Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

四旬節に入ろうとする時「天主への愛に全てを基づかせるように」と教会は招いている。そうでなければ四旬節は全く意味がないものとなってしまうから。

2022年03月14日 | お説教・霊的講話

2022年2月27日(主日)五旬節の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

来たる水曜日3月2日は、灰の水曜日で、公教会の掟によると、満21歳以上から59歳までの健康な大人、成人男女は大小斎を守る規定になっています。大斎というのは、一日に一回十分な食事を摂る、そして小斎というのは、14歳以上の全ての方が、肉を食べないという事です。教会の規定によれば、一年に二回大小斎の日があって、それは灰の水曜日と聖金曜日です。

それから教会の規定は、「公教会の六つの掟」と言われるものには、まだ他にもあります。「少なくとも一度、御復活祭の頃に聖体拝領する」という事です。もちろん一年の内、いつでも何度でも、御聖体拝領する事が勧められていますが、少なくとも一回は、御聖体拝領を復活祭の頃にする、という事です。それは「復活祭の頃」というのは、日本のカトリック教会の規定によれば、「四旬節の第一主日から三位一体の主日までの期間」の事を、復活祭の頃と規定されています。

また教会の掟には、「一年に一度、少なくとも一回は告解の秘跡を受ける」というものがあります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日五旬節の主日です。教会は四旬節を直前に、四旬節の精神を私たちに伝えようとしています。ですからこの今日のミサでは、全てのその精神が凝縮されています。

福音ではイエズス様が御受難の予言をされました。私たちを愛する為に苦しみを受けて、そして三日目に復活する、と。まさにこの四旬節の要点です。

そして四旬節は、イエズス様と共に40日間の断食に入ります。これは旧約の時代にいくつかの前兆がありました。モーゼが十戒を受ける前に40日間断食をした、あるいはエリヤが40日間断食をした等。イエズス様ももちろん断食をしますけれども。そして40日間荒れ野で、イスラエルの民がマンナだけを食べて、そしてうずらの肉を食べて養われて、荒地を約束の地まで歩いた、という史実もあります。つまり40日間の私たちの四旬節は、これはイエズス・キリスト様の新約のマンナによってのみ養われる特別な期間である、という事です。

この四旬節を一番よく過ごす為の精神は何なのでしょうか?

聖パウロがその書間で言っています。とても美しい書簡です。どうぞこの書簡を黙想なさって下さい。
「たとえ私が天使と人間の言葉を話したとしても、全世界の言語を話したとしても、もしも天主への愛がなければ、天主への愛に基づいていなければ、それは単なるシンバル、カスタネット、トランペット、全く意味のない雑音に過ぎない。」

「もしも私が全ての預言を知り尽くして、旧約時代の預言を全て知って、そのいかに成就するかを知って、そしてすべての神秘を、天主の奥深い神秘を知り尽くして理解したとしても、そして全てのこの世における知識を持って、天体、天文学や、あるいは宇宙の遥か彼方の星々の動きやその秘密、あるいはこの地球の構造、経済、政治、歴史、その全てを知り尽くしたとしても、そしてこの世が一体何であるかを知り尽くしたとしても、そして更にこの山を、『ここからあっちに動け!』と動かすほどの深い信仰を持っていたとしても、もしもそれが天主への愛に基づいていないならば、天主への愛がないならば、全くそれは意味がない。何でもない。」

「もしも私が持てる財産を全て売り払って、貧しい人に施して、食べ物を与えて、そしてあるいは私の体を焼かれる為に殉教の炎に、あるいは鞭打ちに、どのような苦しみに遭うような事でも耐え忍んだとしても、世界の人々が『えぇっ!』と驚くような事をしたとしても、賞賛したとしても、天主への愛がなければ、全く利益するところがない。愛は忍耐強く、愛は善良である。」

まさに、私たちがこの四旬節に入ろうとする時に、この「イエズス・キリストへの愛、天主への愛に全てを基づかせるように」と、教会は私たちを招いています。もしもそうでなければ、私たちの四旬節は全く意味がないものとなってしまうからです。

では一体どうしたら、私たちもそのイエズス様の愛に基づかせる事ができるでしょうか?愛している、という事の為にはどんなしるしがあるでしょうか?もちろんこれは成聖の状態で、罪のない状態で、罪を赦された状態での事です。ではその状態でどのような事ができるでしょうか?

三つの事ができます。天主を愛しているというしるしが三つあります。一つは「祈り」です。もう一つは「犠牲」です。もう一つは「施し」です。

「祈り」は、なぜかというと、愛するイエズス・キリスト、愛する天主の事を、私たちが頻繁に思い出して、愛する方に愛の言葉を語りかけたい、と思うからです。また愛する方の事を思い出す事によって、私たちはそのイエズス様の事を私たちの頭の中に入れるのみならず、記憶の中に留めるのみならず、イエズス様にもっと近付いて、そしてイエズス様の元に行こうとするからです。それが祈りで、私たちの心を天に上げる事です。それがミサ聖祭で、本当に私たちは教会の前に来て、イエズス様の御前に来て、イエズス様を礼拝して、そしてイエズス様を私たちの心に、体に、受ける事です。祈りは私たちにとって、天主に対する愛の発露となります。

「犠牲」は何かというと、例えば断食や、あるいはその他の償いによって、私たちの心をこの地上の愛着から離して、天主へと向かわせる事です。昔の方々は40日間断食しましたけれども、私たちはどうもそれだけの力が無いようだ、と教会は判断しているようです。ですから最初と最後だけをやれば良い、と非常に優しい態度を示しておられます。私たちはですから少なくとも、罪を断食したり、あるいは私たちのできる事を断食する事に致しましょう。例えばあるいはインターネットを制限するとか、あるいは放棄するとか。あるいはテレビや漫画や映画はもう断食する。あるいはもちろん罪は断食しますけれども、その許されているものだとしても、イエズス様からの愛をちょっと妨害するようなものは、私たちは断食する。あるいは愛の表明として、忍耐をする。何か辛い事があっても、それを黙って忍耐する、聖パウロが言っている通り、「愛は忍耐強く、そして善良である。」“Caritas patiens est, benigna est.”

あるいは第三に挙げられるのは、「施し」です。旧約の時代から、断食したパンを、そのパンを貧しい人に与えるとか、あるいは私たちの持てる地上の良いものを施しの為に使う、などです。

こうする事によって私たちは、イエズス様に対する愛を表明する事ができます。この四旬節は愛の四旬節となりますように、特にお祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取り次ぎによって、この四旬節を愛の四旬節と変えて下さる事ができますように、マリア様の御取り次ぎによって、私たちの目が開かれますように、四旬節をうまく、聖なるものとして過ごす為に一体何をするか、よく見える事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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ベルナール・フェレー司教とのインタビュー(第2部)。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について

2022年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

ベルナール・フェレー司教とのインタビュー(第2部)。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について

Interview with Bishop Bernard Fellay on SSPX, the Mass, Traditionis Custodes - Part 2

2022年2月21日 FSSPX.NEWS

インタビューの第1部では、聖ピオ十世会の総長の職を24年間務めたベルナルド・フェレー司教が、ルイス・ロマン氏の質問に答えています。インタビューの第1部は、こちらでご覧いただけます

ルイス・ロマン氏は、YouTubeやすべてのポッドキャストプラットフォームで、二つの番組のプロデューサー兼ホストを務めています。彼の番組では、福音を伝え、カトリック信仰の美しさと豊かさを、時事ニュースの分析、インタビューなどを交えて掘り下げています。

この翻訳とインタビュー映像のテキストには、編集上の調整が加えられていますが、会話のスタイルは全体的に維持されています。

【ロマン氏】インタビューの第2部では、もう少し典礼に焦点を当てていきます。聖ピオ十世会がなぜ新しいミサを捧げないのか、その理由を説明します。多くの人にとって、新しいミサがあると聞くのは、つまずきです。今日は、そのことについても詳しくお話しします。厳密に言えば、なぜ二つのミサがあるのでしょうか? なぜ聖ピオ十世会は、新しいミサを捧げないのでしょうか? パウロ六世が公布した新しい典礼の問題点は何でしょうか?

さらに、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)について、また、改革後に置かれてきた、あらゆる種類の禁止事項から、聖伝のミサがどれほど完全に解放されているか、そして、これらの対話に聖ピオ十世会がどのように関与したかを話します。そして、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)と、聖伝のミサに対する教皇フランシスコの実際の立場がどんなものかについて話します。

聖ピオ十世会は教皇と司教を認めているのか?

【ロマン氏】聖ピオ十世会の皆さんは、今の教皇を認めていらっしゃいますか、教皇フランシスコを認めていらっしゃいますか、それとも教皇座空位論者なのでしょうか?

