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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【カトリックのニュース】いま全世界の司教区で行われているシノドスとは何か?シノダリティとは何か?来年の10月にローマで何が決まろうとしているのか?

2022年03月09日 | お説教・霊的講話

2022年2月20日(主日)六旬節の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、去年の2021年10月10日から始まった、ローマでの「シノダリティ」というものをテーマとするシノドスについて、少しお話したいと思っています。ローマで起こっている事です。もしかしたら一般の方はご存知ない方がたくさんいらっしゃるかもしれません。

「シノダリティ」というのは、「シノドス性」とか「シノドスである事」という意味です。一体何の事かというと、「シノドス」というのはギリシャ語で、「シン syn」というのは「一緒に」という意味で、「ホドス hodos」は「道」です。そこで「一緒に歩く道」という意味になり、転じて「教会の会議」を意味するようになりました。

でも今回のシノダリティというのは、通常の「教会会議」というよりは、その語源に忠実に「一緒に道を歩く」という意味で解釈して、一緒に道を歩く為のシノドスだ、という事です。結局は、結論を言ってしまえば、「シノダリティ」というのは、「民主主義化」という事です。

この今回行なわれているのは、どのような事かというと、去年の10月10日から、ローマで始まったシノドスを、その次の主日、つまり10月17日から、全世界の司教区で、シノダリティについてのシノドスを開始する、という事です。

三つの段階に分けられています。
今年の4月頃までは第一の段階で、地方の司教区ごとの段階になっています。そこで司教区の中で、「一般信徒の方の声を聴こう。教会は耳を傾けなければならない。」聖書に耳を傾ける、あるいは教会博士に耳を傾ける、教父たちに耳を傾ける、司教様のお話や神学者の話に耳を傾けるのではなくて、「全ての洗礼を受けた人の話を聞こう。そして特に、教会に来ていない人の話を聞こう。そしてどのような教派とか、どのような人とかでも構わず、洗礼を受ければ誰でもOKだ」という事です。

そしてそれで出てきた声をまとめて、それを地域ごと、あるいは大陸ごとに、第二の段階でまとめて、その次に最後に2023年、つまり来年の10月は、ローマでそれを、平信徒も聖職者も一緒になって、それを最後の決定的な文章を作って、それを可決させる、という事です。

指導文書(Vademecum)によると、「数の支配ではなくて、また利益が優先するようなものではない。そういう政治的な駆け引きは無い」とされていますけれども、一体それを保障するものはどこにあるのでしょうか?

結局、教会が今までやった事がないような大実験をしていて、つまり名前だけの付いていない実質上「第三バチカン公会議」が行なわれる、もう一回「10月革命」が行なわれると言ってもよいでしょう。これは、教会の在り方を根底的に変えてしまおうとする革命が今、行なわれつつあるという事です。

教皇様自身も「別の教会を作るのではなくて、違う教会を作る」と仰っています。「新しさに開かれた、これまでとは違う教会に向かって歩む」とされています。

そしてこのシノダリティについてのシノドスの為のモデルが、全世界に向けて既に示されています。「全世界の人々は、このモデルを見て、このようにやりなさい」というシノドスがあるのです。それはドイツでありました。

つい最近、第3回の総会で、最初の投票が行なわれて、色々な問題点が可決されました。ドイツのSynodale Wegと言われている「シノドスの道」というものは、230名ほどの参加者がいて、代表がいて、そして平信徒と聖職者からなっているのですが、「ローマに持っていく為の最終文章を今、準備している」との事です。これは2019年から、COVIDの危機にも関わらず、ずっとやり続けてきたものです。

