Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖イグナチオが聖フランシスコ・ザベリオに言った言葉:「お前は自分の力だけで、天国の最も高価なものよりも、そして永遠よりも長く続く何かをこの世で得られるとでも思っているのか?」

2021年08月03日 | お説教・霊的講話

2021年7月31日(土)証聖者聖イグナチオ・ロヨラのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はロヨラの聖イグナチオの祝日です。その名前の通り、この全世界にイエズス・キリストへの愛の火を燃やそうとしました。

聖イグナチオは、「天主の御名の栄光の為に、より大いなる栄光の為に、人間にとっても、天使たちにとっても、天主を讃美する、天主に栄光を帰するほど、高貴な価値のある事はない」と確信していました。

天主に栄光を帰すのは、ただ口だけで讃美するのではなく、天使たちも人間たちも一緒に、人間の霊魂を天国に導く、これこそが最も価値のある業です。

そこで今日は是非、聖イグナチオが聖フランシスコ・ザベリオに言った言葉を、その言葉によってフランシスコ・ザベリオを回心させたその言葉を、皆さんに紹介するのを許して下さい。

聖フランシスコ・ザベリオに対して、聖イグナチオはこう言いました。
「もしも、この世を全世界を得たとしても、しかし自分の霊魂を失ったら、人間にとって一体どんな利益があるだろうか?」

「もしもこの世しかないとしたら、そしてあの世の栄光が無いとしたらば、そのように考える、この世の事しか考えないあなたは、そしてこの世で偉くなりたいと思っているあなたは正しいかもしれない。しかし、全く確実に言える事は、『永遠が存在している』という事である。
だから、この世の事だけの望みに自分の考えを限定させる事しか考えないあなたは、何を考えているのか?なぜ夢のように過ぎ去ってしまう、あの世の永遠から比べれば夢のように過ぎ去ってしまうこの世の事しか考えないのか?」

「お前は自分の力だけで、天国の最も高価なものよりも、そして永遠よりも長く続く何かをこの世で得られるとでも思っているのか?この地上の喜びというのは、お前の為にあるのだろうか?
しかし、もしもあなたが永遠の事を望んでいるなら、一体誰がお前がそれを得るのを邪魔するだろうか?もしもお前が永遠を所有したならば、一体お前から誰がそれを取り去る事ができるだろうか?」

「私たちの霊魂の起源は天にあって、そして私たちの霊魂は天主を愛して、その天主を永遠に所有する事ができる偉大なものであるのに、なんでこのつまらない地上の喜びを捉えようとそんなにも労苦しているのか?
もしもこの世がお前に、この地上で最も魅力的な全てをほんの瞬間与える事ができたとしても、それをお前はこの世を超えて楽しむ事ができるだろうか?そしてもしもあなたが何百年も何百年も生きたとしても、いつかはこの世に別れを告げなければならない時が来るだろう。そうしたら、この世の束の間の一時的なちょっとした楽しみを、永遠の喜びと引き換えにしたお前は一体、勝利者だろうか?それとも負け犬だろうか?」

「お前の生きていた前に、この世ではどれほど偉大な金持ちや権力者たちが生きていたことだろうか。そしてその内のたった一人でも、この世の富や、権力や、また偉大さをあの世に持って行った者がいるだろうか?そして永遠に入るその戸口の敷居の前で、彼らは既に振り返ってみると、自分の持っていた持ち物の多くは他の者に取られてしまって、そしてそれでも彼らはたった一人で、永遠の中に入って行かなければならない。自分の持っていた富の代わりに何が受けられるだろうか?新しい富だろうか?それとも彼らのやった悪の罰だろうか?」

「この地上の虚しい名誉は、お前を満足させる事はできない。何故ならばお前の心は、この世で十分だ、とするほど、そんなちっぽけなものではないからだ。お前の霊魂は、天主でなければ満たす事ができない。
私はあなたの、『栄光』を求めるその熱意を消そうとは思わないし、あなたにつまらない感情を起こさせたいとも思わない。もっと高いものを求めなさい。もっと野心的であってほしい。この世の儚い、いつか無くなってしまうものよりも、もっと高いものを求めてほしい。」

「そして今、決心するべきだ。この世の全ての楽しみに、『私とお前に、一体何の関係があるだろうか?』と言うべきではないだろうか?『この世の喜びが一体、私の為に何の利益があるだろうか?』
そして、地獄での犠牲者たちが永遠に繰り返さなければならない言葉を、私たちが繰り返す事がないようにするべきだ。彼らはこう言う、『この世の虚栄や富が、私の為に一体どんな利益があっただろうか!』と。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


たとえ私たちが全世界を儲けてもたかが数年の命のことだ、永遠の命を失ったら、一体何の足しになるのか。

2021年08月03日 | お説教・霊的講話

2021年7月30日(金)殉教者聖アブドンとセンネンの記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、殉教者聖アブドンとセンネンの祝日です。この二人はペルシャ人で、250年の7月30日に、ローマ皇帝デチウスの元で殉教しました。

何故かというと、この二人は、キリスト教信者の遺体を埋葬していたからです。この憐れみの業をした事によって捕らえられて、そして拷問を受けました。飢えた猛獣の所に投げ捨てられ、本当ならば食い尽くされてしまうところが、何も傷を受けませんでした。そこで遂に、首を切られて殉教しました。

この二人の遺体は、聖プラチアヌスのカタコンベにあります。今でもそのお墓にはペルシャ人の姿をした二人の男がいて、そして栄光を受けた絵があります。

この二人は私たちに一体何を教えているのでしょうか?

これは、今日の書簡と福音の教えです。「この世の判断の基準と、天主の見方は、全く正反対だ」という事です。

「この世では、私たちイエズス・キリストを信じる者は、悲しんでいるかのように思われるかもしれない、貧しいと思われているかもしれない、死んでいるかのように思われているかもしれない。しかしそうではなくて、私たちはいつも喜んでいて、いつも生き生きとしていて、いつも恵みに富んでいて、そしてこの世では軽蔑を受けているかもしれないけれども、実は本当の栄光を受けている。この世では最も塵芥のように考えられているかもしれないけれども、しかし天の国の栄冠を受けている」と教えています。

「たとえ私たちが全世界を儲けても、この世を支配するほんの数人の皇帝の一人になったとしても、全人類を奴隷のように所有して支配していたとしても、たかが数年の命のこと。それに引き換えに、永遠の命を失ったら、一体何の足しになるのか。
たとえ私たちが国葬を受けて、皇室の弔問を受けて、何億円というお金を使った壮大な葬儀があって、自衛隊が葬儀で来たとしても、永遠の命を失ったら、天の国を失ったら、天主を失ったら、一体何の役に立つのか。」

聖アブドンとセンネンのこの二人は、特に貧しい、特に亡くなった信者の遺体を埋葬する、という憐れみの業に力を尽くしました。これがあったとしても、この世で何の褒美があったでしょうか。殺されただけでした。しかしこの二人は、永遠の栄光の報いを受けました。

私たちが求めているのはまさにそこです。ですから私たちは、イエズス様を愛するが故に、この世からは誤解されるかもしれません、馬鹿にされるかもしれません、無理解と軽蔑を受けるかもしれません。
しかし何も心配しないで下さい。私たちは、本当の喜びと幸せが待っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】