【フェレー司教】いいえ、教皇座空位論者では絶対にありません。私たちは教皇と地元の司教を認め、また、教皇フランシスコと「una cum」【典文の「共に」】、私たちが捧げるすべてのミサで認めています。その前は、教皇ベネディクト十六世と、さらにその前は、教皇ヨハネ・パウロ二世と…。私たちは教皇の名前を唱え、彼を教皇として認め、また地元の司教をも認めています。

【ロマン氏】地元の司教ですか? 素晴らしい。すごい。アタナシウス・シュナイダー司教とお話ししたとき、私が知らないことをたくさん教えてくださったのを覚えています。彼は聖ピオ十世会についてたくさん語ってくださいました。彼らは現在の危機の現実を認識しているが、教会に忠実である、ということを。素晴らしい。

【フェレー司教】そうです。そして、可能な場合は、もちろん、地元の司教と協力します。なぜいけないのでしょうか? 今、例えば結婚の問題については、私たちは必ずしもそうするのが好きだったわけではありませんでしたが、そのために地元の司教と、さらに緊密な連絡を取らざるを得なくなっています。約90~95%のケースでうまくいっています。

【ロマン氏】それはすごいことです。

【フェレー司教】改善されました。司教の方々は、私たちのことを知るようになり、私たちも司教の方々を知るようになり、うまくいっています。完全にではありませんが、うまくいっています。私にとっては進歩です。

聖ピオ十世会で主日の義務を果たすことはできるか

【ロマン氏】何と素晴らしいことでしょうか。素晴らしいです。司教様にお尋ねします。聖ピオ十世会のチャペルに毎週来ていないカトリック教徒は、たとえば、他の国から来ているとか…あるいは、その人が違ったところでミサに与りたい、と言う場合…その人は、聖ピオ十世会のいずれかのチャペルで、主日の義務を果たすことができますか?

【フェレー司教】(ほほ笑み)私にとって答えは明らかです。

【ロマン氏】(笑い)ええ、分かっています。でも、お尋ねしたいのです。彼らがそれを望んでいますから。

【フェレー司教】はい、はい、もちろんです。その点を証明することができます。教皇様が聖ピオ十世会に告解を聞く権利を与えてくださるのなら、同時に「彼らは正規ではない」「彼らはイレギュラーである」と言うとは想像できないでしょう。非正規の(イレギュラーの)人が、それと同時に告解を聞くことはできません。

告解を聞く権利を与えるということは、今や、天主はご存知です、これらの不正規性に関する問題が解決されたことを示しています。ですから、告解を聞くことができれば、同時にミサを捧げ、ご聖体を与えることができるのです。全部一緒なのです。

さらに、これは笑いをさそうことですが、結婚についての委任(delegation)が明確に言っているのは、聖ピオ十世会の結婚である以上、結婚を祝福する司祭は聖ピオ十世会の司祭であるということです。たとえ教区の小教区教会で結婚式が行われたとしても、それを祝福する司祭は聖ピオ十世会の司祭なのです。もし私たちが非正規だったとしたら、結婚式が禁止されていたとしたら、どうして同時に、私たちがそれらの結婚を祝福すると言えるのでしょうか?

これらは、法的なレベルでは十分に明確とはいえないデリケートな問題なのです。そうです。なぜでしょうか? なぜかというと、私たちは、多くの問題を抱えた非常に深刻な状況にあり、その問題に、教会の非常に深遠な意向、善を見据えた教会の意向を見るからです。善とは何でしょうか? 霊魂の救いです。

教皇フランシスコは、謁見の際、私に、告解を聞くための特権を与えると言われたとき、教皇は2度、3度、「霊魂の救いのためです」と言われました。霊魂の救いという、それ以上の主張はありません。教皇はそう主張しておられます。

教皇はまた、「私はそれを永久に与えます」とも言っておられました(笑)。教皇は、これを何度も言っておられました。公式のテキストとは一致しませんが、教皇の意向をよく表しています。

【ロマン氏】そうですね。教皇のために、たくさん祈らなければなりません。私はみんなに、教皇のために、たくさん祈らなければいけないと言っています。

【フェレー司教】何かがうまくいくたびに、そのことから教会全体がその恩恵を受けるのです。教皇のために祈るのは、とても大切なことです。怒ることはできますが、いつまでも怒っていてはいけません。前に進まなければなりません。聖パウロは、「善をもって悪に打ち勝て」と言っています。

「聖ピオ十世会は古いミサを好む」

【ロマン氏】アーメン、アーメン(その通りです)。司教様、私は人々から質問を受けますから、今お聞きしたいことがあります。これまでお話ししてきた中で、典礼の話がまだでした。

こんなことを言う人々について、聖ピオ十世会の皆さんは何と言われますか。「ああ、そうですか。聖ピオ十世会は(間違った言い方で)古いミサを好むのですね」と。聖伝のミサ、あるいは、カトリックのミサ、全時代のミサと言ってもいいでしょう。私の質問は、なぜ皆さんは、新しいミサを捧げないのか、ということです。

【フェレー司教】ピンからキリまでとでも言いましょうか、さまざまな答えがあります。最も深淵なものではありませんが、誰もが理解できる非常に簡単な答えは、私が大統領を迎えようとするとき、黄金のトランペット、あるいは二流、三流のトランペットが使えるとしたら、三流のトランペットを使うことは大統領に失礼に当たるでしょう。最高のものを使わなければなりません。

さて、ミサの典礼は、天主に栄光を捧げるための最も貴重なものです。最高のものを使わなければならないのです! 劣るものを使うのは失礼です。この議論は最も深いものではありませんが、誰にでも理解できるものです。

もっと真剣な答えはこうです。彼らがこの新しいミサを作ったとき、作った人はブニーニ大司教でした。そしてブニーニは公に、こう発言しました(1964年の「オッセルバトーレ・ロマーノ」(L'Osservatore Romano)に掲載されました)。「祈りは、あらゆる人の障害物になってはならない」。

したがって、当然、その結果はどうなるのでしょうか? 「私たちは、分かれた兄弟にとって障害物となる疑いのあるものをすべて、ミサから取り除きます」です。したがって、典型的にカトリック的なもの、つまりプロテスタントが拒否するものをすべてミサから取り除くと、彼は非常に明確に述べたのです。

それが彼のしたことです。新しいミサはミサであること、有効であるためには十分ですが、あまりカトリック的ではありません。彼らは、カトリック的なものを取り除いたのです。プロテスタントは、ミサの中の三つか四つの教義を否定したということを知っておいてください。その教義を取り除くことは、非常に深刻なことです。それは人々を見捨て、信仰を失う方向へ人々を押しやることになります。

今、多くのそんな人がいます。本当に多くの人が、御聖体における「真の現存」を信じていません。なぜでしょうか? なぜなら、このミサにおける振る舞い方は、私たちの主にふさわしい敬意を払っていないからです。最終的には、信仰を失うのです! 私には分かりませんが、いったいどれだけ多くの司祭が、「真の現存」への信仰を失ったことでしょうか!

私は覚えていますが、約3年前にドイツのトリーア教区で、80%のカトリック司祭が、もう「真の現存」を信じていないことが調査で明らかになりました。ベルギーのある教区では、ある司祭が、教区全体で「真の現存」を信じている司祭は3人だと私たちに言いました。

一般的に言えば、もっと信じている人がいると思っています。しかし、これは深刻なこと、非常に深刻なことです。また、宗教をエキュメニカルに考えると、それぞれの人が、プロテスタント信者として、聖公会信者として救われる、と考えることができるのは、まったく明らかです。違います! そんなことはありません。

このミサで導入されたこれらの信じ込みは、すべて非常に微妙なものです。それは省略によって罪を犯しているのです。【異端】思想が明確に述べられているわけではありません。肯定的・断言的に述べられているわけでもありません。読んでみれば、書かれていないと思うでしょう。そうです、ないのです。つまり【正統信仰が】省かれているのです。存在しないことにしているのです。

最も重要な要素は、まず犠牲の概念、次に司祭を思い起こさせるもの、カトリックの司祭、ミサを唱える司祭が絶対に必要であること、その次に「真の現存」です。これらは、主要なポイントと呼べるものです。それから4番目に言えるのは、ミサは十字架上の私たちの主の犠牲と同一であるという教義です。

これらの現実は陰に隠れていて、日光の中では今は見ることができません。ミサとは何かと人々に尋ねると、パーティーだ、宴会だ、などと答えるでしょう。しかし、誰がカルワリオだと言うのでしょう。私のために死んでくださる私たちの主をそこに目の前にしているのに。それは忘れ去られているのです。だから、こういう理由で、私たちは新しいミサを捧げないのです。

【ロマン氏】ありがとうございます。いいえ、司教様、私はここ(フロリダ)の聖ピオ十世会の司祭の一人に、私は新しいミサの環境で生まれたと話しました。私は新しいミサの侍者もしていました。司教様が言われるように、新しいミサにおいて省かれているものは深刻ですね。少なくとも、私が幼い頃は、まだ少しは敬意がありました。私たちの主を、舌の上で受けたのです。

今、祭壇では、平信徒が祭服をつけずに、手で主を受けていますね。同じノブス・オルド、新しいミサでも、その弊害を目にすることができるほどです。最初に行われた重大な害は、怪物へと変わっています。今、パンデミック以来私たちが経験している困難を経て、さらに悪化しています。

【フェレー司教】そうです。新しいミサが導入されたとき、プロテスタントの人々が貢献したことはご存じでしょう。それは信じられないことです。新しいミサに協力した6人のプロテスタントの牧師がいました。そのうちの一人、マックス・テュリアンは、「これでプロテスタントもローマ・ミサ典礼書でプロテスタントの礼拝を行うことができる。神学的に可能だ」と言いました。

つまり、このミサは、プロテスタントの神学に一致しているということです。もう一人、メッツ(Metz)という人は、「今、ミサでは犠牲の概念が反映されないため、プロテスタントは安心することができる!」と言っています。明らかではないでしょうか?

【ロマン氏】悲しいことです。私は時々、彼ら(新しいミサの創作者)を好意的に解釈して、彼らの意向は、より多くの人々をカトリックに導くことだと信じることがあります。しかし、違います。いったい何年、50~60年も、私たちは新しいミサが引き起こした惨状を目の当たりにしてきたことでしょうか?

