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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ペトロ・ダミアノ「キリストの十字架を愛さないものは、キリストを愛さない。」

2022年03月08日 | お説教・霊的講話

2022年2月23日(水)司教証聖者教会博士聖ペトロ・ダミアノのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、多くの方がミサに与って下さってとても嬉しく思います。今日は新しい小さなお友達もいらして本当に嬉しいです。

何でこんなにミサが大切なのでしょうか?ちょうど今日のミサの聖人、聖ペトロ・ダミアノの話と全くそっくりです。

聖ペトロ・ダミアノという方は、西暦の1007年に生まれた方です。遂には司祭、修道院長、司教様、そして枢機卿という、教会で最も高い地位についた方です。

でも、生まれた時にはお母さんが、子供があまりにも多いので、お母さんが、まだ赤ちゃんだった時に捨ててしまったのです。「あぁ、こんなに子供が多いと、貧しくてもう育てられない。」
お母さんも辛かったと思います。でも捨ててしまったのです。「とても育てきれない。」

しかし、その家で働いていた女中さんが、半分死にかかっていたその子を拾って、「でも奥様、でもこの子がかわいそうじゃありませんか。」と言って、お母さんの元に戻したのです。

お父さんは亡くなり、孤児となり、兄弟たちのうち一人の兄がペトロを育てるのですが、ペトロを奴隷か召使のように厳しく取り扱いました。貧しくて、生活は大変でした。ある日、たまたまコインを、お金を道で拾ったのです。ペトロくんは「あ、お金!」と、そのお金で、自分の何か好きな物を買う事もできたかもしれません。でもこの子は「いや、これのお金で、神父様にミサを立ててもらう。特に亡くなったお父さんの為にミサを捧げてもらおう」と言って、神父様にお願いしました。そして神父様はその子供のペトロ君のお金をもらって、それでお父さんの為にミサを捧げて、おそらくこの家族の為にミサを捧げたと思います。

すると、全てが変わりました。このそれを見た別のお兄さんが、このペトロの教育の面倒を見ようと決心してペトロを養子にしました。「こんなに良い子だったら、僕が面倒を見よう」と。そのお兄さんはダミアノという名前でした。ですからこのペトロ君は、苗字としてお兄さんの名前を付けて、ペトロ・ダミアノとなりました。またお姉さんのロザリンダ母親のようにしてくれました。

そして非常に頭の良い子で、優秀でした。祈り、苦行し、愛徳を実践せていました。25才になると、教える仕事につくようになりました。特にラテン語が得意で、「当時最高のラテン語学者」「中世のもっとも偉大なラテン語著述家の一人」とされています。美しさを敏感に感じ取ることができた人でした。1034年ごろには、天主の絶対性をもっと黙想し、もっとお祈りしたい、儚いこの世をから離脱したいとますます思うようになりました。1035年には司祭に叙階され、厳しい生活を送るために「聖十字架修道会」のフォンテ・アヴェラナ修道院に入るのです。修道者たちのために創立者の聖ロムアルド・デ・ラヴェンナの伝記も書きました。

「聖十字架修道会」の修道者として、十字架の神秘は聖ペトロ・ダミアノにとってもっとも大切な黙想の主題でした。「キリストの十字架を愛さないものは、キリストを愛さない。」ミサ聖祭は、十字架の犠牲の再現ですから、聖ペトロ・ダミアノにならえば「キリストの十字架の再現である聖伝のミサを愛さないものは、キリストを愛していない」と言うことができるかもしれません。

また、自分のことを「キリストの十字架のしもべたちのしもべであるペトロ」Petrus crucis Christi servorum famulus と呼び、手紙の末尾にそう書いていました。聖ペトロ・ダミアノは、十字架の人、祈りの人、黙想の人、観想の人でした。

しばらく経つと、フォンテ・アヴェラナ修道院の修道院長が亡くなります。1043年、このペトロ・ダミアノが修道院長になりました。そしてついに後には司教様に、枢機卿様になります。でも、聖ペトロ・ダミアノにとって、地上の財産とか、地上の名誉というのは全く関心がありませんでした。「霊魂を救いたい。霊魂を天国に導きたい。十字架の神秘を黙想したい」というその事だけでいっぱいでした。1072年に帰天するまで、聖ペトロ・ダミアノは、つねに「キリストの十字架のしもべたちのしもべであるペトロ」として教会の為にものすごい活躍をしました。どのような活躍をしたかはたくさん話がありますが、しかし、今日はそれは省略して、最後に、私がつい最近YouTubeで見た神父様の話をさせて下さい。聖ペトロ・ダミアノと核心のところで関係があると思うからです。

