Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

教皇フランシスコは、全ての司教たちを招いて、ご自分と一緒にロシアを聖母の汚れなき御心に奉献するように願っています。

2022年03月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!
 
在アメリカの教皇大使によると、教皇フランシスコは、全ての司教たちを招いて、ご自分と一緒にロシアを聖母の汚れなき御心に奉献するように願っています。


日本中の司教さまたちが、これに応えて、ロシアの奉献をなさってくださいますように!
 
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 
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ロシアとウクライナの聖母への奉献に一致を、教皇、全世界の司教に - バチカン・ニュース

教皇フランシスコは、ロシアとウクライナのマリアの穢れなき御心への奉献に一致するよう、すべての司教らを招かれた。

 

 

 


聖フランシスコ・ザベリオと聖イグナチオ列聖400周年「フランシスコ、お前は全世界を儲けたとしても、魂を霊魂を失ったら、一体それがお前の何の利益になるのか。」

2022年03月18日 | お説教・霊的講話

2022年3月11日(金)四旬節の四季の斎日 金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

【東京では、次回の03月20日(日)だけ特別に、神田須田町ホール3階で主日ミサが捧げられます。ご注意ください。地図 】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、明日は、聖フランシスコ・ザベリオが列聖されて400周年の記念の日です。

1622年3月12日に、聖イグナチオと共に聖フランシスコ・ザベリオは列聖されました。グレゴリオ十五世によってなされました。

そこで、日本に2年半の福音宣教の仕事をした最初の偉大な宣教師、日本の恩人である聖フランシスコ・ザベリオの列聖を記念して、聖フランシスコ・ザベリオのその業を、少し一緒に黙想することを提案します。

聖フランシスコは、1507年4月3日、聖週間の聖火曜日にハビエル城で生まれました。お父さんフアン(ヨハネ)はハビエル城の城主であって、お母さんマリアはアスピリクエタ家(Azpilcueta)で、やはり貴族で、王家の出身でした。お母さんの家系をたどると4代前は王家に、スペイン王(カスティリャ王)に直接関係ありました。子供の頃から、上流の階級の5番目の子供の末っ子として生まれましたが、その当時政治的にスペインという国はなくて、聖フランシスコ・ザベリオがいたのは、ナバラ王の下に忠誠を誓っていたナバラ王国の封建君主、お殿様でした。

ナバラ王国の隣には、カスティリア王国がありました。お母さんの家系はカスティリアの家系、そしてお父さんはナバラ王に忠誠を誓うものでした。

ところが、非常に複雑な政治的な問題が生じて、フランス王家と教皇領土の間でちょっとした政治的な戦いがありました。フランスがイタリア半島に領土を拡張しようとしてきたからです。

すると、フランスと教皇領とどちらに付くかで、カスティリア王とナバラ王とでは意見が違いました。カスティリア王フェルナンドはローマ教皇ユリウス二世の側につきました。しかし、ナバラ王フアンはフランスの大貴族でもあったので、フランスを敵とすることはできなかったのです。そこで、ナバラ王を支持するか、あるいはカスティリア王を支持するか、ということで、非常に難しい態度を迫られました。ナバラ王国の家臣のなかでも、ナバラ王を去ってカスティリャ王に身をひるがえす家族も続出ていました。しかし、ハビエル城主でお父さんのドン・フアンは、最後まで中立を保とうとしました。ついにナバラ王国はカスティリャ王に負け、ハビエルの土地は売られ、ドン・フアン・ハビエルはショックで亡くなります。アスピリクエタ城はつぶされ、ハビエル城も攻撃を受けたり、城のお堀を埋めさせられたりしました。その後、ハビエル家は非常に難しい時を過ごさなければなりませんでした。

1521年には、ナバラの民衆はフランス人と組んで、カスティリャに反乱して独立しようと試みたのです。フランス軍の一団が小さな町パンプローナに襲いかかりました。この町は負けます。そこには隊長であるロヨラのイグナチオが一人立っており、火薬で黒焦げになっていましたが、逃げ出しませんでした。この軍隊の中には、聖フランシスコ・ザベリオの兄であったフアンとミゲル・ザビエルもいました。若かったフランシスコは、戦いに参加せずに取り残されていました。もう少し年齢があれば、イグナチオを大砲で撃ったのはフランシスコだったかもしれません。パンプローナは占領され、イグナチオも一緒に占領されました。これをきっかけに聖イグナチオは回心します。