【フェレー司教】教会は空っぽになりました。

「スンモールム・ポンティフィクム」の影響

【ロマン氏】そして、カトリック信者は、教会を捨てたのです。それが一番の損害です。長くなってしまったので、そろそろ終わりにしたいと思います。しかし、教皇ベネディクト十六世と「スンモールム・ポンティフィクム」、そしてそれがもたらした影響について少し話をするまでは、終わりたくありません。

私は、「スンモールム・ポンティフィクム」の影響を見ました。「スンモールム・ポンティフィクム」のおかげで、私たちは聖伝のミサを知ることができました。聖ペトロ兄弟会は大きく成長しました。しかし、私は司教様のご意見をお聞きしたかったのです。人々は知らないかもしれませんが、「スンモールム・ポンティフィクム」は、司教様が教皇ベネディクト十六世と交わした多くの会話の結果であることを私は知っています。聖ピオ十世会が教会のためにした良いこと、そのことについて少しお話しいただけますか?

【フェレー司教】私は、一緒に作用した二つのことがあると考えています。一方では、私たちの要請です。私たちはこのテキストを要求しました。私たちは、すべての司祭が聖伝のミサを唱えることができるようにとお願いしました。

1982年に教皇庁で、枢機卿たちの間で議論があったことを、私たちは伝聞ではなく確実に知っています。この会議の結果、枢機卿たちは、「私たちは、典礼的にも神学的にも、(聖伝の)ミサが廃止されたと言うための論拠がない」と言ったのです。

1982年、これらの枢機卿たちは、聖伝のミサが廃止されていないことを知っていました。聖伝のミサは廃止されておらず、神学的にも教会法的にも、そのように言う論拠はないのです。さて、それが基礎となります。それを踏まえて、私たちは(ベネディクト十六世に)要望を出しました。

他方で、教皇ベネディクト十六世は教皇になる前、著書や論文で、典礼改革は教会の荒廃の原因の一つであったと言うほど、典礼改革を嘆いておられました。そこで、教皇になると、是正を図ろうと望んだのです。

それは改革の改革と呼ばれましたが、もっと深く見ていくと、「エクレジア・デイ」(Ecclesia Dei)の2011年4月30日付の公式覚書(ノート)に書いてあるのが分かります。このノートは、この自発教令について解説をしているものです。このノートはほとんど知られていませんが、一読の価値があります。

なぜでしょうか? なぜなら、ここでは教皇の自発教令は普遍的な法であると言われているからです。それは聖ピオ十世会のようなグループだけを考えているのではなく、いや、すべての人のため、すべてのカトリック教徒のためなのです。公布者である教皇の意向は、聖伝のミサ、聖伝の典礼にあずかることを、すべてのカトリック教徒に与えることです。「すべての」です。

したがって、ミサだけでなく、すべての聖伝の礼拝との接触をすべての人に再確立しようという教皇ベネディクト十六世の意向があるのです。

その後、このノートは、ミサ典礼書についてだけでなく、すべての司祭はミサ典礼書だけでなく、聖務日課書も使う自由があると語っていることに注目すべきです。司祭は聖務日課書を問題なく使うことができます。司祭は問題なく儀式書を使うことができます。司教は司教儀式書を使うことができます。

ただ、教区の神学校では、叙階式に司教儀式書を使ってはいけないという制約があります。制約はこれだけです。それ以外のものは、すべて司教が使用できます。ノートは、「司教儀式書」(Ceremoniale Episcoporum)というほとんど知られていない書物にも言及しています。

しかし、その典礼の書物のすべてが、文字通り、言及されているのです。教会のすべての人が、そのレベルに応じて、この典礼を利用することができるのです。つまり、「これは過去を嘆き悲しむ人々のためのものだ」というだけではないのです。いやいや、もっと深い意向があるのです。

教皇ベネディクト十六世は、典礼改革が引き起こした災難を目の当たりにし、その償いをしたいと望み、(聖伝の典礼が)戻ってくることを望んでいるのです。彼は、千年以上にわたって教会を聖化してきたこれらの儀式によって、戻るための道を示したいと望んでいるのです。

それは、信仰を高め、霊魂を養い、勇気と聖徳を与え、完全に狂ってしまったこの世界で前進する力を与えてくれる、確かな聖化の手段です。このことは非常に明確です。私にとって、教皇ベネディクト十六世の意向は最も明確なものです。

彼は司教たちのこと、結果のことを考えたのでしょう。ですから問題のある言葉を少し変えました。しかし、その意向は非常に明確です。この覚書(ノート)は本当に読まなければなりません。

教皇フランシスコは「トラディティオーニス・クストーデス」で何を求めているのか?

【ロマン氏】素晴らしい。そうですね。私も読みましたが、とても良い内容です。「スンモールム・ポンティフィクム」は、それを必要としていた教会にとって、新鮮な空気のようなものでした。さて、最近、教皇フランシスコは、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)という自発教令を発表しました。

「トラディティオーニス・クストーデス」について教えていただけますか? それは基本的に事態を逆転させるものなのでしょうか? 事態を以前のように変えてしまうものでしょうか? また、この文書に付随するノートについては、どう思われますか?

【フェレー司教】はい…私はこれをあまり良いとは思いません。教皇の立場と正確に一致しているかどうかは分かりません。その可能性はあります…私がこれらの文章の中でブエノスアイレス大司教【教皇フランシスコ】を見ているような部分はあります。しかし、事態を起こしたのは…彼(教皇フランシスコ)なのか、それとも彼に鋭く圧力をかけた周囲の人々なのか…私には分かりません。でも、このレベルでは答えはないし、何も推論できません。

テキストがあり、テキストは客観的です。そこには、信じられないような厳しさ、教会の精神ではない厳しい残酷さがあり、馬鹿げた論拠が付随しています。それは典礼の一致について語っています。しかし、新しいミサで分裂が導入されたことを知っておかなければなりません。

【新しいミサでは】二つのミサがまったく同じであることはありません。この新しいミサを司式するところでは、同じミサを行う二つの小教区はありません! 教会の一致について話すこと、そして他の典礼についてはどうでしょうか? 教会にはたくさんの典礼があります。典礼の一致に問題があったことは一度もありません。

では、なぜ典礼の一致の名の下に、最も古い典礼、最も高貴なもの、最も聖化するものは、廃止されるべきでしょうか? いいえ! そんなことは馬鹿げています。しかも、まったく不当です!  教皇フランシスコの文書には、このような問題があるということも忘れてはならないと思います。

さらに、他にも、私たちが使ってきたものがあります。それは、教書「クオ・プリームム」(Quo Primum)の「特別許可」(indult)と呼ばれるものです。聖ピオ五世が、ローマ典礼を復興させたときのことです。そのため、その典礼はピオ五世の典礼と呼ばれていますが、聖ピオ五世のものではなく、もっと古いものなのですが…そのとき、教皇は、ローマで捧げられていた最も古い、修正されていない典礼を見つけるよう委員会に依頼したのです。

ですから、この典礼は4世紀か5世紀のもので、想像以上に古いものなのです。さて、この典礼を再導入するにあたって、まず教皇聖ピオ五世は、当時の新しい典礼を廃止したのです。しかし、200年以上たった古い典礼は残すべきだとも言っています。この典礼を捧げても、時の終わりまで司祭は罰せられないと述べたのです。

それは、いわゆる「特別許可」です。これは、各司祭が世の終わりまで、罰せられることを恐れず、この(聖伝の)ミサを捧げることができる許可、保護なのです。それはすべての時代を通じて続くものです。それは廃止されることはあり得ません。それは与えられたのです。

「スンモールム・ポンティフィクム」で教皇ベネディクトは、(聖伝の)ミサは廃止されなかった、と言っています。新しい自発教令は、それを廃止していません。それはできないのです!

【ロマン氏】そうです、そのような権力はありません。私は、司教様がそう言ってくれて嬉しかったです。だから、教皇フランシスコが教会を助けてくれるように祈らなければなりません。あの文書が出たとき、(聖伝の)ミサを捧げることができるとまだ書いてあるにもかかわらず、私はとても苦しみました。彼もそれを見ているのです。

【フェレー司教】教皇はどう言われたのでしょうか? このテキストはよく理解できません。また、本当に教皇からの言葉なのかどうかも疑問です。そうだと言う人もいれば、違うと言う人もいます。私には違和感(malaise)が残ります。

教皇から来ている可能性はあります。公式にはそのように発表されているのですから、そう受け止めなければなりません。でも、普段のやり方とは違います。教皇の原則の一つで、教皇自身が私に言われたことですが、時間は空間の上にある、ということです。ここに完全な矛盾があります。

時間と空間は何を意味するのでしょうか。教皇は、思想が広まるには時間が必要であり、無理に広めても全く意味がないと説明されました。もし無理に強制するなら、それが空間と呼ばれるものです。それは矛盾と分裂を生み出します。そしてここでは、まさにそれが起こっているのです。

だから、違和感があるんです。しかし、繰り返しになりますが、それが教皇からではないとは言えません。教皇から来たと発表されているため、そうだとするのですが、私には矛盾が見えます。

シュナイダー司教の文章も読みましたが、この矛盾を指摘しています。そうです。矛盾した文章だから、そう定義することができます。だから、教会の一致の源泉にはなりません。

【ロマン氏】もちろんです。1970年代、1980年代にあったようではないので、少し驚いています。しかし、多くの司教は、ありがたいことに、自分の教区で【自発教令に沿った】変更を行いませんでした。大多数です。非常に急進的な人はそうしましたが、そうでない人が非常に多かったのです。大多数の司教が教皇に行動を求めたという、この文書に付随したノートと、少し矛盾しています。

【フェレー司教】そのこと【大多数の司教が教皇に聖伝のミサを制限する行動を求めたということ】は、事実ではありません。

「エクレジア・デイ」の共同体についてどう考えるか?

