニオ「この世には傲慢の悪魔で満ちているけれども、私たちが救われる為には、一つのやり方しかない。それは、私たちが謙遜に祈る事だ。」

2021年08月04日 | お説教・霊的講話

2021年8月1日(主日)聖霊降臨後第10主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。来たる8月15日に、私たちの兄弟が遂に洗礼の御恵みを受ける予定です。そしてそれと一緒に、私たちの3人の小さなお友達も洗礼を受けます。その嬉しい日です。8月15日、主日、マリア様の被昇天の大祝日です。どうぞこの4人の霊魂が良い準備を受ける事ができますように、お祈り下さい。

そのミサが終わった後には、大阪の街を、そして大阪の街を通して全日本を、そして全世界を、マリア様が祝福して下さいますように、聖母行列も行ないたいと思っています。皆さんいらして下さい。マリア様がとてもお喜びになる1日になると思っています。

今日は、イエズス様が福音で二人の、「ファリサイ人、それから税吏が、お祈りに神殿に上がって来た」という話をされました。とても深い例え話です。

私たちは天主様から、愛である天主から全てを受けました。全く無であった者にもかかわらず創造されて、そして天主の子供となるようにされました。天国の遺産を相続するようになりました。

それにも関わらずわらず、私たちは罪を犯して、その愛の計画を全く壊してしまいました。そのような私たちに対してさえも、主は愛の限りを尽くして、私たちに更にチャンスを与えようと、御血を全て流されて、御聖体を制定されて、御自分の全てを与えて、命を与えて、私たちを天国へと招いて下さっています。

そして私たちにはこうも仰るのです。「空の鳥を見よ。蒔きもせずに耕しもしないけれども、養って下さっている。しかし私たちは、その鳥よりももっと大切だ。」
鳥は罪を犯さなかったのですけれども、私たちは罪を犯したのです。しかしその鳥よりももっと大切に考えて下さっている。
「野に咲く百合も、綺麗に着飾らして下さるけれども、私たちの霊魂はもっと大切だ。」

そして私たちは全く功徳がなかったにも関わらず、全くその価値が無かったにも関わらず、ただひたすら主が良い方であって、憐れみの愛深い方であるので、御恵みに次ぐ御恵みを、憐れみに次ぐ憐れみを、あれでもか、これでもか、と受けてきました。

私たちが何か、イエズス様を「主である」と言う事ができるのも、私たちが信仰を持っているのも、私たちが何か善をする事ができるのも、全くイエズス様の御恵みのおかげです。愛によってインスピレーションを受けて、それによって支えられているおかげで、かろうじて何とか言う事ができます。とても自慢できたものではないのですけれども、それでもイエズス様が憐れんで下さっているので、それを受けて下さっています。本当に私たちがやっている事は、子供が、小さな子供が、「うば、うば」とお母さんに言うような感じで、お母さんがそれを見て他愛もないけれども、しかし喜んで下さるような感じです。

ところが、今日のファリザイ人は、神殿にやって来て、まず周りを見回して、「この中で、世界中で、偉いのは俺しかいない」と思いました。「いやぁ、俺はどんなに素晴らしいか。この周りの奴は皆罪人だ。あぁ、このような奴でなくてよかった。何故かというと、自分は自分で義人となっている。自分は自分で聖化しているからだ。何故かというと、自分は断食もしているし、献金もしているし、こんなに掟を守っているやつはいない。どうだ。」
そしてそれが、主の前で言った言葉でした。

もちろんこの問題は、この彼のやった態度は、全く主の目から見ると真理ではありませんでした。自分ではなくて主から、主に御恵みを頂いて初めて罪が赦されて、主の御恵みを頂いて初めて私たちも何か良い事ができるからです。

しかしファリザイ人はそれを全く認めようとしませんでした。「俺は自分でやっている。そして自分だけが偉い。他はダメだ。」ですから、彼は全て嘘に満ちていました。傲慢で傲り高ぶっていました。ですからこのような祈りは、祈りでもありませんでした。