さて、私たちの聖フランシスコ・ザベリオは幼い頃にこのようなものを見てきました。王家であって、そしてこんなにもカトリックに熱心なものであったものにもかかわらず、「どの王様に付くか」ということによって、お城が潰されたり、戦争があったり、その大砲の音が聞こえたりしていた、ということです。

彼は大きくなる時に、「もうこのような政治に関わりたくはない」と思いつつも、しかしそれでも、自分のお姉さんは修道院に入って修道院長にもなっているし、それで教会の聖職者となって、自分の親戚がたくさん聖職者にいるので、聖職者になれば(その当時は王国から聖職者に給料が出ていたので)、そうすれば難しい自分のこのハビエル家も、そのお金で経済的に助けてあげることができるかもしれない、と思いました。そこで教会の高い地位を目指そうと思い、パリに行って神学の勉強をしたのでした。

聖フランシスコ・ザベリオにとっては、よりこの世界を舞台として、このより高い地位を求めて活躍する、というのがその血筋でした。皆さんもご存知の通り、フランシスコはパリに行き、その大学で神学・哲学を勉強している時に、その部屋のルームメイトとして、聖イグナチオに会います。フランスに対して戦いをしていた軍人で、ナバラ王国の敵だった人でした。パリで神学を勉強していたのですけれども、フランシスコに聞きます。「フランシスコ、お前は全世界を儲けたとしても、魂を霊魂を失ったら、一体それがお前の何の利益になるのか。」聖イグナチオはイエズス様の福音の言葉をフランシスコに引用します。

フランシスコはその言葉を頭から離すことができませんでした。確かに、イエズス様を信じて、イエズス様の為に生きてきた良いキリスト教信者だったかもしれませんが、しかしイエズス様が全てではなかったのです。「イエズス様を王として忠誠を誓う」というわけではなかったかのようです。「たとえ全世界を儲けたとしても、霊魂を失ったとしたら一体、何の役に立つだろうか。」

フランシスコは28歳の時に、聖イグナチオと共に、7人の同志はパリで誓願を立てます。「キリストに全てを捧げよう」と。そして聖イグナチオの指導の下に、霊操を行ないます。「王たるキリストに従おう」と決心をします。

聖フランシスコ・ザベリオは、「これからは、この世の王ではなくて、決してその王国が滅びることのないキリスト、王たるキリストの下に仕える。王たるキリストの領土の拡張の為に、その霊魂の獲得の為に、全世界の霊魂の救いの為に働きたい」と思いました。

そして1552年12月3日に、中国の前の上川島という、ほんの中国大陸から14km程の小さな島、ポルトガル人が貿易の拠点としていたその島で、裏切られて、貧しく、キリストのように亡くなって、中国大陸に行くことを望みつつも、病に倒れて、そして霊魂をイエズス様に返すまで、イエズス・キリストを王として忠実に真似たい、イエズス・キリストのように苦しみ、そして清貧に生活することをだけを望んで、霊魂の救いの為に、天主のより大いなる栄光の為にのみを考えて、一生を捧げた聖人でした。

聖フランシスコ・ザベリオと聖イグナチオ、かつては政治的には敵だったこの二人は、栄光あるイエズス会の司祭として400年前に同時に列聖されました。

聖フランシスコ・ザベリオは、日本に2年半来て、霊魂の為に、霊魂の救いの為に偉大な仕事をしました。それについてはまた明日、黙想致しましょう。特にこの聖フランシスコの精神、「霊魂の救いの為に、天主のより大いなる栄光の為に、王たるキリストに忠実に従う為に、全てを捧げたい」を見習いましょう。

終わりまでそれを、その決心を守り通した聖フランシスコ・ザベリオに、私たちは御取次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖フランシスコ・ザベリオの列聖400周年を祝って、聖フランシスコが日本に2年半いらした間に何をなさったのかを黙想する

2022年03月18日 | お説教・霊的講話

2022年3月6日(主日)四旬節第一主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、来たる3月12日土曜日は、聖フランシスコ・ザベリオが列聖されて400周年です。聖フラシスコ・ザベリオは、日本にイエズス・キリストの福音を伝えて下さった最初の方です。私たちは、そのフラシスコ・ザベリオに多くの恩恵を、恩を負っています。

今日ぜひ、聖フランシスコ・ザベリオの列聖400周年を祝って、
⑴聖フランシスコ・ザベリオの持っていた長点、
⑵そしてその日本に宣教しようとした戦略、
⑶そして聖フランシスコが、日本に2年半いらした間に何をなさったのか、ということを簡単に見てから、
⑷それから聖フランシスコ・ザベリオを下さったイエズス様の憐れみに讃美しつつ、何か私たちの結論というか決心を立てることにしましょう。

特にこの考察を、私たちのフランシスコ教皇様の為にお捧げしたいと思っています。何故かというと、教皇様は同じ、聖フランシスコ・ザベリオと同じ名前をお持ちですし、同じイエズス会で、つい最近日本にもいらして下さったからです。

⑴さて第一のポイント、聖フランシスコ・ザベリオの持っていた特徴、長点というのは、強みというのは何だったのでしょうか?