【ロマン氏】はい、そうではないと思いました。もしそうだとしたら、その後、彼らはそれを進めていたでしょうから。質問してみましょう。今、聖ペトロ兄弟会、王たるキリスト会、エクレジア・デイの共同体とは違う複数のグループがありますが、彼らは司教様と同じ状況にあるのでしょうか?

【フェレー司教】彼らは決断を下さなければなりません。私たちは、彼らがどのような決断を下すのかを見ることになるでしょう。

【ロマン氏】そうですね。司教様は彼らにどのような助言をなさいますか?

【フェレー司教】宝は彼らに託されたのです。それを失ってはなりません。それがこの件に関する私のアドバイスです。その宝は自分たちのためのものではなく、教会のためのものなのです。

聖ピオ十世会の将来と聖伝

【ロマン氏】アーメン、アーメン(その通りです)。そしてもう一つ、より個人的な質問です。もし将来、ローマが許可を出さなかったら…司教様がずっと年を取られたとき、私たちを守ってくれる他の司教たちとともに、ずっと長生きしていただきたいのですが…もし聖ピオ十世会にもっと司教が必要なときが来たら、司教様は以前と同じことをなさいますか?

【フェレー司教】私たちは、ルフェーブル大司教のときと全く同じように行動します。ですから、緊急性、必要性が生じたとき、そのとき、私たちは同じように行動するでしょう。ローマに要請するのです。その後、ローマの反応次第で、天主さまが何を示してくださるかを見ることになるでしょう。

それは、もう一つの扉であり、おそらく数年後にもっと目に見えるようになるかもしれません。近い将来、カトリック教会の司教たちが、公の場でも私たちをバックアップしてくださることを、私は排除しません。それはありうることです。もしそうなれば、私たちの司教を聖別する必要性が相対化されるかもしれません。

未来は天主の御手に委ねられているのであって、私たちの手に委ねられているのではないのですよ。私たちにとって、重要なのは、事態がどのように展開するか、毎日見守ることです。天主のみ旨と天主の御摂理が、どのように事態を展開させていくかを見ることです。常に御摂理に沿い、決して先回りしないことが大司教の原則でした。

【ロマン氏】アーメン(その通りです)。

【フェレー司教】決断しなければならないときはいつでも、重大な決断であっても、その瞬間に、最も平和的で、慎重で、明確な決断をするために、天主さまは大司教にすべてをお与えになりました。いつでもです。

以前は疑い、疑問、曖昧さ…でも、その瞬間にすべてが明らかになりました。将来についての質問、司教についての質問も、同じことです。天主さまを信頼してください。天主は決して私たちをお見捨てにはなりません。決してです。

天主さまが、自然ではない驚くべき方法で、霊魂を助けておられることを、私は毎日見ています。天主さまは、あらゆるものを利用なさいます。天主は、まず普通の手段によって霊魂をお助けになります。しかし、それで十分でない場合は、目を見張らせるほどの手段でお助けになります。

ルフェーブル大司教は(ダカールで)大聖堂を(夢で)見ました。彼は、天主がどのようにして自分に聖ピオ十世会を設立するように導かれたかを見たのです。これは実際に奇跡と呼べるでしょう。彼はそれを見たのです。これらは天主からのものです。OK、天主は十字架を許しておられます。はい、もちろん、十字架も矛盾も何もかもです。しかし、最後に、天主は物事に方向をお与えになるのです。

それは、霊魂が天主さまを愛するならば、霊魂が天主さまに助けを、恩寵を求めるならば、天主さまは決してこの恩寵を拒まれないというのが、カトリックの基本原理です。決して拒まれません。それは不可能です。約束なさったのですから。

【ロマン氏】アーメン(その通りです)。最後のメッセージをお願いします。この動画を見ている司祭たち、司教たちにも、この世と教会のこの危機の時代について何か言いたいことはおありですか?

【フェレー司教】私にとって最も大切なことは、彼らには、その義務を果たす地位による恩寵があると、強く信じて疑わないことです。支払わなければならないものは支払わなければなりません。彼らはこの恩寵を持っており、この恩寵に頼らなければなりません。天主は使命をお与えになるとき、その使命を果たすための手段をすべて、お与えになります。

今日の世界は困難です。今日の教会の状況は混乱しています。そのため、とても困難なのです。ですから、恩寵はこの時代と同じレベル、この時代に応じたレベルになるのです。そのため、天主の御前で自分の義務を果たすためには、この恩寵を頼りにしなければならないのです。

【ロマン氏】アーメン(その通りです)。素晴らしい。他に何か付け加えることはおありですか?

【フェレー司教】皆さん全員を祝福します。

【ロマン氏】司教様、ありがとうございます。

Part 1 of this interview >>

Conoce Ama Y Vive Tu Fe con Luis Roman - sspx.org - 02/21/2022


ベルナール・フェレー司教とのインタビュー。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について(第1部)

2022年03月14日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

ベルナール・フェレー司教とのインタビュー。聖ピオ十世会、ミサ、「トラディティオーニス・クストーデス」について(第1部)

Interview with Bishop Bernard Fellay on SSPX, the Mass, Traditionis Custodes - Part 1

2022年2月17日 聖ピオ十世会米国管区

このインタビューの第1部では、聖ピオ十世会の総長の職を24年間務めたベルナール・フェレー司教が、さまざまなテーマについて、ルイス・ロマン氏の質問に答えています。そのテーマは、1988年の司教聖別、離教、非常事態、危機の時代における教会法の大切さ、ミサに関する聖ピオ五世の教書、新しいミサ、ベネディクト十六世の「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)、教皇フランシスコの「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)です。

ルイス・ロマン氏は、YouTubeとすべてのポッドキャストプラットフォームで、二つの番組のプロデューサー兼ホストを務めています。彼の番組では、福音を伝え、カトリック信仰の美しさと豊かさを、時事ニュースの分析、インタビューなどを交えて掘り下げています。

この翻訳とインタビュー映像のテキストには、編集上の調整が加えられていますが、会話のスタイルは全体的に維持されています。

【ロマン氏】司教様、本日は聖ピオ十世会について、世界中の多くの人々が抱いている疑問を解消するためにお時間をいただき、感謝申し上げたいと思います。私たちの申し出をお引き受けいただき、ありがとうございます。

【フェレー司教】はい、もちろんです。喜んで。

【ロマン氏】ありがたいことです。今日、最初にお聞きしたい質問は、どのようにして司祭としての召命を発見なさったのか、ということです。どのようにして、私たちの主は、司教様にそれを見せてくださったのでしょうか?

【フェレー司教】この話には紆余曲折がありました。一瞬のことではありません。幼少期から青年期にかけて、いろいろな場面で召命が見えてきたのです。7歳のとき、13歳のとき、それははっきりしていました。その後は…完全に消えたとは言いませんけれども、最初のようにはいきませんでした。その後、17歳のとき…そのときから、とてもはっきりしたのです。

ルフェーブル大司教

【ロマン氏】マルセル・ルフェーブル大司教と交流がおありだったそうですね。大司教は司教様の人生や召命にどのような影響を与えたのでしょうか? また、どのような方だったのでしょうか?

【フェレー司教】大司教が直接、私の召命の原因になったとは思いません。しかし、私がエコンに住んでいたことは知っておいてください。今、エコンといえば、ルフェーブル大司教が1970年に開いた神学校のことをいいます。でも、私は1962年からエコンに住んでいたのです。

エコンは、聖ベルナルド修道会の所有地で、そこには大きな犬がいました。ここにはすべてがあったのです。6軒の家と、発電所がありました。私がそこに住んでいたのは、それが理由でした。その後、ルフェーブル大司教が来られた時、私の父は大司教のお手伝いをしました。すべてが自然に進んでいきました。ルフェーブル大司教とは子どもの頃に知り合いました。その後、私はそこで神学校の養成教育を受けました。

私が神学校に入学した1977年、ルフェーブル大司教は神学校の校長でした。私は神学校の1年目をルフェーブル大司教のもとで学びました。その後、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教(当時はティシエ神父)が校長になりました。ルフェーブル大司教はスイスの別の場所にある聖ピオ十世会の管理センター(本部)へ行きました。聖ピオ十世会が成長し始めたため、二つ(神学校と本部)を一緒にしておくのはよくなかったのでしょう。

その後、司祭に叙階された1982年に、私は会計長に任命されました。ルフェーブル大司教が住んでいた家(本部)に行きました。1年間、私は大司教のすぐ近くに住み、大司教を間近に見ました。大司教のことを、どう言い表しましょうか?