この神父様はイギリスで、やっぱり皆さんが与っているミサと同じ聖伝のミサを捧げている、ジェームス・モスリー神父(Fr. James Mawdsley)という方です。聖ピオ十世会の司祭ではありません。この神父様が何で司祭になったかという、昔の話をしたインタビューを、私がちょうどたまたま見る機会がありました。

それによると、ジェームズ・モーズリー神父はまだ大学生だった頃、歴史の本をたくさん読んで、そしてビルマで政府が人々を、国民を非常に残酷に不正義に取り扱っているので、非常にかわいそうになって、ビルマの人を助けたいと思ったそうです。でもその頃は、カトリックだったけれども、熱心に教会でお祈りをするというよりはむしろ、そういう活動をして人々を助けたい、と思っている方でした。

それで大学を卒業するかしないかすると、ビルマに行って、ビルマの人と連帯して、政府に抗議して、「この人々を助けて欲しい」という活動を始めました。するとビルマの政府は面白く思わなくて、この神父様を投獄しました。牢屋の中に入れました。そういう機会が3回ありました。最初は15日、2回目は15週間、次は15ヶ月、牢屋の中にいたそうです。

しかし、この牢獄は、のちに天国に変わったそうです。その理由は聖書と、悔悛と、愛徳でした。

牢屋の中にいると、最初は「なんだ!」と怒ったり、悲しかったりしたのですけれども、牢屋の中にいた間に、聖書が送られてきたそうです。聖書を読んで、ずっと読んでいたのだそうです。

すると「あぁ、自分はどれほどそのような愛に逆らってきたのか」と罪を痛悔しだしたのです。「自分の今までの人生は、本当にイエズス様の聖心に適うものだっただろうか?」と思ったことでしょう。痛悔して、回心があったのだそうです。

その次に、今まで監獄の見張りをしていた人が、非常に乱暴に残酷に扱っていたので、いつも怒っていたのでしょう。「何だこいつ!下らないやつだ!」などと。しかし、それが却って憐れみに変わったそうです。「いや、そうではなくて、この彼を愛そう」と「私をこう悪く取り扱うこの彼を憐れもう、愛そう」と思ったのでしょう。愛徳を行ったそうです。

その聖書を読んで、罪を痛悔して、そして隣人を、難しかったのですけれども、愛したのです。そうすると「牢獄が天国に変わった」と言います。そしてその何ヶ月もいた牢屋は本当に幸せな場所になり、出ると「あぁ、もう一度あの幸せを戻したい。あれほどの幸せな時はなかった」と思ったそうです。

それでイギリスに戻って、そして「何かそれに代わるものはないか?」とずっと探していたそうです。それに唯一代わる事が、地上を天国にする事ができる唯一のものを見つけた。それが、今皆さんが与っているこの「ラテン語のこのミサ」だったのです

このミサは、地上の最高の宝であって、これ以上の善はない。これ以上の宝はない。なぜかというと、私たちの主イエズス・キリスト様が、私たちの為に十字架に付けられて、聖血を流されて、そして私たちを愛して下さって、その御恵みを全て下さるから。これ以上に勝るものはない。最高の宝だ、と。それで遂には「司祭になろう」と思って、司祭になった、というインタビューを見ました。

皆さんもきっと「あぁ、私も思い当たるところがある」と仰るかもしれません。

ですからこの皆さんが与っているミサは、どれほど多くの霊魂たちに多くの恵みを与えてきて、多くのこの地上での苦しみを喜びの元に変えてきた、という事をご存知になって下さい。

今日は、聖ペトロ・ダミアノに、ぜひ私たちにこのミサの御恵み、十字架の神秘をよく理解する事ができるように、お祈りしましょう。

マリア様にもお祈り致しましょう。

それから今日は天皇誕生日ですから、天皇陛下の為にもお祈り致しましょう。皇室の為にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちを聖とする事ができる唯一の方、イエズス・キリストのますます近くに行って、聖であるとは何か、天主とは何か、という事をますます深く理解する

2022年03月08日 | お説教・霊的講話

2022年2月20日(主日)六旬節の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆様、今日は六旬節の主日のミサを捧げております。

御説教の前に一言、感謝の言葉を申し上げたいと思っています。4ヶ月ほど不在でおりましたが、皆様にご不便やご不都合をおかけしてしまいました。皆様のご理解と寛大な忍耐を感謝します。
またその間、皆様がたくさんのお祈りをして下さった事を心から感謝致します。