二つあります。

一つは、聖フランシスコ・ザベリオが持っていた「真理」です。聖フランシスコ・ザベリオが本当のことをありのままに、そのまま伝えた、中には伝えるのが難しい、伝えるのがちょっと世間体的に難しい、という内容も実はあったのです。しかし聖フランシスコはそれに打ち勝って、世間体に打ち勝って、本当のことを包み隠さずに、日本の人々に伝えようとしました。その勇気と、大胆なその行動、真理のみが許したその大胆さがありました。

第二は、聖フランシスコ・ザベリオが持っていた「聖徳」です。聖なる御方だった方です。そして特にその聖徳は、天主の栄光を、その聖名の、「より多い聖名の栄光の為に」という動機に動かされて、「多くの霊魂たちを永遠の命に導きたい、地獄の火から救いたい、救い出したい。そして本当の幸せを、本当の喜びを、本当の調和のある社会を日本の地にもたらしたい」という愛に燃えていたからです。その愛の為に、どんなに苦しいことも、辛いことも、恥ずかしいことも、嫌なことも、喜んで受けました。

⑵では、聖フランシスコ・ザベリオが取った戦略というのは何でしょうか?

聖フランシスコ・ザベリオは、日本人のアンジローという鹿児島出身の男性とマラッカで出会いました。そこで彼は日本のことを紹介して、「天皇陛下がおられる。そして封建制度で、その秩序がある。また知的な人々がたくさん集まっていて、お寺で色々な勉強をしている、まぁ言ってみれば大学のようなものがある」ということを知りました。ですから、その日本の社会のその仕組みを使って、宣教をするのが一番良いだろうと思っていました。

そこでまず、アンジローに準備として、聖マテオの福音を日本語に訳すように、そして16ヶ月準備させて、そしてどのような行動を起こすかということを、計画を練っていました。特に日本のトップに立つ天皇陛下に出会って、そして天皇陛下であれば、それほど高貴な方であれば、知的に高い方であれば、まさに「キリストの真理」ということを理解してくれるに違いない、きっと理性を使って、正と邪を見分けるに違いないと信頼しつつ、そしてそれを祈って日本に出発しました。

⑶では第三に、聖フランシスコ・ザベリオがなさった、日本での2年半の足取りを簡単に見てみましょう。

この私たちの聖人は、1549年8月15日に鹿児島に到着しました。なぜかというと、アンジローが出身の所だったからです。それでアンジローの家族に非常に歓迎を受けました。それで鹿児島のお殿様、島津貴久に会って、鹿児島で宣教する許可を得ました。その時、面会の日は9月29日、大天使聖ミカエルの日でした。

その後に聖フランシスコ・ザベリオは平戸に移って、平戸でまた宣教をします。平戸では木村という男性に会います。これは後に、日本で最初の司祭になる日本人です。殉教者、イエズス会司祭、福者セバスチャン木村となる方に会いました。

その後に山口に行きました。なぜかというと、山口は西日本の中で中心的な都市だったからです。そこで大名大内などがいて、影響力を持っていました。後には天皇陛下にも会って、そして京都まで都まで行きたいと思っていました。山口まで行って、聖フランシスコ・ザベリオは非常に率直に、キリスト教の話をしました。つまり、「イエズス・キリストこそが真の天主であって、それ以外にはない。教会の外には救いがない。」そして特に同性愛の罪について、「これは私たちの霊魂を汚してしまって、理性のない動物よりももっと汚いものにしてしまう恐ろしい罪である」ということを説明しました。また子供を殺してしまう、「幼い子供を、生まれたばかりの赤ちゃんを殺してしまう、ということは罪である」ということなども指摘しました。しかしこのようなことは、日本では残念ながらその当時、上流階級などで行なわれていたようです。それでそのようなことを聞く、簡単に聞くことは難しかった大名も多くいたようです。