大司教の人生とその負っていた責任を見れば、重要な人物であることが分かるでしょう。大司教は、教皇によって全フランス語圏アフリカの教皇使節に任命されたのですから。この責任者のとき、大司教は自ら少なくとも24、おそらくは35もの教区を設立しました(確認していただけますか)。それを行ったのは大司教なのです。大司教は、教皇ピオ十二世から最も信頼されていた人物です。

教皇ヨハネ二十三世が選出されると、状況は少し変化しました。フランス司教団の影響もあって、大司教はフランスの小さな教区に任命されました。司教たちは、大司教のことが好きではなかったのです。しかし、それも6カ月間だけでした。その後、大司教は、最大の宣教修道会である聖霊修道会の総長に任命されました。

大司教が第二バチカン公会議の準備作業のすべてに参加することになったのは、大司教だったからというわけではなく、聖霊修道会の総長だったからです。大司教はその準備のすべてを間近で見たのです。その最初の準備の後、大司教は懸念されるものを見始めました。しかし、大司教は公会議に関して非常に熱心で希望を抱いていました。

しかし、その後、少しずつ、オリジナルの準備文書に代わる新しい文書が良くないもの、混乱を招くものであることが、大司教には分かり始めました。省略や曖昧さがあったのです。そのアプローチにおいても、つまずきを与えるもので、革命的でした。

公会議の冒頭で、最初の仕事の一つは、さまざまな委員会の委員の選出でした。リベラル派はこの選出に干渉し、選出を遅らせて、委員の名簿を変更させました。彼らは、2年間の準備作業、すべての準備文書、つまり草案(schema)を、簡単に拒否しました。唯一残ったのは、典礼に関するものだけでした。

ルフェーブル大司教は、そのすべてを見たのです。私たちにそのすべてを見ていく時間があるかどうか分かりませんが、おそらく後で…。

【ロマン氏】はい。もちろんです。

【フェレー司教】…教会の心を見る。そして、原理によって結果を見る。今日、例えば、大司教が、教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者(confused Catholics)のために書いた本(「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへの公開書簡」)を見てください。1970年代に大司教が書いた本です。これは、今日のために今日、読むことができる本です。とても高度な視点から、とても正確に、要点を押さえて書かれています。

【ロマン氏】もちろんです。予言的です。

【フェレー司教】素晴らしい本です。本当に素晴らしい本です。では、私たちはどうすればいいのでしょうか? 大司教は、一方では教会の人、他方では非常に謙虚な人でした。大司教は、誰もが話しかけやすい方でした。大司教は誰にでも親切でした。

神学校で休暇中に、小教区の人々がルフェーブル大司教を招待しようとしたことがありました。彼らは何度も何度も探しました。そして、ついに大司教を見つけることができたのです。お皿を洗っているところでした。

【ロマン氏】すごい。司教なのに? 素晴らしい。

【フェレー司教】大司教はとても良い方でした。大司教の周りには、愛徳のオーラが漂っていました。大司教の司教標語は「Credidimus Caritati」(私たちは天主の愛を信じた)でした。それが大司教の人生の標語でした。大司教は、みんなを助けるために、いつもそこにおられたのです。素晴らしい方でした。

【ロマン氏】そうです。私は最近、本を読んでいたのですが --- これはあらかじめ質問する予定だったリストには載っていないものです --- ルフェーブル大司教はどんな人だったのか、ということを考えながら読んでいました。大司教様は宣教師でした。今おっしゃったように、30以上の教区に福音を伝えるという賜物を天主から授かりました。教会の誰もがこれをできるわけではありません。教皇は大司教をアフリカに配置し、そこでは今日でもキリスト教が大きく発展してきています、今日に至るまで。その一因はルフェーブル大司教にあると言えると思います。

大司教は愛徳を伝える方でした。聖トマス・アクィナスは、愛徳の最大の証しは、キリストを人々に与えることである、と言っています。大司教は、その偉大な模範でした。

【フェレー司教】そうです、大司教は本当にこのような人でした。よく覚えているのは、夕食会で大司教を見た男性が、「普通、戦争に参加した人はそれを反映するものだ」と言ったことです。戦争に行った人は、最後には頑なになり、優しさはすべてなくなります。彼は、ルフェーブル大司教にはそれが全く見られないと言ったのです。大司教の柔和さは本当に明らかでした。

1988年の司教聖別

【ロマン氏】さて、少し議論を呼ぶ質問をしたいと思います。ルフェーブル大司教は、司教様と他の3人を司教に聖別しました。その結果は、大司教の「破門」と、1988年のその日に聖別された全員の「破門」でした。司教様が司教に聖別されたこと、そしてこの結果について、個人的に何か言えることはおありですか?

【フェレー司教】私自身のことはお話しいたしません。私は一番若いので逃げようとしました。【破門という】そのような嘘があることをよく知っていたのです。司教聖別は、みんなのためにしなければならなかったし、他人のために自分を犠牲にしなければならなかったのです。

大司教の行動は、ねたみによるものではないことを理解してください。「私は自分だけのことをするつもりです」と言う行動ではないのです。違います。それは、ただひたすら、教会のためでした。どうしてそう言えるのでしょうか? 大司教は、出来事とその元になった原理について、非常に、非常に純化された理解を持っていました。

大司教が理解していたのは、私たちが、教会にとって非常に困難な時代に生きているということです。それはなぜでしょうか? 公会議のせいで外部の誤謬が入り込んだ上に、改革でさらにそれが進んだからです。カトリック的でない原理が教会に入り込んだのです。

大司教は、決して自分の意志を通そうとはしませんでした。大司教は、そのことが非常に重大なことであると理解していたので、天主様にしるしを求めたのです。大司教は、二つのしるしを受けたと思うと言われました。一つ目はアッシジでした。

アッシジで何が起こったのでしょうか? キリストの代理者である教皇が、世界のすべての宗教の指導者たちを、平和のための会合に招待しました…平和を祈るために、ですよ。それは全く受け入れられないことです! なぜでしょうか? 私たちの主は天主です。この世に来られ、ご托身になり、ご自分が教会とお呼びになる一つの宗教を創立された天主です。それは天主の教会です!

教会はいつも言ってきました…それはただ…天主へ行く道は一つしかない、と。その道は私たちの主です! 私たちの主はご自分の教会を作られました。主の教会はキリストの神秘体です。教会とは何でしょうか? それは、私たちの主と主の教会です。なぜなら、主の教会はキリストの神秘体だからです。

教会とは何でしょうか? それは、洗礼を受けた人々の霊魂を一つの体に一体化なさった私たちの主です。それが、私たちが真の教会と呼ぶ教会です。理解しなければならないのは、ピオ十二世までの教皇によれば、他の宗教について話すときは、他の宗教を偽の宗教と呼ぶ、ということです。すべては偽物なのです!

それがプロテスタントであれ、聖公会であれ、正教会であれ、それらは偽の宗教と呼ばれています。なぜでしょうか? なぜなら、彼らは、自分たちが提供することのできない終末を提供すると言い張るからです。私たちを天国に連れて行くことができる唯一の宗教は、その手段を持っている唯一の宗教は、カトリック教会です。

ですから、カトリック教会の指導者が偽の宗教を招待するのを見ることは、その諸宗教が、私たちの主のところに行けると主張しない宗教であっても、それは冒涜なのです…どうしてこんなことが可能になるのでしょうか? つまずきです! 信じられません! すべての人を欺いているのです! これらの宗教の信者はみな、自分たちが招待されるのなら、自分たちには価値があると思ってしまいます。

二つ目のしるしは、もっと難しく、もっと神学的なものですが、大司教にとっては、もっと重要なもので、それはローマとの話し合いの時にありました。私たちは常にローマと議論をしてきました。私がよく覚えているのは、1984年か1985年ごろのことです。

大司教は、ラッツィンガー枢機卿と議論していました。聖ピオ十世会が、大司教が、信教の自由の問題に関して疑問を示していることに、枢機卿は同意していました。それが、私たちがやっていたことです。その2年後、1987年の初めに、ルフェーブル大司教はその返事を受け取りました。

その返事の中で、ローマは、「はい、信教の自由は新しいものです」と認めたのです。しかし、カトリック教会に新しいものはありません。教会が持っているもの、教会が守っているもの、それは最後の使徒の死で終わる啓示の遺産です。新しいものは何もないのです。

「Nihil novi nisi quod alicuius est」という有名な言い方があります。訳すと「他者のもの以外は、新しいものは何もない」で「教会には新しいものはなにもありえず、もしも新しいものが入り込んだとしたらそれは教会に属するものではなく、教会以外の別物に属することだ」という意味です。教会には、受け継がれたもの、すでに持っているもの以外には何もないのです。また、第一バチカン公会議は、聖霊は聖ペトロと後継者に、新しい霊感や新しい思想を約束してはいない…いや、そのための不可謬権や助力は約束されていない、とはっきり言っているのです。聖霊は、二つのことを約束しておられます。それは、信仰の遺産を絶えず保存することと、それを忠実に伝達することです。

ですから、彼らが新しいもの、この立場における、つまり信教の自由という観点における新しいものがあることを知っていると言うことは、大司教にとって、それは受け入れられない、と言う理由だったのです。

このことは、説明する必要があります。多くの人は、私たちが信教の自由と言うとき、洗礼を強制してはいけないという意味だと思っています。私たちはその意味には、完全に同意します。洗礼は自由な行為であり、教会はその自由を望んでいます。私たちが信教の自由と言うとき、そのことを話しているのではありません。

それよりも、国家と教会の関係についての問題の方が、もっと大事です。これは別のことです。単純化すれば、こう言えるでしょう。つまり、私たちの主は天主である、主は万物の創造主である。コロサイ人への書簡の冒頭で、このことが言われています。