これによると、2月5日の投票においては、まず「女性の司祭」を認可しました、174名が賛成、反対が30名でした。またそれによると、「司祭の独身制を廃止させよう。」これが賛成が159名、反対が26名。また司祭の結婚を促進しよう。また「同性愛ももう一度考え直して、そして罪の状態にあるような霊魂たちにも、御聖体を配るようにしよう。」またあるいは、「司教様だけが教会を統治するのではなくて、平信徒も統治してもいいんじゃないか。」あるいは、「ミサも司祭が司式するのではなくて、平信徒も司式してもいいんじゃないか」などというものが可決されました。これは遂にローマに行く前に最終の形になるのですけれども、これを見せて、全世界に「これを真似するように」と言っているのと同じです。

つまりこれは、今までカトリック教会が見てもいなかった、考えてもいなかった、「許されない・いけない」と教えた事を可決する、という事で、教会の信仰に対する大きな攻撃です。信仰に対する攻撃のみならず、教会を根底から覆して、教会を全く別のものに変えてしまおう、違ったものにしてしまおうという革命が今、行なわれているのです。つまり「教会を廃止してしまおう」という事です。

もちろん、教会は天主が作ったものですから、イエズス・キリストが立てたものですから、廃止する事はできません。いくら人間が革命を起こそうとしても、これは失敗に終わるに決まっています。

しかし、一体なぜ、このような考えが生まれてしまったのでしょうか?

なぜかというと、ここに参加している方々は、「聖なるものが一体何であるか」「天主が一体どれほど聖なるものであるか」という事をご存知なかったか、理解できていない、分かっていないからです。

「天主」というのは、私たちを無から創造して在らしめて、そして生かして下さって、そして全宇宙を統治しておられる、そして何億何兆という無数の天使・大天使たちが、いつも絶え間なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」“カドシュ、カドシュ、カドシュ!”と賛美して、礼拝している、その御方の立てた教会をあたかも何でもないかのように取り扱う事が、一体どうしてできるのでしょうか?
なぜかというと、「御聖体」を、「天主の御体、イエズスの御体」御聖体を、あまりにもなおざりに取り扱って、「聖なるものとは何か」という感覚を失ってしまった結果ではないでしょうか?

一体私たちには、この教会を守る為に、教会をイエズス・キリストが立てたそのままを守る為に、一体何をすれば良いのでしょうか?このシノドスに参加して、「いや、これはこうです」と意見を書けばそれで良いのでしょうか?

そうではないのです。それは数の理論で、影響の力で、権威の力で、簡単に聖伝などのようなものは廃止されて、教会はそのまま革命の波に埋まってしまって、そして私たちの知っている教会とは全く違う、人間の作ったものが出来てしまうかもしれません。その今、危機の岐路に立っています。ですから私たちは今、その事をよく自覚しなければなりません。どうしたら良いでしょうか?

まず、兄弟姉妹の皆さんと私が、「聖なるもの」に近付いて、「聖なるものが何であるか」という事をよく理解する事が必要です。そして「聖なるものに近付く、聖なるものに心を上げる」というのは、「天主に近付く」という事はどうしたら良いでしょうか?

「祈り」と、特に「御聖体」、そして「聖伝のミサに与る」事によって、聖なるものを良く知る事ができます。新しいミサではありません、聖伝の、カトリック教会が今まで伝えてきた、一・聖・公・使徒継承のそのミサ聖祭に与って下さい。そうする事によって私たちは、何十倍にもカトリック教会をそのまま保ち、守る事ができます。

「あぁ、私には関係ないよ。教皇様が、司教様が、なさることだから」今そう言っている時代ではありません。私たちが教会を守らなければなりません。一体、何ができるでしょうか?