私がミッションで韓国に行ってる間、皆様のおかげで、全てが主の御手の中に、全てが準備されていたかのように、全てが整えられているかのように、主が働いて下さっているかのように、奇跡が起こして下さっているかのように、全てが順調に行きました。多くの方々がミサに来られて、洗礼を受けた子供たち、初聖体の子供たち、多くの秘跡を受けた方々、毎日ミサに与った方々、若い青年たち、聖伝のミサに初めて与った方々、宣伝をしたわけではなかったのですけれども、新しい方がたくさん来られました。御恵みと奇跡の連続でした。皆様のお祈りのおかげだと知っております。

韓国の信徒の皆様が、日本の兄弟姉妹の皆様の犠牲に深く感謝しています。その感謝の念は、私たちの想像を超えますけれども、拙いながらそれを皆様に伝えたいと、韓国の信者さんの感謝の念を伝えたいと思っております。

今日、六旬節の主日は、私たちは四旬節の為に準備をますます深めています。では、どうしたら四旬節を良く過ごす事ができるでしょうか?
「あぁ神父様、四旬節というのはね、簡単ですよ。四旬節の最初に、灰の水曜日にはおでこにちょっと灰を付けて、ダイエットして、そして聖金曜日にまたちょっとだけダイエットすれば、それで終わりです。」

いえ、そうではなくて、四旬節の本当の目的というのは私たちがますますイエズス様に一致することです。つまり言い換えると聖となることです。言い換えると、私たちを聖とする事ができる唯一の方、イエズス・キリストのますます近くに行って、聖であるとは何か、天主とは何か、という事をますます深く理解することです。

全宇宙を無から創造された天主、何億何兆という数え切れないほどの無数の天使たちが今でも絶えず、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と礼拝しているその全能の永遠の天主、そして私たちを無から未だ在らしめて生かして下さっている、私たちに全てを与えて下さっているその主の愛の中で、それを認めて、主がどれほど聖なる御方かをよく知る事です。世俗を離れて、主に向かう事です。

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それにもかかわらず、そのような愛を受けたにもかかわらず、その聖なる主に対して罪を犯した私たちのその罪の醜さと、おどろおどろしさと、いやらしさを理解する事です。

どれほど罪が主に反対している事か、それにもかかわらず、その極限の悪にも関わらず、天主の聖子が人となって、私たちの代わりに苦しみを受けられた、その苦しみと、その愛、その罪、それを理解する事です。その私たちに罪の赦しを与えて下さる天主、人となった天主の苦しみに合わせて、私たちも祈りと、償いと、犠牲と、あるいは施しなどを捧げる事によって、ますます主に一致する事です。全能の天主のその聖なる中に入っていく事です。ますます私たちを聖として下さるイエズス・キリストに一致させる事です。そしてこの一致を決して離さない、絶やさない事です。

それこそが良い四旬節なのです。私たちが罪を痛悔して、悔い改めて主に立ち戻る、聖なるものに触れる事ができるようにする時期です。

その為には一体どうしたら良いでしょうか?

祈りです。主に向けて心を上げる事です。その最高のやり方が、ミサ聖祭です。聖伝の昔からのミサ聖祭です。なぜかというと、ミサ聖祭においては、聖なるものを聖なるものとして大切に扱うからです。最高の尊敬を以って扱うからです。そしてそれを表明するからです。

祈り、ミサ聖祭、御聖体拝領、ロザリオを唱えて、聖なる主がどれほど聖なる方か、という事を黙想して、そしてその中に生活すべきです。これによって私たちは、私たちの霊魂を耕さなければなりません。

なぜかというと、世俗の精神が、私たちの心を雑草や茨や土やコンクリートで固めてしまった土地のようにさせてしまい、「主が一体どなたであるか」という事を忘れさせるからです。

皆様もご存知の通り、教会では今、革命が起こっているかのようです。去年の10月から来年の10月まで、2年間に渡って「シノダリティーについてのシノドス」というのが今、開催されています。

3段階あって、第1段階は今年の4月頃までは、各司教区ごとにその会議がされています。聖書を聞くのでもなければ、司教様の話を聞くのでもなく、教父の話を聞くのでもないのです。ただ信徒の声を聞く、特に教会に来ていない人たちの声を聞くというのです。

第2の段階ではそれらの人の声を集めて、それを大陸ごとに会議を開いてまとめます。
第3の段階では、ついにはローマに持って行って、来年の10月に、教会を変える、という会議、シノドスが、今、進行中です。