これは何の意味でしょうか? 主はすべての被造物の創造主である。すべての被造物には必要性、自分の持つ使命からの義務、創造主である天主から受ける義務がある。そして、これは個人という観点からだけでなく、社会としての観点から来るものでもある。人間社会は完全に私たちの主に依存している。そして、この依存は、人間社会の法を私たちの主に従わせることで表現される。つまり、自然法に、天主の法に従わせることで。国家は、それらに反する法を作ることはできない、ということです。

もっと正確に言えば、レオ十二世は、教会が常に国家の自然の権威を認めてきたと言いました。たしかに、一国の国民はその政治機構を組織し、その指導者を指名します。しかし、権力と権威は常に天主から来るのです。

すべての大統領、すべての王は、その権力の行使について、彼らの審判者である私たちの主に対して答える義務・釈明する義務があります。トランプも、バイデンも、みんな…天主から受けた権力で何をしたのかについてです。これがすべてを語っています。でも今日、そのことを誰も言いません。

今日、教会は、「いえいえ。私たちが国家の側に求めるのは、自由だけです」と言うことで満足しています。それ以上は言わないのです。いえいえ、そんなことはあり得ません。教会と国家という二つの社会は、もちろん完全で区別されたものであり、混ざり合うものではありません。しかし、天主様は両方の同じ天主です。しかも、国家の成員でもある教会の成員は、天国に行くというただ一つの目的しか持っていないのです。だから、天国に行くための法に従わなければならないのです。

国家が、罪となることを許すような、天主の法に反する法を作った瞬間に、その法は天国に行く妨げになります。このような国家は、地獄、この世の地獄にその姿を変えます。このすべてが重要です。

ルフェーブル大司教は、ローマからのその声明を読み、「ノー」と言いました。それが意味するのは、教会には、なにか行動を起こすべきような危険があるということです。だから何かをしなければならない、ということです。しかし、最初にすべきことは、ローマと話をすることでした。私たちには司教が必要だ、と伝えるのです。大司教は、単独で全てを行ったわけではありません、違います。

その結果、1年にわたる話し合いが行われ、最終的に、ローマは聖ピオ十世会に一人の司教を与えることに、おおよそ同意したのです。聖ピオ十世会の司教という考えは、これらのテキストから来るものです。つまり、聖ピオ十世会で奉仕する補佐司教です。聖ピオ十世会での奉仕を委任されたカトリック司教のことです。

これは重要なことです。私たちは、非常に困難な時代に聖別されました。私たちは、裁治権が欲しいのではなく、ただ奉仕するためだけにここにいるのです。ローマは、私たちが離教者でないと認めたのですから、これは極めて重要なポイントです。私たちは、持っていない権力を持とうと主張することはありません。

その後、私たちがどのように活動しているかを説明する必要があるでしょう。しかし、これは極めて重要です。私たちは、【カトリック教会とは別の】並立する教会を設立するようなことはしていません。私たちはカトリック信者なのです。それだけです。話はこれで終わりです。

【ロマン氏】分かりました。では個人的な質問です。司教様は29歳のときに司教に聖別されましたが…。

【フェレー司教】(笑い)いいえ、30歳です!

【ロマン氏】(笑い)分かりました、30歳です。なぜ29歳と読みまちがえたのか分かりません。若くして聖別されたその日、どのようにお感じになりましたか? その翌日、司教様は「破門」されました。正式にはどうお感じになったのですか。とても強いお気持ちだったではと、想像するのですが…。

【フェレー司教】このように言いましょう。教会の状況についての認識、何かをする必要があるという認識があまりにも強かったので、「破門」は何ともありませんでした。

カストリヨン枢機卿と連絡を取ってから、かなりたって、2000年頃、つまり12年後に、枢機卿は私にこう言われました。「あのぅ、教皇ヨハネ・パウロ二世は聖ピオ十世会との関係を修復したがっています」。私は枢機卿にこう言いました。「願わくは、それは私にとってうれしいことです。しかし、私たちには問題があります。それは、私たちがあなたたちを信用していないということです」。

「私たちは、あなたたちが聖ペトロ兄弟会をどのように扱われたかを見たばかりです。「交わり」のうちにある彼らがどのように扱われてきたかを見てきました。私たちは彼らよりも「もっと悪い」とされています。であれば…いや、私たちは確信が持てないのです。そのため、私たちはしるしが欲しいのです。言葉ではありません。私たちが信頼を回復することのできるような明確で効果的なしるしです」。

私たちは二つのことをお願いしました。一つ目は、世界中のすべての司祭に、トリエント・ミサを捧げる権利があることを伝えてほしいということです。二つ目は、枢機卿にこのように説明したのですが、破門に関することです。「破門」とはちょうどアヒルの首の水滴のように何の影響も与えないのです。しかし、司教の方々は、それを使って聖ピオ十世会の仕事を妨害しています。ですから、取り去ってください、と。

本当に、ちょうどアヒルの首の水滴のように何の影響も与えないという表現がぴったりだと思います。そうです、あるとされてはいるのですが、なんの意味もありません。しかし「あなたは破門されている!」だからミサを捧げるのを禁止されている、というのは、もちろん納得がいきません。でも、どう言えばいいんでしょう。お分かりになるでしょうが、得たもの【司教聖別】に対して支払った代償【「破門」のレッテル】は、小さなものでした。緊急必要性は、これまでずっと教会にあり、今でもあります。それはいつも同じです。時期によっては、少し違った形があるでしょう。しかし、基本はいつも同じです。あなたの質問にお答えできたでしょうか…。

なぜ破門なのか?

【ロマン氏】十分にお答えいただきました。時代が大司教に、すべきことをする理由を与えたのです。私は、司教様がすでに多かれ少なかれお答えになっていることをお尋ねしたいのですが、おそらく司教様は、それをさらに明確にすることがおできになるでしょう。ルフェーブル大司教は、正確にはなぜ「破門」されたのでしょうか? 異端でしょうか? 離教でしょうか? その理由は何でしょうか?

【フェレー司教】それは、非常に興味深い質問です。1917年の教会法、つまり最初のローマ教会法では、教皇の委任なしに司教を聖別した場合、破門はなく、聖職停止しかありませんでした。

自分の持っていない権力を使ったために、聖職停止になったわけです。教皇しか、司教を指名できませんから。また、破門ではなく、聖職停職だけしかありませんでした。その行為が破門になるのは、1983年の新しい教会法になってからです。

これは、中国の歴史上の偶発的な出来事から来ています。1950年、中国国家は自分たちの教会を作ろうと望みました。彼らは、カトリック信者を強制的に「愛国協会」と呼ばれる教会に統合させました。中国で、この離教に加わったカトリック司教たちが司教を聖別し、この離教が、ローマからの分離という真の離教だったのです。

司教を作ったからではなく、独立した教会を設立したこと、つまり離教的行為に対して破門を受けたのです。人々が(教皇の委任を受けずに)司教を聖別することが離教的行為であるという考えを持ったのは、この歴史的な出来事があったからです。

また、教会法の条文は離教的行為について述べているのであって、離教について述べているのではありません。しかし、大司教は聖別式の説教の中で、離教の意向はなかったと非常にうまく説明しています。私たちは教皇の権力を認め、すべてのことにおいて、教皇に従うことができるのです。ただ、救いを危うくするような行為がある場合だけは、私たちは教皇に従いません。

しかし、特定の行為においては、教皇の権力を拒否することはあります。それは、自分の子どもに、「さあ、盗みに行け!」と言う父親と同じことです。もし子どもが父親に「ノー」と言ったとしても、それは父親の権威を認めないということではありません。この命令に「ノー」と言うのは、全く違うことです。

この行為(司教聖別)が離教を成立させるのに十分であるかのように言い張ることは、そんなことをローマは一度も言っていませんが、間違いです。枢機卿でさえも、離教ではないと言った人が何人かいます。しかし、公式文書には、(聖ピオ十世会の司祭が)全員破門されたと思わせるものはなく、司教たちだけが「破門」され、その「破門」はその後解除されたのであり、それがすべてです。離教の話は一切ありません。その後、ローマ側との話し合いで、彼らは私たちが離教者でないと納得したのです。

【ロマン氏】その通りです。はっきりさせるために、ルフェーブル大司教、司教様、教会は、何か【離教】が起こったとは、言うことができませんし、言ったこともありません。司教様は教会の教理について何も間違ったことは言っておられませんし、異端を広めてもおられません。でも、人々は、司教様が新しい神学を確立したと考えているのです。

【フェレー司教】いえいえ、絶対に違います。【新しい神学などありません。】

【ロマン氏】ローマの許可のない司教聖別があっただけですね。

【フェレー司教】そうです。このことは、文字通り教会法に書かれています。その後2009年に…。

【ロマン氏】はい、それが次の質問でした。お許しください、司教様。

【フェレー司教】いいえ、どうぞ

聖ピオ十世会の聖職者の地位

【ロマン氏】教皇ベネディクト十六世は、司教様を含む4人の司教の破門を解除しました。司教たちの教会法上の状況は…、これが正しいかどうか私には分かりませんが、ある記事から引用しましたので、間違っていたら訂正してください…、聖ピオ十世会の聖職者たちと同じ、すなわち「聖職」(divinis)が停止された状態です。これが、私が司教様にお話ししたかったことです。多くの人々が聖ピオ十世会に対してこの言葉を使うからです。

これは、教皇ベネディクト十六世が世界の司教たちに送った手紙の中で、なぜそのようなことをしたのかを説明するために言ったことです。「教理上の問題が解明されるまでは、聖ピオ十世会は教会においていかなる教会法上の地位も有しません。たとえ彼らが教会法上の制裁から解放されたとしても、教会においていかなる合法的な聖務も行使することはできません」。

これが何を意味するのか、司教様にお尋ねします。聖ピオ十世会で行っているミサや秘跡は有効ですか? そして、それらは合法的な秘跡なのでしょうか?