イエズス様はこの例えを出しながら私たちに、「気をつけなさい」と今日警告しています。「私たちもこのような罠に陥らないように。」
何故かというと、非常に自然な、私たちに陥りがちな罠であるからです。

ある時、隠遁士聖アントニオに悪魔が、ある修道士の姿をして現れたそうです。「アントニオ、お前は断食をしている、しかし時々食べるではないか。俺は何も食べない、いつも断食している。アントニオ、お前は夜を通して苦業をしていて、徹夜している、でも少しは眠るではないか。俺は全く眠らない、どうだ。しかし、私ができない事をお前はやっている、それはお前の謙遜だ。お前は跪いて祈っている。俺には膝がない。」

それでアントニオは後でこう言ったそうです。「この世には傲慢の悪魔で満ちているけれども、私たちが救われる為には、一つのやり方しかない。それは、私たちが謙遜に祈る事だ。」

実際に、十字架に付けられた盗賊も、謙遜に祈ったが故に赦されました。今日の税吏も、謙遜に祈ったが故に、義とされて家に帰りました。

イエズス様も十字架に付けられて、そして私たちにその謙遜を、「どれほど謙遜であるべきか」という事を教えておられます。私たちの中にもしも傲慢の芽が生えてきたら、イエズス様の十字架を見る事に致しましょう。イエズス様が、私たちの王の王、天主が、ここまで御謙遜になられたのならば、私たちが一体主の御助けによってできない事があるでしょうか。

昨日聖イグナチオの祝日だったので、こんな話があった、というエピソードを引用して、この話を終わります。

ある時、聖イグナチオが聖地からスペインに帰る時に、ロンバルディアという所を通らなければなりませんでした。ロンバルディアは当時ちょうど戦争があって、非常に荒廃していて、非常に危険だったそうです。そして聖イグナチオがそこを通って行った時に、スペイン軍の人たちがイグナチオをスパイだと思って捉えて丸裸にしました。指揮官の前に連れていかれ、残酷に取り扱われようとしていました。

聖イグナチオにはそれを避ける手段がありました。自分が誰かを示し、どんなに偉いかを示すこともできましたし、最悪でも、礼儀を尽くして対応すれば指揮官はイグナチオの説明を聞いて理解を示しただろうからです。それなら少なくとも拷問や屈辱は避ける事ができたでしょう。

しかし、その時に聖イグナチオが思っていたのは、これは傲慢で自己愛ではないか、ということでした。それよりも聖人は「イエズス様の十字架」の事を考えました。「主は、これほどまでも高貴な方であったにもかかわらず、それを何も見せようとせずに、そして悪人たちからどんな乱暴を受けることも潔しとした、辱められた、唾をかけられた、殴られた。もしも主がこうなさったのなら、これはいいチャンスではないか。私も主に倣いたい。」と思ったのです。

そこで聖イグナチオは自分が馬鹿にされたり辱められたりする機会を逃さないように努めました。教養があるような態度を一切取らずに、粗野な態度を取りました。指揮官の前でお辞儀もせずに、脱帽もしませんでした。すると軍人らは、聖イグナチオを見て、頭がおかしいんじゃないか、どっかに行ってしまえと、何もなさずに、そのまま通過させたとの事です。

これも主の御計らいだったと思います。主は、下げられる者を高められる、というのは、奇跡を起こしてまでもそれをされる、という事なのでしょう。

では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちもいつも主からの憐れみを認めて、そのまま単純に、主に全てを帰す事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2021年8月4日は、8月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年08月04日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年8月4日は、8月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


聖ドミニコ帰天800周年 1221年8月6日−2021年8月6日

2021年08月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は聖ドミニコの帰天800周年です。今日は、聖ドミニコの祝日ですから、聖ドミニコについて過去の記事をいかにご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父