これは、教会に革命を起こそうとしているかのようです。名前だけがない実質上「第三バチカン公会議」が今起こりつつあります。日本でも今それがなされています。

全世界に向けて、一体このシノダリティーの為のシノドが一体どのようなものであるべきか、というものを、ドイツが模範を見せています。

つい数日前に、第3総会で初めての総決投票が行われました。それで、全世界の司教や信徒たちに、「このシノドスは、このように行なうべきだ」という模範を示しています。先駆者です。プロトタイプです。

260名ほどの平信徒や聖職者たちから集まっている会議で、多数決で、絶対多数決で、2/3以上で可決されたのが、「女性司祭」「司祭独身制廃止、司祭の結婚を求める」「司教でなくても、平信徒が教会のリーダーに立つ事ができる」「平信徒がミサの司式をする事」「罪の状態にある人でも聖体を拝領してもいい」などということでした。異端と、革命と、離教に満ちたものが、多数決で可決したのです。

ドイツのシノドスの道は、これこそを、2023年にローマで教皇様に主張するんだ、教会を変えていくのだ、と主張しています。革命を起こす決意が見えます。来年の「10月革命」です。異端と離教が今、目の前で公然と投票されています。一体何故?何故?

何故かというと、ここに参加した260名の信徒と聖職者たちは、「聖なるものが何か」という事を全く理解できなかったからです。天主がどれほど聖なるものであるか、モーゼが燃える茨の中で、「私は在りて在るものである」というその名前を告げた、その偉大な神秘、あるいはシナイの山で、燃え盛る大炎の天変地異の中で与えられた、この十戒、「我の他に誰も天主として礼拝するなかれ。我こそが唯一の天主だ。」その荘厳さ、その聖なる方であるという事を、全く理解できていなかったからです。

御聖体が一体どれほど聖なるものであるか、ただのパンの欠片のように考えているからです。

司祭が独身であるというのは、キリストの御聖体を触る事ができる為です。マリア様が童貞であったのも、まさにイエズス・キリストを孕す事ができる為でした。マリア様のように汚れのない、罪のない、無原罪でなければならなかったのです。しかし、その御聖体が何であるか全く分かっていない人は、それを全く分からない状態で、何でもないように取り扱うとするのです。

司祭は結婚しても良いとか、御聖体を誰に配ってもよいとか、女性が司祭をやってもよいとか、一体何故こんなことが主張されるのでしょうか??

聖なるものを聖なるものとして扱うミサが不在だったからです。教皇ベネディクト十六世は言っています。「今現代の信仰の危機は、典礼の危機にある。典礼があたかも、天主が存在していないかのようになされているから、聖なるものが聖なるものとされていないから。ここに今、危機がある。」

私たちはこのまま、「ああ、まあノブス・オルドだから。」「知らないよ」「俺、関係ない」と言っても良いのでしょうか?私たちはできません、何とかして、私たちの母である教会が今侮辱され、冒されているのを、何とかして守らなければなりません。ベロニカが必要です。キレネのシモンが必要です。勇気を持って立ち上がる必要があります。

私たちの母なる教会が今これほど攻撃と、侮辱と、革命を前にして、私たちは一体何が出来るでしょうか?どうしたらこの革命をストップする事ができるでしょうか?

それはまず、私たちが「聖なるもの」というものを深く理解して、それを礼拝する事から始まります。「ミサ聖祭を、聖なるものとして守る」事から始まります。

私たちには最大の武器があります。「御聖体」と「マリア様」です。この四旬節を、まず私たちが聖なるものに触れる事に、そして私たちがますます聖に近付く事によって、良い最高の四旬節となるようになさって下さい。

この2022年の四旬節は、カトリック教会にとって極めて重大な時です。教会の未来を決める時です。ですからこの四旬節を是非、ミサに与り続けて、聖伝のミサに与り続けて、多くの方をこのミサに招いて下さい。与りたくても与れない方々がいらっしゃる、という事もどうぞご承知下さい。そしてそのような方々に代わって、そして世界中の人々に代わって、私たちがその祈りと、イエズス様に対する愛を倍増させる事を、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様はルルドでこう仰いました。「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「償いをしなさい。」「私は、無原罪の御孕りである。それが私の名前だ。」罪の無い御方。聖なるものがどのようなものか、天主が誰であるかよく分かっていた方が、マリア様です。マリア様に、私たちにその同じ信仰を与えて下さるように、私たちが良い四旬節を過ごす事ができますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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