【フェレー司教】いやいや、それは非常に重要なポイントです。しかし、その質問が理解できるようにお答えするために、私は具体的な方法でその問題に迫りたいと思います。

それはなぜでしょうか? これらの法はすべて規律の法(disciplinary law)です。社会としての教会には、社会の良き秩序のためにこれらの法が必要です。どの社会でもそうですが、社会をどのように組織するかなどを説明するために、かなりの数の法あります。それは良いことです。

規律の法の文字通りの適用が害を及ぼす可能性がある状況もあります。それは非常に特殊な状況です。このことを、ある例で検証してみましょう。

それは、交通信号の例です。赤信号があります。通常、赤信号では止まります。法で決まっていますから。赤信号では止まらなければなりません。しかし国家は、問題なく通過できる特定の車両があることも知っています。特定の音を出す必要があるかもしれませんが、通過します。赤信号でも通過します。なぜでしょうか? それは、もっと大きな善が問題になっているからです。

別の例は、火事です。家が燃えているとします。その火事に対処する責任を負う、公的な立場にある人々は消防士です。当たり前のことです、彼らは消防士なのですから。しかし、消防士が間に合わなかったとします。すると、できる人なら誰でも、その火を止めるためにできることをする義務があります。

そこがポイントです。法は「だめ、だめ! 消防士だけが責任を負っています!」と言います。しかし、もしも火事の時に、消防士がいなければ、事態は、別の状況に変わります。

公会議後の教会の状況を見ると、少しそれに似ています。教会の状況を全体的に見れば、教会の状況は、いわゆる「非常事態」であることが理解できるでしょう。

ニューオーリンズのハリケーン・カトリーナが、すべてを破壊したのと少し似ています。水がやって来て…警察が…消防士が…病院が…誰もそれ以上できません。すべてが麻痺しています。その時は、ニューオーリンズの人々一人一人が行動を起こし、自分のできる範囲で、救われることができます。

こんなときに、通常の法を適用してもうまくいかないことは、まったくはっきりしています。もっと高いところを見なければなりません。それが今起こっていることなのです。ルフェーブル大司教は最初から、存在しなければならない例外について話しています。

それを明らかにする例として、非常に興味深いものがあります。それは、死の危険です。教会の通常の法が言っているのは、例えばカトリックではない正教会の司祭には、秘跡に関するものについては誰も近づいてはいけないということです。この司祭は教会の外にいるのです。教会の外にいるのですが、真の司祭なのです。

しかし、同じ教会が、もし死の危険がある場合、つまり、路上で事故があり、誰かが死にかけていて、そこに正教会の司祭がいた場合、その死にかけている人は、霊魂の救いのために、離教者で司祭としての務めを果たすことを禁じられているその男性のところに行って、終油を与えてもらってよい、と言っているのです。それは完全に合法的なことです。

そして、その時に霊魂を救うために、教会は通常の時に必要な制限をすべて取り払います。しかし、今は普通ではありません。だから、制限などはみな、忘れてしまうのです。大切なのは霊魂を救うことなのです。

聖職者たちの怠慢が非常に強く、また非常に広範囲に及んでいますから、今日、肉体的ではなく、道徳的、霊的な死の危険があることを明確に示すために私たちが使うのが、この例です。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、確か1981年だったと思いますが、「異端は善人の手によって教会全体に広まる」と述べています。異端はあらゆるところに広まります。しかし、異端は霊魂を殺します。殺すのです。ですから、人々が真理を受けることは、どんな状況でも非常に重要なことなのです。

また、これは秘跡についても言えることです。もはや「真の現存」を信じていない、ミサが真の犠牲であると信じていない司祭がたくさんいます。その人たちは、何をするのでしょうか? 彼らは霊魂たちに何を告げるのでしょうか?

そうなると、霊魂は死にます。霊魂は飢えています。恩寵に飢えていますが、霊魂はそれを受けませんし、受けてもごくわずかです。祭壇で司祭が行うことに完全につまずいてしまい、もうその司祭のところに行けない霊魂がいるのです。霊魂は孤立し、迷っているのです。

彼らは私たちのところに来て、助けを求めているのです。私たちは彼らを助けなければなりません。繰り返しになりますが、人は自分にできることをする必要があるのです。よろしい、教会の通常の法をすべて認めましょう。しかし、緊急事態が適用される状況があることを認めなければなりません。

【ロマン氏】その通りです。

【フェレー司教】また、ローマでの講演で、私は「善きサマリア人」の例を挙げました。私たちの主は言われます。怪我をした人がいます。レビ人がいます。司祭がいます。彼らはすべての権能を持っている人々です。彼らは何をするのでしょうか。通り過ぎます。自分たちには関係ない、と。助けるのはまったくの外国人です。彼は怪我人の世話をします。まさに、それが私たちのしていることです。

だから、今までずっと、私たちは自分でミッションを作らないと言ってきたのです。私たちは、私たちを求めてくる人のところに行くだけなのです。これは、聖ピオ十世会で起こるすべてのことの原理です。私たちはどこへも、どの国へも行くことを計画したことは一度もありません。常に依頼があり、それが本当かどうか、正しいかどうかを確認し、そして、私たちは可能な限りその場所に行くのです。

本当に、「教会で飢えて死ぬ人を助けなさい」を、全てに厳密に適用するのです。私たちは裁治権がないことをよく承知していますが、必要とする人々のところに行くのです。それはとても重要なことです。

それは、教会におけるミッションの問題とも結びついています。死の危険があるとき、第一の法は、すべてを支配する法は、霊魂の救いである、と教会が言っていますから、合法的なことなのです。

秩序を曲げているように見えるかもしれませんが、今日の教会が抱えている大きな秩序の乱れに対処するためには、秩序を曲げることが必要なのです。状況は破滅的です。ますます、今日の混乱は甚大です。そして、混乱はさらに悪化しています。

【ロマン氏】そうです。1980年に比べれば10万倍も悪化しています。

【フェレー司教】そうです、もちろんです。しかし、それは当然の結果なのです。私たちにとって、それは新しいものではありません。激しいものでもありませんし、重大なものでもありません、違います。それは、第二バチカン公会議の原理やその改革を、多かれ少なかれ規則的に適用しているだけなのです。それ以上ではありません。このことは、十分に何が起こっているかを説明しています。

聖ピオ十世会によって執行される秘跡

【ロマン氏】司教様、正しいかどうかお聞きしたいのですが、私が聞いたところでは、法律用語で言えば、司教様方の置かれた状況においては、ある意味で秘跡は有効ですが、許されない(illicit)方法で行われている、ということです。そう言うのは、正しいでしょうか?

【フェレー司教】いいえ、正しくありません。しかし、なぜでしょうか? それは非常に興味深い質問ですが、決定的に答えられていません。私は次のように説明します。

ローマは私たちがいるのを見て、私たちを知り、私たちと議論し、私たちを分析し、私たちの仕事を見て、その仕事が良いものだと知っています。私はこのことを、ローマの代表者である、エクレジア・デイ委員会の委員長であったカストリヨン枢機卿から直接聞いたのです。私たちが初めて会った時、4人の司教のうち3人が、枢機卿から、私たちの実が良いから、そこに聖霊がおられる、と言われました。枢機卿はそのようにおっしゃったのです。

グイド・ポッツォ大司教は最後に、最初はそうではなかったのですが、最後に、聖ピオ十世会には教会がこの危機から脱するのを助ける手段がある、と誰かにおっしゃったのです。これは非常に強力な言葉です。この状況を知っている人、私たちを見てきた人、そうおっしゃることのできる人なのです。

さて、これは、どういう意味でしょうか? 純粋に教会法上のレベルでは、イレギュラーです。不正規性(irregularity)が存在するように見えます。これは今使われている用語でイレギュラー「不正規」です。公式には認められていないのですから。そうです。それは事実です。

しかし同時に、現実的な意味で、教会は目をつむってそれを放置しているのです。信号が赤のとき警官が「通れ」と言うのと同じです。そういう状況なのです。実用的なアプローチではそれを決して説明できないことは明らかです。なぜなら、法の現実的、実用的な例外のようなものですから。

その例をいくつか挙げてみましょうか。たくさんありますから。材料は一つだけではありません。私たちの持っているローマとの実際的な関係が、あたかも私たちが通常の状況にあるかのように進んでいくことを示すものが非常にたくさんあります。

例えば、私は何度も、教会の問題に関する裁判官に任命されました。ある時、教理省から指名がありました。ある司祭が教理省に訴えたことに対して、教理省が私を指名したのです。私が完全に「非正規」だったとしたら、私がそんなことをすることはできないでしょう。しかし、ローマはそれをしたのです!