「マリア様」です。なぜかというと、マリア様は天主の婢女(はしため)として、全てを天主の御旨のままに行なおうとする事によって、大司祭であるイエズス・キリストの御母となった方だからです。

マリア様は天主の御旨に逆らって司祭になりたいと思った事は一度もありません。罪の無い御方です。良心には一度も罪の汚れの影さえも無かった方です。そのマリア様が、天主がどれほど聖なる方か、イエズス・キリストがどれほど聖なる方か、その御体がどれほど聖なるものであるか、よくご存知です。そして司祭とは一体誰がなる事ができるか、知っています。主が選んだ者です。主は旧約の時代から、アブラハムがメルキセデクに生贄を頼んだその時代から今に至るまで、4000年間、モーゼの時代を通して、司祭はいつも男性でした、主の御旨によって。それが聖なる御旨なので、一体誰が変える事ができるでしょうか。

私たちはもう一度、「教会が聖なるものである、天主が立てたものである」という事に戻らなければなりません。人間が手をつける事ができません。その為にこそ、ミサを聖なるものとして守らなければなりません。ですからどうぞ、良い四旬節を過ごす為にも、ミサに、聖伝のミサに与って下さい。ロザリオを唱えて下さい。

マリア様に、無原罪の御孕りのマリア様にお祈り致しましょう。教会を守って下さいますように、カトリック教会をそのまま、イエズス様が立てたままを守って下さいますように。今、時は重大です。今、私たちが祈る時です。ミサに与る時です。そして愛する兄弟姉妹の全ての皆さんを、ミサに招待致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ヴィガノ大司教「悪魔は、罪の罰【死、病気、痛み】が、謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となることに堪えられない。サタンは、破壊と死という武器が、再建と生命の道具となることに堪えられない。」

2022年03月09日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の四旬節の黙想

「天主の正義を抱き、十字架につけられたキリストと一致して『真の苦行』を捧げて罪を償おう」

Abp. Viganò’s Meditation for Lent: Embrace God’s Justice, Make Reparation for Sin by Offering “True Penance” in Union with Christ Crucified

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年3月3日

Venite, convertimini ad me, dicit Dominus.
Venite flentes, fundamus lacrymas ad Deum:
quia nos negleximus, et propter nos terra patitur:
nos iniquitatem fecimus,
et propter nos fundamenta commota sunt.
Festinemus anteire ante iram Dei,
flentes et dicentes:
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.

Transitorium ambrosianum in Dominica Quinquagesimæ
五旬節の主日のアンブロジオ聖歌の聖体拝領誦

「来て、われに回心せよ」と主は仰せられる。
来て、泣け、天主に涙を流そう。
われらが背いたがゆえに、われらのゆえに、地は苦しむ。
われらが悪を犯したがゆえに、われらのゆえに、地の基は揺らいだ。
天主の御怒りになる前に、その先を急ぎ行こう、
泣きながら、こう言いながら、
「世の罪を除き給う御者,われらをあわれみ給え」と。

アンブロジオ典礼のミサ典礼書のこの言葉を、現代人が理解するのは難しいでしょう。しかし、この言葉は厳しい明瞭さにおいて単純です。なぜなら、私たちの罪と裏切りのために引き起こされた天主の御怒りは、痛悔と苦行によってのみ、なだめることができることを私たちに教えているからです。ローマ典礼では、この概念は、諸聖人の連祷の祈りの中で、さらに明確に示されています。「Deus, qui culpa offenderis, pænitentia placaris: preces populi tui supplicantis propitius respice; et flagella tuæ iracundiæ, quæ pro peccatis nostris meremur, averte.」(罪によって怒らせ給い、悔い改めによってなだめられ給う天主よ、切に願い奉る御民の祈りを顧み、われらの罪のために受くべき御身の怒りの鞭を、われらから遠ざけ給え)。

キリスト教文明は、この有益な概念を大切にすることができました。それは、罪がもたらす正当な罰への恐れのゆえにだけでなく、痛悔の祈りが私たちに教えているように、罪が「限りなく善にして、すべてを超えて愛すべき」天主の御稜威に対してなされる侮辱でもあるから、私たちは罪から遠ざからなければならないと考えることです。

何世紀にもわたって、キリストに回心した人類は、歴史上の悲しむべき出来事――地震、飢饉、疫病、戦争――が天主の罰であることを認めることを知っていましたし、これらの鞭によって打たれた人々は常に、苦行をして天主の御あわれみを願う方法を知っていたのです。そして、主、聖母、聖人たちが出現や啓示によって人間の問題に介入するとき、天主の掟を守るようにという呼びかけに加えて、人間が回心しなければ、大きな艱難が待っているだろうと警告しました。