天主様の御恵みによって、東京の暁の星の修道院が設立してオープンして6ヶ月が経ちました。皆様の寛大なご支援や、多くのお祈りや、サポートを、心から感謝致します

2021年08月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

2021年7月25日(主日)聖霊降臨後第9主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 お知らせ(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はいくつかお知らせがあります。

1つは、天主様の御恵みによって、東京の暁の星の修道院が設立してオープンして6ヶ月が経ちました。皆様の寛大なご支援や、多くのお祈りや、サポートを、心から感謝致します。そして先日のマーチ・フォー・ライフには多くの方が参加して下さって心から感謝します。マリア様と一緒に、東京のど真ん中をロザリオを唱えながら歩けた事は本当に嬉しく思います。大阪のど真ん中の御堂筋という所を、その翌日もマーチ・フォー・ライフを行ないました。感謝します。

第2の点は、来週の8月1日の主日から、3回目のミサの後に、日本語を話す子供たちの為にまず公教要理の授業が始まります。お父さんとお母さんの中で、子供をよく勉強させたい、という方はどうぞ登録なさって下さい。そのような方を知っている方は、子供たちの勉強に来るようにどうぞ誘ってあげて下さい。今は日本語だけですけれども、将来は英語の子供たちの為にもクラスを準備しています。しばらくお待ち下さい。

私たちのカトリックの聖伝のコミュニティは今どんどん、多くの方々の情報でますます大きくなっています。ますます多くの司祭たちや修道者たちも生まれて、多くの聖なる家族が生まれますように、お祈り致しましょう。

最後には、聖ピオ十世会総長のパリャラーニ神父様が、信徒の皆さんに手紙を書きました。これは最近のモートゥー・プロプリオ、自発教書トラディチオニス・クストデスについての考察です。とても良い美しいお手紙ですのでお読み下さい。

核心は次のような事です。
「この教皇様のお手紙自発教書によって、はっきりした、区別がついた。もう曖昧な事が無くなった。それは、私たちが昔から言ってきた事が確認された、という事だ。つまり、昔からの聖伝のミサカトリックのミサと新しいミサは、一緒に平和共存する事はできない。生きるか殺されるかのどちらしかない。聖伝のミサがカトリックのミサが生き残るか、あるいは新しいミサが生き残るか、どちらかだ。二人が同時にある事はあり得ない」という事です。

「なぜかと言うと、それは信仰が違うから。この皆さんが今与っているこの私たちのミサは、カトリックの信仰を完全に表明している。聖人・聖女・殉教者を生み出した。そしてイエズス・キリストが王であるという事を宣言している。十字架の木によってイエズス・キリストは、罪と、悪魔と、この世に打ち勝った。この十字架のミサのいけにえを以って、この世を王たるキリストは支配したいと思う。これが私たちのミサだ。」

ところが、新しいミサはそうではありません。「エキュメニカルだから、キリストじゃなくても良い、他のパチャママでも、ルーターでもいい、虹のミサでもいい。でも、キリストが王である事は、それは困る。」
ですから、この二つのミサは、一緒にいる事ができないのです。

総長は言っています。
「聖ピオ十世会は、天主の恵みによって、御助けによって、どんな事があっても、命がけでも、全財産を売り払っても、どんな値を払っても、このミサを守る。なぜかというと、イエズス・キリストは必ず勝利するから。そしてこのミサを守る事によって、全世界に希望を与えたい。勝利の希望を与えたい。だから私たちはこのミサを、自分たちのものだけとして閉じこもっているのではなくて、できるだけ多くの人に分かち合いたい。何故ならば、自分だけに独り占めするような人には、このミサを捧げるには相応しくないから。」

「そして、つい最近聖伝のミサを発見した、聖伝ミサの事を知ったような方々には、同時に、そのような方々は選ばなければならない。カトリックの信仰か、あるいはそうではないか。」

では、どうぞこの総長の手紙をゆっくりお読み下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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