もう一つの例は、より正確でデリケートな、ローマに留保された譴責であり、この場合のローマは、内赦院(Penitentiary)と呼ばれるところです。罰則や譴責を伴う罪があり、より重大な罪に対する譴責のいくつかはローマに、教皇に【赦免が】留保されています。

例えば、ご聖体に対する罪、あるいは告解の秘密を破った司祭です。これらは非常に重大な罪であり、教会はこれらを譴責で罰するのです。そして、教皇以外の誰も譴責を赦免(適用)することはできません。

さて。しかし、実際にはどうなのでしょうか? 多くの場合、そのようなケースを見つけた司祭が答えを出すでしょう。しかし、それが有効であるためには、その司祭は1カ月以内にローマに連絡する必要があり、ローマがその答えを出すことになります。

しかし、今だから言えますが、私たちは20年前からこれを行っています。新しいことは何もありません。もっと昔もそうでした。その場合、誰かが罰を、譴責を受けます。私たちの司祭は赦しと償いを与え、ローマに、内赦院に手紙を書くのです。

すべてのケースで、ローマは私たちにこう答えました。「あなたがたはうまく行いました。あなたがたの赦免は合法(licit)です」。有効なだけでなく、合法とされたのです。時にはこうも言われました。「あなたがたの償いは正しかったのか、正しくなかったのか。この程度の重大性があれば、もっと与える必要があります」。しかし、毎回、この認証印(stamp)がありました、大丈夫でした。

告解についてのものもあります。公式には「彼らの告解は無効である」などと言われた時代もありました。でも、もっと深刻なケースでは? ローマからは? 告解という状況では、告解をした人物の名前は絶対に書きませんから、絶対に、ですからそれは秘密です。その後、ローマから書類を受け取ったら、破棄しなければなりません。すぐに破棄する義務があるのです。ですから、証拠がないのです。でも、実際にはそんなものなのです。

もう一つの例です。私たちの司祭叙階について、レーゲンスブルクの司教と問題がありました。この司教は毎年、今でも、抗議をしてくるのです。「あなたたちには司祭を叙階する権利はありません。ここは私の教区です。私が教区の責任者です。私の許可が必要です」。こんなことです。

さて、この問題を何度もローマに相談しました。ローマはこの司教に介入して「落ち着きなさい」と言ったのです。私は、その委員会のトップだったポッツォ大司教の手紙を持っています。「あなたがたは司教の許可を得ることなく司祭を叙階できます。(叙階について)司教に助言をするのが適切ですが、それは必要ではありません」。

もう一つの例です。私たちが助祭や司祭の叙階を行うたびに、ローマは私たちに、(叙階される者の)名簿を渡すように求めてきました。これはすべて、私たちの側がローマの権威を尊重することを意味し、相手【ローマ】側からは、この【私たちがローマの権威を】尊重していることを、【ローマが】受け入れたことを意味します。何故なら、彼らが権力を行使しているからです。彼らが「よろしい。名簿を提出しなさい」と言うのなら、それは何か意味のあること【聖ピオ十世会を活動を認めていること】です。

これは実務レベルでは、すべて慎み深く、冷静で、すべてこのようなことが、教皇フランシスコ以前に起こったていたことです。教皇フランシスコは、私たちに告解を聞く権能の委任(delegation)を与えてくださいました。ポッツォ大司教は、この委任は終油にも適用されると述べています。

教皇ベネディクトと教皇フランシスコの比較

【ロマン氏】これは後にする予定だった質問ですが、今答えることができると思います。教皇ベネディクトと教皇フランシスコの違いは何でしょうか? 教皇フランシスコは、世界中で無制限に告解を聞くという委任(delegation)を聖ピオ十世会に与えました。それは良い決断のように思います。それはどのような重要性を持っているのでしょうか? 何を示しているのでしょうか?

【フェレー司教】火事の例でお話しします。私たちは火を消そうとしているのです。さて、この教皇フランシスコの委任で何が起こるのでしょうか? それは、消防士の制服を受け取るようなものです。今、私たちは仕事をしているだけでなく、仕事は同じですが、制服も持っているのです。

【ロマン氏】その通りです。以前は許可を得なければなりませんでしたが、そうなのですか?

【フェレー司教】以前は、私がお話しした通りでした。ローマはそれを合法としました。他の人たちは「ノー」と言いました。しかし、最も重大なケースでは、私たちは常に許可を得ていました。そして、内赦院は教皇と非常に緊密に連携していることを知っておいてください。譴責を赦すのは教皇ですから、彼らはこれらのことを教皇に提示します。したがって、それは教皇の許可なのです。

【ロマン氏】非常に良いことです。このことからも、同じように分かります…というのは、私が人々を司教様たちのことについて述べるとき、彼らは私にこう言いました、「ああ、でも彼らは交わりにはいない」と。

【フェレー司教】そうです。交わりという考え方も…私はローマに抗議したんです。なぜなら、彼らは私たちが「完全な交わり」(full communion)にいないと言いましたし、今も言っているからです。私はポッツォ大司教に、「抗議します」と申し上げました。曖昧な言葉で遊んでいるからです。

なぜでしょうか? なぜなら、全カトリック信者のかしらが、ある人に対して、あなたは完全な交わりにいないと告げる場合、その人は(教会の)外にいるからです。

【ロマン氏】その通りです。

【フェレー司教】私は大司教に、「それが正しくないのはご存じでしょう。私たちが教会の中にいることはよくご存じでしょう」と言いました。でも、あなたはこの「完全な交わり」という用語を、新しい考え方で使っていますね。それは(第二バチカン)公会議以降に発展した考え方です。教会を「交わり」と見なす考え方です。

これは新しい用語です。新しい考え方です。それを彼らが使っているのです。ボス、高位聖職者、彼らの一部とでも言いましょう、でも一般的に【その新しい意味で使っています】。それは【今までの教会の】考え方ではありません。【教会の】考え方はいつも同じです。【今までの考え方によれば】完全な交わりにいないなら、外にいるのです。

私たちが教会の中にいることをよく知っていて理解している当局者たちがいます。しかし、そうです、イレギュラーなのです。非正規性はあるのです。彼らは、【そのイレギュラーであることを指して】この「完全な交わり」にいないという表現を使って、この非正規性について話しているのです。でも、非正規というのは、外という意味ではないのです! だから、この言葉を使うのは、ごまかしなのです。

【ロマン氏】もちろんです。教皇フランシスコと聖ピオ十世会の皆さんとの関係、これは、皆さんが教会の外にいるのではないことを人々に示すために私が使っているものです。そうでなければ、教皇フランシスコは皆さんに何かをくださることはないでしょう。

【フェレー司教】そうです、そうです。個人的に、教皇様にお会いしたとき、何度も招待されたとき、教皇様は直接、私にこう言われました。「私は皆さんを断罪しません」と。そしてさらに、「私が皆さんに関わろうとすると、私に問題を起こしてくる人たちとの間で、私は問題を抱えているのです。私は彼らにこう言います。『私は破門された人々やプロテスタントの人々に関わろうとしているんです。なぜ、あなたがたは私を悩ませるのですか? なぜ私はカトリック信者を助けられないのですか?』」と言われました。教皇様は、私にそのように言われました。

教皇様は続けて、こう言われました。「また、私は、あなたのグループの中で、人々があなたに問題を起こしていることを知っています!」。聖ピオ十世会の中には、このすべてに満足していない人々がいるのです。続けてこう言われました。「うーん…私には、圧力をかけるのは良いとは思えません。時間をかけて、ゆっくりと行うべきです」。ですから、それがおきています。私たちは、ゆっくりと行っています。

【ロマン氏】その通りです。では秘跡は合法なのですか? 洗礼は…。

【フェレー司教】私にとっては合法です。寛容という面からそれを説明できると思います。法に一致していない状況です。法に従いたい人は、「おい、だめだ! ちょっと待て! 信号は赤だぞ!」と言うでしょう。そうです、信号は赤なのです。

【ロマン氏】しかし、有効性についてはどうでしょうか? ミサを捧げるとき、キリストは現存されるのですか?

【フェレー司教】まったくはっきりしています。その通りです。

【ロマン氏】人々は私に尋ねてくるのです。なぜでしょうか?

【フェレー司教】なぜなら、簡単に言えば、有効性は、合法性を考慮しない要素によって決まるからです。秘跡が有効であるためには、正しい質料、形相、そして意向が必要なのです。この三つが存在すれば、秘跡は有効です。

恐ろしい例を挙げましょう。それは黒ミサです。黒ミサは恐ろしい冒涜ですが、司祭が必要です。黒ミサは有効です。それは有効です。それは、人が想像できる最悪の冒涜です。【合法性以外の】他の要素によって有効性のある場合があることを理解できます…。それは、はい、有効なのです。

司祭である人…例えば正教会の聖職者は、有効なミサを捧げます。しかし、正教会の司祭はカトリック教会の成員ではないので、そのミサは不法なものです。これは強盗のようなものです。彼らは、カトリック教会の秘跡を持ったまま教会を離れたのです。彼らの秘跡は、【もともとは】カトリック教会の秘跡なのです。

【ロマン氏】しかし、秘跡は天主のみわざです。だからこそ、キリストが働かれるのでしょうか?

【フェレー司教】そうです。問題は、その秘跡を受ける人々にとって、それが、効果があるかどうかという、効果性のレベルの話です。「ex opere operato」(為されたわざから=事効)の定義は、障害物を置く人々のためではなく、反対の要素を置かない人々のためのものです。離教者であること、教会の外にいることは、そのような障害物を置くことなのです。

【ロマン氏】そうです。それは重大です、非常に重大です。

このインタビューの第2部は、近日中に掲載予定です。

Conoce Ama Y Vive Tu Fe con Luis Roman - sspx.org - 02/17/2022
PRIMERA PARTE ENTREVISTA a Monseñor Bernard Fellay


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