ファチマでも、聖母は天主の御怒りをなだめ、平和な時代を享受できるように、ロシアをご自分の汚れなき御心に奉献し、初土曜日の償いの聖体拝領を行うよう求めておられます。さもないと、ロシアは「世界中にその誤謬を広め、戦争と教会への迫害を推し進めていくでしょう。善き人々は殉教し、教皇は多くの苦しみを受け、さまざまな国が破壊されるでしょう」。

聖母の要求を無視し、ますます多くの恐ろしい罪によって主の御怒りを招き続けるなら、私たちは何を予想すればいいのでしょうか。「彼らは私の要求を満たそうとしませんでした! フランス王のように、彼らは悔い改めてそれを行うでしょうが、それは遅れるでしょう。ロシアはすでにその誤謬を世界中に広め、戦争と教会への迫害を引き起こしてしまっているでしょう」。

今日、人類を苦しめて奴隷にし、中国共産主義に触発されたグレート・リセットの地獄の計画に人類を服従させるこれらの戦争は、またもや、私たちの不従順の結果であり、主の法を踏みにじって主の聖名を冒涜してもその結果【天罰】などないと信じる、私たちの頑迷さの結果なのです。何と不幸な厚かましさでしょうか。何というルチフェルのような高慢でしょうか。

脱キリスト教化した世界と、カトリック信者にさえ感染した世俗化したメンタリティーは、人間の罪に対してお怒りになる天主ということを、また、人間が悔い改めて赦しを請うようにさせるために、人間を鞭で罰する天主という考え方を受け入れません。しかしこの概念は、天主の創造の御手がすべての人間の霊魂に刻みつけ、異教徒でさえ持つ正義感を呼び起こさせる考えの一つです。

しかし、その考え方が、いつの時代にもすべての人の中に存在するからこそ、私たちの同時代の人々は、善人に報い悪人を罰する天主、御怒りで自らを現され、天主の御怒りを招いた者に涙と犠牲を要求する天主という考え方に恐怖を覚えるのです。

人類の罪によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪、それも洗礼によってご自分の子とされた人々によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪の背景には、人類の敵【サタン】の容赦ない憎しみがあります。これは、私たちの主イエズス・キリストの贖いの犠牲に対する憎しみ、天主の御子のご受難に対する憎しみ、アダムの堕落と私たち個人の罪の後に、主の御血が私たち一人一人のために勝ち取った贖いの値に対する憎しみです。

人間の創造以来ずっとサタンを夢中にさせてきた憎しみ、天主のみわざを失敗させようとし、天主の似姿と像に似せて造られた被造物である人間を醜させ、さらには新しいアダムであるキリストと新しいエワであるマリアの天主による償いの業を妨げようとさえする、狂気の試みの憎しみです。

十字架の上で、新しいアダムは贖い主として、罪によって破壊された秩序を回復させます。十字架のふもとでは、新しいエワが共贖者として、この回復に参加なさるのです。

アダムの誘惑は、主のみ旨への不従順と、何の結果【天罰】もなく主のご命令を破ることができるなどという思いあがった厚かましさとによって完了しました。それと同じように、サタンの行為の失敗は、至聖なる三位一体の第二のペルソナによる御父への従順と、天主の御子が受けた屈辱とで成し遂げられるのです。

この世は、痛みや死を受け入れません。原罪や自罪に対する正当な罰としても、キリストによる贖いの値と贖いの道具としても、受け入れないのです。ですから、これはほとんど逆説です。私たちの元祖アダムとエバを誘惑して、死、病気、痛みをこの世に持ち込んだ、まさにその者【悪魔】が、まさにこれら同じもの【死、病気、痛み】が、砕かれた正義を修復するために謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となり得ることに堪えられないのです。サタンは、破壊と死という武器が自分から奪い取られ、再建と生命の道具となることに堪えられないのです。