その次に、聖フランシスコ・ザベリオは京都に行こうと、京都へと旅立ちます。に行った時に、工藤さんという方が、その聖フランシスコを自分の家に泊めます。実はその子供(日比谷了慶)が洗礼を後に受けています。その彼が、京都に行くという貴族の、旅人の貴族と話をつけて、そして、フランシスコ・ザベリオを、天皇の所まで連れて行ってあげてほしい、と頼みます。そしてその上京する許可を得るように計らってくれました。それを聞いた時に、聖フランシスコ・ザベリオは子供のように飛び跳ねて喜んだ、と伝えられています。

京都までの旅は、堺を通して京都までの旅は、非常に辛いものでした。なぜかというと、その時は冬で、そして持っていた物は、盗賊とか強盗がいるから、あまり貴重なものは持っていくな、というアドバイスにより、ほとんど無くて、毛布一枚だけで旅をした、とのことです。そこで裸足で雪の中を歩かなければならなかったこともありました。

京都に着くと、聖フランシスコ・ザベリオは非常に失望しました。なぜかというと、話で聞いた天皇陛下というのは、今では全く力が無くて、権力も無くて、そして京都の都も戦争で壊滅状態であって、何の影響力も無い御方だ、ということが分かったからです。また、大学と思っていたその色々な仏教のお寺でお話をしようとしても、それは効果がありませんでした。なぜかというと、比叡山の天台宗の僧たちは、貧しい身なりをした聖フランシスコ・ザベリオを、受け入れられることができなかったからです。

その為に、失望しつつ、もう一度平戸に帰ります。平戸には実は、自分がポルトガルの副王として、第二の王として持っていた宝物、本当は天皇陛下にあげるべき宝物、あと教皇大使としてのその服など全てが、宝物があったからです。それを天皇陛下にあげる代わりに、山口のお殿様にあげました。大内義隆は非常に喜んで、聖フランシスコ・ザベリオに宣教の自由を与えます。と言っても、宣教の色々説教をしても、なかなか回心には結び付きませんでした。

ところが、ブラザー・フェルナンデスが、聖フランシスコ・ザベリオの代わりに討論会で仏教の方と討論をしていた時に、この仏教のお坊さんが、このブラザー・フェルナンデスに唾を顔に吹付けたのです。するとブラザーは、ハンカチを取って、自分の顔を何もなかったかのように拭いて、そのまま話を続けたのです。これほどの屈辱を受けて、何の動揺も見せずに、平静と話をした、というのを見た、それがきっかけで、多くの人々が回心して、多くの人が「カトリックになりたい」と言うようになりました。

聖フランシスコ・ザベリオは、東アジア、インド、日本、その他の東洋の責任者でした。イエズス会の最高の責任者であって、ですからポルトガルからの船が日本に来ると、手紙があるかないか、一体インドはどうなっているか、というニュースを聞きたくてたまりませんでした。なぜかというと、自分の責任下であるからです。しかしポルトガルからの、あるいはインドからの手紙は、彼の為の手紙は全くありませんでした。

そこで2年半の後に、「インドにもう一度戻らなければならない。そして自分が直接に行って、この目で確かめなければならない」と決意して、そしてまたインドに戻ります。本当は日本にもう一度帰りたかったのですが、この一回の訪問で、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。実は聖フランシスコ・ザベリオは、「インドに帰った後に中国に行って、中国を通してアフリカまで行って、世界全てにキリストの教えを伝えたい」という望みに燃えていたのです。

⑷では最後に、聖フランシスコ・ザベリオのこのような生涯を見ると、私たちに一体何を教えているでしょうか?

聖フランシスコ・ザベリオは、実はその後のイエズス会の司祭たちに、宣教師たちに、どのような道をとるべきか、その模範を示しました。真理を伝えること、そのまま何も変えずに伝えること、そしてそれを愛を以って伝えること、霊魂を救いたいという愛を以って、どんな犠牲を払っても、払う覚悟をして、そのまま伝えるということ、それをなさいました。

列聖400年の後、聖フランシスコ・ザベリオは私たちに、同じことを伝えているように思います。「自分はもうやることができないけれども、しかしお前たちが代わりに、私の代わりにやってほしい。私が今しようとしていることは変わらない。イエズス・キリストの福音をそのまま、折があろうとなかろうと、そのまま伝えよ。霊魂を救ってほしい。天主の栄光の為に、より多い栄光の為に働いてほしい。多くの霊魂たちを天国に導いてほしい。」

そしてまさに、この聖フランシスコ・ザベリオのこの願いを、私たちもぜひ継承して、続けて、多くの方々が、特に日本にいらっしゃる方々が、イエズス・キリスト様の本当の真理を見出して、そして本当の幸せへと導かれますように、お祈り致しましょう。そして特に、聖フランシスコ・ザベリオの御取り次ぎを祈ります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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