現代人は、新たにサタンに欺かれています。ちょうど、人がエデンの園で欺かれたように。そのとき、蛇は、善悪を知る木の実を取らないようにという天主の命令に背いても、何の結果【天罰】も起こらないと信じ込ませました。実際、蛇は、そのように背けば、アダムは天主のようになれると告げました。今日、蛇は、これらの結果は【元来】避けられないものであり、また死、病気、痛みを正当な罰として受け入れること、それらをイエズス・キリストのご受難と死と一致させながら、人間のために逆転させることは不可能である、と人間を欺いています。

なぜなら、天主の判決を受け入れることで、犯罪者は裁判官たる天主の権威を受け入れ、自分の過ちの無限の重大さを認識し、犯した罪を修復し、罪にふさわしい制裁を償うからです。そうすることによって、犯罪者は天主の恩寵に立ち戻り、サタンの働きを無効にするのです。

このため、時の終わりが近づけば近づくほど、悪しき者【悪魔】は、キリストによって啓示された真理を取り消し、聖なる教会によって何世紀にもわたって説かれてきた真理を取り消すだけでなく、救いの基礎である正義の概念そのもの、つまり"違反には処罰が必要だ"という考え方、罪の償いという考え方、"被造物の創造主に対する背信は重大なことだ"という考え方を排除しようと努力を重ねています。自分が何も罪を犯していないとますます信じさせるならば、人は何も悔い改める必要がないとますます思い、死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われた御独り子をお与えになるほど世を愛しておられる天主に対して、何の感謝の気持ちもないと思うようになることは明らかです。

私たちの周りを見渡せば、正義の取り消し、善悪の感覚の取り消し、善人に報い悪人を罰する天主がおられるという考え方の取り消しが、どれほど決定的で回復不能で取り返しのつかない主への反逆、霊魂の永遠の地獄行きの前提になっているかが分かるでしょう。犯罪者を無罪にし、正しい人を罰する裁判官、罪と悪徳を推し進め、誠実で高潔な行為を非難したり阻止したりする統治者、病気を利益の好機とみなし、健康を障害とみなす医者、四終のこと【死、審判、天国、地獄】について沈黙し、罪の償いとしての苦行、犠牲、断食の概念を「異教徒的」とみなす司祭――これらの人はすべて、おそらく無意識のうちに、サタンのこの最新の欺きの共犯者となっているのです。

この欺瞞で、一方では被造物に対する天主の支配権や、行為に応じて被造物を報いたり罰したりすることができる天主の権利を否定し、他方では天主のみが与えることのできる財物や報酬をサタンが約束するのです。砂漠でキリストを山の頂上に導いた後に、サタンはあえて、「あなたがひれ伏して私を礼拝するなら、これらをみなあなたに与えよう」(マテオ4章9節)とさえ言ったのです。

現在の出来事、人類が日々犯している罪、天主の御稜威に逆らう多くの罪、個人と国家の不正、罰を受けることなく行われる嘘と詐欺は、たとえ正義を回復し悪人を罰するために軍隊が武器を手にしたとしても、人間の手段で打ち負かすことはできません。なぜなら、人間の力は、天主の恩寵がなく、超自然的なビジョンによって活力を与えられなければ、不毛であり、効果がないからです。

しかし、3世紀以上にわたって続いてきた欺瞞、つまり、人類が人間を神格化し、イエズス・キリストから王冠を奪うという高慢さと厚かましさをもって以来、陥ってきたこの欺瞞と戦う方法があります。そしてこの方法は、天主のものであるがゆえに不可謬です。つまり、苦行、犠牲、断食に立ち戻ることなのです。ランニングマシンで走る人々の虚しい苦行でもなく、地球を人口過剰にしないために自ら子どもを生めなくする人々の愚かな犠牲でもなく、グリーン・イデオロギーの名の下に肉を断つ人々の空虚な断食でもありません。これらはまたもや、私たちの良心を沈黙させる悪魔的な欺瞞なのです。

真の苦行とは、聖なる四旬節が私たちに実りある形で実行するよう励ますものであり、私たち一人一人が、自分自身や隣人、国家、そして教会人の犯した罪の償いのために欠乏や苦痛を捧げることなのです。

真の犠牲とは、私たちが感謝の念を持って自らを主の犠牲に一致させ、私たちが当然受けるべき苦痛に霊的な意味と超自然的な目的を与えることなのです。真の断食とは、体重を減らすためではなく、情熱に対する意志の優越、肉体に対する霊魂の優越を回復するために、自ら食べ物を絶つことなのです。

この聖なる四旬節の間に行う苦行、犠牲、断食は、私たちのために、愛する人々のために、隣人のために、祖国のために、教会のために、全世界のために、そして煉獄の霊魂たちのために、父なる天主の御怒りを止めることのできる唯一の恩寵をもたらす償いの価値を持つことになるのです。なぜなら、私たちが御子の犠牲と一致することで、サタンが私たち全員に引き起こし、主に背くことで罪へと導いたものを、超自然の宝に変えるからです。

この宝は、壊された秩序と侵害された正義を回復させるでしょう。この宝は、私たちがアダムにおいて、また個人的に犯した過ちを修復するでしょう。地獄の混沌(chaos)には天主の秩序(kosmos)を、この世のかしらには王の中の王を、高慢には謙遜を、反逆には従順です。「あなたたちは実にそのために召されている。キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである。(中略)そのお体に私たちの罪を背負って十字架の木につけられた。それは私たちを罪に死なせ、正義に生きさせるためである」(ペトロ前書2章21-25節)。

この黙想の締めくくりに、灰の水曜日のミサの書簡を引用します。これは預言者ヨエルの書から取ったもので、天主の民を戒め、回心を呼びかける仲介者、取り次ぎ者としての司祭の役割を思い起こさせます。これは多くの聖職者が忘れてしまった役割であり、彼らが、時代遅れの教会、時代についていけない教会、苦行と断食で主を「なだめ」なければならないといまだに信じている教会の遺産だと信じて、拒否さえしているものです。

「シオンではラッパを吹き鳴らし、断食を命じ、厳かな集会を行え。前庭と祭壇の間で、主に仕える司祭は、泣いてこう言え。『主よ、主の民をあわれみ、主の遺産に恥を与え給うな、他国の奴隷となし給うな、民の中で、〈彼らの天主はどこか〉と言わぬように。主は、ご自分の地を愛し、主の民を赦し給う』。主は、民に答えて仰せられた。『見よ、私は、おまえたちに、麦と、ぶどう酒と、油を送る。おまえたちは、豊かにそれを持つ。私は、もう、おまえたちに、他国の恥を受けさせないであろう』と、全能の主は仰せられる」(ヨエル2章15-19節)。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、時間があたえられている限り、天主に御あわれみを求め、天主の赦しを請い願い、犯した罪の償いをしましょう。なぜなら、御あわれみの時が終わり、正義の日が始まる日がやって来るからです。Dies illa, dies iræ: calamitatis et miseriæ; dies magna et amara valde.(その日こそ怒りの日、災いと不幸の日、大いなる嘆きの日)。その日、主は火をもって世を裁きに来られる。judicare sæculum per ignem.(火をもって世を裁く)

聖母と神秘家の聖人たちの戒めが、この暗黒の時に、私たちを真に回心させ、自分の罪を認め、告解の秘跡で罪が赦されるのを見、断食と苦行で罪を償うように私たちを導いてくれることが、天主をお喜びさせますように。それにより、多くの者の上に落とされるべき、天主の正義の御腕を、少数の者によって止めることができますように。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年3月2日
灰の水曜日、断食の初日
Feria IV Cinerum, in capite jejunii


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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